「自衛官と学者の2つの人世を歩んで」
( 『防衛大学校 卒業50周年記念誌』2007年9月)
私が多くの卒業生と異なっているのは、第一の人世では土方、船方、馬方の御3家の一つの船方家に31年間も奉職し、しかも「ちとせ」艦長時代には貨物船と衝突、懲戒処分まで受けた輝かしい経歴の持ち主であるということと、海上自衛隊定年後の第2の人生では、学者、記者、医者、芸者、役者と、「あの医者は薮だ」「彼女には旦那がいる」などと、他人の足を引っ張り自分を売り込まなければ生きて行けない汚い学者の世界で17年間と、2つの人世を歩んできたことであろうか。
学者にて転じて最初に考えたことは、後に続く後輩のために防衛大学教授の定年後には、一般大学で教鞭をとり立派な自衛官は立派な学者にもなれるということを世間に知らせることであった。しかし、私が防衛大学教授となった当時の大学や学会は、元自衛官というだけで論文の掲載を拒否あるいは制限する時代であった。このような学会で認められるには博士号を取得することであったが、幸い慶応義塾大学から博士号(法学)を戴くことができ、防衛大学校定年後には清和大学、筑波大学、常盤大学、大阪大学と4つの大学で、どうして大使を終わった奴が教授で、海将補が非常勤講師なのかの怒りと屈辱感を味わいながらも、70歳の定年まで日本近現代史と国際関係論を講じることができた。
この学者の世界に生息して感じたことは、2000から3000近くの大学がありピンからキリまで25万から30万人を越える日本の学者社会の生存競争の厳しさ、足の引っ張り合いの汚さであった。学内で栄達し学長や学部長になる近道は、「校内政治学」を駆使して同僚を引き落とすことであり、若い院生が講師になるには主任教授に擦り寄ることであり、社会的に有名になるには内容があろうとなかろうと、大衆の人気のある論陣を張りテレビや雑誌、新聞などに登場することである。特に左傾している歴史学会では軍人をスケープゴートとした新聞社や外務省に「心地よい」東京裁判史観に同調し、反政府的、反自衛隊的平和論を書きまくることである。このような社会に生きて17年、私は「後に続くを信ず」、「俺がやらねば誰がやる」との1期生のパイオニアスピリットを燃料に、日々「第1戦速」で「前へ」「前へ」と走り続けて七四歳を迎えたが、その活力は1期生としての誇りであり、義に生きる多くの仲間に支えられていたことにあった。同期の諸兄に心からの謝意を表したい。