中国の脅威−口舌力と日米中関係


はじめに

 アジア太平洋地域における冷戦後の安全保障環境は領土紛争にともなう反目だけでなく、 歴史的、 文化的、 宗教的にも多様であり、 その複雑性と流動性が問題であるが、 これらの問題に大きくかかわる国は中国、 それにアメリカと日本である。 アジアの安定の鍵である日米中関係をいかにすべきであろうか。 いかなる点に留意すべきであろうか。 以下、 この問題を「孫子の兵法」を経典とし、 マスコミを利用する典型的な中国の口舌外交を軸に考えてみたい。

アメリカの中国観

 日本人の多くは日中が同一文字を使用し、 距離的に近く、 文化的、民族的にも類似していることから、 日本が米中の間に入って米中関係を円滑化すべきであると主張する論者もいる。 しかし、 日米中関係を考えるときに、 最も重要な視点はアメリカから日本と中国を見るという地理的視点で、 この視点を失うと真の日米関係も日中関係も見えてこない。 日米中関係を考える場合に、 アメリカから見れば日本を選ぶか、 中国を選ぶかの問題であり、 分かりやすくゲスな言葉を使えば、 アメリカという荒馬に乗った単純なカーボーイのお兄ちゃんが、 ジャパニズガールを選ぶか、 チャイニーズ・クーニャンを選ぶかの問題であり、 日中は常にこの気まぐれなカーボーイのお兄ちゃんをめぐる三角関係の争いを続けて来たということである。 そして、 カーボーイのお兄ちゃんは、 常に日本娘より中国娘に引かれ、 中国娘の言い分を聞き、 同情し援助をしてきたが、 それはジョン・ヘイの門戸開放宣言が示すとおり、日本の10倍以上もある人口、 すなわち中国市場への魅力であり、 世界有数の歴史に支えられた中国文化への敬意とあこがれであり、 中国娘の口舌力という中国の政治外交力によるものであった。

 日米関係の歴史を回顧してみると、 アメリカは日清・日露戦争まではロシアの南下を阻止するために日本を支援したが、 満州事変から第二次大戦までは中国を支援し、 大戦が終わり中国が共産主義国家に変わると、 その包囲網の一環として日本を支援したことが示すとおり、 アメリカのアジア政策は日中の間で揺れ動いてきた。 一方、 日本は明治以来、 中国市場の先達者であるイギリスと攻守軍事同盟を結んでいたが、 この同盟は日米安保と同様に単なる軍事同盟ではなく、 中国の独立と領土保全、 商業における機会均等を協定し、 中国における「共通利益ヲ維持スル」ことを目的としたする経済的政治的同盟でもあった。 しかし、 第一次大戦中に日本はイギリスやアメリカが、 戦争で中国にかかわれないのを利用し、西原借款に代表される多額の借款を与えて、 第一次大戦が始まった1914年には955社に過ぎなかった商社を、 大戦が終わった1918年には4483社に増加させるなど、 着々と中国における地歩を築いていった。 そして、 この急激な中国への進出が日英を分断する一つの因子となったのであった。 戦争が終わり日英共通の敵が消えると、 「共通ノ利益ヲ維持スル」という日英同盟に違反しているととの抗議がイギリスの経済界に高まり、 日本が日英同盟を悪用し中国進出を企てているので破棄すべきであるとの意見が聞かれるようになった。

 一方、 列強から遅れて中国市場に参入したアメリカは、 日本が日清戦争に勝つと、 明治32年(1899年)に門戸解放宣言を発し、 中国市場での機会均等を求めた。 中国に最大の利権を持つ日本はすでに確保した中国の権益を守ろうと抵抗した。 さらに、 第一次大戦中に日本に中国市場を押さえられたアメリカは、 巻き返しを図り門戸解放政策を旗印に、 大戦中に日本が確立した中国大陸の既成事実を覆そうと画策した。 そして、 アメリカは日本を国際的に孤立化させ、 日本に譲歩を迫る政策を推進した。 アメリカはイギリスに対して日本の中国への侵略的な政策にイギリスが加担せざるをえない立場に追い込まれ、 英米の共同歩調が不可能になると日英同盟の継続に反対した。 そして、 ワシントン会議で英米日仏の4カ国間に太平洋の領土をめぐって紛争が生起した場合には、 必要に応じて協議することを協約した「四カ国条約」を締結し日英同盟を解消した。 また、 中国問題については、 中国に関係ある九9カ国が互いに中国の独立と権利を尊重し、 中国市場への門戸開放・機会均等を協約した「中国に関する九カ国条約」を締結し、 ここにアメリカはジョン・ヘイ以来の伝統的な門戸解放政策を国際的に法文化し、 日本の中国進出を抑止したのであった。

口舌力と米中関係

 アメリカ人が中国文化や中国に敬意と親近感を抱くのは、 パールバックの『大地』の素朴な可哀想な中国人とのイメージや、 日本の侵略に抵抗する中国人への“Under Dog"の感情が交差した親近感と同情、 また中国に派遣された宣教師や華僑と呼ばれる中国系アメリカ人などのアメリカ国内の政治的影響力、 さらに「孫子の兵法」を外交に適用する中国の口舌力-政治外交力にあった。 口舌外交力の例を昨年6月の李登輝台湾総統の訪米や、 本年1月の総選挙をめぐる中国の対応についてみると、 中国は台湾近海でミサイル発射訓練や上陸演習などの威嚇的軍事演習を実施し、 メディアを動員して激しい非難を李登輝や独立派に加えたが、 この非難は「李登輝は千古の罪人である」、 「李登輝を歴史のゴミために掃き捨てることが、 海峡両岸の中国人の歴史的責任である」などと口汚くののしるもので、 李登輝総統は日本の記者に、 「これまで私は12回も中国の論文で批判されたが、 日本ではこれに耐える首相はいないのではないですか」、 と語るほど強烈なものであった。 中国の交渉は第三者から見ると、 表面的には激しくテーブルを叩きあっているが、 双方ともテーブルの下で握手する手を探しているといわれているが、 このような対応は数千年にわたり広大な大陸民族・多言語社会のなかで、 合従連衝を繰り返してきた中国特有の交渉術で、 問題は民主主義体制の日米にはかなりの困難を伴うものであり、 日米国民に中国の口舌力に耐える力がないことである。

日米中関係

 次に日本に重要な日米関係を考える場合に留意すべきことは、 アメリカ人は素朴で理解も速いが、誤解も速く、 自己の正義感(都合)で猪突猛進する。 さらに問題はアメリカの政策が世論により急激に変動することで、 アメリカ外交は常に国際主義と孤立主義あるいは関与縮小論、 覇権主義とパートナーシップ論、 そして欧州重視とアジア指向との間で、 さらに、 日中の間で常に揺れ動いてきたことである。 この単純で動揺するアメリカの「カーボーイ的外交」には、敏速な対応、特に、アメリカの世論が動き出す前に、未然に手を打つ先見性のある対応が必要である。 しかし、 日本の対応は沖縄のレイプ事件への対応が示すとおり、 常に理性に欠け感情的であり、 「和」を第一とするため対応が遅れ、 大胆な政策転換ができず、 常に後手後手となってしまったのであった。 すなわち、 満州事変から日米開戦までの日本の対応をみると、 国内における未熟な政党間の政争、陸海軍の対立や過敏に反応する国際感覚に欠ける世論の影響を受け、常に対処外交に終始し、 それが第二次大戦に連なってしまったのであった。 第二次大戦中のイギリス首相であったチャーチルは、 「アメリカは蒸気ポンプみたいなものでなかなか動かないが、 一度蒸気圧力が上がってしまうと止めても止まらない。したがってアメリカを動かすには、 前以てアメリカをどのように動かすかを定め方向を明確にして、 御者に分からないように徐々に馬の鼻面を自分の望む方向に向け、 あとは御者に気づかれないように思い切り馬の尻に鞭打てば思うように動いてくれる。 しかし、 途中で方向を変えることは極めて難しいと述べているが、 これこそ、 対米外交の鉄則であろう。

 対中国関係で留意すべきことは、 前述したように中国の口舌外交力である。 「孫子の兵法」を経典として外交を展開する中国が、 いかに難しい相手であるかは歴史を見れば明らかで、 日中関係の歴史は単純で、 短期思考の政治力に欠ける日本が、 常に口舌力に負けて先に手を出し、 世界の非難を受け、 振り回されてきた軌跡であったといえよう。 現在の中国の対日外交カードは戦争責任問題であり、 このため中国は今後ともことあるごとに、 戦争責任問題や自衛隊の国連平和活動を非難するであろう。 この中国の口舌外交に対処するには、 世界に通じる史実に裏付けられた世界共通の歴史観の確立が必要であるが、 いくら中国に歴史的史実を示し、 正しい歴史を主張しても、 中国は「アー言えば上裕(じょーゆー)」を繰り返すだけであろう。 それは中国から日本を見れば、 アメリカ軍のプリゼンスが後退したアジアの覇権を維持する国家は経済的には日本しかない。 このアメリカの軍事的空白を埋める余力も実力も中国にはない。 その 「朝日新聞社長の訪中を歓迎する    中国が最も恐れているシナリオは、 この間隙を縫って日本が    江主席と1面で大きく報ずる人民    一方国連平和維持軍などを派遣して、 国際的な義務を果たしア  日報」(朝日新聞は中国の偉大な友)  ジア諸国の信頼を受けて政治大国にのしあがり、 アジアの大国になることである。 日本が経済的にいかに大国となっても国家としての道義心に欠け、 アジア諸国から信頼されない限りアジアで影響力を発揮することはできない。 この観点から日本の国際貢献阻止とアジア諸国の反日世論の高揚は、 東南アジアでの中国の影響力を維持する上から極めて緊要である。

 日中の歴史に詳しい山梨勝之進海軍大将は、 イギリスの外交官から聞いた中国人との交渉術として、 中国の役人が何か難しい問題や要望を持ち込んでも、 決して議論には乗らず意見は述べない。 話を全部聞いてから本国に相談に帰ると、 半年位の長期休暇を取って帰国してしまう。 そして、 半年後に帰ってみると、 中国では相手が代わっているか、 変わらないとしてもその問題などは忘れられ、 中国人が2度とその問題を持ち出すことはない。 「中国人とは決して議論してはならない」と書いているが、 確かに、 日本が中国の策に嵌められずに友好な関係を維持できたのは、 朝貢外交を展開した遣唐使・遣隋使の時代と、 社会党が時たま訪れ「日米安保は日中共同の脅威」などとお題目を唱えていた表面的な儀礼的な国交のあった期間でしかなかったことを歴史は教えている。