「二つの人世を歩んでー一劣等生の回想」
(『海上自衛隊 幹部候補生学校 創立50周年記念誌』)

自衛官としての31年
 
 私が卒業生で他と異なる点は32年の海上自衛官の勤務と、17年の学者としての二つの人世を歩んできたことであろう。私にとり幹部候補生学校、特に卒業式の印象は忌々しく屈辱に満ちたものであった。栄光をたたえる音曲が流れる中を、次々と壇上に昇る優等生を睨み付けながら、あいつら「ピーツ、もやい結び」、「ピーツ、トックリ結び」と笛の合図で紐が結べたか否か、教官に呼ばれた時に仰山な敬礼をし「ハーイッ」と大声で応じただけではないかとこじつけ、何とか冷静を保つていたことを今も思い出す。その劣等生に優等生が幹部候補生学校開校50年記念誌に一文を書けと命じてきた。ただちに「そのようなものは優等生が書くものだ」と反論したが、流石は優等生だ、言葉巧みに引き受けさせられてしまった。そして劣等生の卒業後の生き方が、成績不良の卒業生に励みになるのではと考え、ネバー・リターンと表桟橋を蹴飛ばして練習艦、「元へ、奴隷船」に乗り込んだ劣等生の回想録である。

 海上自衛隊は劣等生の私を2尉の時に、2年間も大阪外国語大学に派遣しフランス語を学ばせてくれた。また、艦長時代には商船と衝突し懲戒処分を受けたが、定年時には一応は海将補に昇任させ、さらに防衛大学校の教官にも推薦してくれた。劣等生が最初に着任した任地は自然の厳しい舞鶴であった。寒風肌刺すPF型の艦橘の夜間当直、ローリング20度の悪天候下の冬の日本海、一瞬の気のゆるみない毎日、肉体的にも疲労の限度に達し、何を好んでこのような仕事を選んだのか。他にも仕事は山ほどあるのにとつくづく考えた。しかし、この劣等生がなぜ反省し、自覚し大きく成長したのであろうか。それは大阪外国語大学に学んだことであった。大阪外国語大学でフランス語を学んだことから、日本を考えるときに米国からの大平洋越の日本観でなく、ヨーロッパからのウラル越しの日本観という貴重な視点を私に授けた。また、大阪外語大学時代にはサラリーマンと安下宿に同宿し、会社の人事の醜さや熾烈な出生競争の裏側を仄聞し、海上自衛隊の公平な人事のすばらしさや、上司の人を育てようとする愛情や同期や仲間の無私の友情のありがたさを知った。また、指揮官(艦長と司令)も体験させて戴き、人の上に立つ身の喜びと責任、厳しさも理解させて戴いた。

学者としての17年
 私が多くの卒業生と変わっているのは、自衛官定年後に学者に転じたことであろう。学者にて転じた私が考えたことは、後に続く後輩のために防衛大学教授の定年後には学会で認められ、一般大学で教鞭をとり立派な自衛官は立派な学者にもなれるということを世間に知らせることであった。しかし、私が防衛大学教授となった当時の学会は元自衛官というだけで論文の掲載を拒否あるいは制限する時代であった。この学会の最初の挑戦は博士号であったが、博士号は慶応義塾大学から戴いた。しかも慶応義塾大学は博士論文に出版助成金を出し出版までしてくれた。このお陰で防衛大学校定年後は清和大学、筑波大学、常盤大学と3つの大学で、70歳の定年まで非常勤講師ではあったが日本近現代史と国際関係論を講じることができた。

 この学者の世界に生息して感じたことは、3000近くの大学がありピンからキリまで30万人は越える学者の生存競争の厳しさと汚さであった。学内で栄達し教授になる近道は学問的優劣ではなく、主任教授に擦り寄ることであり、社会的に有名になるためには内容があろうとなかろうと、大衆の人気のある方向へと論陣を張ることである。また歴史学会(左傾している)では東京裁判史観に同調しない論文や研究は排除されてしまう。このような社会に生きて17年、私は「俺がやらねば誰がやる」との防衛大学校1期生のパイオニアスピリットを燃料に、日々「第1戦速」で「前へ」「前へ」と走り続けて73歳を迎えた。また、この「前へ」「前へ」の原動力となっているのが劣等生にも敗者復活を認める人を育てる暖かい海上自衛隊の風土・伝統であり、正直な義に生きる仲間たちに囲まれていた誇りであった。私を育ててくれた海上自衛隊の上司、仲間、部下であった皆様ありがとう。今日の私があるのは皆様のお陰です。