国防の国際化ー自衛隊を国際的基準で整備し運用せよ
はじめに

世界から孤立した島国の日本では、「国際」という言葉に快感を感じるのであろうか、うらぶれた温泉街や大都会の片隅に、「国際○△観光ホテル」とか、1週間に1回か2回しか外国の飛行機が飛来しない田舎の空港に、「国際□△空港」などの名前が付けられているのを見ると、「背伸びしてるな」「カッコつけてるな」と微笑えましい感じがする。しかし、やたらと「国際」という形容詞を付けた「国際□△大学」とか、「国際学科」「国際交流学科」などの名前が付けられているのを見ると、「ここもか」と感じ、さらに大学の先生などが口を開けば「国際化」とか、「グローバリゼイション」などと念仏のように唱え、国籍を捨てることが善であり、国益を主張することが帝国主義者であるかのごとく論じているのを聞くと、この先生は本当に外国を、国際化の意味を理解しているのかと疑わずにはいられない。一方、市民団体や地方自治体では外国人を呼んだり、仲良くすることが国際化だと勘違いしているのではないかと思えてならない。確かに国際親善も必要であるが、それが国際化ではない。国際化とは世界に通じる価値観や制度を確立することであり、現在、日本が当面している国際化の問題は、日本独特の社会体質や諸制度が21世紀を前にして疲労限界に達し、世界に通じる基準や価値観で行動しない限り、国際的孤立を招き、国際的競争力が低下するという問題であり、この国際化で最も遅れているのが国防の国際化である。そこで本論では国防の国際化ということを中心に書いてみたい。
国際化の意義と限界
国際連合や欧州共同体(EC)、欧州連合(EU)などの国際機構の発達、多国籍企業やNGOなどの民間機関の国家を越えた活躍、国連の平和活動(PKO)、さらに国際的な経済的相互依存関係の深まり、国境を越えた人や物、金や情報の交流が激増し、国家が自国民や自国の経済を排他的にコントロールすることが難しくなつた。そして、このような流れを受けて、ヨーロッパでは入国手続きの省略や無通関での輸出入がかなり以前から行われていたが、本年1月には11カ国が統一通貨を発行するなど、グローバリゼイションが急速に進展し、主権国家のコントロールの拠点である国境がまさに消滅しようとしている。

一方、日本では占領政策、特に東京裁判の影響や東西対立時にソ連や中国の思想攻勢を受け、日教組による戦後教育による無国籍になるという世界にも類を見ないボーダレスの国際化が進んでいる。この国際化(無国籍化)の特徴は、戦争は国家が起こしたので国家権力は悪だと国家を敵視し、国家に対する義務を怠り、権利だけを要求する国家を離脱した「市民」を生み、この無国籍化という国際化は1960年代には「べ平連」による特定の組織に属さない一般国民を動員した安保反対の「市民運動」として展開された。そして、その流れが「市民」という言葉を定着させ、国家があるから国家エゴが生まれパワーポリテックスを生み、国家が市民を抑制し戦争に駆り立てると国家をとらえ、「市民」という言葉が反国家権力の旗印となり、未成熟な戦後民主主義は国家を市民の敵ととらえ、国家や国益を考える者を、国家主義者として攻撃し、世界の人々が国籍を離脱し平和を誓って手を結べば世界に平和が訪れると、無抵抗の話し合い白旗国防論となって今日に至っている。
しかし、「国益」を放棄し世界の人々が精神的に国籍を放棄することが可能であろうか。「地球市民」となって平和を誓って手を結べば、地球上から国家エゴが消え、戦争がなくなり世界に平和が訪れるであろうか。市民を通じた外国人との対話を拡げるだけで、価値観や国益が異なる国々との間で平和を維持できるのであろうか。これらの人々は憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」、教育などにより人間の徳性を磨けば理性も高まり、人間の英知や理性で世界から戦争を消滅することができると夢見ているが、世界はそのように生やさしくはない。全ての人間が完全な理性を持たなければ達成できないような理想社会をいくら思い起こしてみても、それは空想的なユートピアに過ぎない。
この戦後教育によるユートピア思想が間違っていたことは、最近の官僚や企業のトップから若者までの、公に対する考慮に欠ける自己中心的な犯罪の増加を見れば明らかであろう。全て完全な人間がいないように、世界には多様な価値観を持つ国々があり、中にはフィセンや金日正などの独裁者に率いられ、世界の常識が通じない「ならず者国家」という「どうにもならない国」も存在しているのである。国籍不明の市民が輪になって手を繋いで平和を誓えば戦争を防止できると信じているが、それが夢想であったことはコミンテルンが各国の労働者に「働く労働者が手を繋いで戦争に反対せよ。労働者は武器や軍需品の生産をボイコットせよ」と指示したが、この指示が全く無視され、各国の労働者は世界愛より祖国愛を選び、敵愾心を燃やして相互に天文学的数値の非戦闘員を殺傷してしまったことは、第二次世界大戦の歴史を見れば明らかである。地球市民60億の価値観が異なり、道徳律が異なる現在、その利害を乗り越えて理想社会などを造ることはできない。誰が地球全域を覆う異なる宗教や価値観を持っ地球市民というとりとめのなお巨大な社会の道徳律などを規定するのであろうか。国家単位で考えても180数カ国の利害を統一し規定することができないことは、国連の現状を見れば明らかであろう。
国防の国際化
「ビッグバーン」「ビッグバーン」と経済の国際化については関心も高く、経済の国際化は着々と進行中である。しかし、国際化は経済だけでなく、国家存立の原点である国防も見直すべきである。すなわち、国際化とは政治的には世界に通じる価値観を持つことであり、経済的には世界と競争できる企業を育成することであり、軍事的には日本に対する脅威を国際的基準で認識し、この国際的基準の脅威に対処すべき自衛隊を国際的基準で整備し運用することである。 しかし、日本では北朝鮮のミサイルが上空を通過しても、化学兵器の存在が問題視されても、金日正がフィセイン同様に何をするか分からないといわれても、「集団自衛権」「文民統制」など、世界とは全く異なる基準で論じ、「有事法令の制定」やガイドラインにともなう米軍への支援についても、憲法が足かせとなって防衛問題は神学論争の域を出ず、防衛の国際化は一向に進展していない。この結果、諸外国では研究開発費の高価格化にともない兵器の開発を数カ国が共同して行っているが、日本では「武器輸出三原則」などという市場原理に反する規則を勝手に定め、世界の数倍もする戦車や航空機を装備している。国際化をするならば経済のみにとどまらず、兵器の生産も輸出も、列国のODA予算と国防費の比率、防衛費の国家予算に占める比率、さらには軍人恩給などあらゆる分野で国際的な基準で見直す必要があろう。
特に、自衛隊の国際化で必要なことは、生命という「地球より重い命」を懸けて国を守る隊員の名誉や待遇を国際水準に高めることである。外国では大尉殿、大佐殿とサー付けで呼ばれ、待遇も敬意も格段と高いが、成田空港に帰国したとたんに1尉や1佐に降格し、海外で与えられていた名誉も地位も消滅してしまう。軍人は名誉や敬意のために、国民の熱烈な支持を得て命を国に捧げるのであり、死地に飛び込めるのである。それがわが国では名誉も栄誉も与えらず、最近では事務職官僚の天下り問題から特別職若年定年を定められている自衛官の定年後の就職さえままならないという。定年を迎えた「きつい」「危険」「汚い」の3Kの仕事をしてきた自衛官が、「ハローワーク」に列をなような現状に誰が入隊し生命を国に捧げようと思うであろうか。今のような自衛官に対する冷遇と低給与が続くならば、危機が来たときに隊員が四散してしまうことはないであろうか。その時になって侵略者に、「話し合おう」とか、「戦争はいけない」などと「市民」が手を繋いで抗議しても、侵略者は聞いてくれない。
法人税や所得税をグローバル・スタンダードに合わせなければ、国際的競争力が低下するので、これらを外国並に軽減するするという。結構なことである。しかし、何よりの急務は国防の国際化であり、国際的な脅威に対処しなければならない自衛隊を国際的基準で整備し運用することである。現在の日本は汚職・収賄・若者の無気力や非行と、上から下まであらゆる道義的腐敗が進行中であるが、この日本の道義を再生しするための最善の方策は、「地球より重い」貴い生命を有事には国家のために捧げる国家の骨格でもある自衛隊員に国際的基準の待遇と栄誉を与えることである。
歴史の遺訓
日本が世界を相手に無謀な戦争をしなければならなくなった道程の大きな第一歩が満州事変であり、
以後の日本は司馬遼太郎の言葉を借りるならば「気違いが暴れ馬に乗ったように暴走してしまった」。
しかし、 何にが昭和日本を暴走させたのであろうか。 なぜ、 日本は満州事変やシナ事変を起した軍部を統制できなかったのであろうか。
それは明治憲法第11条が規定する統帥権の独立にあった。 大正に入り元老などがこの世を去ると、明治憲法が実情に合わなくなり欠陥が表面化した。しかし、「不磨の大典」として改憲できずに昭和を迎えた。そして、この統帥権の独立と、それに続く大臣現役武官制が軍部の政治介入を許す最大の武器となり、
日本を太平洋戦争へと導く昭和の悲劇を招いたのであった。
明治憲法が大正時代に入って機能できなくなったように、 昭和憲法も制定後40数年が過ぎ多くの問題を抱え、
特に第9条はPKO問題を境に拡大解釈が限界に達してしまった。 しかし、 昭和日本は朝鮮戦争が勃発し憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存が保持できなくなると、
バズーカ砲までは戦力でないと自衛隊を発足させ、 国連加盟の加入に際しては「可能な範囲での協力しかできない」との覚書を提出して、
集団的自衛権を発動する軍隊の派出義務を否定し、 国連平和維持軍や国連監視軍の責務を逃れてきた。
一方、 ファントム戦闘機の導入に際しては外国の領土まで飛べないように空中給油装置を外せば、
相手に脅威を与えないので攻撃的兵器でないと勝手に解釈し、 国内的には「軍隊にあらずして、
外国からは軍隊と見なされる」自衛隊の近代化を進めた。 さらに、 日米安保条約の改定では、
日本が攻撃された場合には日米が共同して軍事行動を取る集団的自衛権を条約に規定しながら、
これも拡大解釈により過ごしてきた。
本稿が出版される時点で、どのように決着するかは分からないが、中村法務大臣が「制定後50年以上にもなる現憲法には、いろいろと時代の進展に合わない点もあり、限界がある」と新年の挨拶で述べたところ、新聞や野党からぞろぞろと辞任要求の声が挙がった。閣僚や政府職員が憲法改正問題を論じることが、閣僚や政府職員の憲法擁護義務に違反しないことは政府の統一見解が出ている。それでありながら、このような発言が問題視される55年体質は依然として解消していない。世界ではアメリカが26回、
スイスが100回 イタリアが15回、 ドイツが36回、 フランスが6回と時代の趨勢に応じて憲法を改定してきたし、イギリスでは柔軟に対応できなくなると成文の憲法さえ制定していない。しかし、
日本では全てが憲法の枠内でなどと、依然として防衛問題はグローバルスタンダードから乖離した神学論争が続いている。
現在の日本が直面している第2の開国という国際化は、文明史的に考えるならば大陸国家である中国から学んだ官僚制度や、大陸国家ドイツから導入した憲法から生まれた明治の諸制度を、デモクラシーと自由経済を国是としている海洋国家イギリスやアメリカのアングロサクソン流に変換しようとするものであるといえよう。かって、日本は天皇から賜った欽定憲法であると、ドイツ式の明治憲法を改憲できなかったため世界の大勢から遅れ、世界の常識に逆らい、自己の価値観、自己の世界観で「五族協和」の満州国を建国し、「アジア人のアジア」とか「大東亜共栄圏」とかを唱えて、世界を相手に戦争に突入してしまったが、平成日本はマッカーサーから賜られた平和憲法を楯に、「一国平和主義」を掲げて孤立し、世界の大勢に遅れ、世界の孤児となることはないあろうか。
明治憲法が昭和日本に太平洋戦争という惨事をもたらしたように、 昭和憲法の世界に通じないに条文にが平成日本に再び惨事をもたらすことはないであろうか。