「機関銃1挺論」と日本の国防
はじめに
ルワンダ国連平和維持活動(PKO)に際して日本の国防上の問題点を何よりも象徴しているのが、自衛隊が2挺と計画した機関銃が「足して2で割る日本的政治手法」で1挺に値切られた機関銃問題であろう。なぜ、
2挺が1挺になつてしまったのであろうか。 以下、 本論ではムラ国家日本が抱える本質的欠陥が随所にみえる「機関銃1挺論」を中心に、
日本人の国防観と「足して2で割る政治手法」、 そして、この「和」を重視する妥協の政治手法が昭和日本に破滅をもたらしたことを例証するとともに、なぜ、
日本ではこのように「足して2で割る」対応とならざるをえないのかを、 日本人の国防観と歴史観の視点から考えてみたい。
日本人の国防観
機関銃1挺論は政権の安定というムラ社会への配慮と、根回しをして異なる意見を「足して2で割り」両者の顔を立てるという日本人特有の手法で決定されたが、もし、
外国で「機関銃1挺」との決定を下した内閣があれば、 軍事を知らぬ政治家に国政を付託させることは出来ないと、
政府は野党から激しく追求されたことは間違いないであろう。 なぜ ならば、機関銃というものは異なる環境下では焼き付けを起こすなど、
故障するのが世界の軍事常識であり、外国の議会ならば「なぜ、予備を持って行かないのか」、「1挺で不安がないのか」、「故障したときはどうするのか、機関銃の故障率を知らせ」などの質問が続発したであろう。しかし、
日本ではこのようなことは問題とならなかった。

なぜ日本ではこのような質問が発せられなかったのであろうか。 それは日本が大陸から遠く離れ海が天与の防壁、絶好の障害として外敵の侵入を防げ、
外国に占領されたことがないたという「平和が常態で戦争が異常」との国土に住んでいる安全観(国防観)のためと思われる。
すなわち、稲作に比べて単位当たりの収穫量が少ないヨーロッパでは、常に食糧が不足し食糧をめぐる争いを個人間で、村落間で、
また異民族間で繰り返してきた。 このためヨーロッパでは食糧を守るために領主、騎士、農民の別なく、誰でも城郭を築き武器を取り、城郭の中に住んで安全を確保しなければならならなかった。
パリもモスクワの住民も街全体を囲む城壁を共同して造り、絶えず城壁を補修しながら安全を確保してきた。
このようにヨーロッパでは安全(国防)は領主や王様のためのものでなく、 住民すべてのものであった。
ヨーロッパでは平和はあるべきものではなく、絶えず力を合わせて城壁を造るように建設(整備)しなければならないものであった。
一方、 姫路城に代表されるように、 日本の城は美しく優雅で、 戦国時代を除けば城は戦争を目的としたというよりは城主の威信や権威を表徴するものであり、
城は支配階級である城主や武士のものであって、ヨーロッパのように住民のものではなかった。さらに日本では秀吉が全国を統一すると、
農民などの反抗を恐れて「刀狩り」を行い、 市民から武器を取り上げてしまった。
このため日本では「秀吉の刀狩り」以来、城も武器も戦争も住民とは全く関係ない存在となってしまった。しかも、
日本ではその後も明治の「廃刀令」、敗戦にともなう占領軍による「武器引渡令」と「刀狩り」は続き、
さらに敗戦後は平和憲法の戦争放棄や軍人憎悪感情が加わり、 武器があるから戦争や殺人が起きるとの武器罪悪感、武器嫌悪感がいつのまにか国民の間に定着し、
さらに日米安保条約により安全(国防や治安)を自分のものとは考えない他人任せの国防観を生んでしまった。食糧不足による治安悪化から個人の自衛権を主張して「市民武装権」を獲得したヨーロッパ、
「刀狩り」が今も続いている日本、 この「刀狩り」や平和憲法、 そして日米安保条約による戦後50年の平和が2挺必要であった機関銃を1挺にしてしまったのであった。
足して2で割るムラ政治
現地の治安の悪化を受け政府は機関銃を持参することには同意した。 しかし、
反対党の顔お立て、 政権を維持するために2挺の計画を1挺として妥協した。 このように日本では本質論は和を乱すと忌避され、
「足して2で割る政治的手法」で解決される場合が多いが、 それは日本が稲作国家であることに関係があるように思われる。
稲作を中心とするムラ社会では水が不可欠であり、 水路の構築をめぐってムラが生まれた。
移動が困難な稲作ムラ社会では意見の不一致は「和」を乱しムラ社会の崩壊を招く。
そこで生まれたのが「全員一致の原則」であり「根回し」であり、 「足して2で割る」政治手法であった。
このため日本では難局に直面した場合に優れた指導者に国権を一任するという西欧的戦時合理性はない。ムラ国家日本ではこの「根回し」により、
「足して2で割る」手法で反対意見を調整し、 意見をまとめ会議を円滑に進め、 「全員一致」とすべてを「和」のうちに終わらせるのである。
この制度は指揮者を「祭り上げる」祭政一致の政治様式で指導者に決定権がなく、
指導者は実験を握る中間層の意向によって「タライ回し」され、 難局になればなるほど指導者は「タライ廻し」にされ、
国家意志決定の不明確さをもたらすのである。 満州事変から太平洋戦争に至る国家指導者の交替状況を比較してみても、
いかに日本では指導者を必要とせず「タライ回し」的人事であったかが理解し得るであろう。
東京裁判において長野修身、嶋田繁太郎両大将の弁護人ブレナンは、 両大将が満州などへの侵略共同謀議に責任がないとして次のように発言している。
「本起訴の期間内(満州事変1931年9月18日ー1945年8月15日)に日本では前後15代の内閣が成立、 瓦解したという事実に外ならぬ。 日本政府を構成したこれら十数代の内閣の成立、 瓦解を通じて、 13人の首相、 30人の外相、 28人の内相、 19人の陸相、 15人の海相、 23人の蔵相が生まれた」(丸山真男『現代政治の思想と行動』)
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国名 |
職名 |
人数 |
国名 |
職名 |
人数 |
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日本 |
首相 |
13名 |
英国 |
首相 |
5名 |
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米国 |
大統領 |
4名 |
ドイツ |
総統 |
5名 |
(鰐田豊之『肉食の思想ーヨーロッパ思想の再発見』中央公論社、1966年)
これを列国の首相の交代状況(1931年9月ー1945年8月)と比べてみると、
ブレナン弁護人の指摘の正しさがうなずけるであろう。 このように国家指導者が多数替わるのは、
稲作ムラ国家のリーダーは西欧のリーダーとは異なり、 組織を引っ張って目的を達成する必要はなく、
組織さえ維持していれば目的が自然に達成されるからでもある。 このため、 ムラ社会のリーダーは外に目を向けない視野の狭いリーダーで、
新しい事態が生起すると臨機応変には対処できず、 ムラ国家日本のリーダーは外界の危機や評価には目を背け、
自己の地位を守るため組織の維持強化、 内部の「和」の維持に没入し、 危機を「和」の強調である「一致団結」で突破しようとするのである。
このように日本では大化の改新以来、 「和を以て貴しとなし」て、 先見性や独創力、
リーダーシップなどがあるリーダーは疎まれ軽視され、 協調性・柔軟性・妥協性などの性格が尊重され、
そのため反対も組織の「和」を考慮し条件付き賛成へと緩和されてきた。 そして、
この組織への妥協が機関銃の携行は容認したが、 1挺を2挺に値切らせるというシビリアン・コントロールを行わせたのであった。
ムラ政治の悲劇
満州事変から太平洋戦争に至る重大な国策決定の史実を顧みると、 指導者の明確な決断によるというよりは、「和」を何より重視し妥協・妥協の連続であった。
次に示す会話は太平洋戦争への開戦決定に連なる海軍大臣の人選に関するものであるが、
この会話が示すとおり太平洋戦争への序曲となった日独伊三国同盟の締結や、 開戦決定などの重要国策が日本の将来よりも閣内の「和」を重視して決定(妥協)されてしまった。
そして、 その妥協が日本に昭和の悲劇をもたらしたのであった。
@近衛首相の次期海相人選に対する要望(昭和15年9月4日)
「陸軍と協調できる人」(『戦史叢書 大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯』)
A吉田善吾海相と石川信吾大佐との会話(昭和15年9月3日ー吉田海相入院1日前)
石川「もし、大臣の腹が三国同盟に反対と決定しているのなら、
陸軍を向こうにまわし て大喧嘩をやりまし ょう」
吉田「この際、陸軍と喧嘩するのはまずい」(石川信吾『真珠湾』)
B近衛公組閣方針
近衛公「これから陸海相と会い、陸軍には海軍と一緒に行ける者を、
海軍には陸軍と一 緒に行ける者を後任には出すよう頼み、
その上でこれに外相候補を加え、まず 国防、外交、陸海軍の協調、
統帥と政治との関係等につき充分に協議し、一致 を見た上で他の閣僚の選考に入るつもりだ。
一致しなければ拝辞するかも知れ ない」
吉田海相「腹が合わねば組閣しないのか」
近衛公「然り、その時は拝辞するほかはない」(海相は困った顔をした)
(『戦史叢書 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』)
C東条英機首相と及川古志郎との海相人事に関する会話(昭和16年10月16日)
及川「海軍大臣としては豊田(貞次)を推薦したい」
東条「それは、困る。豊田ではどうしても困る」
及川「豊田はアンチ・アーミー(反陸軍)で有名な男で、そのことは今まで陸軍でも海軍でも
取り沙汰されていたものだが、こういう情勢になつてくれば、陸軍は陸軍、
海軍は海軍などと
言つてはおられない。手を取り携えて行きましょう」
東条「海軍が豊田を強硬に主張するなら、自分は大命を拝辞する外ない」
(豊田貞次『最後の帝国海軍』)
おわりに
ルワンダPKOの派遣に際して最も重要な課題は難民救済という初の人道支援活動を実施する地域の情勢を適切に判断し、支援内容や要領、それに隊員の安全を確保する方策を論議することであった。しかし、
ルワンダへのPKO派遣問題で最も時間が取られ議論されたのが、現地の治安情勢の悪化でも、隊員の安全確保の問題でも、
PKO活動の内容でもない機関銃を携行させるか否かの問題であり、 「機関銃の携行はPKO協力法が定める武器の使用である個人の正当防衛の範囲を越える」などの問題であった。そして、
隊員が無事帰国すると、次に問題となったのがPKO協力法が「武力による威嚇」を禁じていることへのつじつま合わせから、機関銃が「宿営地に対する攻撃を抑止した」とすれば「個人の正当防衛」の範囲を越えている。自衛隊が日本人医師団のトラックが難民に襲撃され自衛隊が救出に出動したが、その行動は「救出」活動でも「護衛」活動でもなく、「輸送」に出動したのであったとかの現実とは遊離した「字句の解釈」をめぐる法律問題であった。しかし、
今回のPKO活動で何よりも議論すべきこと重大視すべきことは「機関銃を1挺と値切った」シビリアン・コントロールの可否ではなかったであろうか。なぜならば、機関銃を1挺と値切って妥協した政治的妥協のシビリアン・コントロールと、それにともなう国会の議論が、
わが国の国防の実態と限界、 「隊員や武器は最高だが、 指揮運用には問題あり」との一朝有事の際の日本の防衛力の限界を内外に赤裸々に示してしまったからである。