朝鮮戦争時の日本の価値-掃海部隊派遣を中心に
はじめに
元韓国陸軍参謀総長の白善 大将は防衛大学校での講演で、 「韓国戦争では我々が釜山橋頭保に押し込められたとき、後方は海が開け十分な補給があった。 その基地になっていたのは日本であった。 また、 当時米国の占領下にあったがゆえに問題にならなかったが、 元山や仁川の掃海を担当したのは日本だった。 そういう意味では日本は事実上あの戦争に参戦していた、 といってよいのかもしれない(1)」と述べているが、 事実、 日本は韓国に掃海艇延44隻、 試航船2隻を派出した。 新しい日米の防衛協力の指針(新ガイドライン)にも「機雷の除去、 機雷に関する情報の交換」が規定されていることから、 本論ではあまり知られていない朝鮮動乱に派遣された特別掃海部隊をめぐる問題や、 その活動と評価を軸として、 新しいガイドラインの運用や今後の日韓両国の防衛協力上から検証してみたい。
1 特別掃海隊の出動
1950年6月15日に北朝鮮軍が38度線を越え朝鮮動乱が始まったが、 重火器や戦車に欠ける韓国軍とアメリカ・イギリス軍などからなる国連軍は後退に後退を続けていた。
釜山橋頭保に追い詰められた国連軍の運命は風前のともしびであり、 世界は「ダンケルクのアジア版」が起きるであろうと予想した。
この危機を救ったのが日本から急速に展開された在日米陸軍であり、 沖縄、 フィリピンやグアムなどの極東各地から日本本土に集められたアメリカ空軍であった(別紙第1参照)。
また、 防勢作戦から攻勢作戦へと絶望的な軍事情勢を一転させたのが、 9月15日の仁川奇襲上陸であった。
仁川に上陸した国連軍は1週間でソウルを解放し、 勢いに乗じた国連軍総司令官マックアーサー(Douglas
H.MacArthur)元帥は、 東海岸の元山上陸を計画し10月15日を上陸日とした。 しかし、
海軍力に劣る北朝鮮軍はソ連の援助で朝鮮各地の港湾に約3000個の機雷を敷設していた。
9月7日に朝鮮半島西岸で機雷が発見されると、 11日に太平洋艦隊司令官は機雷警報を発した。陸上支援の艦砲射撃を行うためにも、
朝鮮各地に進撃した国連軍への補給港を確保するためにも、 また北朝鮮軍を東西から分断するため元山への上陸作戦を行うためにも、
多数の掃海艇が必要であった。 しかし、 韓国海軍の掃海艇は掃海具の装備がなく、
そのうえ創設直後のため練度も低く、 アメリカ海軍によれば「幹部は優秀であり意欲的ではあったが、
機雷敷設位置を示すダン・ブイの設置作業も自信をもてるほど訓練されていなかった(2)」。
また、 アメリカ海軍は大部分の掃海艇を本国に引き上げており、 極東所在の掃海艇は4隻の鉄鋼製掃海艇(3隻は保管船状態)と6隻の木造補助掃海艇しかなく、
そのうえ機雷戦を経験した掃海特技を持つ士官も兵も復員して各艇は定員を大きく割っていた(3)。
一方、 日本にはアメリカ海軍から日本は「掃海作業に熟練した優れた隊員」から構成された掃海艇と掃海母艇など84隻を持っている。
これら掃海艇は小型でエンジン馬力が小さく消磁装置はないが、 過去5年間も掃海作業に従事して来た(4)」と高く評価されていた掃海部隊があった。10月2日に海上保安庁長官大久保武雄は、
アメリカ海軍極東司令部参謀副長アーレイ・バーク(Arleigh A.Burke)少将に呼ばれ、
「掃海艇を残らず対馬海峡地域に集合させて元山沖の機雷掃海を援助し、 仁川の敷設機雷の後始末を支援するよう」要請された(5)。
大久保長官は「ことは重大、 一人で決められるような問題ではなかった」ので、 直ちに時の総理大臣吉田茂を訪ねて経過を報告し指示を仰いだ(6)。
厳しい選択を迫られた吉田総理は「国連軍に協力するのは日本政府の方針である(7)」と掃海艇の派遣に応じた。
そして、 占領軍の命令として在日アメリカ海軍司令官から運輸大臣に「日本政府は20隻の掃海艇と試航船1隻、
巡視船4隻を門司に終結させ以後の指示を待て。 なお、 現在、 横須賀および佐世保港で日施掃海(毎日の確認掃海)を実施中の6隻は上記の20隻には含まないものとする」との指示が発せられ(8)、
海上保安庁は直ちに「米側の指令により朝鮮海峡の掃海を実施することになりたるにつき、
下記に示された船艇は至急門司に集結せよ(9)」との命令を発し、 航路啓開部長の田村久三(のち海上自衛隊、
海将補)を総指揮官に任命した。
2 朝鮮半島における掃海作業の実状
(1)第2掃海隊の戦線離脱

第2掃海隊指揮官に指定された第5管区航路啓開部長の能勢省吾(のち海上自衛隊、 海将補)は、 浮流機雷の掃海程度と考えて躊躇することなく「ご命令とあらば」と下関に向かった。 しかし、 下関に着くと「日本掃海部隊は第95・66任務部隊(Task Unit 95.66)としてアメリカ第7艦隊司令官の指揮を受けること、 艇名および艇番号などを示すマークは総て消去すること、 日の丸の代わりに国際信号旗E旗を揚げること」などが指示され、 さらに朝鮮水域における10項目にわたる機雷情報と12項目の安全守規が説明された。これを聞いた各艇長の間には、 今回の掃海が朝鮮海峡の単なる浮流機雷の処分ではなく、 朝鮮戦争そのものに参加させられるのではないかという疑問が、 不信と不安が広がるとともに「朝鮮の現地米海軍指揮官の指揮下に入るということは、 朝鮮戦争に参加させられるのではないですか。 それは憲法違反ではないですか」と田村部長に質問が集中した。 しかし、 田村部長からは何ら適確な回答は得られなかったという(10)。 当時世間では挙げて戦争を嫌い、 日本が戦争をやったからこの敗戦の苦しみに唖いでいるのだという風潮に満ちていた。 「行かされる者」にとっては平和憲法が成立し世は平和ムードに溢れているときに、 もはや軍人でない単なる運輸省の事務官が、 突然「出動命令」を受けて戦争に参加を命ぜられたのであった。 朝鮮への出動を伝え聞いた家族が、 岸壁に横付けしている船から夫を捜し出し、 戦争が終わったのに今更外国の戦争に参加することはないと涙ながらに口説いた。 また隊員の気持ちは「日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのであるから、 いまさら他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしに行く理由はない。 さらに我々はもう軍人ではなく、 日本再建という使命だけを担なって国内の掃海作業に挺身的に努力して来たのである。 外国の掃海をするために戦争に行くというのは納得致しかねる。 然し占領軍の命令とあれば、 日本政府としては之に従わざるをえないのではないか(11)」というのが出動を前にした会議を終えての心境であったという。

第2掃海隊(掃海艇4隻、 巡視船3隻)は10月8日午前4時、 田村総指揮官乗艇の「ゆうちどり」を先頭に出港し、 10日早朝に元山沖に到着した。 掃海は翌11日の永興湾沖合の船団泊地から始められ、 翌12日には元山港入口まで約15海里、 幅2000メートルの水路をアメリカの掃海艇とともに掃海を始めた。 しかし、 港内に進入すると間もなくアメリカの掃海艇パイレーツ(Pirate)とプレッジ(Pledge)が続けて目前で触雷沈没し、 死者12名負傷者92名を出した。 このため掃海は一時中止されたが上陸作戦の期日が迫っており、 14日には湾外の掃海が再開され、 17日から再び湾内の掃海が開始された。 しかし、 掃海具を曳航して湾内に進んだ掃海艇14号が触雷し瞬時に沈没、 1名が殉職し2名が重傷、 5名が中傷、 11名が軽傷を受けた(12)。 掃海を中止した各艇は旗艦「ゆうちどり」に集まったが、 各艇長は「約束と全く違う。 だまされた」。 「戦争にこれ以上巻込まれたくない。 掃海を止めて日本に帰るべきだ」と掃海中止を主張した。 討議の結果、 田村総指揮官と能勢指揮官はアメリカ軍から機動艇や交通艇を借り、 小型艇による事前の浅深度掃海を実施した後に本格的掃海を行うという日本式掃海を行うことで各艇長を説得し、 翌日には第3掃海隊指揮官スポフォード(Richard.T.Spofford)大佐の了承を得た。 しかし、 その後に先遣部隊指揮官スミス(Allen E.Smith)少将から「今から小掃海を行う時間的余裕はない。 当初予定した通りの対艦式大掃海を実施せよ」と日本側要求は覆されてしまった。 日本側は再考を申し出たがスミス少将の回答は、 「明朝0700に出港して掃海を続行せよ。 然らずんば日本に帰れ。 15分以内に出なければ砲撃(Fire と Hireの聞き違い)する」という強硬なものであった。 砲撃されると誤解した第2掃海隊は機関故障で修理中の掃海艇17号を横抱きにして日本に向け元山を後にした。 日本政府は直ちに第3特別掃海隊(掃海艇5隻、 巡視艇3隻)を、 続いて第1掃海隊(掃海艇6隻、 巡視艇1隻)を派出した。 一方、 元山から帰国した能勢司令以下3名の艇長はアメリカ海軍の強硬な圧力により退職させられた(13)。
仁川に向かった第1掃海隊(掃海艇4隻、巡視艇1隻)は10月4日に下関に集結し、
10月7日に仁川に向け出港したが、 これら掃海艇は船体機関の整備を実施する余裕も、
事務打ち合わせを行う余裕もなく現地に向かった。 とはいえ、 第1掃海隊やその後に派遣された掃海隊は国連軍が占領した地域での掃海であり、
1隻が座礁沈没したほか大きな問題はなかった。 しかし、 平和な生活から一瞬に戦場に投入された掃海部隊は、
戦時急造の貧弱な木造船で、 船体機関は戦後の日本周辺の連続掃海によって老朽化しており、
整備は困難を極めた。 また掃海現場が冬季の季節風の吹き荒れる悪天候、 酷寒の日本海や黄海であり、
掃海部隊は補給不如意で水がなく、 サイダーで米を炊くという筆舌に絶する困難に遭遇した。
また、 「夜になると仮泊している島陰に老人ばかりの小船が近付き、 赤ん坊に食べさせる粥もない。
ランプもマッチもない。 何もない。 かにもない。 12月の粉雪の降る中で老姥が荒海に潜って、
貝や海草を採集し辛うじて家族の飢えを凌ぐ姿を見てきた隊員は窮状を見かねて灯油、
米、 コンデンス・ミルク、 そしてマッチまで与えた」。 「昼間は戦争、 夜は難民救済、
こなことを出港前に想像ができたであろうか」と、 参加した隊員は当時を回顧している(14)。
そして、 第1掃海隊指揮官の山上亀三雄(のち海上自衛隊、 海将補)からは、 「終戦以来5年間長足に進歩せる技術に対して旧態依然たる、
否それ以下の貧弱なる技術と掃海具で」、冬季厳寒の候に戦場に近い北朝鮮で機雷掃海に当たることは、
「到底その任に耐えられんことは火を見るより明らかである」。 「我々の能力があまりにも高く評価されていることは自縄自縛で、
この際あっさりフランンクに自己を認識し、 正直にありのままを米極東海軍に申し入れ善処されんことを切望する」。
「我々の能力以上のことをやることは極めて危険である」との所見を提出した。 しかし、
この意見は認められなかった(15)。
3 掃海隊派遣の成果
特別掃海部隊は掃海隊と試航船とに分かれ、 別紙第2に示す通り1950年10月中旬から12月初旬までの2ケ月間にわたり元山、
郡山、 仁川、 海州、 鎮南浦などの掃海に従事し、 試航船(自船を触雷させて機雷を処理する船)泰昭丸が11月18日から30日まで、
試航船桑栄丸が1951年4月6日から1952年6月30日まで、 仁川、 木浦、 麗水、 馬山、
釜山、 鎮海などの港湾や航路の試航を行った。 朝鮮に派遣された特別掃海隊は延7隊、
延43隻の掃海艇と2隻の試航船(Ginea Pig)で水路327kmと607平方km2の泊地を掃海し、
27個の機雷を処分したが、 掃海艇1隻が爆沈し1隻が座礁放棄され、 1名が死亡し18名が負傷(中傷以上)したが(16)、
これらの部隊とは別に掃海部隊はアメリカ海軍基地の佐世保と横須賀軍港への航路の安全確認のための日施掃海に延べ43隻を投入し、
1950年7月16日から1953年9月16日まで約3年にわたり行った(17)。 また、 朝鮮戦争勃発前後から日本海に浮流機雷が急増したため、
1951年4月には日本海方面浮流機雷捜索隊を編成し、 舞鶴港を基地として次に示す通り189個の機雷を処分した(18)。
浮流機雷の処分状況
|
種別・年度 |
1950年 |
1951年 |
1952年 |
合計 |
|
|
発見数 |
140 |
269 |
112 |
519 |
|
|
漂流処分数 |
44 |
28 |
22 |
94 |
|
|
漂着処分数 |
35 |
51 |
9 |
95 |
|
|
漂着自爆数 |
4 |
17 |
9 |
40 |
|
朝鮮沿岸海域に3000個の機雷が敷設され、 連合軍が312個の機雷を処分したのに対し、日本部隊が33個しか処分しなかったということは、特別掃海隊の貢献は微々たるものであったかもしれない。
しかし、 戦争勃発当時、 アメリカ海軍には稼働可能な掃海艇が1隻と補助掃海艇(掃海具なし)が6隻しか極東にはなく、
急遽フィリピンやグアム、 さらにアメリカ西岸から回航したが、 11月30日に至っても19隻にしかならなかった。
一方、 日本は32隻を掃海作業に投入していた(19)。 太平洋艦隊司令部が作成した「朝鮮戦争に関する太平洋艦隊中間評価報告(第1報)」には、
「連合軍最高司令官の承認を得て参加した日本掃海艇は作戦の成功に大きく寄与した」、
「9月以降の掃海艇の再就役と日本掃海艇の利用とも相俟って、 このような不利な状況から北朝鮮の機雷原と戦うことを許し、
11月には受容可能な程度まで機雷戦能力を改善できた(20)」と記されていることから、
掃海兵力が極端に欠けた戦争初期の連合国の苦境を救う上に日本掃海部隊は大きな貢献をしたのであろう。
これはアメリカ海軍極東司令官ジョイ(C.T.Joy)中将からも「朝鮮水域掃海に関する当方の要望に対し、
迅速に集結、 進出準備を完了し、 即応態勢をとられたこと、 貴下部隊の優秀な掃海作業並びにその協力は私の最も喜びとするところであります。
酷寒風浪による天候の障害、 国連軍協力による相互の言語の相違、 また補給、 修理に関しては幾多の困難が横たわっておりましたが、
関係各位の克己、 忍耐、 努力により、 また田村航路啓開部長の適切な指導の下にこれら困難は総て克服されたのであります。
私は喜びに堪えず、 ここに大久保長官から関係各位に賞詞の伝達方を依頼いたします。
ウエルダン 天晴れ。 まことによくやってくださいました(21)」との賞詞が贈られたことでも理解できるであろう。
また、 この賞詞が単なる外交辞令でなかったことは、 太平洋艦隊司令部が作成した次に示す「朝鮮戦争に関する中間評価報告」からも裏付けられるであろう。
「日本の掃海艇は彼らの信頼すべきやり方で作業を実施した。.....総ての場合に言語
上の問題は続いたが、 日本の掃海艇は天候及び後方支援上の悪条件にもかかわらず係
維及び磁気機雷を掃海した。.....人員の業績は優良(Good)であり、 掃海艇の馬力が小
さい事を考慮すれば、 作業は良好(Satisfactory)であった(22)」。「日本の三式掃海具は50ヤードの有効幅と10ヤードの重複で使用した。
よく訓練された 人員の場合は見事な成果を収めた。 掃海具は良く操作され良く機能した。
レーダー を装備していないので正確な航法が困難ではあるが、 日本製3式掃海具は有効幅が小
さいという欠点を除けばアメリカ製B-8ワイヤー掃海具に匹敵する(23)」。(なお、
アメリカ海軍の評価は「優秀」「優良」「良好」「可」「不可」である)。
おわりに
朝鮮戦争における日本の掃海部隊の活動は上に述べた通り、 戦闘場面における上陸作戦支援掃海から戦闘終了後の補給用航路を確保するための掃海、
さらには日本国内のアメリカ海軍基地の日施確認掃海や浮流機雷の処分などであったが、
別紙第2に示す通り朝鮮半島の飛行場を失ったアメリカ空軍は、 日本の基地に航空機を展開し日本を作戦基地として南下中の北朝鮮軍を攻撃した。
また、 アメリカ軍が朝鮮戦争に対して日本から調達した下表に示す主要物資の年次別契約高や物資およびサービス別の契約高を見れば(24)、
朝鮮戦争時の日本の後方支援基地としての価値が理解できるであろう。
主要物資の年次別契約高
|
順位 |
1950年 |
1951年 |
1952年 |
1953年 |
1954年 |
|
1 |
トラック |
自動車部品 |
兵器 |
兵器 |
兵器 |
|
2 |
綿布 |
石炭 |
石炭 |
石炭 |
石炭 |
|
3 |
毛布 |
綿布 |
麻袋 |
食料品 |
食料品 |
|
4 |
建築機材 |
ドラム缶 |
有刺鉄線 |
家具 |
家具 |
|
5 |
麻袋 |
麻袋 |
セメント |
乾電池 |
セメント |
物資及びサービスの契約高(単位1000ドル)
|
順位 |
物資 |
金額 |
サービス |
サービス |
|
1 |
兵器 |
148,489 |
建物の建築 |
107,641 |
|
2 |
石炭 |
104,384 |
自動車修理 |
83,036 |
|
3 |
麻袋 |
33,700 |
荷役・倉庫 |
75,923 |
|
4 |
自動車部品 |
31,105 |
電話・電信 |
71,210 |
|
5 |
綿布 |
29,567 |
機械修理 |
48,217 |
戦闘海域での掃海作業で2隻が沈没し死傷者も発生したが、 掃海部隊を去った者は殆どいなかった。
その理由には占領軍の命令だから仕方ないという当時の時代環境も大きく左右したであろうが、
参加した隊員は国連軍の掃海作業に協力することによって新しい海軍を創設しようとの説得(25)、
朝鮮半島における戦局の有利な展開、 国連軍が征空権や制海権を握っている安心感、
さらには旧海軍以来の寝食を共にしてきた仲間意識、 「海軍というバックボーン」があったからであると述べている(26)。
しかし、 何よりも重要なことは掃海部隊を派遣した吉田総理のリーダーシップであった。第2掃海隊が元山から掃海作業を拒否して帰国すると、
吉田総理は「国連軍に全面的に協力し、 これによって講和会議をわが国に有利に導かねばならぬ。
冬季荒天の朝鮮水域で、 しかも老朽した小舟艇による掃海作業は多大のご苦労があると思うが、
全力を挙げて掃海作業を実施し、 米海軍の要望に応じて戴きたい。 政府として処遇にはできるだけの手を打つので心配しないように(27)」とのメッセージを発した。
この総理のリーダーシップが韓国有事の掃海作戦を可能としたのであった。
朝鮮戦争の例が示すとおり掃海作業には戦場における短期、 多数の掃海艇の投入だけでなく、
港湾や航路の安全確保や確認作業、 さらには浮流機雷の処分など多数の掃海艇を長期間必要とする史実を理解すべきである。
朝鮮戦争当時と現在を比べると韓国自身が14隻の掃海兵力を保有している点が大きく異なっている。
しかし、 その兵力は8隻が1950年代に建造されたアメリカから供与された旧式掃海艇であり、
新型掃海艇(Mine-hunter)は6隻しかなく、 アメリカ海軍も極東には3隻を保有しているに過ぎない。
一方、 海上自衛隊は1隻の掃海艇旗艦と2隻の掃海母艦と34隻の新型掃海艇を保有するなど、
日韓米3国の掃海兵力の保有比率は朝鮮戦争当時と大きくは変わっていないが(28)、
最大の相違は当時の日本が占領下にあったことであり、 また、 新しい日米防衛協力の指針(新ガイドライ)でも機雷を除去できる範囲は日本領海内と公海に限られていることである。
朝鮮戦争の時には総理のリーダーシップで掃海艇は派遣されたが、 当時と現在の日韓関係で大きく異なるのは別紙第3に示す日韓両国民の国民感情である。
読売新聞の世論調査(29)によると韓国では「日本を信頼できない」とする人が83パーセント、
日本でも「韓国を信頼できない」とする人が49パーセントに達し、 さらに韓国にとって「日本は何に当たるか」との質問では、
ライバルと回答した人が70パーセント、 「敵」と回答したのが19.7パーセントもあった(30)。
新ガイドラインによって朝鮮半島に事態が生起した場合に日本は一層の防衛支出と犠牲をともなう対米協力を要望されることになったが、
このような日韓相互の悪感情、 反日、 嫌日、 対日非難をする国のために自国の国民に犠牲を強いることができる政治家がいるであろうか。
韓国が深刻な事態に陥り、 より多くの支援をアメリカが日本に要望した時に、
韓国の対日感情が今と変わらなければ、 その結果は日本よりも韓国の上に大きく課せられることになるが、
その影響は単に日韓に止まらずアジア全体に影響を及ぼすことを日韓両国民は理解しなければならない。
日韓両国の狭義のナショナリズムにアジアの運命が決せられ流されてはならない。
日韓双方でいたずらに感情的な対立をあおる発言を謹むなど、 地道な努力を積み重ねて行かなければ新ガイドラインは韓国有事に機能を発揮することはできないであろう。
日米安保の実効性を高めるには朝鮮戦争時の日本の後方支援の実績や機雷掃海戦などに関する正確な史実、
さらに対機雷戦には多数の掃海艇を長期間にわたり必要とするという掃海戦の特質などに関する理解が必要であり、
これらの軍事的知識を欠いた安全保障論は砂上の楼閣に過ぎないことを一兵士として進言し報告を終わりとしたい。
脚注
1 白善煉「韓国戦争を顧みてー韓国戦争勃発40周年目の教訓」(『防衛大学校 防衛学研究』第 4号、1990年11月)7頁。
2 Korean War U.S. Pacific Fleet Operations - Interim Evaluation Report
No.1,Period 25 June to 15 November 1950, Mine Warfare, pp.1098-99, U.S.National Archive,Washington.D.C.
3 Malcom W.Cagle and Frank A.Manson, The Sea War in Korea(Annapolis:U.S.Naval Institute
Press, 1951),pp.125-126.Arold S.Lott, Most Dangerous Sea:A History of Mine
Warfare, and an Account of U.S.Navy Mine Warfare Operations in the World
War U and Korea(Annapolis;U.S.Naval Institute Press, 1959),p.269.
4 Ibid.,Interim Evaluation Report No.1, p.1093.
5 ジェイムス・E・アワー(妹尾作太郎訳)『よみがえる日本海軍』上巻(時事通信社、 1972 年)120-121頁。
6 読売新聞社戦後史班編『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』(読売新聞社、 1981年)177頁。
7 大久保武雄『海鳴りの日々』(海洋問題研究会、 1978年)209頁。
8 海上幕僚監部防衛部編『機密 朝鮮動乱特別掃海史』(海上幕僚監部防衛部、 1961年)19頁。9 海上保安庁命令「タナ第32号(昭和25年10月2日)」(「能勢省吾資料 その1」防衛大学校蔵、 20頁。
10 田尻正司「波濤を越えて(8) 1950年元山特別掃海の回想(その1)」(『波濤』通巻第37号、1981年11月)97-98頁。
11 能勢省吾(手記)「朝鮮戦争に出動した日本の特別掃海隊 その1(以後、 能勢手記と略記 す)」(1979年)28ー29頁。
12 「MS14号触雷報告」前掲『機密 朝鮮動乱特別掃海史』および田尻正司、 前掲回想(その2)」 (『波濤』通巻第38号、 1982年1月)88頁。
13 前掲「能勢手記」45頁。
14 「本橋昇治書簡(1991年10月28日)」。
15 前掲、『機密 朝鮮動乱特別掃海史』57-58頁。
16 前掲、 大久保
17 別冊第2[東京湾及び佐世保港外の日施掃海」、 前掲『機密 朝鮮動乱特別掃海史』。
18 鈴木総兵衛『聞書・海上自衛隊 海軍の解隊から海上自衛隊の誕生まで』(水交会、 1989年) 21頁。
19 Korean War U.S.Pacific Fleet Interim Report,op.cit.,p.1098.
20 Ibid.,p.1078.
21 前掲、大久保。
22 Korean War U.S.Pacific Fleet Interim Report,op.cit.,p.1099.
23 Ibid.,p.1114.
24 安藤良雄編『近代日本経済史要覧』(東京大学出版会、 1975年)154頁。
25 「空白への挑戦海外派遣 日本特別掃海隊 3」「朝日新聞(1991年6月6日)夕刊」。
26 相川一守「朝鮮特別掃海隊のことども」(私家版、1979年)、石野自彊「鎮南浦掃海とその前 後の回想」防衛研究所蔵、175-176頁。
27 前掲、 大久保、 231頁。
28 英国国際戦略研究所編『ミリタリー・バランス 1995-1996』(メイナード出版、
1996年)。
29 読売新聞社「日中韓共同世論調査(1996年6月)」。