昭和憲法と明治憲法ー昭和悲劇の原点
はじめに
日本がアメリカ・イギリスなど世界を相手に無謀な戦争をしなければならなくなった道程の大きな第一歩が満州事変であり、
以後の日本は司馬遼太郎の言葉を借りるならば「気違いが暴れ馬に乗ったように暴走した」のであった。
しかし、 なにが昭和日本を暴走させたのであろうか。 なぜ、 日本は満州事変やシナ事変を起した軍部を統制できなかったのであろうか。
それは明治憲法に規定する統帥権の独立にあった。 明治憲法の問題点を提示するならば、
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という天皇が軍隊を一元的に指揮するという明治憲法第十一条が規定する統帥権に問題があったと言われている。
この統帥権の独立は明治政府が軍人を新政府に従わせ軍隊を天皇の陣営に止め、
軍人を政治から切り離すことを目的としたものであり、 明治時代には元老や元勲などの補佐態勢も機能しており、
統帥権独立の不備が大きな問題となることはなかった。 しかし、 大正に入り元老などがこの世を去ると明治憲法の欠陥が表面化したが、
明治憲法は再び幕府などの不満武士や過激分子により改憲されて天皇制が覆されるのを恐れ「改正の発案は勅令によらしめ憲法改正に関する議会の手続きに特別の要件を付し、
以て事を慎重ならしめ」られていた。 そのため「不磨の大典」として実情に合わなくなったが改憲できずに昭和を迎えた。そして、この第十一条の統帥権の独立と大臣現役軍人制度が軍部の政治介入を許す最大の武器となり、
日本を太平洋戦争へと導く昭和の悲劇を招いたのであった。
明治憲法と大正日本
なぜ、 統帥権の独立を規定した明治憲法が変えらえなかったのであろうか。 それは現在と同様な政治的混乱であり、
政治不信であり、 過激な反軍感情にあった。 大正の政治は現代と同様に政党間で対立し汚職が続発し、
さらに短期政権が続いていた。 原首相のあと高橋内閣が出現したが党内は主導権争いで対立が収まらず、
このため高橋内閣は組閣僅か半年後に閣内不一致で辞職してしまった。 後任は政党に人がなくワシント会議をまとめた加藤友三郎海相が指名されたが、
健康を害して8月下旬には世を去り、 次の大命は海軍大将山本権兵衛に下った。
しかし、 山本内閣はその成立直後に皇太子后の色盲問題や昭和天皇狙撃などが発生して、
総辞職に追い込まれ大正13年1月7日には樞密院議長の清浦内閣が成立致した。
これに対し政権を失った憲政会・政友会、 それに革新倶楽部のいわゆる護憲三派が倒閣運動を繰り広げ、
組閣一ケ月後に議会を解散させてしまった。総選挙は三派連合が勝ち憲政会の加藤高明が内閣を組閣した。
しかし加藤総理は施政方針演説を行った翌日に倒れ、 大正15年1月には他界してしまった。
一方、 第一次世界大戦後は大正デモクラシーとは言われたが、 戦後の不景気や財政政策の失敗、
それに農作物の不作が重なって経済が悪化した。 そして、 さらにロシア革命の成功が戦後の自由平等思想を広げた。
ヨーロッパにおける帝政の崩壊が、 天皇制への批判を強めるなど日本は経済から思想、
そして国家体制そのものを揺るがされていた。 米騒動に出動した軍隊は国民や議会の攻撃を受け、
さらに大戦後の平和思想やデモクラシー思想は反軍感情を高め軍縮をもたらし、
国会では軍部大臣制度や「憲政ノ治下ニ帷幄ノ上奏ト言フモノノアルコトハ甚ダ不思議ト謂ハナケレバナリマセン」と激しく統帥独立が非難されていた。
言論界は「軍閥の跋扈は今や国民の眼前に掩ふべからざる事実となった。 帷幄上奏の政治的疾患たる事実ーすなわち統帥権ですがーそれは最早争ふ可からず」と攻撃した。
反軍感情が高まり社会的政治的地盤を脅かされた軍隊は愛国心の向上や軍紀士気の重要性を強調するなど、最初は精神教育を強化して対処しようとした。
しかし、 ロシア帝政を崩壊させドイツ、オーストリアを共和国化したデモクラシー以上の世界に冠たる日本の国柄ー「国体」であることを部下に確信させなければならなかったのであろうか、
年を追って隊員教育は思想教育へと変質していった。 追い詰められた軍隊にとり士気を維持するより処は、
明治15年に明治天皇から直接与えられた「陸海軍軍人に賜りたる勅喩」にある「朕ハ汝等ヲ股肱(手足)ト頼ミ汝等ハ朕ヲ頭首ト仰キテ、其ノ親ハ特ニ深カカルヘキ」と言われ軍人に対する天皇の期待であり、
それは明治の軍隊、 すなわち天皇の軍隊への回帰であった。 また、 軍隊は混乱した議会や高まりを見せた議会の干渉に対しては明治憲法に規定された統帥権の独立で対処しようとした。
2 明治憲法と昭和日本
軍隊がこのような対応を示したのは常に軍事や外交を清掃の道具とする政治への不信も影響したようにも思われるが、
その根底には島国にのため一度も外国に占領されたことがない歴史体験から生まれた日本人の平和観、
日本人の国防軽視の国民性にもあったと思われる。 すなわち「戦争が異常で平和が常態」という歴史体験が、
戦時平時を問わず軍人をあるべき社会的位置に置くことができず、 軍人軽視を生み、
それが軍隊を憲法や軍人勅諭を楯に国土や国民を守るのではなく天皇を守る -
すなわち「国体」を守るという世界に類のない皇軍を生み、 それが統帥権独立を生み満州事変を起こさせ、
世界を相手に戦わしてしまったのであった。
世界から孤立した国内には強硬論が台頭した。 1931(昭和6)年1月の第五九回議会衆議院本会議で、
政友会の松岡洋石は「満蒙は我国の生命線」であると、 「絶対無為傍観主義」の幣原外交を攻撃した。さらに、
陸軍と事前に調整した政友会の森格など三代議士は、政友会の党命により7月から8月にかけて満蒙を視察し、
帰国後に満蒙における排日運動の総ては、 日本外交の対華政策の不徹底にあり、
その解決には「国力の発動を待たねばならぬ」と党に報告するとともに、 講演会や新聞などを通して中国に対する武力干渉の世論の喚起に努めた。
そして、 その一ケ月後の九月に陸軍は満州事変を起し、 さらに満州国を造ってしまった。
アメリカから満州国は「戦争禁止に関する規定に違反する方法によって生じたもので承認できない」と否定され、
さらに国際連盟総会で傀儡政権であるとのリットン報告が賛成42、 反対1、 棄権1で可決されると、
その1ケ月後の3月には世界の常識に逆らって、 自己の世界観で「五族協和」の満州国を世界が認めなかったと昭和日本は国際連盟を離脱し、
そして世界の孤児となり、 ついに世界を相手に太平洋戦争に突入してしまった。
3 平和憲法と平成日本
明治憲法が大正時代に入って機能できなくなったように、 昭和憲法も制定後40数年が過ぎ多くの問題を抱え、
特に第九条はPKO問題を境に拡大解釈が限界に達してしまった。 しかし、 昭和日本は朝鮮戦争が勃発し憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存が保持できなくなると、
バズーカ砲までは戦力でないと自衛隊を発足させ、 国連加盟の加入に際しては「可能な範囲での協力しかできない」との覚書を提出して、
集団的自衛権を発動するという軍隊派出の義務を否定し、 国連平和維持軍や国連監視軍の責務を逃れてきた。
一方、 ファントム戦闘機の導入に際しては外国の領土まで飛べないように空中給油装置を外せば、
相手に脅威を与えないので攻撃的兵器でないと勝手に解釈し、 国内的には「軍隊にあらずして、
外で軍隊と見なされる」自衛隊の近代化を進めた。 さらに、 日米安保条約の改定では、
日本が攻撃された場合には日米が共同して軍事行動を取る集団的自衛権を条約に規定しながら、
これも拡大解釈により過ごしてきた。
しかし、 東西対立の冷戦構造が崩壊すると世界の価値観 ー 軍事観は一転した。 そして、 国連の要請に応じて軍事力を海外に派遣することが国連加盟国の重要な責務となった。 しかし、日本は湾岸戦争では国連参加国が一致して「ポスト冷戦」後の危機解決に懸命に対処したが、 憲法を楯に「一国平和主義」を奉じて一人列外に残ってしまった。 本年八月に西ドイツ憲法裁判所は本年四月に1700人の軍隊をソマリアに派遣することを閣議決定し、先遣隊270人を現地入りさせたことが憲法違反であるとの社民党の提訴を合憲であると却下した。ドイツ憲法裁判所は四月にもボスニア・ヘルツェゴビナ上空偵察飛行への参加が合憲であるとしており、今回の決定でドイツの国連平和維持軍の活動が本格化することが予想される。 さらに、8月18日の報道によれば国連の指揮下に自国の軍隊を入れることに強い抵抗を示してきたアメリカが、国連総会が開かれる九月までにはアメリカ軍を国連の指揮下にいれる大統領命令に署名する見通しであるという。このように世界の各国が軍事力を使用して国連への責務を果そうとしているが、日本のみが平和憲法ゆえに時代の変化に対応しきれず、世界と共通の価値観を共有できずに漂っているというのが平成日本の姿ではないであろうか。
おわりに
世界ではアメリカが26回、 スイスが100回 イタリアが15回、 ドイツが36回、
フランスが6回と各国は時代の趨勢に応じて憲法を改定してきた。しかし、 現在の政治情勢では、
また明治以来憲法を「不摩の大典」としてきた固定概念から憲法改正は不可能であろう。
そのうえ、 明治憲法と同様に昭和憲法は再び日本に軍国主義が誕生しアメリカの脅威とならないようにとの占領政策の延長から作られ、
憲法改正には厳しい改憲阻止条項が設けられているからである。しかし、 かって、われわれは天皇から賜った欽定憲法であるが故に改憲せずに、
明治憲法を尊守し世界の常識にまで逆らい、自己の価値観、自己の世界観で「五族協和」の満州国を建国し、世界の孤児となると「アジア人のアジア」とか「大東亜共栄圏」とかを唱え、世界を相手に戦争に突入してしまったが、今度はマッカーサーから賜られた平和憲法を楯に「一国平和主義」を掲げて孤立し、また世界の孤児となることはないあろうか。
明治憲法が昭和日本に太平洋戦争という惨事をもたらしたように、 昭和憲法の世界に通じない価値観のため、
世界を敵とし平成日本に再び惨事をもたらすことはないであろうか。