日米開戦50周年を迎えて
  −満州事変から湾岸戦争まで


はじめに

 本年は日本が「思いあまって」真珠湾を奇襲してしまった太平洋戦争開戦50周年に当たるので、 なぜ日本がアメリカとの無謀な戦争をしなければならなくなったかについて考えてみたい。 日本が太平洋戦争に突入してしまった理由には、多種多様の要素があり、 一つに限定することは困難である。しかし、日本がアメリカと戦わざるようになった道程の大きな一歩が、 満州事変であり満州国の成立を否定したアメリカとの対立であり、国際連盟からの脱退であった。 「歴史は繰り返す。 あらゆることは2度起こる」と言われているが、 満州事変に対する昭和日本の対応と今次の湾岸戦争への平成日本の対応には多くの類似点が見られる。そこで、 本文では多くの類似点が見られる憲法(明治憲法と昭和憲法)、国連(国際連盟と国際連合)と日米関係(満州事変と湾岸戦争)について考えてみたい。

1 明治憲法と昭和憲法

 昭和憲法の問題は戦争を放棄した第9条であり、 明治憲法の最大の問題は第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という天皇が軍隊を一元的に指揮するという統帥権の問題であった。 統帥権独立が明治憲法に規定されたのは、発足間もない明治政府が、 「萩の乱」「秋月の乱」などの不平武士による反政府暴動、西南戦争の論功行賞に不満をもった近衛砲兵連隊による竹橋騒動や明治政府の専制化に陸軍部内から批判があったため、軍人を新政府に従わせ軍隊を天皇の陣営に止め、 軍人を政治から切り離すことを目的としたためであった。 このように「統帥権の独立」とは最初は軍人を政治から分離することを目的とするものであった。 明治時代には昭和天皇が皇太子(現天皇)への手紙に「明治天皇の時には、 山県、 大山、 山本などの名将があった」と書いたように、 元老や元勲などの補佐態勢も機能しており統帥権独立の不備が大きな問題となることはなかった。 しかし、 大正に入り元老などがこの世を去ると明治憲法の欠陥が表面化した。 しかし、 憲法を国の基本と感じ憲法改正に強い抵抗感を持つ国民性や政治の腐敗混乱などから、 実情に合わなくなった明治憲法が改正できずに昭和を迎えた。そして、この第11条の統帥権の独立と大臣現役軍人制度が軍部の政治介入を許す最大の武器となり、 日本を太平洋戦争へと導く昭和の悲劇を招いたのであった。

2 国際連盟と国際連合の脱退

 満州国が傀儡政権であるとのリットン報告書が42対棄権1で国際連盟で可決されると、 日本は国際連盟を脱退した。 すなわち、 日本だけにしか通じない「五族協和」の理想国家である満州国を世界が認めなかったと、日本は国際連盟を離脱し、 そして世界の孤児となった。 しかし、 それまでの歴代外務大臣や政治家は国際連合は政治 外交、 軍事、 政治、経済など「百般の人類幸福問題の精算所である。 知識文化の交換所であり展覧会である。 世界平和の醸造所であり精製地である。 列国政治家の参拝する霊地」であるなどと、 現在と同じように国際連盟を過大に評価し、 過大に期待していたのであった。 一方、 戦後の日本も「国連中心主義」を唱え、 国連中心外交を国の基本とし、 アメリカに次ぐ世界第2位の国連分担金を捧げて来た。 しかし、 今次湾岸戦争では国連がフィセインのクウェート併合をヒットラー以来の侵略行為として、 30数カ国が国連決議に従って何らかの形で軍事的支援をし、 「ポスト冷戦」後の危機解決に一致して懸命に対処したが、 昭和日本は憲法を楯に「一国平和主義」を奉じて、 1人列外に残ってしまった。 昭和日本は満州国が否認されたと自ら国際連盟から脱退したが、 平成日本は平和憲法が足枷となって、 「世界と共通の価値観」を共有できず国際連合を自動的に脱退してしまったとはいえないであろうか。

 明治憲法が大正時代に入って機能できなくなったように、 昭和憲法も制定後40数年が過ぎ多くの問題を抱え、 特に第9条は湾岸戦争を境に拡大解釈が限界に達してしまった。 昭和憲法は朝鮮戦争が勃発して憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」国家の安全と生存が保持できなくなると、 バズーカ砲までは戦力でないと自衛隊を発足させ、 国連加盟の加入に際しては「可能な範囲での協力」しかできないとの覚書を提出し、 国連憲章に定める義務を拒否して、 国連平和維持軍や国連監視軍の責務を逃れてきた。 一方、 ファントム戦闘機の導入に際しては空中給油装置を外せば、 他国の領土まで飛べないので攻撃的兵器でないとの勝手な解釈をし、 国内的には「軍隊にあらずして、 外国で軍隊と見なされる」自衛隊の近代化を進めてきた。 さらに、 日米安保条約の改定では、 日本が攻撃された場合には日米が「共通の危険に対処するよう宣言」しながら、これも拡大解釈により過ごしてきた。 しかし、 この拡大解釈も今回の湾岸戦争で限界に達してしまったように思われる。 かって、昭和日本は世界の常識に逆らって自己の世界観で「五族協和」の満州国を建国し、「アジア人のアジア」などと唱えて「大東亜共栄圏」を造り世界の孤児となったが、平成日本は世界に通じない「一国平和主義」を旗印に平和憲法が足かせとなって、再び世界の孤児となることはないであろうか。

3 湾岸戦争と日米関係

 最後に湾岸戦争後の日米関係で憂慮すべきことは、日米関係に亀裂を生じかねない流れが生まれ強まりつつあることである。 2年前に高級誌『アトランチック・マンスリー』に「日本封じ込め論」が掲載されたが、 湾岸戦争後にはついに“あやしげな"フリードマンの“The War Coming with Japan”(日本名『第2次太平洋戦争は不可避だ』)という「日米開戦論」が発行されるに至った。 一方、日本でもアメリカからの貿易上の圧力や不条理なジャパン・バッシング、 湾岸戦争での「目に見える貢献策」の強要に、 「何もかもアメリカの言うなりになることはない」との素朴な愛国心から、『「NO」と言える日本』『それでも「NO」といえる日本』、さらに『断固「NO」といえる日本』などと反米度を高めた出版物が売れている。 明治のサンフランシスコ学童隔離教育法案に発する人種差別による対立以来、日米間では相互理解が浅いため相互に誤解し、 相互に過敏に反応する ー いわゆるミラー・エフェクトと呼ばれる相互誤解の相乗作用が生じ高まる傾向があり、 それが日米関係に多々問題を生じさせてきた。 このような問題には何よりも冷静な対応が必要であるが、外圧に弱く他国の言動に過敏な日本では、 この『第2次太平洋戦争は不可避だ』がアメリカの3倍から4倍も売れ、ベスト・セラーのコーナーに並べられている。

 冷戦時代には「民主主義を維持する」という日米共有の価値観があり、 またアメリカが対ソ戦略上から日本を必要としていた。 しかし、 かって共通の脅威であったソ連が民主主義体制へと移行しつつあり、 ソ連の脅威が低下し日本の戦略的価値も低下した。そして世界が共通の価値観で連携を深め、アメリカが日本を以前のように必要としなくなった時に湾岸戦争が発生した。 湾岸戦争は日本として民主主義国の一員としてソ連を封じ込めてきた戦友から、 冷戦後の世界秩序を維持する本来の意味のパートナーとして新しい日米関係を確立し、国際国家として認められる絶好のチャンスであった。 湾岸戦争は世界と共通の価値観を共有するか否かを問われた戦争であった。 しかし、 湾岸戦争後に行われた世論調査では30パーセントのアメリカ人が日本が大国としての責任を分担しなかった、と日本に「敬意を失った」。イラクに「敬意を失った」との回答が、301パーセントであったということは、この戦争で世界から侵略者との烙印を押されたイラク並の敵意と不信感をアメリカ人(世界)持たれたということであり、これは今次戦争ではイラク同様に日本が敗戦国になったということではないであろうか。

 一方、 日本では国連の力でイラクの野望を排除したことから、
国連の戦争防止機能や平和維持機能を、 大正の政治家や外交官のように過大に評価し、 国連に世界の平和と自国の安全さえも委託しようとする動きが高まりを見せ、 「新しい国際秩序作りの主役たる担い手は国連しかない」などとの意見が強まりを見せている。また、日本ではアメリカの経済的低迷や貿易赤字に目を奪われ、 「アメリカの世紀はもはや終わったのだ。ポスト冷戦よりも、 『アメリカ』が終わった後の時代こそ、 いま世界が直面する問題なのだ」などと百30億ドルの戦費を負担したことから、アメリカの実力を軽視した議論が台頭し、 さらに重なるアメリカの不条理なジャパン・バッシングにアメリカとの同盟関係を空洞化しかねない方向へ進みつつあるように思われる。しかし、 アメリカと離れて日本の繁栄(経済)と安全(軍事)という国家生存の基本が維持できるであろうか。 この日米開戦50周年を迎えて考えるべきことは、 日米が激しく戦った太平洋戦争の教訓であるが、 その最大の教訓は日米が「共通の価値観」を共有できずアメリカ(世界)を敵に回した愚かさではなかったであろうか。