国の安全と地方自治体

はじめに

 日本の大学では学生を引きつける校名あるいは学部の名前に「国際」「環境」「人間(あるいは地域研究」などという形容詞を付けると応募者が増えるそうである。 そして、学者は口を開けば「国際化」とか「Global化」を唱え、人類とか「地球市民」とか国家の枠を越えることが正義であり、「国家」とか「国益」などという言葉を口にすれば学会などでは村八分になるのが現在の日本の姿である。そして、国際政治学者はTrans-Nationalなどと和製英語かもしれない英語を使って、世界の環境問題を考えよう、地球の安全が犯されていると国家の枠を越え、国家の枠を越え「地球」「人類」を愛することが流行している。

市民国家の幻想

 一方、これとは逆に細川内閣時代から市民という言葉が生まれ「何とか市民の会」とか「何とか市民ネットワーク」などのおばさんが、黄色い声を張り上げてマイクを握りビラを配り、そしてこの流れから中曽根元首相にソフトクリーム党と揶揄された「市民のための政党」と銘打った民主党が登場した。また、官僚の腐敗や予算削減を受けて「市民の手に政治を」「官僚主義打倒」をスローガンに「地方分権」「地方の自治の確立」「地方の利益」が主張され、市民の幸せが国の仕事であり、地方の利益が国益と衝突しても地方の主張が重視される沖縄問題が発生し、地方がそれぞれ地方の利益を求めて独立せんばかりの勢いを示している。そして、これ市民には「国益」とか「国家」、「国民」とかの観念はなく、市民が国家の枠を越えて平和を願って手を繋げば世界に平和が訪れると夢想しているようである。
 相互依存関係や国際関係が進めば国益を追求するパワー・ポリティクスである現実を無視しているのではないであろうか。そして、地球や人類の利益が国の利益より重視すべきである。という市民が福祉予算の配分では国が何をしているかと要求する。一方で、地球市民とか、人類だと叫びながら地方の問題となると地域の利益を主張する。

地方の利益と国の利益

 これも緒戦はムードではないであろうか。地方、地方と横並びがどうなったであろうか。各県に国際化を推進し「おらが県にも国際空港を」と多数の空港を造っては見たが地理的に飛んでくるのは韓国の飛行機だけ、そして成田の個人農家の主張を認め、チンタラ・チンタラしている間にこれら地方空港から外国に行くのには韓国経由が早く安い、遅れて整備を始めた香港空港、シンガポール空港や金浦空港が成田を抜いて、極東のハブ空港になるのではないであろうか。この地方の利益追求横並び姿勢が四国に3本の橋を架けたが、この国の利益と安全をどれだけ阻害したであろうか。 もし、戦争にでもなり、戦争ではなく災害あるいは過激派による爆破などにより3本の橋が破壊されたときには四国への連絡船はほとんどスクラップされ、船が無いと言うことになるのではないか。また、これらの橋が破壊されれば瀬戸内内海の機帆船航路を塞ぎ内海航路を遮断することはないであろうか。これだけの橋を造る金があるならばなぜ、1本位海底トンネルとすることはできなかっのであろうか。これは政治家の責任ではあるが「橋をやめてトンネルとせよ」とでも発言すれば落選させられる橋を架けたい地方住民の地方の利益が許さなかったのではないか。これも国より地方を重視したため国としての利益が失われたが、神戸港のコンテナー埠頭の整備などを国家的見地から重視すべきでったが、地方エゴから予算の重点配分を認めず、全国均等に地方港湾も整備してきた結果、アジアのハブ港を台湾や韓国に奪われてしまったのである。

 戦後民主主義の一つとして進歩的文化人が社会的弱者への目配りを主張し、進歩的文化人が常に国家と市民を分離し弱者としての市民を協調してきたが、市民生活を守るのは市民でなく国家であり、地方の平和を守るのは国家予算で運営維持されている自衛隊である。この市民を守るのが国家であり、それを前提として初めて私人として市民としての権利を国家に要望すべきであるが、日本の市民には国家に対する観念がないだけでなく、国家を地方第二次大戦を抑圧する大勝としか見られないのである。市民生活を守るのは国家でありという事実が見えないのである。地方自治体の分権経過卯が決まり「国と地方自治体は対等」としようとしているが、地方自治を国家と対等とした場合、貧弱な民主主義の体験しかしていない市民国家がどの様なものになるであろうか。 

国の安全と地方の安全

 地方都市には「平和宣言都市」という看板ががやたらと道ばたに立ててあるが、平和を宣言しただけで国の安全が維持できるような甘い世界ではない。地方議員が「平和宣言都市」に反対することは難しく、軽々に賛成しているのであろうが、今後、ガイドラインとの実効性を高めるために具体化するに従って問題が生起するであろう。維持するためには今後地方自治体の協力が必要となるが、それぞれぞれの自治体が自分のところへはゴミ処理場を造ろうとせず、他に廻そうとする、このような対応が望まれるのである。

おわりに

 個人として何をやっても自由との間違った概念が生まれ育ちつつあり、沖縄の問題と国の安全をどう考えるべきであろうか。沖縄の少女暴行事件を境に沖縄の米軍撤退要求が強まり市民の安全を守れないのになぜ、国の安全を守るのかとか。考えるべきことは沖縄の一少女の安全と日本の安全、アジアの安全の比重のどちらを重視するか、いかにするかの問題であるが、このような場合に日本人は冷静さを失い打算できない、そして感情で物事を考えてしまうのである。そして、市民レベルの友好関係を増進すれば世界に平和が生まれると考えている。 戦後教育から自由主義とは何をやっても自由であり、それを抑制する者として国家がありそれに対して権利を要求する側に市民がいる。しかし、民主主義とは国家と市民が一体となった者であり、市民があっ待って国家を形成しているのであり、個人があって国家があるという民主主義と原点が忘れられている。国家を無視あるいは改造して、それが市民国家となれるであろうか。あくまでも市民が国家の構成員なのである。 秋山真之が残した「天剣漫録」に「一身一家一郷ヲ愛スルモノハ悟道足ラズ。世界宇宙ヲ愛スルモノハ悟道過ギタリ。軍人ハ満腔ノ愛情ヲ君国ニ捧ゲ上下過不足及ナキヲ要ス」との言葉を自衛官諸兄に贈り、本論の結びとしたい。