空母機動部隊とは何か−その誕生から今日まで
●4.第2次大戦後の空母機動部隊

 第2次大戦後に大量の空母が投入されたのは朝鮮・ベトナム戦争であった。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、 27日には空母ヴァレー・フォージ(Valley Forge)とイギリスの空母トライアンフ(Triumph)が、第7艦隊司令官の指揮下に第77任務部隊として新編された。そして、7月3日にはヴァレー・フォージから最初のジェット戦闘機が北朝鮮の首都平壌の飛行場を、トライアンフのプロペラ機がが海州の飛行場を攻撃した。 そして、以後、朝鮮戦争中にアメリカ海軍は正規空母11隻、護衛空母5隻、イギリス海軍は3隻、オーストラリア海軍は1隻を派出した。朝鮮戦争中、これら空母部隊は黄海と日本海に配備され、北朝鮮の飛行場、鉄道、橋、港湾施設や燃料施設などを攻撃し、南朝鮮では陸軍や海兵隊の要請に応じて直接近接支援任務に任じたが、特に釜山まで追いつめられた国連軍を支えた近接支援が空母の有効性を再び実証した。しかし、搭載機のジェット化による大型化とカタパルトの必要性、燃料タンクや弾薬庫容積の増大など、空母大型化の必要性が痛感され、朝鮮戦争を境にアメリカ海軍は空母の超大型化へと進んでいった。 1964年8月にトンキン湾を哨戒中の駆逐艦が、北ベトナム魚雷艇に襲撃されると、アメリカ海軍はベトナム沖にいたタイコンデロガ(Ticonderoga)を直ちに北上させ、搭載機64機により北ベトナムの魚雷艇基地を攻撃したが、その後、香港からコンステレーション(Constellation)を加えるなど、このトンキン湾事件を境にアメリカの本格的介入が始まった。ベトナム戦争中の空母作戦は「雷鳴作戦(Rolling Thander)」と呼ばれる北ベトナムの軍事施設や交通施設に対する北爆と、南ベトナムで作戦中の地上部隊に対する対地支援が主たる作戦であったが、北爆は海南島南方のヤンキーステイションに配備された空母部隊から、南ベトナム展開中の地上部隊への対地近接支援作戦はカムラン湾沖のディキシー・ステイションから行われたが、1965年6月には全天候攻撃機イントルーダーを搭載したインデペンデンス(Independence)、11月には早期警戒機を搭載したキティ・ホーク(Kitty Hawk)、さらには原子力空母エンタープライズ(Enterprise)と、アメリカ海軍は15隻の空母をベトナム戦争に投入した。

 ベトナム戦争中の空母部隊の機動性を最も強く印象づけたのは、1972年3月から始まった北ベトナムに対する北爆と北ベトナム港湾への機雷敷設作戦であった。1968年5月にパリ会談が始まり、翌年6月にはアメリカ軍の撤退も始まった。しかし、アメリカ軍の撤退にともない南ベトナム軍に動揺が起きると、北ベトナムは一気に南ベトナムを解放しようと、停戦協定を無視して1972年3月末に南進を開始した。不意を突かれたアメリカは北爆再開と北ベトナムの港湾封鎖を宣言し、機動部隊をベトナム沖に集中した。そして、北ベトナムの攻撃開始3日後にはフィリピンのスビック湾からキティホーク、7日後には横須賀からコンスタレーションを戦列に加え、空母4隻、航空機275機の打撃力をベトナム沖に集結した。空母はその後も大西洋や地中海から続々と急派され、北ベトナムが南進を開始した3週間後には空母6隻をベトナム海域に集中し、常時4隻の空母をヤンキー・ステイションに配備した。そして、5月9日にはコーラルシーCoral Sea)から最初の機雷54個がハイフォン港に投下された。なお、これら展開された空母からの出撃機数は、救難・偵察・電子戦支援・哨戒・迎撃待機・整備などのために航空機が残置されるため、 1回の出撃機数は全搭載機の40パーセント程度で、 空母2隻で60機、 3隻で90機程度であった。次の湾岸戦争は短期間ではあったが、「砂漠の楯」や「砂漠の嵐」作戦には4群の空母部隊が地中海とペルシャ湾に展開され、 これらの部隊からは1万4000回以上の出撃が行われ、水上目標だけでも120隻以上のイラク艦船を撃沈・撃破し、 随伴した護衛部隊の水上艦艇からも220発以上のトマホーク巡航ミサイルが発射されたという。

 第2次大戦後のアメリカ海軍以外の空母作戦としては、1971年12月に生起し2週間で終わった第3次インド・パキスタン戦争と、1982年4月から6月にイギリスとアルゼンチンとの間で行われたフォークランド戦争がある。インド・パキスタン戦争では空母を保有していたインド海軍が空母保有の優位を享受した。インドは陸上機では航続距離が不足して攻撃できないパキスタン唯一のジェット機発着可能なチッタゴン飛行場を、空母ビィクラント(Vikrant:1万6000トン)をベンガル湾に送り、洋上から襲撃し制空権を確立した。作戦に投入されたインドの空母は、第2次大戦型の旧式空母で搭載機もプロペラ機のシーホーク12機を搭載しているに過ぎず、出撃数も14日間の戦争中に100ソーティに過ぎなかった。しかし、制空権確保後はヘリコプターなどを使って広範な海上封鎖作戦を行い、パキスタンへの船舶の流れを完全に止めてしまった。

 一方、ホークランド戦争で注目されたのがV/STOL機ハーリアーの活躍であった。イギリス海軍が反撃を開始した1982年5月に、フォークランド沖に展開できた海上航空兵力は、ハーミ-ズ(Hermes)搭載の12機とインヴィンビンシブル(Invincible)搭載の8機のシー・ハーリアに過ぎなかった。その後、コンテナー船などを改造した仮設空母により、空軍機を含め総計42機のハーリアーが展開され、フォークランド周辺の制空権を確立し、奪回作戦を勝利に導いたが、特に評価されたのが海軍のシー・ハーリアーであった。空軍のハーリアーは新たに基地を開設したため、部品の不足や整備能力が低下し、稼働率も低く4機を地上で撃破したにとどまった。しかし、空母に搭載されたシー・ハーリアーは28機しかなかったが、この少ない機数で2376ソーティーをこなした。そして、23回の空中戦で19機を撃墜し、地上撃破を含めて28機を撃破し、V/STOL空母の有効性を世界に示した。
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1.空母の誕生と発展
2.空母部隊の発展
3.第二次大戦中の空母機動部隊
4.第2次大戦後の空母機動部隊
5.空母機動部隊の特質と意義