歴史に学ぶー科学技術重視の盲点

はじめに

 特集号を「科学技術と防衛」にすると原稿を依頼された時に、 軍備縮小を迫られた軍人や学者が、 科学技術を重視し新型武器(当時は戦車と飛行機)を装備し、 これらを操縦できる少数の精鋭兵士さえいれば国防は万全であり、 「歩兵はもはや無用の長物」との主張が持て囃された第一次世界大戦後の状況を思い出した。 そして、 多分、 本誌には第一次大戦直後のように、 きっと科学技術の重要性を強調する論文が多数掲載され、 陸上自衛隊の定員削減に対する不安や危惧も多少は薄れるかもしれない。 確かに一次大戦では戦車や飛行機、 潜水艦から毒ガスなど多種多様な新兵器が出現し、 第二次大戦では第一次大戦時に出現した戦車や航空機が戦局の趨勢に大きな影響を与えた。 また、 第二次大戦ではレーダーや原子爆弾などの画期的な新兵器が出現し、 日本海軍はレーダーに陸軍はブルトーザーとペニシリンに負けたとさえ極言する人もいる。 このように科学技術が戦争の趨勢を大きく左右し勝敗を分けた。 しかし、 戦争の帰趨を決したのは新兵器だけであったのでろうか。 科学技術重視に落とし穴はなかったであろうか。 常に未来を見たがる科学者と異なり、 常に後ろを見たがる歴史家として、 科学技術を重視したため軽視あるいは無視された要素が、 その後に与えた影響について書いてみたい。

新兵器と小数精鋭主義

 第一次大戦で大量の兵士が前線に送られ大量の戦死者や負傷者を出した西欧先進国に、 戦後は科学的奇襲を重視し新兵器を装備した少数の精鋭で国防が可能になったとの少数精鋭主義の軍事理論が、 ジョン・フェリドリック・フラー(英)、 ジュリオ・ドゥーエ(伊)、 フォン・ゼークト(独)、 ウイリアム・ミッチェル(米)などの戦略家や戦術家から提示された。 最初に戦車を戦場に投入したイギリスではフラーが、 武力の概念が兵士から機械へと移行し、 将来戦では機械車両(戦車やトラック)を操縦し整備できる兵士、 機械のなかに生まれ育ち機械に精通した少数の精鋭が操縦する戦車部隊の前に、 歩兵の大軍はなすことなく殲滅されるであろう。 戦車は戦闘力、 防御力および機動力に優れ、 行軍時間を短縮するだけでなく容易に敵陣を突破できる理想的な兵器であると主張した。 このフラーの機械化軍隊論はフランスやドイツに伝搬し引き継がれ、 特にドイツ陸軍を再建したゼークトに少数精鋭主義の理論的基盤を与えた。 ゼークトは「数は重要であるが基本的重要性を有するものではない」。 新しいドイツ陸軍は敵国に進撃して戦う職業的精鋭部隊と、 この精鋭部隊の後備として自国の防衛や占領地の警備などに服す予備役部隊から構成すべきであるとしてドイツ陸軍を再建した。 そして、 第二次大戦の緒戦では戦車と航空機を中心とした機械化部隊を整備したドイツ軍が、 対ポーランド戦、 対仏戦、 そして対ソ戦では「電撃的進撃作戦」を展開し、 短期間にヨーロッパを席巻して世界を驚嘆させた。

 一方、 イタリアではドウーエが、 「将来戦の決定的領域は空中にあり、 政治や経済の中心地である最重要都市に300トンの爆弾を投下するならば、 この未曾有の破壊力によって国家体制が麻痺し、 爆撃を受けた国家が1カ月以上戦争を継続することは不可能になるであろう」と、 戦略爆撃と征空権重視の「空中機械化主義」を主張した。 さらに、 ドウーエの空中機械化主義はアメリカではミッチェルによって「戦争の主力は空軍にあり、 空軍は沿岸に来襲する敵艦隊への主要な防御者であり、 航空機は敵の艦艇に対して絶対的に優位な地位にある。 将来の戦争では陸軍も海軍も存在価値を失い、 戦争は中世の騎士団の戦いのように特殊階級のパイロット間だけで行われ、 もは国民が陸海軍の兵士として戦争に参加する必要はなくなるであろう」とさえ主張した。

 このような極端な科学技術重視の理論が第一次大戦後に受け入れられたのは、 大量動員にともなう大量の戦死者や負傷者の発生に対する国民の不安や不満、 戦後に締結された各種の平和条約や国際協約などの国際協調主義への一時的幻想、 威力ある新兵器の効果への陶酔などから、 一般大衆の心理に深く刻まれた平和に対する願望から歓迎され受け入れらたのであった。 そして、 戦争の悲惨を味わった西欧諸国では技術的要素の極端な重視と精神的要素を否定する風潮が高まって行ったのであった。

武器より精神力重視の日本陸海軍

 一方、 財力、技術力などに欠け近代兵器を装備できなかった日本陸軍は、 「勝敗ノ数ハ必ズシモ兵力ノ多寡ニ依ラズ」。 訓練され攻撃精神に富む軍隊は「寡ヲ以テ衆ヲ破ルコトヲ得ル」のであり、 「必勝ノ信念堅ク軍規至厳ニシテ攻撃精神充溢セル軍隊ハ、 能ク物質的威力ヲ凌駕シテ戦捷ヲ完ウシ得ル」ことを強調した。 すなわち、 陸軍は戦力の量的質的不足を「忠君愛国ノ精神」と、 その「忠君愛国ノ至誠ヨリ発スル軍人精神」と「必勝ノ信念」に求めた。 一方、 兵器の優劣が戦勝を決する海軍では、 多少は科学技術を重視し、 世界に誇る零式戦闘機や酸素魚雷などの新武器も装備したが、 十分な量を装備できなかった海軍が期待したのは、 「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に当たる」との「月月火水木金金」の猛訓練であった。 しかし、 アメリカ海軍との兵力量に格差が生じ訓練による練度の向上だけでは勝利が望めなくなり、 さらに国内に国粋的ムードが高まるとともに、 海軍大学校では精神力を重視した日本最古の兵術書の『闘戦経』が講じられた。 そして、 日本は「神武の国であり『まこと』の国」であり、日本の戦争は「誠の国」の正義の戦争であるから神の加護により必ず勝利する。 「兵道は能く戦うのみ」、 常に「正々堂々」と戦うべきであるとして、 軍紀の厳正や個人の武勇ばかりが推奨され、 精神力偏重のまま太平洋戦争に突入し、 最後は「正々堂々、 唯々、 戦うのみ」と「十死零生」の特攻攻撃となってしまった。

 また、 「時日ノ経過ニ伴ヒ益々偉大ナル国力ヲ発揮」する大国に対して戦わなければならない貧弱な日本海軍は、 アメリカ海軍の動員完了前に「速戦即決」の「早期決戦」を強いるしか勝算は見い出せなかった。 海軍は今後の戦争が長期持久戦になるとの戦訓を無視し、「速戦即決」「早期決戦」しか戦えない貧弱な国力に用兵綱領や海戦要務令を合わせ、 「先制ノ利益ヲ占メ攻勢ヲ取リ速戦即決ヲ図ルヲ以テ本領トス(用兵綱領)」、 「決戦ハ戦闘ノ本領ナリ。 故ニ戦闘ハ常ニ決戦ニヨルベシ(海戦要務令)」と化学的合理性を無視し、 「速戦即決」の「決戦思想」が強調されていった。 このように、 陸軍に比べれば多少は合理的で科学的であった海軍も、 科学技術や物量に欠けると、 精神力と即戦即決の短期決戦へと流され、 練度と大和魂があるので「アメリカ海軍に勝てはしないが、 負けもしない」などとドイツの勝利に幻惑されて無謀な戦争に賛成してしまった。

歴史の遺訓ーバランス思考の重要性

 先端技術を装備した武器を運用し、 合理的判断が要求される自衛隊の指揮官には理工科系の知識が不可欠である。 しかし、 第二次大戦の歴史は次のことを教えている。

   1 科学的思考重視による大局的視野の欠如(海軍)
   2 精神力、 指揮官の統率力の重要性(陸軍)
   3 新技術度導入には勇気と挺身(空軍)

 第二次大戦末期に陸軍の政治力に対抗できない海軍は、 部外の学者に政治力の育成対策を依頼し、 1944年5月に海軍大学校研究部から「陸海軍軍人気質ノ相違ー主トシテ政治力ノ観察」として配布した。 その研究によれば、 陸軍は兵器より人を対象とし、 海軍は艦船や高度の機械化された兵器を対象としているため、 「主体的意欲的ニシテ精神主義ヲ重ンジ科学ヲ寧ロ軽視シ、 主観的、 独断的、 非科学的ニシテ目的ノタメニハ手段ヲ選バズ、 強引ニシテ野性的」な傾向がある。 これに対して海軍は「客観的科学的思考ヲ基礎」とするため、 「将来ニ対シテ極メテ慎重タルト同時ニ臆病タル傾向ヲ有ス」。 「客観的判断ヲ重ンジ、 合理的ナルモ機械力及ビ物理的条件ヲ過重視シ、 主体性ヲ欠キ批判的、 保守的、 退嬰的トナル傾キヲ蔵ス」。 また「局部的見解に囚ハレテ大所高所ヨリノ見解ヲ欠ク」ため国内政治への影響力を失ったとの報告が提出された。

 特に、 海軍は若年士官や兵学校生徒が5・15事件を生起させたため、 「専心各自ノ本分ニ精励シ上下相信ジ軍規ノ粛正ニ全力ヲ傾クルヲ要ス」と、 自己の職務にのみ専心精励し政治へ関与しないようにと、 ことごとに事件の再発防止に努めた。 このためか、 海軍ではその後このような事件は起きなかった。 しかし、 この事件の衝撃から強化された“Silent Navy"教育が海軍を政治から遠ざけ、 高い次元の議論や研究を忌避させ、 そして、 それが昭和海軍に政治的判断が入る戦争指導という戦争全般の研究を忌避させ、 政治的判断が入る部分は総て「想定」として、 唯々戦術的術科的訓練や艦隊演習を繰り繰り返させたのであった。
第2の遺訓は兵士の士気であり指揮官の優れた統率力の重要性である。 第二次大戦は科学技術と米英の物量作戦に敗れたと良くいわれるが、 戦争は緒戦は人と人との戦いであり、数倍の敵に包囲されながら善戦したビルマのコヒマにおける日本陸軍の戦闘や、 硫黄島の兵士の闘魂、 そして祖国のために散って行った特攻隊員など、 戦闘場面においては兵士の高い士気や祖国愛、 指揮官の統率や精神力が極めて重要であった事実を忘れてはならない。第二次大戦中の硫黄島の攻防戦では、 面積僅かに20平方キロの小島に約4000機の航空機が約8400トンの爆弾を投下し、 艦艇からは1万4250トンの砲弾が打ち込まれた。

  しかし、 5日間で占領できると計画していた硫黄島を占領するのに、 1カ月余を費やし、 さらに攻撃側が防御側より多い2万8686名の死傷者を出す苦戦をアメリカ軍は強いられたのであった。 とはいえ、 重要なのは数量であり兵士の数である。 確かに第二次大戦ではドイツの戦車、 航空機を統合した電撃戦や日本海軍の航空機が緒戦の戦局を飾った。 しかし、 戦勝を確実にしたのは「もはや無用の長物」といわれた第一次大戦の6500万人を上回る7260万人の兵士であり、 最終的には近代兵器を運用する兵員の練度や士気、 そして兵数の多寡であり少数精鋭主義は通用しなかった。

 第3の遺訓は新しい技術や戦術の実用化には不動の信念と、 立身出世を顧みない祖国愛が必要であるということである。 ドゥーエやミッチェルの見解が正しかったことは第二次大戦で証明されたが、 発表した当時は全く異端児とされ、 ドゥーエは空軍力軽視の戦争指導を批判したために第一次大戦中に1年の禁固刑を、 ミッチェルは陸海軍の航空機を統合し独立空軍を創設すべきであると激しく陸海軍当局の政策を批判したため5年の停職処分を受けたのであった。

 日本は科学技術に敗れ、 非合理な精神力を過度に重視した反省から、 戦後に創設された防衛大学校の教育は理工科系教育を主軸として発足した。 しかし、 その後に世界情勢が大きく変わり、 指揮官に要求される資質も大きく変わった。 冷戦下には同盟国との緊密な連携など集団的安全保障体制が生まれ、 冷戦後には世界の安定化のためのPKO活動など、 自衛隊の任務が国際化した。 この国際化した自衛隊幹部に必要なのが同盟国や派遣される地域の文化や伝統、 語学などの文科的な要素であり旧海軍に欠けた「大所高所ヨリノ見解」であり、 バランスの取れた偏することのないいわゆる「政治力」である。また、 政治的制約を長らく受け続けて来た自衛隊は、 旧海軍と同じように憲法や政治がからむ問題や演習を避け、 政治的判断が入る事態を総て「想定」として、 唯々演習場における戦闘訓練や術科的訓練に埋没してはいないであろうか。