『戦艦大和 講談社選書メチエ269
●おわりに(※編集前の原稿の為、出版されたものとは多少異なります) 平間洋一

 正直いって戦艦大和を記述することは、大変にむずかしいとことであった。それは「先の戦争」をどう捕らえるかによって大きく異なるし、大和の評価も見る人の立場で全く異なり、一定していないからである。そこで、執筆に際しては極力一次資料に当たり、感情やイズムに左右されず、「史料に忠実に」をモットーとした。しかし、資料の解釈については、ささやかではあるが護衛艦艦長、護衛隊司令という指揮官の体験を加味した。また、広く内外から検証しようと、米国の学者を誘い米国から見た視点を加えたが、これも本書の特長であり、今までにない大和の生涯を描くことが出来たと自負している。

一 大和の乗組員の愛国心

 多数の海上挺身攻撃隊の生き残りの兵士の回想記、座談会記録や、戦没者の遺書などを読んで感じたことは、第一に今では全く死語となってしまった「愛国心」の強さであった。また、第二は大和乗員の相互の信頼と愛艦精神の強さであり、大和は世界一の戦艦という物理的強さだけでなく、その乗員も大和同様に世界一であったということである。
 すなわち、第一九分隊(工作科)の佐藤志末吉兵曹は「あのときには戦争がどうとか、いいとか悪いとか、だれも考えませんでした。このときに生を享けた者なんだ。われわれが戦わずにだれが戦うか。そう考えて、必死で夢中で戦った。そうでなきゃ、五年間もいくさできるもんですか。願いといったら、日本が勝って、子々孫々まで繁栄したいい国になること。日本の将来を考えると、ほんとうに心配でした」と語っている。一方、五番高角砲員の坪井平次二等兵曹は「身はたとい 南海の果てに水漬くとも 久遠に護らん 産土の祖国 平次二二歳記」との辞世の歌を残した。また、家田政六特務中尉は「大和はほんとうに優秀な艦でした。私が大和にいたときは、本当に一生懸命やりました。沖縄出撃の時は日本海軍の最後をこの艦で飾ろうではないかという気持ち、みんな心を合わせてぶっかっていったのです」と、大和を書いた吉田俊雄とのインタービューで語っている。注1
   このような兵士を乗せて大和以下、巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻に乗艦した六八〇〇余名の海上挺身隊員が、不利な勝算のない戦いに臨み、三六四七名が戦死した。この兵士たちは誰のために尊い命を捨てたのか。皆な日本のために捨てたのである。これらの兵士は戦争を欲したのか。誰もそれを欲してはいなかった。ただ戦争となった以上は負けられない。負けたら皆殺しになると(後で述べるとおり、当時は日本民族の抹殺の風潮が米国に強かった)、これらの兵士は国民を守るために生命を捧げたのである。海上挺身隊の事情はいろいろ違つても、心から家族を愛し国を愛し、それを守ろうと尊い生命を捧げたのである。
 日本では敗戦とともに過去の価値観をすべて否定し、大和特攻の非合理性を非難し、生命の尊さを訴えるが、外国人には生命より大切なものがある。英国人スパー(Russel Supur)記者は、『栄光ある死への道(A Glorious Way to Die)注2』で、大和の「最後の出撃の物語は伝説になった。そこには日本人が賞賛する絶望的なヒロイズムの全てが含まれている。楠木正成と死ぬことを運命づけられた彼の兵士のように、戦艦の勇敢な乗員たちは見事に死んだ。英雄的な敗北を偉大な勝利以上に高く評価する国は、世界で日本と英国だけにちがいない」と、大和の最後の出撃を賞賛し、それができる国は英国と日本しかないということを同じ本に二回も書いている。
 また、フランス人の記者ミロー(Bernard Millot)は『神風(LユEpopee Kamikaze・神風の偉功)注3』の中で、米国の圧倒的な物量と技術的優位に対して、「日本人が対抗手段として過去から引きだしてきたのが、伝統的な国家への殉死、肉弾攻撃法であった。この日本人の対応をわれわれ西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。むしろそれは、偉大な純粋性の発露ではたかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を、人間の偉大さに帰納することのできた世界で最後の国民となったと著者は考える。たしかに我々西欧人は戦術的自殺行動などという観念を認容することができない。しかし、また、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。彼らを活気づけていた論理がどうであれ、彼らの勇気、決意、自己犠牲には感嘆を禁じ得ないし、また禁ずべきではない。彼らは人間というものが、そのようであり得ることの可能なことを、はっきりと我々に示してくれているのである」と書いている。

二 これでは勝てない情報は筒抜け

 外交暗号や海軍暗号が解読されていたことは知っていたが、クラーク教授の論文を読んで、個艦の通信文までことごとく解読されていたことに驚くとともに、これでは勝てるわけがないと痛感した。しかし、これだけのハンディを背負いながら、良く戦ったと改めて兵士の善戦に敬意と慰霊の念を深くした。
米国は開戦一年前の一九四〇年秋から外交暗号を、一九四二年三月頃には日本海軍の戦略常用暗号(通称JN-25)を解読した。そして、米英の情報部は三月下旬には日本の空母部隊が四月にインド洋で攻勢作戦を行うことを、四月には・ラバウル南方で作戦を計画していることを(五月の珊瑚海海戦)、・中部太平洋で作戦を計画中であるが、場所が不明であることを(ミッドウェー海戦)報告していた。注4
 一方、日本海軍はミッドウェー海戦で敗北し、四三年四月には山本連合艦隊司令官機が待ち伏せされて撃墜された。ドイツからは外交暗号や海軍暗号が解読されていると、証拠を示して再三にわたり警告された。しかし、外務省も海軍も解読されるはずがないと、小手先の更新に終始し、一度も抜本的な更新はしなかった。このため、連合軍は一九四三年春以降はほとんど中断されることなく、日本の外交暗号や海軍暗号を解読して利用していたのである。なぜ、日本人はこうも暗号や通信、情報を軽視するのであろうか。
 それは日本人の島国特有の自己中心の世界観と、「平和が常態で戦争が異常」な歴史体験にあるように思われる。日本に全く戦争がなかったわけではない。しかし、ヨーロッパに比べれば兄弟喧嘩のようなもので、敗戦に伴い言語や習慣、宗教などの異なる異民族の支配を受けたことがなかった。このためか、日本最初の兵法書『闘戦経』(大江匡房一一世紀)を見ても、中国の兵法書は陰謀や策略が多く誠がない。しかし、日本は「神武の国であり、『誠』の国」なので、その「兵道は能く戦うのみ」である。最終的には正義が勝つのだから「正々堂々」と戦うべきである。これが兵道の神髄であるなどと、般若思想を基盤とした宗教的な「お経」的兵法が説かれていた。注5そして、「武士道とは死ぬことと見付けたり、死場所を選ぶとか、犬死にはくだらぬとかいう考えは贅沢である注6」という国家に対する忠誠心が協調されていた。このため、日本では情報関係者の地位は低く、「忍び」とか、「間諜」などと呼称され、武士集団には入れなかった。そして、このような風土から、日本海軍や陸軍では、攻撃を司る職域は重視され、優秀な人材が投入されたが、通信や情報、補給などは軽視され資源も人材も投入されなかった。
 さらに、海軍大学校では国粋主義的風潮が高まった一九三〇年代後半には、『闘戦経』が教えられ、戦闘において常に正確な情報が得られるとは限らない。一刻を争う戦場では冷静に究理を尽くす暇はない。 従って戦闘には直感的情勢判断も必要で、 「結局、『誠』を体得することによって宇宙の本体を理解し、 之に帰一することによって、(情勢判断は)初めて完璧を得るものである。 『誠』こそ兵術の総ての根本をなすものである注7」となどと、合理的情報分析が軽視され、情報を無視した主体的情勢判断が強調されていった。そして、『孫子の兵法』は『楠妙要』などとは程遠い感がある。「心を清く明るくし、 神を信じて作戦を企画せよ」などとの風潮を高めていった。注8このような日本軍には相手の通信を傍受するなどという行為は卑劣であり、神のご加護を受けている正義の軍隊が使うべき手段ではないなどして、暗号解読や通信傍受などが軽視された。日本海軍は敵を知らず己を知らずに戦い、暗号解読を含む情報戦で完敗し、八月一五日を迎えたのであった。

三 勝てば官軍、負ければ賊軍

 大和沈没後に海上に放り出された乗員は、執拗な米機の機銃射撃を受け多くが殺された。明らかな戦争法規違反で、英国人記者のスパーは「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに気がとがめなかったノノ(米国の)高官連中は公然と日本人を殺すことはシラミを殺すより悪いことではないと言明していた。日本人は人間の出来損ないであり、慈悲をかけるにはほとんど値しないと信ずるようになったのである注8」と書いている。洋上に漂う隊員に対する機銃掃射には人種差別が強く働いていた。ダワー(John W.Dower)によれば、注9ヨーロッパの敵は「まだしも人間だった」が、日本人は人間より下等な動物、爬虫類、虫けら、猿、ゴリラ、犬、ネズ、蛇、ゴキブリ、害虫などと書かれ、人種的な蔑視語が報道機関や公式文書の中で、ごく普通に使われていた。そして、それが最初に具体化したのが一一万人の日系米国人の強制立ち退きであった。日系人は「強制収容所の最終的な宿舎に移住させられるまで、何週間も何カ月も、動物用の施設で暮らすよう命じられた」。「馬小屋に詰め込まれ麻袋の上で寝なければならなかった」。特にサンタアニタのセンターでは馬の引っ越しと、日系米国人の到着の間に四日しかなく、馬糞の匂いのする中に押し込められ、入浴設備は馬用のシャワーであつたという。
 このように日本人を動物化した結果、日本人を殺すことが動物を殺す狩りと変わらない心境になり、グレン・グレーの『戦士たち(The Warrior)』には、日本兵を一人「放ち」、その兵士が身の安全を求めて狂ったように逃げまわるのを標的として射撃を楽しんだという話が紹介されている。兵士たちは逃げ回る日本兵の様子の滑稽さに、あまり笑いすぎて日本兵に的を絞ることができながかった。しかし、ついに弾が命中すると小隊全体の雰囲気は大いに盛り上がり、数日間はそれを肴にした話題や冗談が続いたと書かれている。注10このような日本人の動物化に、さらに日本軍が破竹の勢いでアジアから欧米諸国を駆逐すると、ジンギスカンのように西欧社会に進撃してくるとの黄禍の悪夢が現実のものとなった。日本人を絶滅しなければ白色人種が絶滅するという恐怖心が高まり、日本人殲滅へとエスカレーとしていった。
 このため、日本の輸送船を撃沈した潜水艦が、「一時問以上もかけて何百、何千という生き残りの日本兵を銃で撃ち殺した」ことが公式報告書に記録され、しかも上官からは賛辞さえ与えられていた。また、一九四三年二月にラバウルからラエに向かった輸送船八隻の全部と、駆逐艦四隻が沈められたが、米豪の航空機はいかだや救命ボートに乗っている遭難者を機銃掃射した。そして、『タイム』誌は「低空飛行の戦闘機が生き残りのジャップでいっぱいの救命ボートを血の海に変えた。ジャップに浴びせられたこの残忍さは、かつて彼らがしばしば示したものである。今回の攻撃の結果、岸にたどり着くことができたジャップはほとんどゼロに近かった」と報じた。注11
 この状況は高級誌も同様で『アトランティック・マンスリー』誌さえ、「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきた」という記事を掲載している。注12一方、空母機動部隊を率いて対日反攻戦争の先頭を走ってきたハルゼー(William F. Halsey)中将は、「日本語は地獄だけで使われるようになるだろう」と公言し、「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、もっと多くのジャップを殺せ」をスローガンに攻め上げてきた。一九四三年の米軍の調査によれば、米軍の意識も半数が捕虜にするのではなく、日本兵は一人残さず殺すべきだと考え、終戦の年になると四人に一人が戦闘の主要目的は陣地を占領することでなく、日本兵をできるだけ多く殺すことに変わった。このため投降を拒否し、手を挙げて投降してくる時点に、すなわち捕虜とする前に射殺したという。注13
 しかも、世論は終始一〇から一三パーセントが日本人の「絶滅」を支持し、終戦の年には三三パーセントが国家としての日本の崩壊を支持していた。原爆が広島に投下される数日前には、ニフドフォード海軍中将が、「侵賂を求めたのはジャップスの方だ。だから日本は都市なき国家となり、あとに残るのは流浪の民だけだろう」と言ったといわれている。この延長線上に広島、長崎への原爆投下があったのである。そして、敗戦後の一九四五年一二月に『フォーチュン』誌が行った世論調査では、米国人の二二・七パーセントの者が、「日本が降伏する前に、もっと原爆を」使う機会があれば良かったと、原爆投下後にあまりにもあっけなく降伏してまったことを残念がっていた。注14本書を書き終えて、つくづく「勝てば官軍、負ければ賊軍」という諺が実感された。

四 日本人と価値観の反転

第三の所見は、なぜ、勇敢で忠誠心の強い日本兵が、捕虜となると自国に不利な情報を「ペラペラ」と話してしまうのであろうか。クラーク教授の章を監修し、国民が不自由を忍び、類をみない愛国心を発揮して守り通してきた大和の秘密が、捕虜となった軍人の裏切により、あれだけ秘密にしていた大和の主砲の口径さえ知られてしまったショックは大きかった。しかし、捕虜となると味方を裏切る行為は、シベリア抑留にもあった。日本軍抑留者はソ連軍に「へつらい」、スターリンに感謝電報を送り、反対する者を反動分子として日本人捕虜がリンチを加えて殺害さえした。なぜ、このように日本兵は捕虜となると価値観まで逆転させ、自軍に不利な秘密事項を暴露し、勝者に「へつらう」のであろうか。このような捕虜の秘密暴露やシベリアのリンチで、どれだけの日本人が犠牲になったであろうか。このような裏切り行為に怒りが込み上げるとともに、情けなくもなった。しかし、これは捕虜だけではない。日本人総てに当てはまる問題ではないであろうか。このような行為は敗戦とともに「一億総懺悔」と、占領軍に「へつらい」「こびり」、そして昨日までの価値観を総て否定し、戦後の日本をリードした進歩的文化人といわれる人々にも言えるのではないであろうか。
 マッカーサーは占領軍に都合の悪い記事、国家意識や愛国心を鼓舞する記事を禁止する言論統制(プレスコード)を行ったが、この統制に五〇七六人の日本人が協力した。そして、吉田満の『戦艦大和』も愛国心が気に入らなかったのであろうか、プレスコード違反として発行禁止処分とされた。注15敗戦直後に日本語を英語に翻訳できるのは、限られたエリートであった。そのエリートが占領軍が示した基準に忠実に、当時のサラリーマンより二倍も高い給料(占領経費として日本政府負担)を得て、問題のある文章をことごとく拾い上げ、占領軍当局にご注進したのである。その後、これら占領軍へのご注進者の多くが外交官、学者、新聞記者などに転換し、各界のリーダーとなった。注16そして、この占領軍による言論統制が、今でも外国の非難を怖れ、発言を自己規制をしてしまう『閉ざされた言語空間』を生み、それが国家意識を希薄にし、愛国心や犠牲的精神などを死語とし、さらに近隣諸国の抗議に教科書まで改訂し、現在のような大和の戦死者が考えてもいなかった日本としてしまったのであった。
 このように考えると、戦艦大和は航空時代が到来することが判っていても、建造を中止することができなかった現代のダムや高速道路の問題、現在の中国や韓国に対する発言の自己規制など、現代の日本に連なる多くの教訓を含んでおり、戦艦大和には日本という国のあり方を考える上で、まだまだ学ぶべき多くのことがあるように思われる。これらのことを学び、大和の勇士たちが願っていた日本を再構築することが、尊い生命を我々のために捧げた兵士に報いる道ではないであろうか。しかし、この大和の犠牲者が眠る靖国神社は否定され、国家・民族のために死んでいった英霊は行き場所を失おうとしている。国家という存在が稀薄となり、愛国心が死語になりつつあるなかで、戦艦大和を通してさまざまのことを考えさせられた。
 末尾とはなったが、多忙な中に多くの資料を提供して頂いた呉市史編纂室の千田武志、津田文夫氏、呉海事博物館の相原謙二氏に心からの謝意を表したい。また、本書の編集に際しては講談社学術編集部の園田雅一氏の貴重な示唆、ご協力を戴いたことを明記して、厚く御礼を申し上げたい。


注一覧

1 吉田俊雄『戦艦大和・その生と死』(PHP研究所、二〇〇二年)一八〜一九頁および
  坪井平次『戦艦大和の最後』(光人社、一九八三年)一八九頁。
2 ラッセル・スパー(左近允尚俊訳)『戦艦大和の運命』(新潮社、一九八六年)三二六頁。
3 ベルナード・ミロー(内藤一郎訳)『神風』(早川書房、一九七二年)三五七頁。
4 長田順行「訳者あとがき」カール・ボイド『盗まれた情報』(原書房、一九九九年)二五九頁。
5 中柴末純『闘戦経の研究』(宮越太陽堂書房、一九四四年)一、四八および八二頁。
6 稲上四郎『葉がくれ精神』(巧人社、一九四一年)一〇頁。
7 徳永栄『徳永教官述 戦略講義録 上(以後、徳永講義録と略記す)』(海軍大学校、 一九三五 年)三三三頁、
  海上自衛隊幹部学校蔵。
8 佐藤波蔵「孫子管見」(『水交社記事』一〇三八年九月)二九頁。
8 前掲、スパー、二九五頁。
9 ジョン・W・ダワー(斉藤元訳)『人種偏見』(TBSブリタニカ、一九八七年)(JohnW.Dower,
  War Without Mercy:Race and Power in the Pacific War(Random House,1986) 一〇四頁。
10  同上、七八頁。
11  同上、八四〜八五頁。
12  同上、八一頁。
13  同上、六六頁、八七頁。
14  同上、六七頁。
15 吉田満『戦艦大和』(角川書房、一九四九年)一三九〜一四一頁。
16 江藤淳『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、二〇〇〇年)二二九〜二三一頁。