日英同盟の教訓:同盟の崩壊と孤立への道
はじめに
現在の世界情勢が第一次世界大戦後に類似しているためか、 最近第一次世界大戦が見直されつつあるが、
最大の類似点は第一次世界大戦では日本が日英同盟(攻守軍事同盟であった)の下に自由を求めて戦うイギリス・フランス、アメリカなどともに軍国主義国家ドイツを打倒し、第三次大戦とも位置づけられる“冷戦"では日本が日米安保条約の下に自由主義国の一員として全体主義国家ソ連を敗北に追い込み勝利国として登場したことであろう。しかし、
第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議に5大国として輝かしく登場した日本ではあったが、
「日本国も日本国民も、 世界随所に不評判なり不人気なり。 悪口門は多きも称賛者は少なし。
糾弾する者は多きも同情者は少くなし(徳富蘇峰『大戦後の世界と日本』)」と世界から嫌われ、
日英同盟を破棄され孤立し世界を敵として戦わなければならなかった。
現在、 アメリカの経済的挑戦や反日世論の影響を受け、 「嫌米」・「侮米」・「避米」などのアメリカ離れが進み、
日米安保体制に亀裂が走りつつあるが、 わが国の生存と繁栄の基本でもある日米安保条約を維持するためにも、
なぜ、 日英同盟が破棄されてしまったであろうか。 日英同盟が破棄されたのは第一に第一次世界大戦で、
日英共通の敵であったロシアとドイツの脅威が消滅したことであり、 第二にアメリカがこの同盟を脅威と感じたことであったが、
イギリスに日英同盟破棄に反対が起こらなかったのは、 日本の同盟国としての不誠実な態度が多くのイギリス人に大戦中から日英同盟に対する幻滅を与えていたからであった。
以下、 これらの状況をイギリス公文書館に保管されている当時の外交文書などからイギリス側の不満や不信を明らかにし、
日本が日英同盟を破棄され世界から孤立して行った過程の一因を考えてみたい。
1 大戦中の反英動向と非協力
第一次世界大戦で日本はドイツの極東の根拠地青島を攻略し南洋群島を占領すると、
重なる同盟国からのヨーロッパへの派兵要請を拒否し、 戦乱に巻き込まれることを極力避け連合国に多量の武器を供給するとともに、
イギリスが戦乱で輸出が減少した植民地などへの輸出を延ばし、 第一次大戦が「日本国民に黄金の雨を降らせたり。
.....従来金渇病の患者たりし日本国民はこの黄金の雨に何れも皆潤えり。 世界列強の不幸、
厄運を余所として、 不景気知らずの日本、 商売繁盛の日本、 世界得意先の千客万来の日本は一切の事を打ち忘れ、
何れも戦争大明神と高歌、 乱舞」し、 「浮調子なる日本は悠々黄金の雨に潤い泰平を楽し」んでいた。
そのうえ、 日本ではベトナム戦争中のように当時の代表的雑誌『大日本」は「独墺は今や七分の勝ちを占め居れり」と敵国ドイツ優位を報じ、
戦後ドイツが「東亜に於て日本と握手し西欧に於て露と結び、 以て専心英国に対抗せんと欲することは殆ど天下周知の事」であり、
「世界列強が英独を中心として合縦連衡を策すべき時至りらん」。 この時に至り「日本は果たして孰れに与せんとするか」と政府の対英協力が批判していた。
また、学者や政府高官が、 しばしば「敵国軍人ノ武勇ヲ賞賛スルニ止マラズ公然ト敵国ノ肩ヲ持ノ言動ヲナシ」ていた。
このような日本の報道がドイツに利用され中立国に悪影響を与えるため、 たまりかねたイギリスは対日世論対策のために知日派新聞記者のスコットを派遣した。
しかし、 スコットが雑誌『日本及日本人』に欧州派兵について、 アメリカ人が今や何等の利益を眼中に置かず全力を尽くして大戦に参加しているのに、
日本では最も教育ある人ですら自国の財政や領土に直接利害関係あること以外は大戦に関して無関心の人が少なくない。
日本人は自国の利益しか考えられないのか、 と「世界の大勢に関し日本人の反省を望む」との記事を書くと、
この記事をめぐって日本のジャーナリズムは一斉に反発した。 雑誌『太陽』は9月号に「欧州出兵の愚論」、
「新東洋の暴論」、 「日英同盟」などの反英特集を組み、 赤門学人は「日英同盟に就いてー『新東洋主幹スコット氏に質す」との題で、
「此戦争に就て内々独逸に対する英国のソノ如何にも腑甲斐なきに驚き入って居るのである。.....日英同盟の将来が如何にも不安に憂慮に堪えないように思われる。
吾人は日英同盟を命綱と頼み得ることは出来ないのである。......ブルドック的に吾人に噛み付かんとは愈々以て呆れざるを得ない。
吾人はスコット氏を以て日英同盟の破壊者と見做す」と感情を交えて反論した。また、
鈴木真は「欧州出兵の暴論」で「日本が他人の為に欧州下り迄出兵する義務はだれに負わされた。
必要はどこにある。 もし又自己の為にとならば遥々欧州迄出兵して何の利益があると問いたい」。
「日英同盟の義務は無限に拡大されると見えて、 やがて経済大会の申合わせがあった。
しかし、 これは単に一時的の申し合わせに過ぎず、 さしたる約束を未来に及ぼしもせんから我慢も出来る。
それで又単独講和の加入となった。
加入は拘束を意味する。 どちらでもいい事に我から好んで拘束を受けるのは鼻ずらを人に提供して綱を牽き通される牛的気分としか見られない。
現在の如くあれも対同盟、 これも対同盟で義務の無限過重では奴隷の任務其儘である」と書いた。
また新聞は「中国の独立維持」「機会均等」などを申し合わせた日英同盟のために、
中国への進出に際してイギリスと調整しなければならないという経済界の不満を受け、
日本がイギリスの中国に対する“番犬"にされていると日英同盟を非難した。
さらに国会では野党の尾崎行雄などが「日英同盟の適用範囲がインドまでであるのに、
艦隊を地中海に派遣しているがこれは日英同盟条約の適用外ではないか。 いつまで、
どこまでイギリスを援助するのか」と政府を追求した。 一方、 志士と呼ばれる国家主義者や、
国民党の犬養毅、 政友会の床次竹二郎、 東京大学教授の寺尾亨、 頭山満、 大川周明、
そして朝日新聞、 やまと新聞、 国民新聞などの記者がベトナム戦争中にアメリカの脱走兵を「ベ平連」が保護したように、
ドイツの支援で独立運動を展開しているインド独立派の指導者を支援し、 日英同盟条約には犯罪人引き渡しの条項はない。
インド人を「遂放をするがごときは国威、 国権の失墜」であると政府を非難し、 さらに野党の政友会は国民党と提携し「当局ノ非違ヲ議院ニ於テ質問」することを決めるなど政争の具としていた。
2 イギリスの不満
このような日本の状況を駐日海軍武官のライマー大佐は日本の政治家は日英同盟が日本外交の“Keystone"などと常に公言しているが、
この戦争に対する日本の原則は、 第一に最大の経済的利益を追及することであり、
次いで戦後の国際関係を考慮しドイツに強い反日感情が起こらないよう連合国への援助を最も控え目にすることであり、
日本の行動は総てこの2つの原則に支配されている。 日本人にわれわれの無力を理解させ、
日本が東洋の未開な国ではなく西欧の一国として、 多くの責任があることを示しても日本人は興味を示さない。
また、 イギリスが過去にいかに日本を援助したか。 同盟国として何をなすべきかを明確に説明し、
その義務に耐えるべきであると強く示唆すると日本人はわれわれから離れてしまう。
そして、 イギリスが援助を哀願しへつらい譲歩すると、 賢い者はうまくやったと秘そかに得意になり、無知なものは単に自信を高め要求をエスカレートさせるでけである。
しかもイギリスが差し迫った海軍援助、 船舶の提供、 敵国との貿易禁止を真剣に要求しているのに、
日本の新聞は日本がいかに連合国に援助を与えているか。 ー 実際は与えもしてない
− 援助を書き立てるのである。 日本は金に酔い太平洋のリーダーという夢に目が眩んでいると報告した。
また、 大戦中の4年間を駐日大使として過ごしたグリーン大使は、 「戦争が勃発しわれわれが手一杯の時に、
わが同盟国にいかに失望したかを語る必要はないであろう」との手紙を友人に書き、
任期中に「加藤高明、 本野一郎、 後藤新平、 石井菊次郎の4人の外務大臣に接したが、
イギリスの協力要請に対する対応は常に同一態度、 すなわち、 直ちに拒否するか、
後程回答すると述べて拒否するか、 未だ考慮中と述べて時間切れを待って拒否するかの何れかであった」と報告したが、
本国では外務次官のニコルソンが「私は日英同盟を全然信用していない。 日本は最小のリスクと負担で最大の利益を引き出そうとしている」と側近に語っていた。
また、 大戦終結1年前の1917年3月の大英帝国会議に、日本は本質的に侵略的な国家であり、
日本は自分の将来に偉大な政治的未来があると信じている。 日本の教育や商業はドイツ式で、
日本の組織や規律もドイツ式であり、 このため日本人の性格も自然にドイツ式になっている。
日本が東洋のプロシャになるというのは決して誇張ではない。 狂信的な愛国心、
国家的侵略性、 個人的残忍性を持ち、 偽りに満ち、 さらに日本は近隣諸国に日本独自の文化を押し付けることを道義的義務と考えている。
日本の侵略的な野望とイギリスの適正な要求とを調和する余地はあるであろうか。
道義的に日英はあまりにも掛け離れている。 このようにイギリスの理想と日本の野望が異なる以上、
両国の間に共通の基盤を確立することは不可能である。 この日本の野望をわれわれが容認できないとすれば、
日本の野望を武力で阻止する時がくることを決意しなければならないであろう。
日英間に努力すべき共通の目的は存在しない。 日英同盟は虚無の基盤の上に存在しているに過ぎず、
この同盟は人種的にも文化的にも異なる2つの国がもろい紙の上に書いた条項を綴じたものに過ぎないとの「日英関係に関する覚書」を配布していた。
3 国際連盟に対する対応
日本海軍の良識派といわれた掘梯吉は日本がベルサイユ講和会議以後、 「事毎ニ世界思想ノ主潮カラ放リ出サレル屈辱ト孤立的不利」をもたらし、
太平洋戦争に至ってしまった理由を、 第一次世界大戦にイギリスの同盟国として参戦したにもかかわらず、
日本では「公然ト日独同盟説ヲ高唱シ、 日本ガ連合国側ニ立チテ宣戦シタルヲ大ナル失蹟ナリ」と政府高官が公言するなど日本の態度が曖昧であり、
さらに、 対華二十一ケ条の要求など「列国ノ留守中ニ東洋ニ於テ勝手ナルコトヲ振舞フモノナリトノ感ヲ与ヘタルコト」。
武力をもって「外交政策ノ直接支援トスルヲ非ナリトシ」て、 「正義人道ノ名ノ下ニ全世界ガ交戦シツツアル際」に、
中国に対して最後通牒を発して要求を実現し「第二ノ独逸ナリト非難ヲ受クルニ至リタルコト」などを上げ、
第一次世界大戦中の日本の不誠実な対応が日本を孤立化し、 太平洋戦争に結びつけてしまったと述べているが、
ベルサイユ講和会議に対する日本の対応も大戦中と変わらず、 山東半島、 南洋諸島のドイツの利権継承という目前の自国の利益のみを追求したのであった。
ベルサイユ講和会議(この会議で国際連合が結成された)に参加し、 この日本の対応を見た若き近衛文麿(細川首相の祖父)は、
「米国人の視界がかくの如く世界的なるに反し、 日本人の視界が今尚狭小にして、
僅に極東の一部に限られ居るは吾人の甚遺憾とする所なり。 即ち、 我国民は支那問題等自国に直接利害関係ある場合には非常の熱心を以て騒ぎ立つるも、
東洋以外の事となれば我不関の態度を採る傾きなしとせず。 現に今度の会議に関係せる或外国人は日本人を評して、
彼等は利己一点張の国民なり、 世界と共に憂いを頒つべき熱心も、 親切もなき国民なりと申したり」と記したが、
現在の日本も敗戦後半世紀にわたって一国平和主義に閉じこもり、 世界の平和維持活動を忌避し外国人に「彼等は利己一点張りの国民なり。
世界と共に憂いを分かつべき熱心も親切心もなき国民」と言われているのではないであろうか。
次いで72年前に破棄された日英同盟の歴史的教訓を求めるならば、 第一に日本は海洋国との同盟で栄え大陸国との同盟で荒廃を招いた。すなわち開国早々の日本は海洋国イギリスと同盟し、
海洋国アメリカの援助を受けて日露戦争に勝ち第一次世界大戦を経て5大国に成長した。
しかし、 第一次大戦中の大正5年(1916年)には大陸国ロシアと事実上の攻守同盟(第四次日露協商)を結び、
大正7年(1918年)には中国と日華共同防敵軍事協定を締結してシベリアへ出兵、
さらに日中戦争から抜け出そうとして大陸国ドイツと結んで第二次大戦に引き込まれて敗北したが、
敗戦後は海洋国アメリカと結んだ日米安保条約によって現在の繁栄を得た。日英同盟の今日的意義を求めるならば、
明治の先人の選択ー海洋国との同盟、 すなわち海洋国家日本のスタンスに立った国家政策の推進、
言葉を変えるならアメリカやイギリスなどの海洋国家群(言葉を変えればアングロサクソン)と結ばれた時は繁栄し、
大陸国と結ばれた時には苦難の道を歩まなければならなかった[歴史の遺訓」ではないであろうか。
今年は第一次大戦開戦80周年である。 今こそ、 日英同盟を破棄されベルサイユ講和会議後に「事毎ニ世界思想ノ主流カラ放リ出サレル屈辱ト孤立的不利」をもたらした第一次世界大戦の教訓を学ぶべきではないであろうか。