『連合艦隊 知れば知るほど』 |
●監修の言葉(出版されたものとは、若干異なります) 平間洋一 |
●連合艦隊の変遷 帝国海軍は明治元年(1868年)1月17日に明治政府とともに生まれたが、連合艦隊が編成されたのは東学党の乱をめぐって日清両国の対立が高まった1894(明治27)年7月19日のことであった。編成は最新鋭の4500トンの松島・厳島から小型の水雷艇を含む24隻の常備艦隊と、旧式の砲艦葛城など九隻の西海艦隊(最初は警備艦隊と呼称)で、その総兵力は55隻、6万1300トンに過ぎなかった。 次に連合艦隊が編成されたのは、日露の国交が断絶した1904年2月5日で、その兵力は三国干渉をバネとした10年に及ぶ「臥薪嘗胆」の軍備増強により、戦艦6隻、装巡洋艦6隻、巡洋艦12隻、駆逐艦など152隻、26万トンに増加していた。このように連合艦隊は日露戦争までは戦時に臨時に編成され、戦争が終わると解散していた。しかし、ワシントン会議以降は米国の常備艦隊を意識して常設の形態をとるようになった。とはいえ、予算的制約もあり連合艦隊に編入される艦艇は、昭和初期までは全艦艇の20パーセントを上下していた。その後に潜水艦が戦力化すると、40年には潜水艦部隊(第6艦隊)を加え、さらに41年1月5日には陸上航空部隊(第1航空艦隊)、4月10日には空母航空部隊(第一一航空艦隊)を加え、開戦時には水上部隊の第1・第2・第3・第4・第5艦隊、潜水艦部隊の第6艦隊、航空部隊の第1・第11航空艦隊に南遣艦隊など、空母10隻、戦鑑10隻、巡洋41隻、駆逐111隻、潜水艦64隻など合計254隻、106万7000トンの兵力で太平洋戦争に突入したが、さらに戦争中に383隻、85万8000トン補充して太平洋戦争を戦った。 しかし、45年4月7日には第2艦隊の旗艦の大和が沈没して連合艦隊から戦艦部隊が消え、4月25日には残余の部隊を指揮する海軍総隊司令部が編成され、終戦を迎えた4ヶ月後の8月15日には可動艦艇は小型空母1隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦30隻、潜水艦21隻など総計49隻、9万6000トンとなっていた。 ●連合艦隊の史的評価 敗戦後の国民は、この大艦隊の完敗に驚き反動的に10対0の惨敗のように考えているのではないか。しかし、本書で取り上げたハワイから最後の大和出撃までの作戦を詳細に見てみると、開戦通告の遅延問題はあったが3500海里も離れたハワイへの世界最初の空母部隊による襲撃やセイロン空襲、陸上航空機による戦艦プリンス・オブ・ウエルスの撃沈など、航空兵力の新しい使用法を示し海戦の様相をすっかり変えた作戦など、世界の海戦史上に不滅の栄光を残している。また、その戦いも日米の兵力比に格段の格差がなかったガダルヵナル島周辺の6ヵ月間の戦いでは3勝2敗、撃沈艦艇数では29対29であった。大戦中の日米の駆逐艦以上の沈没艦艇数をみても、米国の一四六隻に対して333隻で10対5、しかもこのようなボロ負けを重ねたのは航空兵力を失い、海上部隊を特攻的に投入した大戦後半からであった。 確かにミッドウェー海戦の慢心、栗田艦隊のレイテ湾口の不覚の反転、コマンドルスキー沖海戦、珊瑚海の海戦などの戦意に欠けた戦いもあった。しかし、ガダルカナルの田中頼三少将、囮艦墜に徹した小澤治三郎中将、レイテ海戦における西村祥治中将やスリガオ海峡に突入した志摩清英中将などの勇気と責任感、艦と共に沈んだ多くの艦長など、3年8ヶ月の戦いに元帥2、大将5、中将56、少将252の併せて315名の将官と250万の将兵が国に殉じた。 この中には「十死零生」の2500名余の神風特別攻撃隊や回天攻撃隊の隊員も含まれている。陸軍には戦況認識の差違や命令に近い特攻隊員の選抜、さらには現場指揮官が逃げ出すなど、特攻作戦に関して多くの不調和音も聞かれるが、海軍にはあまり批判は聞こえない。確かに黒島亀人少将のように特攻を推進した参謀もいた。しかし、海軍の特攻は下からの意見具申を受けて、指揮官が苦渋の決断をしたものであり、さらにフィリピンのクラーク地区航空部隊指揮官の有馬正文少将のように自身が特攻攻撃の見本を示した指揮官もいた。また、特攻の産みの親の大西瀧次郎中將は敗戦後に、「特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり、深謝す。......しかれどもその信念は達成し得ざるに至れり。われ死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残して自害し、第5航空艦隊司令官の宇垣纏中将は終戦の報を聞いて沖縄へ散華するなど多くの指揮官が部下の後を追った。戦艦大和の沖縄特攻作戦については3500余名を犬死にさせたと批判する意見を聞く。しかし、国民に「一億特攻」「一億玉砕」を要望しながら、戦艦大和が焼け野原の呉軍港に残っていたならば、呉市民は、国民は海軍を、大和をどのように見たであろうか。大和には黒船に驚嘆した日本人が作り上げた技術的誇りと、また、その最後には日本民族の死生観、戦い方の原点が凝縮されていた。それが呉市に大和を中心とした海事博物館を建設させ、その建設に全国各地から多数の寄付が寄せられ続けているのではないであろうか。 ●連合艦隊と国民 軍艦を建造するために明治天皇は宮廷費を節約して6年間にわたり30万円を、官吏は給料の10パーセントを納付し、国民は小学生までもが寄付に応じた。このように連合艦隊は国民が造ったものであった。そして、連合艦隊は日清戦争では黄海の海戦に勝利し、日露戦争では日本海海戦で世界海戦上に不滅の完全勝利を飾り国民の期待に応えた。また、日本は海軍力を背景に第1次世界大戦後は国際連盟の常任理事国となり、3大強国と呼ばれるに至った。30年の『少年クラブ』の新年号の付録のカルタに「陸奥と長門は日本の誇り」という札があるが、40センチ砲を装備し、天守閣を連想せる艦橋の陸奥や長門が白波をへだてて航行する英姿は、多くの国民に国家威信の表徴として敬愛され、一等国との自負と誇りを与えてきた。 しかし、連合艦隊は日本の国民に誇りと自信を与えただけでない。日本海海戦直後にスエズ運河を通峡した時に、中国の国父と呼ばれる孫文は、沢山のエジプト人に日本人かと囲まれ「非常に嬉しいニュースを得た。日本がロシア艦隊を全滅させた。....われわれ東洋の有色人種は西洋民族の圧迫を受けて、苦痛を舐め全く浮かぶ瀬がなかったが、我々も頑張れば独立ができる」と聞き、この日本の勝利が「私に独立への夢を与えた」と書いている。このように連合艦隊の勝利は単に日本国民だけでなく、欧米の植民地にあえぐ多くの人々に独立への希望と自信を与え、そして消えたのであった。 |