建艦思想に見る海上防衛論
            ―ドイツ海軍

はじめに

ドイツ海軍の歴史には潜水艦戦を戦った闘魂やエムデン艦長の活躍なども印象に残るが、一方、第1次大戦時のシュペー艦隊の最後や敗戦後の自沈、 第2次大戦での劣勢下に健闘した戦艦ビスマルクの沈没などの悲劇的な最後が哀愁をもって思い出され、また、 ドイツ海軍の艦艇としてはUボートとのイメージを持っ人が多い。 しかし、ドイツ海軍はド級戦艦時代には世界第2位の戦艦保有海軍であり、 しかもその戦艦をどこの国より積極的に使用したのもドイツ海軍であった。また、 ドイツ海軍は世界最強のイギリス海軍を対象に建艦競争を行い単に量のみではなく、質的競争をともないイギリスの巡洋戦艦インビンシブルの誕生がドイツにフォン・ディ・タンを進水させたように、軍艦の建造は仮想敵国の軍艦や海軍戦略、 特に海軍戦術などを極めて強く反映し互いに相手があって発展していった。以下、 本論ではドイツ海軍がどのような戦略思想で艦艇を整備して、 どのように戦い、さらに、 なぜ、このような悲劇が生まれたの背景、 陸軍国家ドイツの海軍の地位、体質などに光をあてて、どのような艦艇を建造したかについて書いてみたい。

黎明期のドイツ海軍

 固有の民族、文化、言語を共有してはいたが、 多数の君侯や都市から構成され分立統合を繰り返してきたドイツを一つの国家として、その歴史をたどることは複雑であるだけでなく、 多くの紙面を割かなければならない。そこで本論ではドイツが近代国家として誕生そたプロイセン王国海軍から始めたい。
 ドイツ海軍の起源は1815年、 プロイセンがナポレオン戦争後のヨーロッパの新秩序を回復するウィーン会議において、35の主権君主と主権を持った4つの自由都市が連邦国家プロイセンを構成した時に、スエーデンからオーデル川以東の領土の割譲を受け、 シュトラールズンドにあったスエーデンの艦艇6隻(60トンの小型帆船)を入手した時に創設された。しかし、 海に面した領土が少なく国の安全が陸上の国境線で決する時代には海軍の地位は低く、また、 さらに農業国のドイツには産業も発達していなかった。 このため海軍本部は陸軍省の外局に置かれ、海軍が脚光を浴びたのは帝国主義時代に入ったヴィルヘルム時代からであった。

 1861年1月2日にはヴィルヘルムが即位し、 ビスマルクを首相に任命し1871年1月1日に第2ドイツ帝国が成立すると、従来の北ドイツ連邦海軍をイギリスのローヤルネイビーにならってカイザリッヒ・マリーネ(Kaiserliche Marine 皇帝の海軍)と名称を変え、 同時に海軍本部が陸軍省から独立させ、 キールの東海総監部とヴィルヘルスハーフェンの北海総監部からなる地方組織を確立し、キール軍港の整備を始め1873年に装甲フリゲート以下の艦艇からなる艦隊創設計画を立案し、汽走装甲コルベット艦ザクセン(Sachsen)級7635トン5隻の建造予算を海軍は要求したが、陸軍軍備が重視され5隻分の予算の獲得に8年の歳月を要した。 しかも当時のプロイセンの工業力は低く、列国では装甲艦の建造も始まるがドイツにはその能力がなく、 主力艦などはイギリスやフランスに発注されていた。

 しかし、 ヨーロッパ諸国の植民地獲得が進むとドイツも強引にこの波に便乗し、植民地の獲得に乗り出した。1884年にはアフリカのギアナ湾に臨むトーゴーとカメルーンなどのアフリカ南西部に艦艇が派遣され、これらの地方に少数の陸上部隊と警備艦が常駐しドイツの植民地であることを宣言し、さらにニューギニア北東部(カイザー・ウイルヘルム・ランド)、ビスマルク諸島、ブーゲンビル島などの領有を宣言した。 1885年にはドイツ軍艦はアフリカ東岸に派遣されザンジバル島、ウィーツ、 ダル・エス・サラームなどを占領し、 東アフリカ植民地獲得の第一歩を印し、さらにマーシャル諸島の領有を宣言した。 その後もドイツの海外進出の勢いは衰えず、1888年にはナウル島、 1899年にはマリアナ諸島とカロリン諸島をイスパニアから購入し、サモア諸島の領有を宣言した。 また、 1898年には日本に対する三国干渉の余波を借り宣教師が殺害されたことを口実に膠州湾(青島)を租借し、ここを太平洋海域経営の基地とした。

2 ドイツ帝国海軍

 1888年に即位したウイルヘルム2世は若いころから海軍への関心が高く、マハンの海軍戦略を読み、 海上雄飛の大望を抱き大艦隊の建造に着手し、 また当時の仮想敵国であったフランスとロシアと戦う場合の艦隊の移動を考慮して1886年から独仏関係が悪化したため、翌1885年の議会では陸軍増強案とキール運河掘削を認めさせ、 1888年にはキール運河防備用の3500トンの海防装甲艦ジークフリート(Siegfried)の建設を国会で可決させた。この運河は1895年に完成し、 1914年には拡張工事が完成するが、この運河の開通により従来二分されていたドイツ艦隊がデンマークの意向に左右されることなく、艦隊をバルト海と北海に自由に移動できることになりドイツ海軍に計り知れない有利をもたらした。

 一方、 海軍はそれまでの沿岸防備の艦艇から洋上を捜索し敵の艦隊を撃破する航洋型装甲艦、戦艦に相当するブランデンブルグ(Brandenburg)の設計を開始し、 1890年には4隻分の予算を認めさせ、さらに1893年までにブランデンブルグ型追加7隻分の予算も成立した。  しかし、 海軍の国防上の地位は低く陸軍の支援軍種としか見られず、 その後の兵力整備目標は単にフランス海軍の北方艦隊、ロシア海軍のバルチック艦隊との均衡上から考慮され、 1897年までに老朽装甲艦の代替えとしてカイザー・フリードリッヒ3世(Kaiser Friedrich  )級3隻の建造が認められたに過ぎなかった。 このように海軍艦艇の建造が少なかったのは建艦予算が議会の政治的取引に利用さえていたためであった。

 また、 ドイツ海軍部内には建艦方針をめぐり陸軍国家であるドイツは充分な建艦予算を得ることができなかったので、高速の巡洋艦を整備して通商破壊作戦を重視すべきであるとの主張と有効な同盟を締結するにはある程度の強力な海軍を持たねばならないという説で、前者の主張は海軍大臣のホルマン(Freidrich Hollmann)少将が代表し、 後者の意見はテルピッツ(Alfred von Terpitz)少将が代表して論争が続いていた。 ウイルヘルム2世から抜擢され、当時はドイツの東洋への進出も始まり海軍熱が高まり、 さらに膠州湾占領やその租借問題が重なったこともあり、1897年9月には当時青島に配備されていた東洋派遣艦隊司令長官のテルピッツ少将が抜擢されて海軍大臣に任命された。

 海軍大臣に任命されたテルピッツ少将は従来建艦計画が政争の取引とされ、 建艦実績が大きく低下するのを改善するため、長期計画をあらかじめ法律として制定し、 毎年国会の承認を得ることなく建艦できる「艦隊法」を議会に提出し議会は7年継続費を6年に短縮し、巡洋艦などの一部を削減しただけで可決し、 法案は1898年4月に公布された。 艦隊法は艦隊および海外警備艦艇の定数、 軍人の定員などを規定したもので、戦艦の定数は常備艦隊旗艦として1隻、 2個戦隊16隻、 予備2隻の合計19隻、有効艦齢を25年とし、 経過後は新造艦をもって代替えすることとし、 その経費は4億890万マルク、その勢力は大海軍国を目指す意欲的なもので次の通りであった。

  主力部隊   艦隊旗艦  戦艦1隻、 2個戦艦戦隊(戦艦各隊8隻合計16隻)
  偵察部隊   大型巡   洋艦6隻、 軽巡洋艦16隻
  海外部隊   大型巡   洋艦3隻、 軽巡洋艦10隻
  予備艦    戦艦2隻、 大型巡洋艦3隻、 軽巡洋艦4隻

 海軍大臣のフォン・テルピッツの主張はドイツがイギリスに対抗して海軍を整備することは経済的に不可能である。しかし、 世界的制海力を保持するイギリス海軍と戦い、 その制海力をイギリスが危険と感じる程度の海軍を保有することは可能であるとして、イギリス海軍がドイツの海軍に対して、 イギリスの制海権の維持に危険を感じさせるほどの艦隊を保有すれば、ドイツと全面的に制海権を争うような危険はあえて犯さないであろうとの「危険艦隊思想」で建艦を進めた。

 これは全世界的な海洋力に欠ける大陸国家独特の思想で、 その根底には戦わず艦隊を保有する現存艦隊思想でもあろう。 艦隊法が通過した2年後の1900年6月に、 さらに艦隊法は改定され「第2次艦隊法」が通過した。その兵力は次の通りで戦艦の定数は常備艦隊が旗艦2隻と4個戦隊(各隊8隻、合計32隻)、 予備が4隻の計38隻で、 1905年度までを第1期とし、 第1期計画が完成すれば2等、3等戦艦を含めて38隻が揃い、 最終年の1917年度艦が完成すれば、 新艦で構成された38隻の戦艦が完成することになっていた。

   主力部隊       艦隊旗艦(戦艦)  2隻、 4個戦艦戦隊(各隊8隻、 合計32隻)
   偵察部隊       大型巡洋艦    8隻、 軽巡洋艦  24隻
   海外派遣部隊    大型巡洋艦    3隻、 軽巡洋艦  10隻
   予備          戦艦         4隻 、大型巡洋艦 3隻、 軽巡洋艦 4隻
 
 このようにドイツが海軍を重視したのはウイルヘルム2世が海外植民地の争奪に熱意を燃やし、少しでも紛争が起きれば艦艇を派遣して「砲艦外交」を展開したからであった。 このドイツの海外進出の増大や大海軍の建設にともない、仮想敵国がフランスやロシアからイギリスに変わり、 第2次建艦法は明らかにイギリス海軍を対象に戦略構想を転換したことを印象付け、イギリスの対独警戒心を高めた。 そしてイギリスは1905年に副砲を全部廃止し同一線上に大口径砲を装備したドレドノート級戦艦を進水させ、それまでの戦艦を全て旧式とした。 しかし、 それはイギリスの戦艦も同様に旧式化したことを意味し、ここにイギリスもドイツと同じスタート台に立ち建艦競争が開始されたのであった。

 ドイツ海軍が前ド級時代を迎えた最初に仮想敵国としたのはフランスであり、 このためドイツ海軍の艦型や戦術はフランス海軍を仮想敵国として兵力整備を行って来た。しかし、 1900年前後からイギリス海軍を意識し、 イギリス海軍に対抗し、 イギリス海軍の様式を参考とするようになった。

 1907年2月にはイギリスの大艦隊(Grand Fleet)に対抗し、 呼称を大海艦隊(Hocheeflotte-Hgh Sea Fleet)と改め、 初代司令長官にはウイルヘルム2世の弟のプリンツ・ハイリッヒ(Prinz Heinrich von Preussen)が任命された。 そして、 1907年には1911年までの毎年、戦艦巡洋戦艦4隻を建造すると同時に戦艦の艦齢を20年に短縮する法案を提出し、厳しい財政的危機にもかかわらず1908年3月に成立させた。 この建艦競争に1912年にイギリスが軍備制限を提案したがドイツは、その都度法律を盾に反対し、 建艦競争は次第に白熱かした。 さらに1912年6月の第3次艦隊法の改定では編成を次の通りとし、これによりドイツの戦艦定数は旗艦1隻と5個戦隊の合計41隻となった。

    常備艦隊     艦隊旗艦(戦艦1隻)  3個戦艦戦隊(各隊8隻 24隻)
                大型巡洋艦 8隻、 軽巡洋艦 18隻
    予備艦隊     2個戦艦戦隊(各隊8隻)、 大型巡洋艦 4隻、 軽巡洋艦 12隻
    海外派遣部隊  大型巡洋艦  8隻、 軽巡洋艦 10隻

 ド級艦の建造にドイツは若干の遅れを取ったが、 1909年以降、 ナッサウ(Nassau)級以下の戦艦(28センチ主砲12門1万8873トン)やフォン・デア・タン(Von der Tann)級の巡洋戦艦も艦隊に配属され、ここにドイツ海軍はフランスを抜きイギリスに次いで世界第2位の海軍国になり、イギリスとの建艦競争はさらに激化していった。

(1)主力艦隊による海戦
 
 第1次大戦が始まるとドイツ海軍は外洋艦隊(司令官インゲノール(Friedrich von Ingenohl中将)をウィルヘルムスハーヘンに置いてイギリス海軍に備え、 旧式装甲巡洋艦をキールに配備してロシア海軍に備えた。開戦時のドイツド級戦艦は14隻で、 開戦後にさらに5隻を加え、 巡洋戦艦は4隻で開戦後に3隻が就役した。これにたいしてイギリス海軍はド級・超ド級戦艦20隻、 巡洋戦艦9隻であったが、開戦後さらに戦艦15隻、 巡洋戦艦3隻を加えた。

  第1次世界大戦開戦時(1914年8月)の兵力比較 
  ( )内は建造中 (『近世帝国海軍史要』867-868)
英国 ドイツ フランス ロシア 日本
   ド級戦艦 21(13) 13(7) 8(10) 11(7) 4(2)
旧式戦艦   28  20   12   6  11
巡洋戦艦  9(1)  4(4)    0   0 2(2)
装甲巡洋艦   38   9    18   6  13
軽巡洋艦 72(17) 29(6)   12  8(8)  13
 駆逐艦 18(20) 41(10) 83(4) 50(36) 50(1)
 潜水艦 76(20) 27(12) 70(23) 25(18)  14

 イギリス海軍より劣勢なドイツ海軍は艦隊主力の決戦の前に水雷艇、 潜水艇、機雷などでイギリス艦隊の勢力を漸減し、 勢力が互角となった時点で艦隊決戦を挑もうと計画していた。しかし、 ドイツ海軍は皇帝を初めとする艦隊保全主義者に検束され根拠地を動くことは少なかった。英独の間には開戦直後の1914年8月の巡洋艦以下の部隊によるヘリゴランド海戦、巡洋戦艦以下の艦艇による翌年1月のドッカーバンクの海戦などがあったが、 最大の海戦は5月のスカラゲラック海戦(イギリス側はジュットランド沖海戦と呼称)であり、この海戦でドイツ海軍は戦艦1隻、 巡洋戦艦1隻、 軽巡洋艦4隻、 駆逐艦5隻、6万2233トン、 戦死者3039名、 イギリス海軍が巡洋戦艦3隻、 装甲巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、 11万1980トン、 戦死者6784名で、 沈没艦艇の排水量や戦死者はドイツ海軍の2倍であり戦術的にはドイツ海軍の勝利であった。

 しかし、 このジェットランド沖の海戦後に皇帝や首相、 軍令部長などから講和会議の際の政治的手段として艦隊を保全し、さらには戦後の発言力に役立たせたいとの希望から重大な損害を招く惧れのある積極的作戦が禁じられたためドイツ海軍は再び出動することはなく、制海権は完全にイギリス海軍の手中に移り、 戦略的にはイギリスの勝利であった。このようにドイツ海軍主力艦隊の作戦は開戦直後の奇襲、 ジャットランド海戦時の好機を失った反転帰投と、ドイツ海軍の作戦は消極的なものであった。

 このように劣勢なドイツ海軍が戦術的勝利を得ることができたのは、 ドイツ民族の細密な特徴であろうか、優秀な射撃指揮装置と高練度による高命中率にもあった。 ドイツ海軍の巡洋戦艦が攻撃力をやや犠牲にしても防御区画を設置し、水線下にも装甲を施すなど防御を重視していた。 すなわち、 戦艦の出現以来、 英仏海軍の艦型がしだいに大きくなって行ったが、ドイツ海軍はキール運河や港湾、 ドックなどの水深上の制約から、 また、 戦場が基地に比較的近いバルト海や北海であったことなどから艦型も列国海軍より小型であり、このため主砲も列国海軍で30・5センチ砲が一般化しても28センチ砲を搭載して来た。

 そして、 ドイツ海軍はインヴィンシブルに対抗するため、 1910年に巡洋戦艦フォン・デァ・タン、モロトケ、 そしてザイドリッツを建造したが、 これら巡洋戦艦はイギリスの30・5センチ砲に対して28センチ砲しか搭載していなかった。また、 その後に建造された巡洋戦艦も同様で、 主砲の口径は30・5センチに止め水線部分の装甲を203ミリから305ミリにするなど防御を重視していた。一方、 イギリス海軍の「見敵必戦」の伝統に基づく攻撃重視、 防御軽視の建艦上の欠陥にもあった。

 イギリス海軍は攻撃を重視し大口径砲を装備し、 砲戦運動を有利に導くために高速力を要望し、装甲は2の次とされていた。 そして、 この両海軍の装備上の相違がイギリス海軍に巡洋艦戦艦3隻沈没の悲劇を招いたのであった。 不振な水上部隊に比べて善戦したのは海外所在の巡洋艦部隊で、 巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウ(Breslau)は突然の開戦で帰国できなくなると、イスタンブールに逃げ込みトルコをドイツ側に立って参戦させることに成功した。また、青島所在のシュペー(Maximilian von Spee)中将の指揮するアジア戦隊(装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻基幹)は太平洋上の連合国領島嶼を襲い、 地理のコロネル沖ではイギリス巡洋艦戦隊を撃破し、12月にフォークランド海戦で巡洋戦艦2隻を基幹とするイギリス艦隊に撃破されるまで4カ月間にわたって太平洋の海上交通を混乱させた。

 さらに、 この部隊からインド洋に派出された軽巡洋艦エムデン(Emuden)は70日間の行動で16隻、7万360トンを撃沈し5隻を拿捕するなどの戦果を上げたが、 特にエムデン艦長の大胆機敏な、それでいて敵に対する武士動的情愛を示し世人を感嘆させた。 これら部隊が1914年年末までに姿を消すと1915年以降は本国から封鎖を突破した普通の商船に武器を搭載した仮想巡洋艦による海上交通破壊作戦を行い大きな効果を上げた。

(3)潜水艦による海上封鎖作戦

 ドイツ海軍の戦史を飾るのはUボートが繰り広げた大規模な通商破壊作戦であったが、ドイツ潜水艦部隊は決して重視されていなかった。 ドイツ海軍が最初に潜水艦を建造したのは1850年で、バイエルン生まれの陸軍の下士官の技術者バウアー(Wilhelm Bauer)が、 デンマーク艦隊に封鎖されるとこれら艦隊に反撃を加えるためのに建造されたが、この潜航艇は試験潜航で沈没してしまった。 その後も海軍大臣のティルピツツがドイツの沿岸地形や港湾の位置などからドイツ防衛に潜水艦は不要であると採用に反対し、ドイツ海軍もガソリン機関を動力にしている点に危険を感じ、 ドイツ海軍が潜水艦の建造はイギリスやフランス海軍より遅れ、正式に建造を計画したのは1904年で、 ドイツ海軍が潜水艦を建造したのは1906年となってしまった。ドイツ最初の潜水艦は水上排水量238トンの潜航深度30メートルのゲルマニア型潜水艦U-1号であったが、このタイプの潜水艦は専ら各種試験および訓練に使用されたのみであった。 このため第1次大戦が始まったときには29隻しか保有していなかった。しかも、 作戦任務に付ける潜水艦は19隻に過ぎなかった。

 しかし、 ドイツ海軍は海戦当初から潜水艦を積極的に使用し、 開戦直後に10隻の潜水艦を北海に出撃させ、9月にはイギリス軽巡洋艦を、 続いて22日には哨戒中の装甲巡洋艦3隻を撃沈し、これまで潜水艦の実戦における効果に関して議論のあった潜水艦の価値を列国海軍に確認させたばかりでなく、海戦直後の8月22日には潜水艦が敷設した機雷により2隻の商船を撃沈するなどドイツ潜水艦の存在を世界に示し、潜水艦によるイギリス本土を封鎖する作戦を展開した。 しかし、 1915年5月にイギリス商船ルシタニア号(3万1555トン)を撃沈し、乗船中のアメリカ人118名を含む1198人が溺死すると、 アメリカ政府はドイツ政府に今後必要な一切の処置を取ることを伝えた。

 この強い抗議を受けるとドイツ政府部内は、 これ以上中立国の反感を買うべきではないとする首相や外相と、中立国の船舶の攻撃を中止するのならば、 潜水艦戦を中止しなければならないとの海軍当局とに意見は別れた。1915年2月4日に開始されたイギリス周辺海域での潜水艦による通商破壊作戦は中止された。
ドイツが無制限潜水艦戦を開始するのはこれで遅れ、 そして勝機を失った。 当時(1916年1月)のドイツ潜水艦の勢力はU型25隻、UB・UC型43隻が就役し、さらにU型52隻、UBまたはUC型89隻が就役寸前であり、3カ月以後、毎月10隻の割りで年内には建造中の全潜水艦部が就役する予定であった。ドイツ潜水艦勢力は1917年には106隻、3月には120隻に達し、 2月には54万トン、 3月には57万トン、 4月には78万トンを撃沈しイギリスに大きな衝撃を与えた。しかし、 それ以後イギリスの対潜防護が進展し5月には59万トン、 11月には28万8000トンに下がった。

 一方、 これに比例して潜水艦の被害が増大し、 無制限潜水艦戦を開始した6カ月間の損害は平均4隻に過ぎなかったが、9月には11隻、 10月に8隻、 11月には9隻、 12月には8隻に及んだ。 このようにドイツは第1次大戦28隻しか保有していなかった潜水艦を大戦中には343隻を就役させ、198隻を失ったが、 連合国商船5554隻、 1219万1996トンを沈め、イギリスを敗北寸前にまで追い詰めた。 しかし、 このドイツ首相や皇帝の不決断で潜水艦戦の実施が遅れている間に、イギリスは対潜兵備を充実させ、 1916年末には980隻の対潜艦艇をイギリス海峡および北海南部に配備したが、さらに1916年末にはトロール船及び掃海艇620隻、 駆逐艦65隻、 スループ艦34隻を建造する計画を進めていた。

 無制限潜水艦で5カ月でイギリスを屈服させることはできなかった。 アメリカの強い抗議を受けて宣言を撤回し、戦時法規の捕獲規定を適用する苦しい戦いを1917年1月末まで続けたが、 2月1日には再び無制限潜水艦戦を宣言した。これにより効果が上がりイギリスは苦境に追い込んだが、 最後は船団護衛の適用など連合国が勝利した。この無差別無警告攻撃がアメリカをイギリス側に立って参戦させてしまった。

 艦隊保全主義を取ったドイツ艦隊内部には共産主義が浸透し、 厭戦と軍規の低下が進展し1918年10月、出動を命じられたヴィルヘルムハーヘン在泊の艦隊で水兵の氾濫が起こり、 この氾濫はキールにも飛び火し、ついにドイツ共和国の成立が宣言され、 11月にはウイルヘルム2世がオランダに亡命し、ドイツ帝国はここに消滅し、 11月18日には休戦条約が調印され、た、 終戦を迎えたときの残存艦隊はド級戦艦19隻、巡洋戦艦5隻、 軽巡洋艦21隻、 駆逐艦61隻、 水雷艇50隻を保有していたが、このうち移動可能なド級戦艦10隻、 巡洋戦艦5隻、 軽巡洋艦7隻、 駆逐艦49隻と潜水艦158隻がイギリスに抑留されることになり、1919年1月1日までに114隻が集められたが、 その種類と艦艇数は次の通りであった。

 ドイツ海軍の末路はこのようにあわれなものであったが、 これはドイツ海軍が海軍を知らない指導者によって運用された悲劇であった。これに関してフランス海軍の戦史研究科のアドルフ・ローランは「海戦史要約』において強大な陸軍を要するドイツ海軍は、海軍を「必要に応じ沿岸の陸軍作戦を援助すべき助手、 若しくは外交折衝の場合に利用すべき力の一要素に過ぎざるものとなし」ていたと批判しているが、特にその最たるものが無制限潜水艦戦の採否を巡る国家指導者の躊躇逡巡であり、皇帝が軍部と政府閣僚の間で決心が振れたことにあった。

  この指導力の不足が革命、 崩壊、 抑留、自沈というドイツ海軍の悲惨な最期を迎えさせたのであった。
その後平和会議でこれら艦艇が戦勝国に配分されることが明らかになると、 ドイツ政府は1919年6月21日に自沈命令を発し、これら艦艇は一斉に自沈した。 これはドイツ国家指導者のみならず、 ドイツの国防は地上戦にあり、無制限潜水艦作戦の同意を陸軍総参謀長が陸軍作戦の推移をみて同意した時に決定されたことが示すように、海軍が陸軍の支援兵種としての価値しか理解されていなかったことにあった。 また、時の総理のベートマン・ホルヴェークの海軍に対する知識は全く無知で、 艦隊の使用、潜水艦戦の実施について常に海軍当局の意見に反対し、 さらに国際社会を利用した「潜水艦戦争は国際法違反であり人道上許されない海賊行為である」との巧妙なイギリスの国際世論誘導に対応できなかったことにあった。

 ドイツ海軍にはエムデン艦長や潜水艦艦長には勇者が多く、 不屈の闘志を持って良く戦い、その闘志や技能は極めて高く、 制限された状況下に不屈のドイツ魂を発揮して祖国のために戦い現在でもその戦いとともに、人道的な行為を称える声は高い。一方、 ホークランド海戦でシャルホルストなどの巡洋艦が巡洋戦艦インビンシブルなどにアウト・レンジされ敗北し、また史上空前のジャットランド海戦では主力艦の巨砲の威力が実証され、 列国海軍における重武装・重防備の大艦巨砲主義が各国の軍事と戦術を支配させて第2次大戦を迎えさせたのであった。

4 戦間期のドイツ海軍

 1919年のベルサイユ条約で海軍軍備の大幅な縮小を義務づけられ、 潜水艦、空母、 軍用機、大口径砲などの保有を禁じられ、 1908年以前に就役した旧式戦艦、巡洋艦各6隻(予備各2隻)と駆逐艦、 水雷艇32隻(予備8隻)しか保有を認められなかった。また、 代艦の建造も最大排水量1万トン以下、 軽巡洋艦6000トン、 駆逐艦800トン、水雷艇200トン、 軍人も1万5000人(士官および准士官1500名)に制限されていた。
1918年に発足した暫定ドイツ海軍はフランスとの戦争を想定し沿岸封鎖排除の主力となるべき艦種の研究が始めた。
 
 1925年には巡洋艦エムデンが進水し、 1928年にはポケット戦艦ドイツチュランド(Deutschland)の建造を開始した。その後、 1931年および32年に1隻づつ建造することで議会から承認を得て、海軍総司令部では1932年11月にはポケット戦艦を6隻揃えることに決定し、4番艦以降を1936年から逐次起工する計画を立てた。  しかし、 レーダー海軍長官がヒトラーに4番艦以降の建造繰り上げを要望した結果、4番艦は1934年度で建造することで議会の承認を得た。 しかし、 要求性能に合致した艦艇を建造するとなると排水量は2万6000トンを越えることになり、これを実現するにはベルサイユ条約を破棄する必要があった。 ヒトラーが政権をとると1935年3月16日に再軍備宣言を発し、1935年6月18日には英独海軍協定が締結され、ドイツ海軍はイギリス海軍の35パーセント(潜水艦は45パーセントまで)、42万トンの海軍軍備を持つことが認められた。 この協定によりドイツ海軍は次に示す艦艇を保有できることになった。なお、 これに先立つ3カ月前にヒトラーは再軍備を宣言し徴兵制度を復活し、 これによりドイツ海軍はライヒスマリーネからクリークスマリーネ(Kriegsmarine)と改称された。

         戦艦   18万4000トン
      重巡洋艦   5万1000トン
      軽巡洋艦   6万7000トン
      航空母艦   4万7000トン
      駆逐艦     5万2000トン
      潜水艦     2万4000トン(イギリスの45パーセント)
 なお、 潜水艦の保有率が45パーセントまで認められたのは、 イギリスが潜水艦を軽視しフランスの78隻に対して57隻しか保有していなかったためであった。この協定直後はイギリスとの戦争よりフランスとの戦争の可能性を考え、フランスの巡洋戦艦ダンケルクとストラスブールに対抗するための艦型としてシャルンホルストとグナイゼナウの2隻の建造を決定した。このようにドイツが再軍備を宣言したときの仮想敵国はフランスとロシアであったが、ヒトラーの侵略的な政策からイギリスとの対立が高まった1938年5月にはイギリスを対象とした軍備を計画することとが命じられた。そして、 これで建造されたのがビスマルク級であった。 1935年ドイツ海軍は再軍備宣言後最初の新造計画を発表したが、これは合計10万7500トンに及ぶ膨大なものであったが、 さらに1933年には18万2309トンを追加した。

  ドイツにとりイギリスとの戦争を考慮する場合に取り得る戦略は通商破壊を重視し強力な戦艦が出現した場合には優速を利用して離脱し、巡洋艦以下の場合には強力な主砲によってこれを撃破して通商破壊作戦を遂行することを目的とし、高速の装甲巡洋艦や潜水艦を整備する案と、イギリス艦隊と艦隊決戦を挑むに足りるバランスの取れた兵力を整備するかのであったが、ヒトラーはイギリスと戦争となるのは1946年ころまでは起きないと考え、 1939年1月には長期的な艦隊整備計画のZ計画が策定され、1948年までに次の艦艇を整備するZ計画が立案された。 さらにこの計画は所要兵力の観点から集成され、これを実現可能な程度に縮小したY計画、 そして、 イギリス海軍を刺激しない計画とされた。

        5万トン  戦艦6隻
        2万トン  改良型装甲艦8隻
        2万トン  空母4隻
        軽巡洋艦 多数
        潜水艦233隻
 
 一方、 ドイツ海軍は第1次大戦後もオランダに設計事務所を開設し、 ノルウェーやトルコ、日本などの潜水艦を設計建造して技術を保存してきたが、 英独協定の始まる1932年には潜水艦建造の準備を進め、イギリスとの交渉中から建造を開始し9月末には250トンの 型潜水艦U-1号からU-6号までの6隻が潜水艦学校に配属され、9月28日にはU-7, U-8,U-9の3隻で最初の実戦配備の潜水隊が編成されデーニッツ中佐が司令に発令された。訓練に当たってデーニッツは集団戦術を重視し、 また建造に当たっては小型潜水艦では行動範囲が狭いので750トン型潜水艦の建造を進言した。

 しかし、 海軍総司令部は砲撃もできる2000トン型潜水艦の建造に傾いていた。専断攻撃に対して魚雷そして、 1935年には14隻、 36年には21隻、 37年には1隻、38年には9隻、 39年には18隻が建造された。
 デーニッツは1938年から1939年に実施した図上演習を行い、 対英戦争を前提とするならば、作戦海面に潜水艦100隻を維持するためには、 100隻が戦場と基地の間を行動中、100隻がドックで整備しなければならないので300隻が必要であるとヒトラーに進言したが、認められなかった。 この結果1939年9月第2次対戦が始まった時には56隻しかなく、そのうち出動可能な潜水艦は46隻、 しかし、 250トン型潜水艦は北海にしか出動できず、大西洋に出動可能な大型潜水艦は22隻しかなかった。 1939年にドイツ海軍は全く準備なく突入してしまった。 第2次大戦に全く準備なく突入させられたドイツ海軍には戦う準備も作戦計画もなく兵力比率は悲観的なものであった。

           開戦時の独英仏海軍兵力
        艦種 ドイツ イギリス フランス
戦艦・巡洋戦艦 2(2) 12(5)   7
  ポケット戦艦  3   0   0
  航空母艦  0(1)  6(6)   1
 水上機母艦  0(1)   2   1
 重巡洋艦 1(4)  35   15
 軽巡洋艦 5(1)  23   0
 駆逐艦  17  100  32
 護衛駆逐艦  101 43−44
  潜水艦  57  68  77

 ドイツ海軍に取れる作戦は通称破壊作戦であった。 しかし、 第2次大戦ではヒットラーの無理解から、その作戦推移は第1次大戦と同様な推移をたどった。 兵力劣勢なドイツに取れる作戦は制海権の確保ではなく通商破壊作戦であった。1936年以来、 潜水艦艦隊司令長官のデーニッツ大将は1938年以来繰り返し第一線潜水艦の300隻体制を要望した。しかし、 ドイツ開戦時に保有していた潜水艦は57隻に過ぎなかった。 このよな実情に追い込まれたのはヒトラーが海軍を理解していなかったこと、ヒトラーがイギリスとは早期和平の実現を期待しイギリスを対象とした海軍軍備に無関心あったこと、及び海軍総司令官のレーダー大将などの海軍首脳部がバランスの取れた艦隊の建造を目標としていたことにあった。

5 第2次世界大戦とドイツ海軍

 第2次大戦中のドイツ海軍艦艇の特徴を上げるならばポケット戦艦と呼ばれたビスマルクであり、おびただしい数の潜水艦であり、 小型高速の哨戒艦艇、 Sボートの魚雷艇、 Rボートと呼称された高速哨戒艇であり、
海戦としてはこれらの艦艇が行った潜水艦戦と海上ゲリラ戦および沿岸作戦であった。次にこれら海戦の概要を見てみたい。

(1)巡洋艦・戦艦による通商破壊戦

 ドイツ海軍は開戦直前の1939年8月21日にポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー(Graf Sphee)、 3日後にドィッチェランド(Detcheland)を190年秋にはアドミラル・シェール(Admiral Sheer)を派出したのを契機に巡洋艦戦争を開始し、 年が明けた1941年1月23日には戦艦部隊は大西洋横断中の3船団を攻撃するなど2カ月の行動で、22隻(11万5622トン)を撃沈し、 これに対してイギリス海軍はブレストに帰投したヒッパーを撃沈しようと85トンの爆弾を投下したが、命中させることはできなかった。 しかし、 4月6日には停泊中のグナイゼナウが魚雷1発と爆弾4発を受け、この修理のためにビスケー湾のすべてのドイツ海軍工廠から800人の工員が集められたため、潜水艦の修理が進展せず出動隻数が減少した。

 このためデーニッツ潜水艦隊司令官は1941年12月26日に、 再び海軍司令官宛に制海権を世界最大のイギリス・アメリカ海軍に握られた海面での戦いは大型艦艇では効果なく、あらゆる努力を潜水艦に集中すべきであるとの意見書を提出した。 しかし認められず、1942年5月21日にはビスマルクとプリンツ・オイゲンが出動させ5月24日にデンマーク海峡でこれを迎え撃つイギリス艦隊との砲撃戦が生じ巡洋戦艦フード(Hood)を撃沈したが、5月27日にはイギリス艦隊の包囲を受け撃沈された。 これら大型艦艇が交通破壊作戦には不向きであると判断され、これら巡洋艦やポケット戦艦が海上交通破壊作戦に出動することはなかった。

 ドイツ海軍はこれら水上戦闘艦艇とは別に武装商船による海上交通破壊作戦を企図し、1939年末までに3隻、 1940年前半に3隻、 1940年後半に3隻の合計9隻を改装巡洋艦に改装した。ドイツはさらに5隻をギ装し第2派の1番艦コルモーラン(Kormoran)は1940年末に出撃し、最終的に9隻が洋上に出たがトーゴは最初の出撃中に大破し、 さらに2隻はギ装が終わったが出動することはなかった。これら仮装巡洋艦は排水量7500トンから20000トン、 乗員は300から400名、速力は14ノットから早い船では18ノット、 外観は偽装しているため貨物船と変わらなかったが、5・9インチ砲4から6門、 3・7ミリ機銃2門、 20ミリ対空機銃2門、 魚雷発射管2から4門を装備し、中には機雷400個、 魚雷艇から偵察用航空機まで搭載していたものもあった。(8)

 水上戦闘艦艇や仮想巡洋艦の活躍は1940年3月以降には、 戦艦、 巡洋戦艦、7隻の仮装巡洋艦などが出撃し活発や通商破壊作戦を展開し、 1941年5月には戦艦ビスマルクとプリンツ・オイゲンが出撃し、水上部隊による通商破壊作戦は最高潮に達した。 しかし、 5月には戦艦ビスマルクが撃沈され、以後水上艦艇の通商破壊作戦は下火となった。

(2)潜水艦作戦

 1939年9月3日、 イギリス、フランスが対独戦線を布告した10時間後にイギリス客船アセニア号(1万3500トン)を撃沈したのを皮切りにドイツ海軍の潜水艦作戦が開始された。そして開戦10日後には空母アーク・ロイヤルを雷撃し中破させたが、 17日には同じく空母カレイジアスを撃沈した。続いて10月14日にはイギリス艦隊の泊地スカッパーフローに潜入し戦艦ロイヤル・オークと航空機輸送艦ペガサスを撃沈した。

 Ubo-toによる撃沈トン数の推移は表の通りで、 ドイツ海軍は巡洋艦や仮装巡洋艦の期待し、初期の1年は潜水艦の撃沈数が10万トン台を上下していたが、 潜水艦戦争が重視された1942年には最高潮に達した。しかし、 1943年以降は再び10万トン台に低下してしまった。 デーニッツの再3の要望が認められ以後毎月25隻を目標に潜水艦の建造を進めたのは開戦1年後の8月であり、それまでは第一線の潜水艦勢力は20隻を上下していた。

 ドイツ海軍は最終的には潜水艦1273隻を投入し、 約3万9000人が潜水艦に乗り組んで大西洋の戦いを戦い753隻を戦闘あるいは事故で失い、死者3万3000人を出したが、 開戦から終戦までの6年間に、 連合国艦船2603隻(1357総トン)(デーニッツによれば2520隻1254万8463トン)を撃沈した。この量はイギリスが開戦前に保有していた全商船と同量であり、 330隻(3・186・055トン)を撃破し531隻を失った。しかし、 戦果を揚げた潜水艦作戦も1943年には山を越した。 それは連合国の新造船量が損耗量を下回り、さらにイギリス側が急速に護衛艦艇を整備し、 船団護衛方式を確立し、 商船改造の護衛空母や水上艦艇と航空母艦を組み合わせたハンターキラーグループを編成、護衛艦や航空機に捜索レーダーを装備するなど対潜装備を充実し、 1943年4月ころには航空機にレーダーが装備されたため潜水艦による水上攻撃は全く成功しなくなってしまった。

 ドイツ海軍も船団に対しては群狼戦法を実施し、 1940年10月17日から18日の間にSC7船団を7隻、19日から20日にはXH9船団を5隻で攻撃し、 SC船団では32隻中20隻、 後者では12隻を撃沈した。 また、 連合国の対潜能力の向上に対抗しシュノーケル(11月には全潜水艦に装備)、聴音魚雷、 レーダー波探知機装置などを開発し、 20ミリ、 次いで37ミリ対空機銃を装備するなどの対策を試みた。しかし、 この劣勢を挽回することはできず、 1943年7月には潜水艦による船舶の被害は45隻24万4000トンであったが、これに対しドイツは33隻の潜水艦を失っていた。 もし、 ドイツが第1次世界大戦の教訓を活用して最初から潜水艦軍備を重視していたならば、第2次大戦の経緯はまた異なった展開を示したであろう。  イギリス海軍やアメリカ海軍に対するドイツ海軍の兵力はあまりにも懸隔が大きかったが、ドイツ海軍はこの制約にもかかわらず世界の海域全域にわたって、仮装巡洋艦や潜水艦を展開し、連合国を翻弄したが、 ついに矢尽き刀折れた。

 このほかの艦種で注目すべきは魚雷艇や高速艇などの小型艦艇で、 前述のように外洋艦隊が完成する前に第2次大戦が開始されてしまったため、資材や期間を要する大型艦艇の建造を中止し、 通商破壊作戦、 沿岸諸作戦に必要な艦艇を重視し、空母や戦艦などの建造を中止した。 そして、 沿岸海域の作戦用として魚雷艇(Sボート)、高速掃海艇(Rボート)及び掃海艇(Mボート)などを多数建造した。この高速掃海艇と呼ばれるRボートは魚雷の変わりに簡単な掃海用具を備え速力は魚雷艇よりやや低かった点を除けばSボートと同様で、魚雷による艦船攻撃はできなかったが掃海の外に味方船団の護衛、 機雷敷設、 哨戒など多様な作戦に活躍した。

 魚雷艇の保有をベルサイユ条約で認められていなかった、 ドイツ海軍は連絡艇あるいは高速駆潜艇との名称で魚雷艇の原型S-1を1930年には建造し、第2次大戦には2百隻を就役させ、 ノルウェー攻略作戦、 北海などにおける機雷敷設、地中海や英仏海峡における船団攻撃、 船団護衛などの沿岸海域における幅広い任務に投入した。

6 第2次世界大戦後のドイツ海軍
(1)ドイツ海軍の再建


 ドイツ海軍は日本海軍と同様に軍備の保有が禁ぜられて海軍は解体され、 残存艦艇の多くが連合国に引き渡され、警備兵力として軽装備の国境警備隊が設けられ、 その海上兵力として巡視艇の保有が認められ沿岸警備に当たり、本格的な国土防衛は連合国占領軍に負かされていた。 しかし、 1948年3月には西側5カ国によるブユッセル条約が調印され、これに対して4月にはベルリン封鎖が始まり、 さらに翌年4月には西側諸国12カ国による集団防衛機構である北大西洋条約機構(NATO)が結成され、このような情勢から1949年9月にはドイツ連邦共和国が発足した。 そして、1950年9月にはニューヨークで英米仏外相会議が開かれ国境警備隊の創設が決議され、さらに1952年5月には西ドイツの再軍備を主眼とした欧州防衛共同体条約が(ドイツを含めた西側6カ国)パリで調印された。

 しかし、 フランス議会の批准が得られずにドイツが正式に再軍備を承認されたのは1954年10月のロンドンにおける西側9カ国共同決議書の調印まで待たなければならなかった。ドイツ再軍備はフランスの反対もあり英米とフランスとの間で調整に手間取り1954年10月のパリ協定で占領状態を終わらせ、主権を回復しNATOの1員として再軍備に着手させることとなった。 しかし、 ドイツに対するフランスなどの危惧からさまざまな制限が付され、最初は核・細菌・化学兵器、戦略爆撃機、 誘導ミサイル、 感応機雷などの製造禁止とか、艦艇については排水量3000トン以上の水上艦艇、 排水量350トンの潜水艦、ガスタービンまたはジェットエンジン(すなわち蒸気・ディーゼル・ガソリン機関以外)によって運転される軍艦を製造しないことを首相が宣言するなど、こまかな制限が課されていた。

 1955年6月には西ドイツとアメリカの間で軍事援助協定が締結され基本法(憲法)、軍人法、徴兵法などが改定され5月にNATOに加入し、1956年11月に正式に西ドイツ国防軍が発足したが、 西ドイツ国防軍の発足は日本の警察予備隊が保安隊、警備隊に変わりさらに自衛隊に切り替えられた1954年(昭和29年)より2年遅れていた。このようにドイツの再軍備は日本と比べ遅く、 また、 各種の制約が課せられ1953-1954年のジェーン年鑑によると、当時の日独の海上兵力は日本が1430トンのPF(パトロールフリゲート艦)9隻に、227トンのLSSL(揚陸艇)16隻を保有していたが、 ドイツ(西)はイギリスから供与されたトローラー型掃海艇(112トン)10隻、550トン型旧ドイツ海軍の掃海艇6隻、 155トンの掃海艇12隻と測量船6隻しか保有していなかった。しかし、 この遅れとドイツ人の英知が西ドイツ国防軍を日陰者でなく正規の国防軍と認知させて発足させた。

(2)NATOと一体のドイツ海軍

 海上自衛隊がアメリカ海軍と相互補完の関係にあるが、 西ドイツが日本とさらに大きく異なる点は、多くの国では国家元首が国軍の最高指揮官であるが、 西ドイツの場合は連邦軍の指揮権は平時は国防相が掌握し戦時は首相に移るとされているが、実際はNATの指揮下に入ることが基本法で規定されていることである。 また、 西ドイツの兵力もパリ協定により「西ドイツ海軍兵力は第1条にいう特別協定に定める限度、またはそれと同等の戦闘能力の範囲内においてNATOより割り当てられた防衛諸任務に必要な艦艇と部隊で構成される」と規定され、NATOの1員として保有兵力は北海方面での船団護衛、 バルト海方面での対潜作戦、
上陸作戦支援に従事することとされ駆潜艇、 砲艇、 高速艇など120隻(1500トン未満)、それに海軍航空部隊を整備することとされた。 このように西側諸国はドイツ海軍をバルト海や北海の限定された海域での局地的な沿岸防備を主とする小海軍としか期待していなかった。

 しかし、 その後、 ワルソー条約が締結されて東欧諸国の軍備が強化されると徐々に西ドイツへの期待が高まり、小型高速駆逐艦18隻、 各種小型先頭艦艇182隻の整備が指示され、 徐々にドイツの軍備制限は緩和され、1958年4月には水上艦艇は6000トン、 潜水艦は1800トンまでの建造が正式に認められるに至った。このようにドイツの海軍思想はNATOと一体であり、 艦隊の編成もNATOに編入するため徹底したタイプ編成を取っており、NATOの警戒態勢が発動されると、 艦隊の大部分はNATO軍の固有編成に編入され欧州連合軍指揮官の指揮を受けることとなっている。

 西ドイツ海軍が実際に発足したのは1954年4月で、 クックウシャーヘンで掃海艇2隊が編成されたが、これら構成艦艇は旧ドイツ海軍の航洋型、 R型掃海艇で、 これら掃海艇は日本と同じくは敗戦後はアメリカの指揮下にドイツの諸港湾の掃海作業に従事していたことであった。ドイツと日本と共通点はクリークス・マリーネ(旧ドイツ海軍)がブンデス・マリーネ(連邦海軍)が創設されまで、英米軍の管理下で航路啓開の掃海作業を実施し旧海軍が存続していたことである。しかし、 日本と大きく変わっていることはドイツが完全に崩壊し占領軍が暫定的に行政などを実施していたため、再軍備を始めるに際して1955年2月に連邦議会が国家の基本法を改定し再軍備を議会が合法化し軍隊を基本法で規定したことである。

 しかし、 この時点では東西に分裂していたためドイッチェス・マリーネ(ドイツ国海軍)との名称を避け、ブンデスマリーネ(連邦海軍)との名称を使用してきた。 ドイツ海軍の任務はNATOの前方防衛戦略に基づき戦時には他のNATO海軍と共同してワルシャワー軍の揚陸進攻および船舶攻撃を阻止することであり、最初はバルト海のや北海の管制やバルト海入口のスカラゲット海峡の管制などを期待し、魚雷艇、 次いでミサイル艇、 掃海艇などが重視されて来た。 ドイツ海軍の発足に際しアメリカ政府から航洋型掃海艇6隻とR型掃海艇26隻が返却され、フランスからは航洋型掃海艇5隻、 イギリスから魚雷艇2隻などの旧ドイツ海軍の艦艇が返却され、1958年から60年にかけてアメリカ海軍からの供与艦艇やイギリスからの購入艦艇などを加え、さらに旧ドイツ海軍の小型潜水艦(XX 型)を引き上げるなどして徐々に海軍としての体制を整えて行った。アメリカからの供与艦艇およびイギリスからの購入艦艇は次の通りである。

      駆逐艦(フレッチャー級)       6隻
      揚陸艦艇(LSM及びLSMR型)   6隻
      イギリスからの購入艦艇
       フリゲート艦(ハント級)      3隻
      (ブラックスワン級)          3隻

 その後1960年代に入ると国産艦艇の建造も開始され、 1965年ころには次の艦艇が整備された。しかし、 フランスに対する配慮であろうか、 小型潜水艦とともにバルト海の防衛に不可欠なミサイル艇143型10隻は1976年から77年に10隻が就役したが、これはフランスの148型を拡大大型にしたもので、 兵装はOTOメララ7・6センチ単装砲2門、エクゾセ対艦ミサイル4基、 誘導魚雷発射管2基を装備し速力は39ノットである。
148型の20隻はフランスのCMN社が輸出用として製造したラ・コンバッタン 型に属するミサイル艇で1972年から75年に20隻を購入した。

         駆逐艦(ハンブルグ級)     4隻
         護衛艦(ケルン級)        6隻
         潜水艦(U-1級)         12隻
         魚雷艇(ヤーグアル級)     40隻
         沿岸掃海艇            24隻
         内海掃海艇           40隻
         母艦(ライン級)         13隻

 これらの新造艦艇に加え購入商船改造の給油艦、アメリカから供与されたLST5隻、その他の補助艦艇の整備により創設後10年にしてほぼ現在の勢力構成を完成した。1960年台に入り新造艦艇の割合は70パーセントになった。 しかし、 ワルソー海軍力、特にソ連海軍の勢力増強にともない徐々にドイツ海軍への期待が高まり、 1980年代に入るとノルウェー海を含む東大西洋に拡大し、ドイツ海軍はこれら海面での対潜作戦、 上陸阻止、 シーレーン防衛にも参画することとなり大型航洋型護衛艦、長距離対潜機、 大型潜水艦を装備することとなった。、 そして1962年から65年の第2期整備計画で、第1期計画で予定量12隻に達しなかった駆逐艦8隻をはじめ潜水艦小型12隻、中型6隻などの第1線艦艇および補給艦8隻などを含む16隻の補助艦艇が計画された。

 しかし、 建造されたのはミサイル駆逐艦(リューチェンス級)3隻と補給艦8隻、給兵艦2隻、 機雷輸送艦2隻、 給油艦4隻、 哨戒艇10隻、 小型揚陸艦22隻だけで、第2期計画で策定された艦艇中計画通り建造されたのは後方支援艦艇だけであり、アメリカの駆逐艦の代替え艦艇として建造されたのはルューチェンス級ミサイル駆逐艦3隻に過ぎなかった。その後1960年代後半に至り先の第2期整備計画の補正が行われ艦艇新造計画が立案されたが、1970年代には立ち消えとなり結局建造されたのは潜水艦(U-13級)12隻、 ミサイル艇(ヤーグアル級)20隻であった。

 西ドイツがこのように新造計画を大幅に修正し建造を控えたのは予算的な問題とともに東側諸国の艦艇及び航空機の対艦ミサイルの装備によりバルト海という海域での大型艦艇の有効性に関する疑念が生じたことにあった。1970年代に入ると戦後の新造艦艇の比率は87パーセントに向上したが建造された艦艇は老朽化にともなる潜水艦6隻、ミサイル艇10隻などで、 新造艦で補うことができなかった駆逐艦などはエグゾセ対艦ミサイルの装備などの部分改良に止まっている。経済的発展に伴い1977年には政府支出の22・9パーセントに当たる166億600万ドルを投入しているが、西ドイツにおける海軍の地位役割は低く西ドイツ海軍の最も重要な任務はNATOの一翼を担い、基本的にはバルト海の入り口の防衛という局地的な防衛を第一として創設され整備され、西ドイツ海軍は主導権を握ることはなくあくまでNATOの構成国の一員として東側海軍勢力を封じ込め、東側の上陸侵攻を阻止する任務意に徹し、 そのため機動力に富んだミサイル艇や小型潜水艦、機雷戦艦艇を多数装備し、 さらに第2次大戦時のビスマルク撃沈の戦訓を生かし、対艦攻撃を目的とした海軍航空部隊を保有している。 また、 小型艦艇を機動運用するため多数の小型補給艦艇を装備し基地の脆弱性に対処している。

おわりに

 ドイツ海軍の歴史を総括するならば一国が大陸軍と大海軍を保有することはできないという原則が証明されるであろう。大陸軍国家の海軍としては無理解にともなう戦争指導の間違いや作戦への干渉や制約下の戦いであり、ドイツ海軍の戦い方を総括するならば「良く戦った」と多くの国から敬意と称賛を受けている。しかし、 ドイツ海軍の悲劇と限界は海軍が国家指導者に理解されずミスリードされ、ここにドイツ海軍の悲劇を見る。 1次大戦も2次大戦も海軍を知らない指導者に指揮され、また陸軍の支配下にあった。さらに、 戦後のスタートも海上自衛隊より2年遅く、さらに多くの制約を課せられていた。しかし、 第2次大戦後は日本の指導者と比較すると、この教訓が生かされ海上自衛隊とは異なり国民や政治家に理解され、 再建されたドイツ海軍は湾岸戦争への参加、ボスニア紛争への参加など多くの国際貢献をして世界の尊敬を受けている。

参考文献
カール・デニッツ(山中静三)『デーニッツ回想録 10年と20日』(光和堂、 1986年)
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青木栄一「ドイツ海軍の歴史」(『世界の艦船』通巻255号1978年
同上 『シーパワーの世界史(2)』(出版共同社、 1983年)
石橋孝夫「西ドイツ海軍(『世界の艦船』255号1978年
(Jane's Fighting Ships 1983-84(London:Jane's Publishing Company Limited,1983)
(Janes's Fighting Ships 1953-54,(Londo:Sampson Low,Marston &Co.LTD, 1954)
外山三郎『近代西欧海戦史』(原書房、 1982年)