日露戦争の百年―黄禍論とコミンテルンの視点から
 
はじめに
 来年は日露開戦100周年に当たる。日露戦争を欧米400年の植民地支配の流れの中でとらえ直してみると、欧米植民地支配の波が有色人種の国々を次々と席巻し、中国大陸、朝鮮半島に浸透してきた時期に、日本が反撃した戦争であったと見ることもできる。ここに日露戦争が日本の予想を越えて、東南アジア、中近東、中央アジア、ヨーロッパなどの諸民族の独立運動や、人種差別撤廃運動に連なった面も見逃せない。一方、日本は白色人種を破ったため白色人種から黄禍論の総反撃を受けたが、さらに明石元二郎大佐のロシア攪乱工作が、ロシア革命の烽火となり共産主義国家ソ連を生み、その分身でもあるコミンテルンの攻撃にもさらされた。そして、日露戦争50年後に日本は白色人種の人種差別と、コミンテルン(ソ連)に挟撃されて敗北したともいえる。本論では人種差別とコミンテルンの2つの視点から、日露戦争が世界の歴史に与えた影響を1世紀のレンジで考えてみたい。


正の影響―盛り上がる民族独立運動
アジアの目覚め
 日清戦争の敗北や義和団事件にショックを受けた中国は、日本に学ぼうと留学生を送りはじめたが、日露戦争の勝利が日本留学熱を高め、1805年には8000名、1906年には1万2000名の青年が来日した。(1) そして、孫文は留学生中の革命分子を基盤として革命を推進したが、中国革命を支援したのは留学生だけではなかった。英国や中国では逮捕され、英国やオランダの植民地では入国が許されなかった。日本も入国拒否や国外退去をさせたが、日本には10数回出入国し、孫文の日本滞在期間は10余年に及んだ。志士の内田良平や平山周、政治家の犬養毅や大隈重信なども支援したが、特に梅屋彦吉は最初から最後まで支え、孫文と宋慶令の仲人までした。また梅屋は同盟会の事務所と『民報』の資金を提供し、末永節は『民報』を印刷したが、最も寄与したのは宮崎滔天で、宮崎の孫文の革命を支援した自伝『三十三年の夢』が「二六新聞」に掲載されなければ、孫文と中国の留学生が結ばれることはなかったであろう。
 日露戦争はヴエトナム人にも独立心をかき立てた。ファン・ボイ・チャウは「東風一陣、きわめて爽快の想いあらしめた一事件が起こりました。それは他でもない、旅順・遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私たちの耳にも響いて来たことでありました。日露戦役は実に私達の頭脳に、一世界を開かしめたものと言うことができます」。「国を棄てて海外に出で考えが一変したが、それもまた日露戦争の余波が影響したものといわざるを得ません」と日露戦争を評価している。(2) ファン・ボイ・チャウは武器などの援助を期待して1905年に来日したが、日本の現状に接すると、有望な青年を日本に留学させて、近代的教育や技術などを修得させるべきであるとの考えに変わり「東遊運動」を開始し、1905年から1908年には300余名の若者を日本に送った。
 
 一方、ファン・チュウ・チンも1905年に来日したが、ファン・ボイ・チャウが武力で独立を獲得しようとしたのに対し、ファン・チュウ・チンは国民に近代教育を施し、徐々に近代化をはかり、独立への道を築こうとした。ファン・ボイ・チンの主義や近代思想の普及に重要な役割を演じたのが、1907年3月に慶応義塾に倣ってハノイに創設されたトンキン義塾であった。この塾ではヴェトナムの歴史や地理、科学や衛生などを教え、近代思想の導入に重要な役割を演じ、その活動は短期間に地方都市や農村へ拡がった。しかし、義塾の活動が民族主義的色彩を濃くする傾向をみせはじめると、フランス植民地当局に主な塾指導者が逮捕され、わずか9ヵ月で閉校されてしまった。(3)
 
 インドではジャワハルラル・ネルーが、娘に「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた」。「ヨーロッパの一大強国が破れた。とすればアジアは、昔たびたびそういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」。「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」。日本の勝利にインドの「ナショナリズムは急速に高まった」と書いたが、(4)インドでは日露戦争に覚醒されて、英国製品ボイコット・国産品奨励などのスワデーシー闘争が、折からのベンガル州2分割法案反対世論ともからみ急速に高まった。(5)

アラブ社会のめざめ
 孫文は「日本がロシアに勝ったときから、全アジア民族がヨーロッパを打ちやぶることができると、独立運動が起きた(6)」と語っているが、日本勝利の激震はエジプト、ペルシャ、トルコなどの中近東にも波及した。孫文はスエズ運河通過時に見たエジプト人の喜びを次のように伝えている。(7)

 沢山のアラビア人が私が黄色人種であるのを見て、非常に喜び勇んだ様子で、私に「お前は日本人か」と問いかけた。私は中国人だ。何かあったのかと聞くと、「非常に嬉しいニュースを得た。なんでも日本がロシアがヨーロッパから派遣した艦隊を全滅させたらしい、今までわれわれ有色人種は西洋民族の圧迫を受け苦痛を舐め、全く浮かぶ瀬がなかった。日本が戦争に勝ったのだから、われわれも同様に勝たねばならない。これを歓喜しなければならないではないか。

 また、エジプトでは国民的詩人ハーフィズ・イブラヒームが、「日本の乙女」という詩を書いたが、この詩はエジプトだけでなく、レバノンの教科書にも掲載されるなど、多くのアラブ人に現在に至るまで愛唱されている。この詩について、エジプトの作家ユースフ・イドリースは、日本は「ラジオ・テレビをはじめ、市場に溢れる商品の国であるというばかりではない。少なくとも私にとって、それは中学校で暗誦したナイルの詩人ハーフィズ・イブラヒームの『日本の乙女』をめぐる詩の国なのである(8)」と記している。
ところで、「日本の乙女」とはどのような詩なのであろうか。日本アラブ通信の新アラブ千一夜物話「アラブ諸国の中の親日感情」には、「大国ロシアに大勝し、近代国家建設に驀進している極東の島国日本の姿は、当時すでにイギリスの支配に組み込まれていたエジプト人の心に、大きな灯をともした」と次の要約が掲載されている。(9)

  火飛び散る戦いの最中にて、傷つきし兵士たちを看護せんと
  うら若き日本の乙女、立ち働けり。牝鹿にも似て美しき汝れ、 危うきかな!
  戦の庭に死の影満てるを、われは日本の乙女、銃もて戦う能わずも、
  身を挺して傷病兵に尽くすはわが務め、ミカドは祖国  の勝利のため、死をさえ教え賜りき。
  ミカドによりて祖国は大国となり、西の国々も目をみはりたり、
  わが民こぞりて力を合わせ、世界の雄国たらんと力尽くすなり。

 この詩にはミカド(明治天皇)が、偉大な指導者として画かれ、日本が強国ロシアに健気に立ち向かう姿を象徴的に重ね合わせている。そして、強大な天皇と天皇に忠誠を尽くす国民の愛国心が、日本を近代国家に成長させたと、この詩が近代化や独立を望むエジプトやアラブ人に勇気を与えたというのである。
 さらに、エジプトでは開戦直後の1904年6月に、ムスタファー・カーミルの『昇る太陽』が刊行されたが、カミールは本書を書いた動機を「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれる」と述べ、日本の発展を自らの模範と教訓にし、眠れるエジプト人を目覚めさせる意図があったと、次のように述べている。(10)
 墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗と信じていた国を打ち破り、人々の心を呆然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとしいけるものに衝撃を与えたこの民族とは一体何者なのか。彼らはわずかの年月にある部分では西洋と肩を並べ、ある部分で追い越すまでになったのか。今やだれもが驚きと讃嘆の念をもって、この民族について質問されるので説明するとし、「日本列島」、「日本小史」「明治維新」の3章で日本を概観し、日本の発展の秘密を天皇以下政府の重臣、庶民に至るあふれる愛国心と教育・政治・経済・軍事の近代的諸制度とにあるとしている。そして、日本とエジプトを上昇者と下降者、勝利者と敗北者、昇る太陽と沈んだ太陽と比喩し、日本のように強大な権力のもとに民族主義的精神が結集すれば、西洋の立憲国家が何年かかっても達成できなかった目標さえ、1日にしてなし遂げることができる」とエジプト人を励ましたのである。

 また、イラクでは詩人のマァルーフ・アッ=ルサーフィーが「対馬沖海戦」を、レバノンでは詩人アミール・ナースィル・アッ=ディーンが、「日本人とその恋人」を、インド出身のムハンマド・バラカトゥッラーは桜井思温の『肉弾』を1909年に翻訳したが、これがアラビア語に翻訳された最初の日本の本であった。(11) このような日本賛美や日本の理想化は、エジプトだけにとどまらず、ペルシャ語圏内にも波及したが、ここではイラン人ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーが、叙事詩の形で発表した『ミカドナーメ(天皇の書)』を説明しよう。(12) この本の書名や体裁は英雄叙事詩『シャナーメ(王者の書)』にならい、明治天皇の即位以来の国造りを記述し、次いで日露戦争について「日本軍は、いかなる難問にも希望をもって耐え忍んだ」。その結果「神の慈悲が蟻(日本)を獅子に変え、この蟻によってかの象(ロシア)を打ち負かしたのだ」と、各戦闘の様子や両軍の戦果や損害、世界の反応などを織りまぜて語り継ぎ、最後は講和の締結とその余波にまで言及している。この『ミカド・ナーメ』全体を通して窺われるのは、日本がアジアに新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したとしていることで、それは次の1節からも読み取れるであろう。

   東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。
   眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
   文明の夜明けが日本から拡がったとき、
   この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。
   無知の夜は我々から裾をからげて立ち去り、
   叡智の光によって新しき日は始まったのだ。
   日本が我らの先駆者となった以上、
   我らにも智恵と文化の恩恵がやってこよう。
   どんな事柄であれ我らが日本の足跡を辿るなら、
   この地上から悲しみの汚点を消し去ることができるだろう。

 一方、トルコでは女流作家のハリデ・エデイブ・アドゥヴァルが、次男にハサン・ヒクメトッラー・卜ーゴーと名づけたように、トルコにはイスタンブールのトーゴー通りなどの道路名や、店名などに東郷平八郎や乃木希典などの名を付けられたという。さらに、日露戦争の勝利は単に有色人種間に止まらず、ロシアの圧制に苦しむフィンランドやポーランドなどへも飛び火し、特にポーランドからは、日露戦争が始まると独立派リーダーのピウスッキが来日した。そして、ヒウスッキは日本に協力するため、在外ポーランド人によるポーランド部隊の編成、独立派への武器や資金の提供、ロシア軍に対する情報の提供や攪乱工作などを申し出た。日本はポーランド人部隊の編成には応じなかったが、独立派への資金援助や武器援助(一部)には応じた。このささやかな支援がポーランドの独立に、どのような寄与をしたかは明らかでない。しかし、第1次大戦の停戦協定により、1918年11月にポーランドの独立が認められ、ピウスッキが初代大統領となると、20年前の日露戦争で活躍した51名の日本軍指揮官に、ポーランド軍最高の勲章が贈られている。(13)


負の影響―盛り上がる黄禍論
米国の人種差別とネーバリズム

 日露戦争に対する米国の世論は、米国人特有の弱者贔屓の感情も加わり、戦争初期は極めて好意的であった。しかし、日本の勝利が確定的になるに従い変化し、日本海海戦の勝利を「ニューヨーク・サン」紙は、「今や日本海軍は、一挙に世界の海軍中に卓越した地位を占めるに至った。世界第一の英国海軍も凌駕せらるる日遠からず。わが国の如きは果たして日本海軍に当たることを得るや否や、要するに5月27日及び28日の海戦は、文明社会の大勢を一変するに至らしめた」と、黄色人種が白色人種を打倒したとして、文明社会の大勢を一変させるであろうと報じた。(14) そして、その後に日本の侵攻に備え陸海軍軍備増強を警告する2つの著書が出版された。一つはホーマー・リーの『日米必戦論(別名―無智の勇気』であり、さらに大きな影響を与えたのが『海上権力史論』で一躍有名になったアルフレッド・T・マハン大佐の一連の論説であった。ホーマー・リーは米国の過去20年にわたる人種差別という「累積したる不正」に対し、日本は報復するであろう。 「太平洋の地図を案ずるに、日本が将来戦争をもって地位を堅固ならしめ、主権を確立するために戦う国は米国以外にあらざるなり」と書いたが、(15) これを契機に多数の対日脅威論や人種差別論が出版された。そして、1906年にはサンフランシスコで日本学童隔離令が施行され、1913年にはカリフォルニア州議会が、日本人の土地所有禁止法案を可決した。
 
 一方、マハン大佐は「日本移民の流入を傍観するならば、10年もたたないうちにロッキー山脈以西の人口の大半が日本人によって占められ、同地域は日本化されてしまうであろうと、 黄禍論を利用して対日脅威を扇動した。(16) また、マハン大佐は1910年には、「門戸解放政策」という論説で、「米国の3大海岸 ― 大西洋、メキシコ湾、太平洋―のうち太平洋が最も危険である。太平洋に面した大海軍国は日米しかなく、日米が直接対立する可能性が一段と高まった」と海軍力増強の必要性を訴えた。(17)
 さらに、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツは日英同盟の分断に黄禍論を利用した。ドイツ系米国人は英国が黄色人種の日本と同盟して、キリスト教徒の白色人種を殺傷し、キリスト教文明を破壊しているのは白色人種に対する反逆であると非難した。さらに、ドイツはマクダネラ湾事件、チーマンマー事件、日本の南洋群島占領などを利用し、米国やカナダ、オーストラリアなどに恐日論を高めた。このため第一次世界大戦後には、西部諸州に反日組織が続々と誕生した。(18)  このような人種差別を受けた日本は、ベルサイユ講和会議に人種平等法案を提出した。しかし、この法案は山東問題の取引と誤解され、さらにナショナリズムの高まった中国の宣伝に煽られ、中国への侵略者として孤立してしまった。一方、黄禍論は1924年には州レベルを超え、排日移民制限法として議会を通過し、一切の移民が禁止されてしまった。

米国の黒人とフィリピンへの影響

 米国の黒人たちは日露戦争を人種戦争の観点から見た。そして、日本の勝利を自分たちの勝利のように誇りに思い歓喜し、日本が白人優位を覆し抑圧されている有色人種を解放してくれるであろうと夢想した。特に、のちにアフリカ独立の父といわれたW・E・B・デボイスは、日本はヨーロッパに圧迫されている総ての有色人種を救出してくれる解放者である。全有色人種は日本をリーダーとして仰ぎ従うべきであると主張した。黒人雑誌の『アレキサンダー』は、日本が38年間で近代化し白色人種を打ち破ったのは現代の奇跡だと報じ、日本の勝利でアジア民族も黒人も立ち上がり、母国アフリカにも民族独立の動きが高まるであろうと論じた。(19) また、「ニューヨーク・エィジ」紙には、日本人は白色人種を始末するために神が送った神の剣であると崇める詩人アーチバルド・グリムの「小さな偶像破壊者」という詩が掲載された。(20)

   行け、黄色い小さな男たちよ。そしてロシアを征服せよ。
   お前の恐ろしい刀に覆いを掛けるな。
   天罰を加えるまでは、その刀を置くな。
   汝はロシアを投げ倒せ、汝はロシアを投げ飛ばせ。
   汝はロシアの誇りを投げ飛ばすことを運命づけられている。
   巨大な地球のホコリを、欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ。

 しかし、この黒人の期待に白色人種は黄禍論を身近に感じたのでもあった。米国国内の反日世論にもかかわらず、デボイスやレオナルド・R・ジョーダンなどの黒人指導者は、日本を人種平等のリーダーとして支持し、日本を解放者と讃えた。そして、黒人新聞の中には、日本がハワイを奇襲しても、米国がハワイやフィリピンを横領していなければ日本との戦争にならなかったと報じたものもあった。また、黒人の人種解放主義者の中には、この戦争は人種戦争であると主張し、戦争への非協力を訴え、徴兵拒否やストを指導したため反逆罪で投獄された者もいた。(21)

  フィリピンでは日本が日本海海戦に勝利したとのニュースが伝わると、マニラ領事館には多数の祝電が寄せられたが、のちに国会議員となったコーポラウは「アジアの時代が来た。アジアがヨーロッパに対して立ち上がる時が来た(22)」と感じたと回顧している。フィリピンの日本への期待は、フィリピン人の独立願望や土着宗教ともからみ、日本が救世主ように期待され、「アメリカとの戦争になれば、日本が援助してくれる。今も日本の軍艦が頻繁にフィリピン沖にいる」。「日本に亡命している革命軍の司令官アルテミオ・リカルテ将軍が、日本軍の援助を受けて帰国し、独立闘争の先頭に立つ」などとの噂が、まことしやかに流れ続けた。そして、この架空の対日期待が狂信性を持った宗教的なコロルム運動に連動し、各地で叛乱が起きたが、この運動の指導者ペドロ・カボラは、決起すれば日本の天皇が叛乱を支援し、軍艦を派遣してアメリカ人を追放してくれると、1925年3月に決起した。さらに、1935年5月には日本に亡命しているベニグノ・ラモスが「日本軍の飛行機で帰ってくる」と、日本の援助に期待してサクダリスタ党が決起し、死者約60名、負傷者40名と1000名近い逮捕者を出してしまった。(23)このような事件のため、米国は日本がフィリピンの独立派支援を口実に、フィリピンを侵略するのではないかとの疑惑を高め、この疑念が日本に対する警戒心となり、兵力増強主義者や人種差別主義者に利用された。

負の影響(2)20世紀の怪物・共産主義とナチ・ドイツへの影響
 レーニンは旅順が陥落すると、「恥ずべき敗北に陥ったのは、ロシア人民ではなく、専制である。ロシア人民は専制の敗北によって利益を得た。旅順の敗北はツァーリズムの降伏の序幕である。….…専制は弱められた。(革命を)いちばん信じようとしない人々までが、革命が起こることを信じ始めている。人々が全般的に革命を信じることは、既に革命の始まりである(24)」と書いたが、この時からレーニンの予言通りにロシアでは革命の歯車が止まることなく周り始めた。旅順陥落の直後にプチーロフ工場の労働者の解雇事件から、労働者1万2800名が参加する大規模なストライキが発生し、さらに1月22日には冬宮前の広場に集まろうとした群衆を、武力で弾圧し多数の死傷者を出す「血の日曜日」事件が発生した。そして、この事件を境に革命の波が全国に広がり、第一次大戦ではついに帝政ロシアが崩壊し、「20世紀の魔物」と呼ばれた共産主義国家が誕生した。

 この共産主義国家ソ連の誕生は、日本にも西欧帝国主義諸国にも剣の両刃であった。ソ連はコミンテルンを使い、第2次大戦では日本を敗北に追い込むが、冷戦では民族独立運動を支援し、西欧諸国の植民地解放に大きく貢献した。コミンテルンの活動については公開された資料も少なく、陰謀などの面も多いが、コミンテルンは西欧諸国の重圧をかわそうと、植民地解放、民族独立運動を支援した。特に、コミンテルンが重視したのは、内乱中で日本の侵略を受けている中国であった。(25) コミンテルンは中国に共産党を創設させ、中国共産党を指揮して国民党との合体を推進し、日中講和の機会を妨害して抗日戦争を継続した。さらにコミンテルンは「田中上奏文」を偽造して、日本の孤立化、反日国際世論の高揚に大きな影響を与えた。そして、最後には「ハルノート(26)」の制作に関与し、米ソを結びヨーロッパの戦争を太平洋に持ち込み、日本を太平洋戦争へと追い込んでしまった。(27)
 
 一方、孤立した日本をドイツと結びつけたのは、1935年の第7回大会の「日独をコミンテルンの敵」とするとの宣言で、日独は1936年に「日独防共協定」を締結し、次いで1940年には日独伊三国同盟を締結した。この三国同盟を押し進めたのがアドルフ・ヒトラーであったが、ヒトラーが日本との同盟を進めた一因は日露戦争にあった。ヒトラーは「日本海海戦があったのは、私が小学生の時だった。クラスのほとんど総てがオーストリア人で、日本海海戦の敗北のニュースに落胆した。しかし、私は歓声を上げた。それ以来、私は日本海軍に対して特別な感情を持った(28)」と回想している。ヒトラーの日本海軍への過大な期待が、ヒトラーを日本に近づけ、日独伊三国同盟を締結させ、日本を太平洋戦争に結びつけたのであった。

 ジョン・ダワーは『人種偏見』の中で、第二次大戦中に日本軍が破竹の勢いでアジアから欧米諸国を駆逐すると、ジンギスカーンのように西欧社会に進撃してくるのでは、との黄禍の悪夢が現実のものとなった。そして、終戦の年になると米兵の4人に1人が、戦闘の主要目的は陣地を占領することでなく、日本兵をできるだけ多く殺すことに変わった。このため投降を拒否し、手を挙げて投降してくる時点に、すなわち捕虜とする前に射殺したという。(29) しかも、世論は終始10から13パーセントが、日本人の絶滅を支持し、終戦の年には13パーセントの者が日本人を絶滅することを、33パーセントの者が日本という国家を消滅させることを支持していた。この延長線上に広島、長崎への原爆投下があったのである。それは敗戦後の1945年12月に、『フォーチュン』誌が行った世論調査で、22・7パーセントの者が、「日本が降伏する前に、もっと原爆を使う機会があれば良かった」と、原爆投下後にあまりにも早く降伏してまったことを残念がっていたということからも、第二次大戦が人種戦争であったことが理解できるであろう。(30)

 一方、国後島を占領したスターリンは、1945年9月2日に「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まっている。1904年の日露戦争の敗北は、国民意識の中で悲痛な記録を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っていた。 40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待った。遂にその日が到来した(31)」との勝利宣言を行った。そして、この時までには帝政ロシアの黄色い大陸(満州)への欲望が、日露戦争の原因であったとの教科書の記述は、日本の満州への侵略が原因であり、日本の卑怯な奇襲に無準備なロシア軍は勇敢に戦ったが、敗北したと日露戦争の記述は180度変わっていた。(32) 
 
 一方、ポーツマス講和条約の締結を祝するパーティで、「ハーパー」新聞の社長は「西の白人大国から東の白人大国のために」とトーストしたという。(33) また、1927年にスターリンに追われて米国に亡命したトロッキーは、米国人に「なぜ、共産主義を忌避しソ連を警戒するのか。共通の敵は日本の黄禍ではないか。強硬なクルミの殻に籠もる日本であっても、白色人種として米ソが協力できるなら、米ソがクルミ割りの両テコのように容易に割ることができる」と、共産主義を忌避する米国に働きかけた。(34) そして、最終的にはトロッキーが主張したように、日本は米英とソ連に挟撃されて、言葉を換えれば人種差別とコミンテルンに東西から挟撃されて敗北したとも言えよう。


日本の敗北と民族独立と人種平等
 ベルサイユ講和会議における日本の人種平等法案は門前払いをうけたが、この提案が有色人種を勇気付け、さらに民族独立、人種差別反対の動きを高めた。しかし、それが実現される前に、さらに日本は人類最初の原爆の洗礼を受けなければならなかった。第二次大戦が日本の敗北で終わると、米英両国は大西洋憲章に民族自決を掲げ、有色人種の協力を得ようとし、有色人種の多くが戦争に勝てば、人種平等や民族国家が建設できると期待して参加した。しかし、日独が敗北すると西欧諸国は植民地を維持しようと、旧植民地に軍隊と行政官を復帰させた。これに対してインドネシアではハッサン・スカルノがオランダ軍に、ベトナムではホー・チ・ミンがフランス軍に武器を取って立ち上がった。英国はインド、ビルマ、マラヤ、イラク、エジプト、パレスティナで植民地支配に対する独立戦争、テロ、暴動に直面した。

 これらのアジアの独立戦争で大きな力を発揮したのが、日本軍が育成したアジア人の部隊であった。ビルマでは鈴木敬司大佐が創設したアウン・サンを指揮官とするビルマ独立軍が、インドでは藤原岩一大佐が育てたインド国民軍が、インドネシアでは日本軍が育てたジャワ防衛義勇隊や兵補など4万人と、700から1000名の残留日本兵が、ベトナムでは600名から1000名の残留日本兵が参加し、中には南部コメコンの最高軍事顧問や、士官学校の最高顧問などになった者もいた。これら日本人の活動についてクリストファー・E・ゴシャは「ベトナムが基礎を築く段階で、最も智恵と力を提供したのが日本人であった事実は記憶されてよいのではないか」と評価している(35)。
 1950年に敗者日本との講和会議がサンフランシスコで開かれ、国際連合が誕生した。加盟国は51カ国、しかし有色人種の独立国はアフリカ、アジアに3カ国、中東に7カ国があるに過ぎず、大多数の加盟国は白色人種の国であった。この会議でインドやエジブト代表は、国連憲章に人権を支持する規定を設けるべきだと強く主張した。また、米国内では戦争から帰還した黒人兵が差別撤回に立ち上がり、各地で大規模な人種暴動が発生していた。インドの新聞は「ニグロの待遇は米国の汚点」である強く非難し、インド代表は英国が相変わらず「白人クラブ」にとどまり人種差別を続けるならば、英連邦から脱退すると威嚇した。(36)
 
 アジア・アラブの指導者は、反帝国主義、反植民地闘争を推進しようと、非同盟の「第三世界」を形成した。1945年にはアラブ連盟が誕生し、1947年にはアジア関係会議が開かれ、1955年にはバンドンでアジア・アフリカ会議が開かれた。29カ国が参加したが、米ソを含む白人国家は排除された。スカルノ大統領は、この会議は「世界の歴史の新しい始まり」であると宣言した。中国はただちに強い支持を表明し、ソ連も問髪を入れずに欧米帝国主義に対する、アジア・アフリカ人民の闘争を導く光であると絶讃した。(37) 1957年には45カ国が参加して、アジア・アフリカ人民連帯会議がカイロで開催された。1954年のベトコンのディエンビエンフーの勝利が、世界の植民地解放戦争に勢いを付け、フランスは1956年にはチユニジアとモロッコ、1962年にはアルジェリアに独立を与え、イギリスも1960年代にはアジアやアフリカの植民地に独立を認め撤退した。
 
 1956年の最初の汎アフリカ会議で、90歳になったデュボイスは「鎖のほかに失うものはない!取り戻す大陸がある!獲得する自由と人間の尊厳がある!(38)」と熱弁をふるったが、1960年は「アフリカの年」と呼ばれ、この1年間に17の地域が国家になった。1965年には41カ国が国連に加わり、国連は117カ国に膨れあがった。国連内の有色人種国家の増加が有色人種の発言権を強めた。さらに冷戦が民族独立運動を後押しした。このように、第二次大戦初期の日本軍の破竹の進撃が、白色人種不敗の神話を瓦解し、西欧植民地帝国を弱体化し、さらに冷戦期の米ソの新興国獲得競争、新しい国連の誕生などが、植民地帝国を揺るがした。1965年には国連が「人種差別撤廃に関する国際条約」を採決し、1971年には「あらゆる人種主義および人種差別と闘う行動国際年」を採択し、1973年には「人種主義および人種差別と闘う行動の十年」の決議が採択されて、人種差別の撤廃、民族国家の樹立が加速した。1964年には公民権法が、1975年にはインデアン自決法が成立した。そして、最後に日系米国人の強制収容が「人種的偏見、戦時の狂気、政治的指導性の欠如によって行われた」と、1988年に議会が国家に代わって謝罪し、存命の日系人1人宛2万ドルの補償金が支払われた。

おわりに
 本論には中国への侵略や韓国併合に触れていないとの批判があるかもしれない。確かに日本は孫文に「西方覇道の手先」ではなく、「東方王道の干城」となれと非難された。(41) しかし、内戦を続け四分五裂の中国、国家意識も低い未開のアジアの側に、日本が立つことが可能であったであろうか。西欧諸国が最も怖れたのは日本を中心に中国、インドが連携することであった。有色人種の日本に対する期待が高まれば高まるほど、日本が有色人種の側に立てば立つほど、黄禍論が勢いを増し対日警戒心が高まる状況であった。
 
 歴史はその当時の実情と価値観で、また時には西洋史とか東洋史などの区分を外し、地球儀的に、また1世紀という時間単位で見ることも必要ではないか。1世紀という歴史の大河の主流をたどり、支流の小さな歴史のしだを切り取れば、20世紀の日本史は人種差別とコミンテルンという2つの底流が絡み合いながら流れていた。そして、その流れに翻弄されて日本は世界を相手に戦い敗北した。しかし、日本軍が占領した西欧諸国の植民地に、かっての宗主国が再び来ることはできなかった。アジアの人々が日露戦争で芽生えた民族国家の夢を実現させるために、日本軍が作り出した力の空白を利用して立ち上がったのである。西欧の史書はフランス革命が国民国家(民族国家)を成立させたとしているが、民族国家独立への道をアジアやアラブ・アフリカ諸国に目覚めさせたのは、日露戦争であり、その運動に火を付け有色人種の民族国家を建国させたのは、「先の大戦」と呼ばれる「大東亜戦争」ではなかったのか。 

脚注

1兪辛惇(左側が火の字)『東アジアの中の日本歴史 孫文の革命運動と日本』(六興出版一九八九年)八八頁。
2 潘佩珠・川本長岡編『ヴェトナム亡国史他』(平凡社、一九九六年)九六頁。
3 谷川栄彦『東南アジアの民族独立運動』(勁草書房、一九七八年)五〇―五三頁。
4 ジャワハルラル・ネルー(大山聡訳)『父が子に語る世界歴史』第三巻(みすず書房、一九六六年)二二一頁。
5 R.P.Dua,The Impact of the Russo-Japanese (1905)War on Indian Politics(New Delhi;S.Chand & Co.,1965),pp.80-86.
6宮崎滔天『宮崎滔天全集』第五巻(平凡社、一九七七年)七〇二頁。
7 羽黒茂『世界史より見たる日露戦争』(真珠社、一九六〇年)二一五―二一六頁。
8 杉田英明『日本人の中東発見』(東京大学出版会、一九九五年)二〇三頁。
9 Http://www.japan-arab.org/ara-night.
10前掲、杉田、一八九−一九四頁。
11同右、二〇四―二〇七頁。二〇九、二二三頁。
12同右、二一二―二一九頁。
13阪東宏『ポーランド人と日露戦争』(青木書店、一九九五年)を参照。
14外務省臨時報告委員会編「日露事件外評一斑七」二三五頁、外交史料館蔵。
15 ホマー・リー(望月小太郎)『日米必戦論』(英文通信社、一九一一年)四七、一一四頁。
16 Ltr.,Mahan to Maxes(May 30, 1907),Robert Seager II & Doris D.Maguie, eds., Letters and Papers of Alfred Thayer Mahan(Annapolis:Naval Institute Press, 1977), vol.3, pp.220-222などを参照。.
17 「門戸開放」(麻田貞雄『アメリカ古典文庫 アルフレッド・セーヤー・マハン』(研究社、一九八〇年)277-278頁。
18 ドイツの対英米離反工作については、拙著『第一次世界大戦と日本海軍-
外交と軍事の連接』(慶応義塾大学出版会、一九九八年)第二、第三章を参照。
19 Kearney Reginald, Afro-American view of Japanese, 1900-1945(Kent State University, Ph.D.Paper,1991), pp.63.
20 Ibid.,p.38.
21 Ibid.pp, 150-151.
22 Eufronio M.Alip, Philippine-Japanese Relations(Manila:Alip & Sons, Inc.,1959), p.44.
23寺見元恵「日本軍に夢をかけた人々」(池端雪浦編『日本占領下のフィリピン』(岩波書店、1996年)59-101頁を参照。
24 マルクス・エンゲルス・レーニン研究所編『レーニン全集』(大月書房、一九七三年)三三―三四頁。
25国際労働運動研究所編『コミンテルンと東方』(協同産業出版部、一九七一年)を参照。
26 「ハルノート」の経緯については、ポリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』(協同通信社、1999年)278-293頁。
27 ウォルドー・ハイリンクス「大同盟の形成と太平洋戦争の開幕」『太平洋戦争』(東京大学出版会、1999年、一七五頁)。
28 Hitler’s Table Talk:1941-1944(London:Weidenfeld and Nicolson,1953),p.150.
29 John W.Dower,War without Mercy:Race and Power in the Pacific War(Random House,186),pp.63-65.
30 Ibid.,pp.53-54.
31油橋重遠『戦時日ソ交渉小史』(霞ヶ関出版、一九七四年)二二六−二二八頁。
32 清水威久『ソ連と日露戦争』(原書房、一九七三年)一七―三八、二四〇―三一〇頁。
33 Kearney Reginald,op.cit.,p58.
34 Richard A.Russell,Project Hula:Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan(Washington,D.C.US Naval Historic Center,1997),p.3.
35 クリストファー・E・ゴシャ「ベトミンと戦った日本人」(軍事史学会編『二〇世紀の戦争』(錦正社、二〇〇一年)二二九頁、内海愛子・田辺寿夫『アジアから見た大東亜戦争』(梨の木舎、一九八三年)二二一―二二二頁。
36 Paul G.Lauren,Power and Prejudice:The Politics and Diplomacy of Racial Discrimination(Corolado:Westview Press, 1996),p.179.
37 Ibid.,p.227.
38 Ibid.,p.229.
41 藤井昇三『孫文の研究』(勁草書房、一九六六年)二二七―二二八頁。