空母機動部隊とは何か−その誕生から今日まで |
●1.空母の誕生と発展 |
『広辞苑』によれば、 機動部隊とは「航空母艦を中心とし巡洋艦・駆逐艦などで編成され、 航空戦を主任務とする高速艦隊」とあり、 日本人には航空母艦を主体とした機動性に優れた大破壊力を持った部隊とのイメージが強い。日本人がこのようなイメージを抱くことになったのは、 開戦劈頭にハワイを攻撃した部隊が「機動部隊(Task Force)」と呼称され、マリアナ沖海戦に参加した空母を中核とした部隊が、第1機動艦隊(First Mobile Force)と呼称されたことにああったのではないか。それでは、最初に機動部隊の中核的存在である空母について考えてみよう。水上機を搭載すれば水上機母艦、陸上機を搭載すれば空母であるが、初期の段階では両者を併用したものもあり、空母と水上機母艦を区別することは難しい。最初に艦艇に航空機(水上機)を搭載し発艦させたのは、開拓者精神に富むアメリカ海軍で、1910年11月15日に軽巡洋艦バーミンガム(Birmingham:3500トン)に、長さ83フィートの滑走台を付けて発艦テストに成功した。次いで、1911年1月18日には、サンフランシスコ湾に停泊中の装甲巡洋艦ペンシルバニア(Pennsiylvania)の長さ120フィートの特設甲板への着陸に成功した。一方、イギリス海軍は1912年にド級戦艦アフリカ(Africa:1万6000トン)からの発艦に成功し、続いて同年5月には同型艦ハイバーニア(Hibernia)から、航走中の発艦に成功した。間もなくアメリカでカーチス式水上機が開発されると、特設甲板を必要としないことから列国海軍は水上機母艦へと走った。世界で最初に水上機母艦を造ったのはフランス海軍で、水雷艇母艦フードル(Foudre:6000トン)を改装し、1914年には艦首の特設甲板からファルマン水上機の発艦に成功した。そして、第1次大戦ではイギリスやフランス、特にイギリス海軍は多数の海峡連絡船を水上機母艦に改装し、艦隊の眼としての偵察、ドイツ潜水艦に対する哨戒や捜索、さらにダータネルス作戦では前進特設航空基地として利用するなど、水上機母艦ではあったが、第1次大戦ではシーパワー(Sea Power)という艦艇からエアーパワー(Air Power)の航空機を発する艦種の存在を印した。 発艦と着艦を行う今日の空母の原型を開発したのはイギリス海軍で、1917年7月にド級戦艦フューリアス(Furious:1万91000トン 8機搭載)の艦体前部に発艦甲板、後部に着艦甲板を設けた空母(実質は水上機母艦)を完成し艦隊に篇入した。本艦は着艦制動装置やエレベーターなど各種の新機軸が採用されていたが、艦の中央に艦橋や煙突があり、全通飛行甲板方式の現代の空母とは大きく異なっていた。続いてイギリス海軍は1918年9月に商船コンテ・ロッソ(Conte Rosso)を改装し、 全通甲板を持つ近代空母の原型ともなった空母アーガス(Argus 1万4550トン 20機搭載)を登場させた。一方、アメリカ海軍は石炭運搬船ジュピター(Jupiter)を、1922年年3月にラングレー(Langley 1万3989トン 34機搭載)として完成した。 イギリスやアメリカに対してフランスやイタリア海軍は、地理的に陸上基地から海上航空作戦は可能であるとの陸軍や空軍の反対から、ワシントン条約では6万トンの空母建造枠を認められていたが、第2次大戦が勃発した時にイタリアは1隻の空母も保有していなかったし、フランス海軍もワシントン条約により戦艦から空母に改造したベェールン(Bearn:2万8854トン)1隻と、水上機母艦1隻しか保有していなかった。一方、ドイツ海軍は再軍備宣言を発した1934年には設計を開始し、Z計画では2隻の建造を決め、1937年にグラーフ・ツェッペリン(Graf Zeppelin:2万8540トン)を起工し,1938年には2番艦も起工した。しかし、イタリアと同じく空軍の反対から搭載機の開発が進展せず、工事が中断されたまま終戦を迎えた。 一方、日本海軍の空母に対する取り組みは列国海軍に比べかなり遅れ、鳳翔(7470トン:21機)の完成は1921年12月27日となった。しかし、この遅れが初めから空母として建造された1番艦の栄誉を鳳翔に与えた。なお、 初めから空母として建造された第2番艦は、1923年6月に建造されたイギリス海軍のハーミス(Hermes 1万850トン 20機搭載)、 第3番艦は1927年11月16日に竣工したアメリカ海軍のサラトガ(Saratoga 3万8500トン 80機搭載)であった。 ワシントン条約にともない列国海軍は、戦艦や巡洋戦艦を空母に改装し、日本海軍は1927年3月25日に赤城(2万6900トン 60機搭載)が完成すると、鳳翔・赤城および第6駆逐隊(駆逐艦4隻)で航空戦隊を編成した。 とはいえ、 日本の航空戦隊の誕生は水雷戦隊(1913年)より15年、 潜水戦隊(1919年)より9年も遅い誕生であった。 また、 当時は航空機の性能も悪く、 1928年に改定された「海戦要務令(第3次改定)」では、 「通常戦闘機隊ヲ以テ敵航空機ヲ制圧シツツ、 攻撃隊ヲ以テ敵艦隊ヲ強襲スルヲ例トス」。 偵察機は「主トシテ敵情偵察、 艦隊ノ前路警戒、 敵潜水艦ノ捜索、 攻撃及弾着観測等ニアリ」などと、 機種毎に多少の任務の分化はあったが、当時の航空兵力への期待は、制空権を獲得し味方観測機の弾着観測下に、有利な態勢で主力艦部隊の砲戦を行うための補助兵力でしかなかった。 |
1.空母の誕生と発展 2.空母部隊の発展 3.第二次大戦中の空母機動部隊 4.第2次大戦後の空母機動部隊 5.空母機動部隊の特質と意義 |