『戦艦大和 講談社選書メチエ269
●はじめに(※編集前の原稿の為、出版されたものとは多少異なります) 平間洋一

 1945年4月7日2時23分、戦艦大和は屋久島沖に沈み、40ヶ月の短い生命を閉じた。その日から今日
まで、大和ほど国民に愛惜された軍艦はないであろう。 それは日本人が造った世界最大の戦艦であり、 日
本の技術の頂上を極めた戦艦であり、 また、その最後が日本人の戦い方を象徴していたからでもあろう。

 帝国海軍が創設された1868年(慶応4年)3月に、大阪湾の天保山沖で観艦式が行われた。この時の参
加艦艇は、6隻で総トン数2452トン、しかも総てが外国製であった1。1876(明治9)年には横須賀海
軍工廠で、最初の軍艦清輝が建造された。しかし、外国製には遥かに及ばなかった。1894年には連合艦
隊が編成され、総兵力は軍艦55隻、6万1300トンになり、4278トンの32センチ砲を搭載した国産の主
力艦橋立も加わった。しかし、橋立の主砲は右舷に回転すれば右舷に船体が傾斜し、射撃をすれば艦首が
反対方向に大きく振れる軍艦であった。また、日露戦争で世界の海戦史上を飾った日本海海戦の東郷艦隊
も、主力艦の総ては外国製であった。このように日本は建艦上では全くの新参者であり後進国であった。

 しかし、国防の根幹である軍艦を外国に依存することへの議論が高まり、当時の最先端の技術と人材、
そして国富の多くが軍艦建造に投じられた。明治天皇は1870年に兵部省に「海陸軍整備費」として30万
石(海軍18万石、陸軍12万石)を下賜され、兵部省官吏は俸給の4分の1を軍事費として納入したが、さ
らに1890年には海防費補助として、宮廷費を節約し6年間にわたり30万円を、官吏は給料の10パーセン
トを軍艦建造費として納入し、国民は小学生までもが軍艦建造費を寄付し、寄付は208万8500円に達し
た。

 そして、日清、日露戦争に勝利し、1905年には2万2750トンの筑波、生駒を建造し、第一次世界大戦
後には世界3大海軍国となり、有色人種としてはじめて国際連盟の理事国となった。この日本の国力を表
徴するのが海軍力であり、海軍力を象徴するのが戦艦であった。しかし、日本はワシントン条約やロンド
ン条約で対英米との艦艇の保有比率を5対3、10対7に押さえ込まれてしまった。すると日本は質で英米
を凌駕しようと、世界を驚嘆させた優れた1万トン級の条約型巡洋艦を次々と生み出し、その技術の結晶
晶が戦艦大和となったのである。

 第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は、沖縄特攻に出撃する直前に来艦した兵学校在学中の皇族の生徒に
、「民族が栄える時には偉大な物を残すノ..この大和も人類が造り得た最大最強の戦艦であって、恐らく
今後とも出来ないであろう。こうした偉大な戦艦を造り得たことは、日本民族の栄えた印として、大い
に民族的な誇りとして自負して良いと思う」と述べたと言う。このように、多くの日本人には戦艦大和
は昭和日本の誇りであり、日本が世界第3位の海軍国であった証であった。明治維新以後に急速に伸びた
国勢は海軍力の上に具現された。というよりも、海軍力が国勢伸長論の延長線上にあり、国民は戦艦に民
族の誇りを見た。これは1930年の『少年倶楽部』新年号付録のカルタに、「陸奥と長門は日本の誇り」
という札があることで理解できよう。確かに天守閣を連想させる戦艦長門や陸奥が白波を蹴立てて航行す
る英姿は、国家威信の象徴として多くの国民に敬愛され、一等国の国民としての自負と誇りの表徴であっ
た。しかし、国民はそれより優れた世界一の戦艦大和があったことをほとんど知らなかった。

 日本は1921年に戦艦陸奥の3万5000トンから、15年間の空白を越えて7万トンという世界一の巨大戦
艦を建造したのである。建造中も建造後も、米英はそれを巨大のものとは思つたが、まさか一挙に2倍の
超大型戦艦が飛び出そうとは思わなかつたことは、第6章の米海軍情報部の報告からも明らかであろう。
最大でも恐らくは5万トン程度であろうと想像するのが當時の常識であつた。ところが前代未聞の四六セ
ンチを搭載した7万トンの戦艦が出現したのである。大和には黒船に驚嘆した日本人が造り上げた技術的
誇りと、また、その>最後には国家存亡の危機に生死を省みず、ただただ国のためにと生死を顧みずに散っ
ていった日本民族の死生観、戦い方の原点が凝縮されていた。そして、この大和の祖国への挺身が、「宇
宙戦艦大和」となり、映画となり、出版物(約140冊)となり、プラモデルとなり、インターネット上に
1万7000件におよぶ大和関連のホームページを生み、呉市に大和を主軸とした海事博物館を建設させ、
その建設に全国各地から多数の寄付が寄せられ続けているのであろう。

 しかし、あまりに大和に対する関心が高く出版物が多いため、戦死者数一つ見てもばらつきがあり、不
正確な部分が多い。また、さらに大和が片道分の燃料しか搭載していなかったなどと、必要以上に大和の
最後を悲惨なものとして美化し、悲惨さを強調する傾向もある。一方、戦後の戦史研究家と呼ばれる人た
ちの著作には、海軍を体験しないための誤解や偏見も散見される。さらに旧海軍軍人の著作にさえ、指揮
官を経験しなかったためであろうか、指揮官の苦悩や苦渋の決断への理解に欠け、さらに戦後の価値観が
加わったためであろうか、大和に特攻を命じた指揮官を厳しく批判するなど、大和の沖縄特攻は体験やイ
ズム、特に太平洋戦争をどのように位置づけるのかにより見解が分かれている。

 そこで本書では、第1に「なぜ大和を造ったのか」、「技術上どのような特徴があったのか」、また、
大和が「世界最強の戦艦であったのか」などの大和建造の問題を明らかにしたい。次いで大和が国民の期
待に添えずに、無残な最期を遂げなければならなかった運用上の問題、特に大和の沖縄特攻の問題などを
中心に分析した。また、米国の歴史学者を加えて米海軍の大和への視点も加えた。

 次に本書の概要を示すと、第1章では大和を建造した戦略・戦術的背景が理解されるであろう。第2章で
は戦略・戦術思想を具体化した設計上の問題が明らかにされる。第3章では大和の建造上の問題、ビルに
例えれば長さ270メートル、高さ40メートルで6階建、砲1門が270トン、砲塔1基で2770トンと、駆
逐艦に相当する重量の砲塔を動かす構造上のメカニズムの極意、大和を建造した呉海軍工廠を中心に技術
者や、工員の努力や労苦が明らかにされる。

 第4章は竣工からフィリピン沖海戦までで、貧乏海軍の「出し惜しみ」から「大和ホテル」と揶揄され
、トラック島に巨体を横たえ、出撃しても敵に遭遇することなく燃料を消耗し、寄与したことと言えば、
1000余名の陸軍部隊や零戦の補助燃料タンクなどを輸送した程度であった。その後にマリアナ沖海戦に
は空母の護衛部隊として、フィリピン沖海戦には打撃部隊として出動し、念願の主砲を発射したが命中弾
はなかった。また、この章ではトラック島入港時に一発の魚雷を受け、速力を下げることなく20ノットで
航走し続けていた大和が、実は甲鈑の接続部分に重大な損害を受けていたことが、大和艦長が発した電報
を解読した米海軍の傍受解読電報から明らかにされるであろう。

 第5章の大和の沖縄特攻は本書で最も重視した章である。それは、大和の沖縄特攻について、ある者は
必要以上に美化し、ある者は当時の国内状況や特攻を命じた指揮官の心境などを無視し、現在の価値観で
批判するなど、大和の沖縄特攻の背景が時代とともに理解されなくなっているからである。第六章はジャ
クソンビーユ大学歴史学主任教授のクラーク博士夫妻が、ワシントンの国立公文書館や海軍歴史センター
などの厖大な史料を基に、米海軍が大和に関する実像を解明していった過程を明らかにしている。これも
本書の大きな特長であろう。読者は本章から大和の秘密が極めて良く守られていたことと、それに反して
忠誠心の厚い軍人が、捕虜となると180度転換し「ペラペラ」と秘密事項を何の躊躇いもなく話し、大和
の実像が解明されていった過程が、明らかにされて衝撃を受けるのではないか。また、さらに公表される
予算額を分析し、大和の建造を解明して行く米国海軍の情報活動の幅の広さ深さなど、多くの示唆が得ら
れるであろう。

 第7章は終章に当たる部分で、航空機の時代が来るのに大和を造ったという批判、「航空主兵論」と「
艦艇主兵論」などの論争や、大和の運用について日米海軍の戦艦の運用法を比較し、また大和特攻につい
ての可否などを論じた。

 本書の記述、編集に当たっては、米国の国立公文書館、米海軍歴史センター、防衛研究所、昭和館、呉
呉史編纂室、呉海事博物館準備室など可能な限り内外の第一次資料に当たり、感情やイズムを交えず、学
術的評価に耐えられる内容とすることに努めたことを付記しておく。