建艦思想に見る海上防衛論ーソ連海軍編
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はじめに
ロシア海軍の歴史ほど無理解な指導者によって翻弄された歴史はない。 ロシア海軍を建設したのも、
巨大にしたのも、 陸軍の道具としたのも、 海軍を十分に理解していなかった皇帝であり、
レーニンの教義に忠実なロシア共産党中央委員会であった。 そして、 長いロシア海軍の歴史を貫くのは国家指導者や国民の無理解、
経済力と技術力の不足、ロシア共産党と陸軍の海軍に対する強硬な統制という苦難の歴史であった。
このような権力者や国民の無理解から、 ロシア海軍は戦艦中心の均衡のとれたマハン流の攻勢海軍を整備すべきであるという伝統派と、
大陸民族の体質やパルチザン戦争の体験から国土防衛には戦艦などの大型艦艇は不経済であり、
水雷艇や潜水艇による防勢的海軍を整備すべきであるとの新興派との間で海軍戦略が揺れ、
建艦計画が変更され、 それがロシア海軍の兵力整備を妨げ、 さらに大陸民族特有の強固な統制が、
その運用や戦い方を妨げて来た。 以下、 この大陸国家ロシアがどのような戦略思想のもとに、
どのように海軍を整備し運用してきたかをみてみたい。
1 日露戦争まで
ロシア海軍は17世紀末にピョートル1世(1672−1725年)によって創設され、 1789年にはレーウェリの海戦、 ビボルクの海戦、 スウェンクスンドの海戦でスエーデン海軍を破りバルト海の制海権を獲得し、 後を継いだカテリーナ二世(1762−96年)は黒海艦隊を創設し、 トルコ海軍を破って黒海を自国の湖とした。 一方、 ロシア海軍は1739年には日本東岸を探索し、 1741年には北米西岸に達し、 1803年から6年をかけてはアメリカより20年も早く世界一周航海を行った。 そして、 1792年にはラックスマンを根室に、 1804年にはレザノフを長崎に送り、 ペリーに先は越されはしたが、 1853年には日本を開国させるためにプーチャーチンを長崎に送り、 1861年3月には日本海の海上交通の要所である対馬をポサドニック号を送って占領するなど、 ナポレオン戦争が終了した時点では世界第2位の海軍国に発展した。 しかし、 1853年のトルコとのクリミヤ戦争がロシア海軍の運命を変えた。 トルコ海軍が敗れると1854年にはイギリスとフランスがトルコと同盟しロシアに宣戦、 ロシア艦隊は優勢なイギリス・フランス艦隊の攻撃を受けて壊滅的打撃を受けた。 とはいえ、 18世紀後半には黒海艦隊司令長官のウシャコフが史上初めて、 「敵兵力の一部に自己の総ての兵力を集中することは優れた戦略である(兵力集中の原則)」、 「予期していない行動は敵の陣形を打破するには図り知れない価値がある(奇襲の原則)」、 「長い戦線を維持するには工夫が必要である(海上交通線の維持)」などの海軍戦略に関する理論的なドクトリンを確立するなどロシア海軍は海軍の先進国でもあった。
その後、 再びロシア海軍を再建したのはアレクサンドル二世で、 アレクサンドル二世は皇弟コンスタンチンを海軍大臣に任命し、 西欧的近代海軍を再建させた。 しかし、 英仏との講和条約により黒海での艦艇保有隻数が制限されていたため、 兵力増強はバルト海に限られ、 さらに当時のロシア海軍の戦略思想が海軍の主任務を沿岸防備と規定していたため、 その勢力は小型の海防艦やモニター艦を主力とし、 通商破壊作戦用の巡洋艦を保有する程度であった。 しかし、 その後、 19西紀後半には世界に先駆けて水雷艇による魚雷攻撃に成功、 世界的に有名な海軍戦術家マカロフを生むなどロシア海軍は再び増強され、 日露戦争前には次に示すとおり、 戦艦23隻、 巡洋艦17隻、 総トン数80万トンを保有する世界第4位の海軍を再び再建した。 しかし、 この海軍も日本海海戦で壊滅的打撃を受け再び崩壊させられてしまった。
列国海軍兵力(1904-日露戦争開戦当時)
艦種 |
英国 |
仏国 |
ドイツ |
ロシア |
1等戦艦(10000トン以上) |
38 |
11 |
14 |
10 |
2等戦艦(10000トン以下) |
11 |
10 |
0 |
10 |
3等戦艦(7000トン未満) |
6 |
10 |
13 |
3 |
1等巡洋艦(6000トン以上) |
28 |
5 |
4 |
4 |
2等巡洋艦(3600トン以上) |
37 |
13 |
6 |
8 |
3等巡洋艦(1500トン以上) |
57 |
27 |
12 |
5 |
水雷砲艦 |
31 |
21 |
3 |
9 |
2 赤色艦隊の誕生
ロシア海軍は日本海海戦で壊滅的打撃を受けたが、 第1次世界大戦が勃発した時点では次に示すとおり、
建造中の艦艇を加えれば日本を抜き、 最新鋭の弩級戦艦ではイギリス・ドイツに次ぐ世界第3位の海軍に蘇りつつあった。
しかし、 第1次大戦が、 それに引き続くロシア革命が、 再びロシア海軍を崩壊させてしまった。
第1次世界大戦開戦時の海軍兵力(建造中)
艦種 |
英国 |
ドイツ |
フランス |
米国 |
ロシア |
日本 |
ど級戦艦 |
21(13) |
13(7) |
9(5) |
8(10) |
11(7) |
4(2) |
巡洋戦艦 |
9(1) |
4(4) |
ー |
ー |
0(4) |
2(2) |
旧式戦艦 |
38 |
20 |
13 |
22 |
6 |
11 |
1等巡洋艦 |
38 |
9 |
18 |
15 |
6 |
13 |
軽巡洋艦 |
72(17) |
39(6) |
12 |
10 |
8(8) |
13 |
駆逐艦 |
218(20) |
142(10) |
83(4) |
52(8) |
105(36) |
50(1) |
潜水艦 |
76(20) |
27(12) |
70(23) |
29(21) |
25(18) |
14 |
1905年6月には皇帝の軍隊そのものの革命勢力への加担である軍艦ポチョムキン号の反乱を起こしたが、
クロシュタットでは水兵たちが労働者とともに士官候補生からなる反革命軍を鎮圧し、
さらに1917年10月7日の10月革命では臨時政府がおかれていた冬宮に軽巡洋艦オーロラ号が砲撃を加えて革命の“のろし"を挙げた。
このように、 革命で大きな働きをしたことから海軍は、 帝政が廃止されると革命政府の中で高い地位を与えられた。
そして、 これら水兵たちを中心に、 レーニンに統合された国防省の中に海軍人民委員部を開設し、
1918年2月12日には「社会主義労農赤色艦隊」、 通称「赤色艦隊」を創立した。
1920年10月23日には、 レーニンによってバルチック艦隊の速やかな復興を要請する決議が起草され、
革命委員会で採択された。 しかし、 その後に生じた海軍部内の反革命騒動が海軍の地位を大きく下げ、
党指導部による大粛正が行われ6人当たり1人が海軍から追放された。 そして、
1921年から23年にかけて7800人のコムソモル(共産主義青年同盟員)が入隊し、
海軍要員の70パーセントがコムソモルのメンバーで占められ、 保有艦艇も『ジェーン年鑑(1924年版)』によれば、
戦艦2隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦15隻と潜水艦9隻に縮小され、 さらに高級幹部の粛正、
士官の追放や亡命などによる指揮官不足から、 艦隊の稼働率や練度が大幅に低下し、
この状態は1934年ころまで続いた。
さらに、党内部にはロシア革命の性格の大きな特徴であるパルチザン戦争の経験や教義から、
海軍戦略を導き出そうとするフルンゼ、 トハチェフスキーやウォロシロフなどが力を得て、
1925年には空母などを保有する攻勢的海軍を建設しようとした伝統派の海軍戦略家たちが非現実的であると非難された。
この結果、 党内や海軍部内にはレーニンの教義に忠実なプロレタリア的軍事思想がしだいに広がり、
1927年には党中央委員会付属のコミュニストアカデミー内に軍事セクションが誕生し、
戦略、 戦術や軍事組織など、 軍事問題の総てに関する教義がここで判定されることになった。
この結果、 革命時や内乱時のパルチザン戦争の経験やレーニンの教義がロシア海軍を支配し、
ロシア海軍の戦略や戦術が、 これらの経験や教義から引き出されるようになった。
この理論を強く推進したのがA・P・アレキサンドローフで、彼は共産党の指導方針に従い『制海権思想批判』を著し、
第1次大戦およびロシア革命の経験から独立的な海軍作戦を否定し、 陸軍との緊密な連携を強調した。
このように海軍のあらゆることがマルクスやレーニンの理論に基づき共産党の方針によって指導され、 さらに財政的余裕もなかったため、 1928年の5カ年計画ではマハン流の制海権思想を推進する伝統派が多量に追放された。 そして、 沿岸防備用の小型艦艇や機雷敷設艦艇および潜水艦、 それに航空機を整備するに止まり、 陸軍と協力して国土を守るというパルチザン的戦いー「小さな戦争」理論がロシア海軍を支配し、 潜水艦、 水上艦艇などすべての海軍兵力が「労働者の利益の防衛という単一目標を支援する」ことに統一された。
このことはソ連海軍が陸軍の忠実な補助者として、 地上部隊の沿岸翼側を援護する任務に屈服したことを意味した。 このため、 1932年初期には伝統的戦略を主張していたゼベル教授やペトロフ教授などが、 海軍戦略の教科書に「潜水艦より戦艦が海戦において主要な役割を果たす」と書いたことにより、 海軍総司令官オルロフから容赦のない攻撃を受け、 間違った理論を打ち立てたとして罰金刑に処せられた。 そして、 以後、 ロシア海軍には戦艦や巡洋艦は不要であり、 潜水艦、 哨戒艦艇、 高速駆逐艦などの軽快艦艇および航空部隊などから構成されるべきであるとされ、 1932年1月1日から開始された第2次5年計画では、 特に潜水艦の建造が重視され、 第2次大戦勃発当時には世界有数の潜水艦保有国となった。
3 スターリン時代の海軍
スターリンが政権を握るとスターリンの好みも手伝い、 ソ連海軍はマハンの理論と一致する大規模な均衡の取れた艦隊を整備する方向に動き始めた。 特に、 1930年代初期には粛正によってパルチザン戦争理論を支持する新興派が追放され、 主力艦を重視し均整の取れた海軍を建設すべきであるという伝統派が勢いを取り戻し、 沿岸海域や海峡入口の制海権を確保するためには戦艦や巡洋艦などの大型艦艇も必要であると、 従来型の大海軍主義が党幹部にも理解されるにいたった。 しかし、 スターリンの大海軍主義は不徹底なもので、 大型水上艦艇と同様に沿岸砲兵、 要塞、 高射砲隊、 海軍歩兵、 地上配備の海軍航空機および沿岸哨戒艇などのが最後の防衛戦には必要であるとの要塞艦隊思想と、 大型巡洋艦や駆逐艦も敵艦隊の攻勢を抑止するには必要であるとの現存艦隊思想が根底にあった。 しかし、 スペイン内乱で人民政府支援船舶が枢軸国側に撃沈されても派出する護衛艦艇がなく、 ドイツやイタリアがフランコ政権を支援するのを座視せざるを得ない挫折感を味わい、 さらに日独防共協定が成立するなどソ連包囲態勢が強まると、 スターリンは海軍力の必要性を痛感し、 第2次5カ年計画終期の1937年ころに至ると、 戦艦は航空機、 潜水艦、 それに軽快な水上部隊と共同で使用されるときには2次的価値があると認め、 1938年の第17回党大会では太平洋艦隊の潜水艦艦長セレズネフ中佐に、 ソ連沿岸の防衛には潜水艦だけでなく、 あらゆる種類の艦艇が必要であると言わせて大海軍建設の必要性をアピールさせ、 7月には党政治局が「航洋艦隊を創設すべきでる」との決議を採択させた。
そして、 1937年には潜水艦、 海軍航空機、 軽快水上艦艇のみならずチャパーェフ級巡洋艦(1万3000トン)の建造を開始し、
大型巡洋艦スヴェルドルフ級(1万6000トン)24隻の建造を計画するなど、
すでに航空時代を迎え列国海軍では高価な大型艦艇の限界が論じられている時に、
なぜ、 多数の大型巡洋艦を建造するのかと列国海軍を当惑させてもいた。 スターリンは経済力の向上や世界情勢、
特にドイツの軍備増強に対応し、 パルチザン戦術を推進し「小さな戦争論」を主張していた海軍総司令官のムクレヴィッチやオルロフ元帥を1937年に粛正した。
そして、 1939年4月1日に始まった第3次5年計画では、 戦艦3隻、 航空母艦1隻、
巡洋艦6隻を含む総数219隻の艦艇の建造を計画し、 1940年までにレニングラードで2隻、
コラエフスクで1隻の戦艦を起工させ、 アメリカから2隻、 できれば3隻の戦艦を建造するために必要な技術や資材を入手しようと、
1939年3月には海軍人民委員代理サイコフ提督を団長とする海軍使節団をワシントンに派遣した。
しかし、 大海軍建設は挫折した。 それはソ連の国力、 経済力や技術力が伴なわなかったことにもあったが、 スターリンが戦艦や重巡洋艦に固執し、 空母などの近代的艦艇の建造に反対したからでもあった。 なぜ、 スターリンが旧式の戦艦や巡洋艦などの大型艦艇の建造にこだわったのであろうか。 その理由については意見が別れるところであるが、 スターリンは威風堂々たる戦艦や巡洋艦が国民に自信と誇りを与え、さらに軍備増強中のドイツに侵略を思いとどまらせるという戦争抑止効果と、 抑止に失敗した場合にも沿岸防備兵力として利用できると考えたためであったとの説が現在では有力である。 しかし、 これは大きなもの、 例えばモスクワホテルやモスクワ大学、 大きすぎて吊り下げることができなかったクレムリンの世界一の釣り鐘などを作ったことに象徴される、 ロシア人特有の“巨大なもの"にあこがれる国民性が作用したのかもしれない。 しかし、 いずれにせよ、 フルチショフやゴルバチョフと同様に、 スターリンがソ連の工業力や技術力を過大に評価し、 国力を無視して大艦隊を建造しようとしたことにあったことは明確である。
第2次大戦が勃発すると、 ソ連はポーランドの半分を占領し、 フィンランドに侵入し国境地帯を譲渡させ、
次いでバルト3国を併合してバルト海北東部をソ連の湖とした。 しかし、 ドイツ海軍の機雷敷設や潜水艦によって、
バルト艦隊はフィンランド湾に閉塞され、 第2次大戦中にソ連海軍が実施した作戦としては機雷戦、
潜水艦戦、 航空戦、 陸戦協力程度であり、 北方艦隊の外洋作戦も連合国からの援助物資輸送船団を一時護衛した程度であった。
一方、 戦争が始まると主力艦の建造は戦車などの陸戦兵器を作るために総て中止され、
海軍は地上部隊の沿岸翼側防衛、 沿岸航行船舶の護衛、 主要都市の防衛、 包囲された陸上部隊に対する補給支援などの支援任務を命じられたが、
レニーグラード攻防戦では艦艇部隊の乗組員までもが陸上に上げられ、 歩兵の代用として投入されるなど、
純然たる陸上防衛兵力に転落してしまった。 このため、 ソ連の公刊戦史には第2次大戦中の海軍の功績として、
陸軍に協力し祖国防衛の大任を果たしたと記されているに過ぎない。 このように第2次大戦中のソ連海軍の行動が消極的で、
あれほど整備した世界第一の潜水艦部隊にも目立った戦功がないが、 これは「多方面で敵に対する戦力の優位を達成し、
作戦間、 敵兵力を第2義的方面に牽制する」という陸軍作戦を支援するという消極的な海軍戦略が主として陸軍元帥からなる軍中央部を支配していたためと思われる。
4 第2次大戦後の海軍
(1)低迷期の海軍
対日戦争への参戦直前の1945年7月22日の海軍記念日に、 スターリンは「ソ連赤色艦隊は世界の諸海洋へ行動し、
ソ連が後援する世界の赤色革命を支援するものである」と海軍力の国際共産主義上の意義を説き、
海軍の重要性を強調した。 これは大海軍を建設するという大海軍主義への転換命令であり、
戦後のスターリンの建艦計画は重巡洋艦、 大型駆逐艦、 魚雷艇、 潜水艦とあらゆる形の艦艇を網羅し、
均衡の取れた艦隊を建設しようとするもので、 それは1937年から1941年にソ連海軍を支配した伝統派戦略と変わるものではなかった。
第2次大戦が終わった時点で、 ソ連海軍は国産のキーロフ級重巡洋艦6隻、 チャパエフ級軽巡洋艦5隻、駆逐艦33隻、潜水艦77隻を保有していたが、戦後にはドイツやイタリヤから戦艦、
巡洋艦、 駆逐艦、 潜水艦および日本から駆逐艦6隻を賠償として入手し、 さらに、
スベルドルフ型巡洋艦24隻の建造を計画するなど大海軍建設を開始した。 しかし、
スターリンはパルチザン戦のドグマから小型快速艦艇や潜水艦の建造も重視し、
1950年から53年までに50隻のスコリー級駆逐艦(1030トン)を建造し、
また、 1951年から57年の僅か6年の間に、 ドイツのXXI型潜水艦の技術を取り入れたW型潜水艦(1030トン)を240隻も建造した。
ソ連海軍がパルチザン戦争理論やレーニンの教義にこだわり、 また論争が起きるのは、
イギリスやアメリカなどの海軍国では考えられないことであるが、 ソ連で常に問題となるのは海軍が陸軍の地上作戦の支援に必要な任務と無関係な任務を持つのか、
又は持たねばならぬのかという論争であった。 そして、 1946年にはレチェンコ提督が「海軍-ソビエット陸軍の忠実な助力者」という大の論文を書くなど、
陸軍に従属することがソ連海軍の指導者への栄進の要件でもあった。しかし、 1950年から53年の朝鮮戦争で、
アメリカ機動部隊の優越性を知らされたスターリンは、 アメリカ海軍に対抗するため数隻の空母の建造を認め、
1950年には革命後始めて海軍省を復活し、 1953年には海軍総司令官クズネツォフ元帥を解任し、
フルチショフやブレジネフと極めて親しい間柄にあり、 忠実な党人であるグルシュコフ海軍大将を抜擢して海相とし、
さらに海軍出身者とし始めて中央委員候補に取り立てた。 しかし、 1953年にスターリンが死亡し、短期間のマレンコフの時代を経て1955年にフルチショフが政権の座に着くと、旧式戦艦を含む375隻の艦艇が予備役に編入され、海軍航空隊および建造中の潜水艦も大幅に削減され、
再び独立の海軍省は廃止され海軍は陸軍元帥の支配する国防省に組み入れられてしまった。
スターリンが死亡した2年後の1955年には、 ウラジミルスキー提督がソ連海軍の近代化はまず、
NATOの空母に対抗するためミサイルを搭載した潜水艦、 水上艦艇、 航空機を整備することであると防衛戦略への転換を行い、
戦時にNATO海軍の優勢下に海外基地を維持することは困難でるとフィンランドのボルカラ基地や旅順基地が放棄された。
そして、 翌1956年に開かれた第20回党大会では、 国防相のジューコフ陸軍元帥が将来の海上戦闘は前大戦の場合とは比較にならないほど重大な意義を持つことを認識しなければならないと海軍の重要性を認めたが、
ジューコフ陸軍元帥が重視したのは海軍航空機のジェット化と潜水艦や軽快艦艇へのミサイル搭載や沿岸砲台のミサイル化であった。
この指示を受けゴルシュコフ総司令官は『国家の海洋力』を書き、 かって海軍の主要任務は敵艦隊を撃滅する対艦隊決戦が主で、
対上陸作戦は2次的であった。 しかし、 現在では領土の深部にまで向けられた対陸上作戦が海軍作戦の主体をなしている。
海上戦闘の主目的は敵海軍の戦略システムに対抗し、 わが陸上施設を防御し敵の攻撃を挫折させ、
できるだけ弱めることであると書いた。 これは海軍が潜水艦、 航空機、 軽快水上艦艇だけに制限される旧来の新興派戦略に戻ることを意味していた。
そして、 ソ連海軍の第1次的任務がアメリカやNATO海軍の攻撃空母やポラリス潜水艦をソ連本土を攻撃する前に撃破し、
ソ連本土に対して行われるであろう強襲上陸作戦を防衛し、 自国に必要な沿岸海上交通を守り、
陸軍の沿岸翼側を支援するという任務に変更されたのであった。
次にソ連海軍の近代化について見ると、 第2次大戦後にドイツから得たV-1, V-2ミサイルなどの技術を基礎に、 1957年には射程110−240キロの有翼対艦ミサイルSS−N−1ストレラをキルヂン級駆逐艦(3000トン)に搭載したのを皮切りに、58年にはクルップニー級駆逐艦(3650トン)、1962年にはキンダ級巡洋艦(4500トン)、カシン級駆逐艦(3750トン)と次々と対艦ミサイル搭載艦を登場させた。また、 潜水艦は1958年に原子力潜水艦を建造し、 同じ年に弾道ミサイルSS−N−4サークを開発しZ−V型潜水艦に搭載した。このミサイルは水上発射ができず、 射程も350海里に過ぎなかったが実戦配備された。続いて1958年には対艦ミサイルSS−Nー3シャドックを開発しW型潜水艦に装備しが、 1960年には水中発射型のSSーN−5サーブを開発しG− 型ディーゼル潜水艦に、1962年にはH− 型原子力潜水艦に搭載し、1967年にはSS−N−6−ソーフライを開発しY型原子力潜水艦に搭載した。
そして、 1967年までにはミサイルを装備した83隻、 原子力推進の13隻、
在来型218隻など総計385隻の潜水艦と、 艦対艦ミサイルを装備した駆逐艦24隻、
沿岸護衛艦300隻、 掃海艇300隻と魚雷艇450隻(うち100隻はミサイルを装備)を保有するに至った。
このようにソ連海軍は艦艇搭載ミサイルの分野ではアメリカ海軍を大きくリードし、
多数の潜水艦、 水上艦艇、 陸上配備の海軍航空兵力、 それに沿岸防御用のミサイルを開発し装備した。
しかし、 艦艇の原子力化はアメリカより4年遅れ、 アメリカのポーラリス型潜水艦のデッドコピーと言われるY型潜水艦が出現したのは1967年であり、
さらに電子兵器や対潜兵器の分野でも遅れ、 武器の信頼性にも欠けていた。このようにソ連海軍の最大の問題点は今も昔も変わらぬ技術的後進性と経済的貧困であり、
それに兵力整備や海軍政策が、 海軍を理解していない共産党中央委員や陸軍の指導者たちによって支配され、
艦隊の構成が常にバランスを欠き、西欧諸国の海軍と比べると、 海軍としての根本的な欠陥を持っていることであった。
すなわち、 ソ連海軍の兵力は膨大ではあるが、 本格的洋上打撃部隊もなければ、
陸上配備の航空機の威力圏外を行動する場合には制空権を維持できないという基本的な欠陥があった。
この欠陥が表面化したのが1962年のキューバ危機で、 アメリカを威嚇しようとしたフルチショフの冒険はアメリカ海軍の実力の前に頓挫させられ、
フルチショクの失脚を速めたのであった。
(2) 発展拡張期
フルチショフが登場した当時のアメリカの戦略は大量報復戦略から、 あらゆる脅威に対処する柔軟反応戦略に変わっていた。
フルシチョフの後をついだブレジネフ書記長はこれに応じて、 各軍種間の協力の重要性を強調し、
段階的抑止のための全面戦争から通常戦争、 ゲリラ戦争の各レベルにおいて相手の陣営より優位を目指す兵力整備を開始した。
そして、 1962年にはソコロフスキー元帥が『海軍戦略』で公式に「海軍の任務は...
独自の作戦としては敵艦隊撃破のための海上戦、 敵の海上交通の遮断、 自国の海上交通と沿岸地域を敵の海からの核攻撃に対して防御することである」と、
海軍作戦の独立性を公式に主張した。 しかし、 その後にこの任務が達成されたとしても、
アメリカの強大な海軍力は残るとの批判が相次ぎ、 さらに戦略核ミサイル搭載潜水艦や大型艦艇の整備が進むと、
1970年代後半には「戦略核潜水艦による戦略的攻撃」「共産主義の海外拡張」などの任務が新しく追加され、
ソ連海軍は沿岸海軍から外洋海軍へと大きく脱皮した。
ソコロスキーによるソ連海軍の任務
最初に示された任務 |
修正された任務 |
1 空母機動部隊の撃破 |
1 戦略核潜水艦による戦略的打撃 |
2 戦略核潜水艦の撃破 |
2 戦略核潜水艦の攻撃に対する防御 |
3 強襲上陸部隊の撃破 |
3 空母機動部隊の撃破
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5 ソヴィエット陸軍への支援 |
5 共産主義の海外拡張 |
6 ソビエト沿岸の防衛 |
6 ソビエト陸軍への支援 7 ソビエト沿岸の防衛
|
特に、 米ソの兵力が均衡するに至った1980年代に入ると、 平時における海軍力の利用が強調され、
1973年にはゴルシュコフ元帥から「戦時及び平時における海軍」との論文が『モルスコイ・スポルニク(海軍紀要)』誌に発表され、
この論説でゴルシュコフ元帥は第1次および第2次大戦はバランスのない海軍力が無用であったとの教訓を与えている。
わが海軍は核戦争から通常戦争、 さらに平時までの各種の任務に対応できる柔軟な対処能力を備えたバランスの取れた海軍でなければならない。
自由に使用できない海軍力をもたない国家は大国としての地位を保持できない。
わが国は共産主義諸国のリーダーとして戦時と平時の国家戦略を遂行する航洋艦隊が必要であると、
海軍の任務を平時と戦時の二つのカテゴリーに分けて海軍力の外交的役割やプレゼンスの意義を強調し、
平時の任務として次の3つの任務を規定した。
- ソビエトおよび他の社会主義国家の権益を保護する。
- 世界の社会主義と革命運動を支援する。
- 局地戦や紛争を抑止し、 有事の場合にはアメリカ海軍の機能を封止する。
(3)外洋海軍への脱皮
その後にスエズ動乱、 レバノン紛争でアメリカの第6艦隊に阻まれて親ソ政権を有効に支援できなかったソ連海軍は、 1963年に地中海艦隊を新編し、 キプロス紛争では多数の艦艇をエーゲ海に派出したのを皮切りに、 1967年7月に第3次中東紛争が勃発すると、 艦艇12隻ををエジプトに送って支援し、 この年には総計167隻を地中海に派遣した。 また、 1969年のリビア革命ではアメリカを上回る艦艇を地中海に展開し、 革命政権に無言の支援を与えて革命を成功させた。 一方、 アジアでは1968年1月にイギリスがスエズ以東から撤退を発表すると、 2月にはゴルシュコフ総司令官がインドを訪問し、 3月から7月にかけて太平洋艦隊の巡洋艦をインド、パキスタン、アデン、 ソマリア、 セイロン、 イラク、 イランに送った。 そして、 以後ソ連海軍のインド洋進出が始まり、 1968年には行動日数も1隻/日単位でアメリカ海軍に追いついたが、 5年後の1972年には8549隻/日と展開隻/日数はアメリカ海軍の6倍となった。
主要国のインド洋における艦艇の展開状況(1975年度)
米国 |
1529隻/日 |
英国 |
518隻/日 |
ソ連 |
8549隻/日 |
フランス |
4110隻/日 |
また、 1968年1月にはアメリカ海軍の情報収集艦プエブロを北朝鮮海軍が拿捕し、
アメリカ海軍が原子力空母エンタープライズなどの機動部隊を日本海に入れると、
それを上回る巡洋艦以下18隻を行動させてアメリカ艦隊を牽制したが、 翌69年にはアメリカの箱庭とも目されていたカリブ海にキンダ型巡洋艦など3隻を派遣した。
このようにソ連は海軍力に裏付けられた自信と「共産主義の海外拡張」という国家政策に基づき、
世界各地に大胆かつ果敢なプレゼンスを展開し、 ギニア、 コンゴ、 アンゴラ、 シエラレオーネなどのアフリカ西岸に艦隊を巡航させてソ連の威信を示し、
さらに1970年および1975年には世界的規模のオケアン海軍演習を行なってソ連海軍が外洋作戦能力を保有したことを世界に示した。
そして、 アメリカがベトナム戦争の後遺症から海外政策が消極的となるのに反比例して海外進出を増加させ、
ソマリア、 エチオピア、 アンゴラなどに軍事援助を与えて海軍基地を確保した。
1970年代にはソマリアのベルベラに港湾施設や燃料タンクを、 1972年には通信所を開設したが、
75年にはクレスタ型巡洋艦の修理が可能な8500トンの浮ドックを設置し、
1978年にはベトナムと友好協力条約を締結し、 軍事・経済援助と見返りにダナン、
カムラン湾などの基地利用権を得た。
(4)兵力増強と新型艦艇の建造
ソ連海軍はアメリカがベトナム戦争に深入りし多大の戦力を浪費している間に、 アメリカの空母機動部隊とポーラリス原潜の脅威を克服するため、 一段と広範な機動性と柔軟性を備えた艦隊戦力の増強に務め、 新型艦艇を続々と進水させ兵力を飛躍的に増大させた。 1973年以降、 Y型潜水艦の射程を3倍に延ばしたD型潜水艦を送り出し、1969年にはICBM数でアメリカを追い抜き、 1973年にはSLBM数でもアメリカを凌駕するに至り、1980年には見かけ上ではあったが艦艇数や総トン数がアメリカの740隻、 571・6万トンを抜いて2740隻、 577・1トンとアメリカ海軍を抜いた。 1967年にはクレスタ級巡洋艦(6140トン)、 ヘリコプター14機搭載のモスクワ級対潜空母(1万5000トン)、 1971年にはカーラ級巡洋艦(8200トン)を、 そして1975年にはキエフ級空母(3万5000トン)を戦列に加えた。 この増強状態を『ジェーン海軍年鑑』によって示せば次表の通りで、航空母艦は全く劣勢であるほか、量的にはすべての艦艇でアメリカ海軍を凌駕した。
米ソ海軍兵力の推移
艦種 |
19 |
68 |
19 |
79 |
国名 |
米国 |
ソ連 |
米国 |
ソ連 |
空母 |
23 |
0 |
13 |
1 |
戦艦 |
1 |
0 |
0 |
0 |
巡洋艦 |
32 |
19 |
27 |
37 |
駆逐艦・護衛艦 |
271 |
181 |
129 |
195 |
水上艦艇合計 |
304 |
200 |
156 |
232 |
原子力攻撃潜水艦 |
33 |
51 |
68 |
80 |
通常動力潜水艦 |
72 |
279 |
68 |
80 |
弾道ミサイル潜水艦 |
41 |
38 |
41 |
91 |
潜水艦合計 |
160 |
368 |
120 |
351 |
哨戒艦艇 |
9 |
150 |
3 |
50 |
揚陸艦艇 |
157 |
368 |
120 |
351 |
機雷敷設艦艇 |
84 |
220 |
3 |
265 |
戦闘用艦艇合計 |
739 |
1024 |
358 |
981 |
このように、 ソ連海軍はあらゆる艦艇を整備し大海軍を建設したが、 1976年−77年の『ミリタリ・バランス』によれば、 その保有量は大陸間弾道ミサイル潜水艦(水中発射弾道ミサイル、総数845基)78隻、攻撃用潜水艦は原子力推進の潜水艦40隻、ディーゼル潜水艦122隻で、これをアメリカ海軍と比較すると、 ソ連海軍がいかにパルチザン戦争時の体験や戦訓から奇襲を重視し、 奇襲兵器として潜水艦に期待していることが理解できるであろう。
米ソ潜水艦兵力の比較
巡航ミサイル搭載原子力潜水艦 44 0
巡航ミサイル搭載通常型潜水艦 21 0
弾道ミサイル搭載原子力潜水艦 58 41
弾道ミサイル搭載通常型潜水艦 20 0
原子力推進攻撃潜水艦 40 65
通常方攻撃潜水艦 126 10
6 ソ連邦崩壊後のロシア海軍

ゴルバチョフ時代の後半になると、 ソ連指導者はアフガニスタン侵攻の泥沼化、 過大な戦力増強による国家経済の歪み、 アメリカ戦略構想(SDI)の挑戦を受け、 アメリカやNATO、 東洋では海上自衛隊に対し力で対決することがもはや経済的、 技術的に困難であり、 アメリカやこれら自由圏諸国と対抗する軍備を維持することは国力を極度に疲弊、 弱体化させかねないとの危機感を抱かせた。 そして、 ゴルバチョフは、 これまでの力の対決に見切りをつけ、 妥当な範囲で軍縮に応じた。しかし、 遅かった。1992年12月にはこの巨大な海軍を支えて来た国家そのものが崩壊し、 独立国家共同体(CIS)が成立した。 しかし、 これらの構成国中にバルチック海に面した国はなかった。
そして、それまで東ドイツ、 ポーランド、 ラトビヤやエストニアなどに配備されていた艦艇はカリンングラード(司令部)、
ペトロスブルグ、 クロンシュタットなどに引き上げたが、 カスピ艦隊の3分の1はアゼルバイジャン共和国に引き渡された。
一方、 最新鋭の艦艇を多数保有する黒海艦隊はでは、 昨年2月にウクライナ共和国ががロシア共和国が管理していた旧ソ連海軍の遊休艦を占拠するなどの事件はあったが、1995年までロシア、
ウクライナ、 ジョルジア3国で共同管理することが長い困難な交渉の後に決せられた。
しかし、現在でもある艦は帝政時代のアンドレーエフ旗を、 ある艦はソ連邦の海軍旗を掲げていると報じられている。このようにソ連海軍はソ連邦構成の共和国の分離独立により艦隊予算は危機的削減を受け、
基地基盤の弱体化、 補給や整備の停滞、 士気規律の低下、 兵員充足および兵員資質の低下が進み、
ソ連海軍の即応性が壊滅的打撃を受け、一部専門家の間では「ソ連海軍は死滅した」とまで言われている。
艦艇のスクラップも急速で、 1990年から92年の2年間で戦略核ミサイル搭載原子力潜水艦7隻、攻撃級原子力潜水艦21隻、原子力潜水艦11隻、 在来型潜水艦28隻、 クレスタ級ミサイル巡洋艦5隻、キンダ級巡洋艦1隻、カシン級駆逐艦8隻、リガ級10隻、ミルカ級およびペチャ級15隻、クリバック級1隻、グリシャ級3隻がスクラップされた。 しかし、 ソ連海軍の低落と技術的欠陥を何よりも表徴しているのが1983年に完成したキーロフ級巡洋戦艦(2万4000トン)のフルンゼ、 キーロフ、 カリニンの3隻が原子炉の不具合から予備役に回されスクラップされるということであろう。 しかし、 留意すべきことは、 『ジェーン年鑑』1994年-95年によれば、 ソ連海軍は現在でも海軍航空機1万5000機を有し、1994年から95年にかけて弾道ミサイル原子力潜水艦オスカー級1隻、 攻撃潜水艦アクラ級を1隻から2隻、 同じく攻撃型潜水艦シエラー級1隻、キロ級1隻から2隻を建造し、クズネトフ級空母1隻を艤装中であり、スベルメニー級2隻とウダロイ 型巡洋艦1隻、グリシャ級とゲパルド級護衛艦を建造中で、 未だ次ぎに示す世界第2位の海軍力を保有していることであろう。
ソ連海軍の現有兵力(1994年)
艦種 |
|
|
|
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN) |
54 |
ミサイル搭載コルベット |
66 |
攻撃型ミサイル搭載原子力潜水艦(SSGN) |
30 |
レーダーピケット艦 |
5 |
攻撃型通常潜水艦(SSG) |
7 |
ミサイル装備高速艇 |
33 |
攻撃型通常潜水艦(SS) |
69 |
ハイドルホィール・ミサイル艇 |
17 |
補助・訓練用潜水艦(SSA) |
16 |
高速攻撃艇 |
148 |
大型空母(CV) |
4 |
高速攻撃艇(ハイドホイール) |
44 |
ヘリコプター母艦 |
1 |
沿岸哨戒艇 |
33 |
ミサイル原子力潜水艦(CGN) |
3 |
河川哨戒艇 |
148 |
ミサイル搭載巡洋艦(CG) |
20 |
機雷敷設艦 |
3 |
ミサイル搭載駆逐艦(DDG) |
36 |
外洋掃海艇 |
75 |
ミサイル搭載フリゲート艦(FFG) |
32 |
沿岸掃海艇 |
180 |
フリゲート艦(FF) |
109 |
揚陸艦(LPD) |
3 |
補給・修理艦 |
79 |
タンク揚陸艦LST |
40 |
情報収集艦 |
52(6) |
中型揚陸艦(LSM) |
32 |
調査船 |
126 |
揚陸艇(ホーバークラフト) |
62 |
洋上補給艦 |
45 |
|
|
おわりに
昨年7月に極東ロシアを訪れたグロモフ海軍総司令官は近く太平洋艦隊を大幅に削減すると発言した。 しかし、 本年3月にウラジオストックを訪れたコズイレフ外相は太平洋艦隊将兵を前に、 「強大なロシアには強大な海軍が必要であり、 世界の海洋でのプレゼンスは国際情勢の安定に寄与する」と檄を飛ばした。 この二つの軍事指導者と政治指導者の発言を、 いかに解釈すべきであろうか。 ロシアの今後を予測することは難しい。 しかし、 その未来を歴史に求めれば、 ロシア海軍の歴史は戦艦エカテリーナ二世が1917年の革命後にスヴォボードアナヤ・ロシア(自由ロシア)と改名し、 さらに10月革命後の対独講和条約でドイツに引き渡されることになると、 それを不満とする自国の駆逐艦に撃沈された悲しい悲惨な歴史に彩られ、 遠くピョトール大帝の時代から近くはエリチンの現代まで、 ロシア海軍は拡張と低落を繰り返して来た。

また、 ロシア人は過去に常に強国により国土を蹂躙され、 東方のジンギスカーンの子孫の冷酷な圧政を長期間受けただけでなく、
ジンギスカーンが去るとスエーデンのグスタフ王、 フランスのナポレオン、 そして、
革命の最中には日本陸軍、 第2次世界大戦ではヒットラーに国土を蹂躙された。
この長い被征服下の屈折した意識、 被害者意識と対外警戒心が複雑な国民性を育てたが、
特に強者には従わざるを得なかった弱者の歴史体験から、 ロシア人は徹底した力の理論の崇拝者であり、
「力は正義」や強者崇拝の感情が極めて強い人種であり、 唯我独尊のメシア意識を底流とした拡張政策と聖戦意識を持っている。
従って、 このロシア人の国民性が変わらぬ限り、 経済が安定すればロシア国民は再び有数の軍事大国への道を選び、
再び大海軍を建設するであろうと思われる。
ロシア海軍の歴史をみてもクリミヤ戦争や日露戦争、 革命などにより低落したことはあったが、
ロシア海軍は常に不死鳥のように蘇り世界有数の海軍へと再建されてきた。 しかし、
ソ連海軍の問題点は輝かしい戦勝の記録がなく、 また、 マハンが『海上権力史論』で海洋国家の必要条件として指摘する「地理的位置」「自然的構造」「領土の広さ」「人口」「政府の性質」「国民の性質」中、
「地理的位置」に恵まれず艦隊が太平洋、 黒海、 バルト海、 北洋と4つに分断され、
さらに外洋への出口がすべて押さえられていることであり、 「国民の性質」が大陸民族で海軍への理解に欠け、
柔軟な思考が要求される海軍を理解できないことである。 しかし、 ロシア海軍の最も大きな問題は「政府の性質」という国家指導者が海軍を知らず、
それらの指導者によって海軍が建設され運用されてきたことではないであろうか。
参考文献
:『世界の艦船ーソ連海軍』第236号−特集・1977年1月
『世界の艦船ーソ連海軍戦後史』第362号ー特集・1986年3月
ロバート・W・ヘリック『ソ連海軍の戦略』(時事通信社、 1960年
Jane's Fighting Ships