『日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰』 |
●まえがき 平間洋一 |
日英同盟は今から一〇〇年前に締結された同盟であり、すでに歴史の中に埋没しているという印象が強い。しかし、日英同盟の歴史をたどるならば、そこには現代にも通じる多くの遺訓があり、二一世紀の日本の針路を考察するうえに極めて有益な示唆を与えてくれることに気づかれるであろう。 日英同盟が締結されたのは一九〇二(明治三五)年であり、間もなく日英同盟締結一〇〇周年を迎え、これを記念して来年には日英両国で様々な記念行事が計画されている。この記念すべき年を間近にして、このような形で本書が刊行されることは、日英関係史を学ぶ学徒の一人として、筆者として誠に喜ばしい限りである。 日本は開国以来、日英同盟、日露協商、日華軍事相互防敵協定、日独伊三国同盟、さらに第二次世界大戦中にはタイ、ビルマやフィリピンなどと軍事同盟を締結したが、第二次大戦に破れると日米安全保障条約を締結するなど、この一〇〇年の間に日本は英米独伊露から中華民国など多くの国々と軍事同盟を締結してきた。しかし、これらの同盟を同盟国の選択と国家の盛衰という視点から見ると、日本は海洋の覇権を握る海洋国との同盟で栄え、大陸国との同盟で荒廃を招いたことを示している。すなわち、 開国早々の日本は、海洋国イギリスと同盟し、 海洋国アメリカの援助を受けて日露戦争に勝ち、第一次世界大戦ではイギリスとともにドイツを破り五大国、三大海軍国と呼ばれるまでに成長した。 しかし、第一次世界大戦中の一九一六(大正五)年には、大陸国ロシアと事実上の攻守同盟(第四次日露協商)を結び、 さらに一九一八(大正七)年には中国と日華共同防敵軍事協定を締結してシベリアへ出兵、 さらに一九四〇年(昭和一五)年には大陸国ドイツと結んだ日独伊三国同盟で、第二次世界大戦に引き込まれて敗北してしまった。 しかし、 第二次大戦に敗北すると、日本は再び海洋国アメリカと結んだ日米安保条約によって現在の繁栄を得た。日英同盟の今日的意義を求めるならば、 明治の先人の選択ー海洋を支配する国との同盟、アメリカやイギリスなどのアングロサクソン民族の国と結ばれた時には繁栄し、 大陸国と結ばれた時には苦難の道を歩まなければならなかったことを教えているが、その理由は本書を読まれれば自ずと理解できるであろう。 「歴史は未来へのベクトルである」といわれ、 歴史は未来を予察するうえに極めて有効な基準を与えてくれる。たとえば、日英同盟を日米安保に、東南アジア連合(ASEAN)や、拡大アセアン・フォーラム(ARF)などの多国間安全保障体制(Maltirateral System)を太平洋に関する四カ国条約やヨーロッパのロカルノ条約に、ワシントン軍縮条約を核拡散防止条約や戦略兵器削減条約などに置き換え、それらの条約が締結されたときの状況や、その条約に対する列国の対応、その条約のその後の推移をたどれば、そこには多くの類似点があり、現代に通じる多く遺訓がある。特にソ連という日米共通の脅威が消えた現在の日米安保条約と、ドイツという日英共通の敵が消えた後の日英同盟との間には、多くの類似点があり、示唆に富む数々の遺訓が見い出せるであろう。 日本一〇〇年の近現代史は、見方によっては総てが中国をめぐって展開されてきた。日清戦争も日露戦争も、そして日英同盟も、さらにワシントン体制も「中国に関する九ケ国条約」など、すべてが中国を対象、あるいは中国に関係したものであった。また、太平洋戦争も見方によっては、日米の中国市場をめぐる経済的な対立が爆発したといえなくもない。すなわち、この北東アジアの国際政治に大きく関わる国は中国と日本、それに世界の大国であったイギリス(第一次世界大戦後はアメリカ)との三角関係であった。 遅れて中国市場に参入したアメリカは、 門戸解放・機会均等を繰り返し繰り返し強硬に主張した。一方、 中国に最大の利権を持つ日本は、これを阻止しようと抵抗した。 つまり日米はペリーの日本来航以来、中国市場をめぐって争ったのであった。 これが過去一世紀にわたる日米中の基本的構図であり、二一世紀もこの構図は変わらないであろう。 また地政学的にも、北方には強国ロシア、西方には広大な中国、さらに不安定な朝鮮半島が間近にあるなど、日本を取り巻く環境は、一〇〇年前の日英同盟時代と基本的には何ら変わっていない。日米の中国への対応が、アジアの未来を決するだけに極めて重要であるが、日英同盟の時代も現在も、アメリカの中国に対するあこがれや、中国市場に対する過大期待も、日米の中国市場に対する執着も変わっていない。 中国の過去五〇年の歴史を見ても、紅衛兵事件、天安門事件や最近の法輪功の非合法化など、共産党の独裁政治体制が続き、民主主義国家とはほど遠く、軍閥が支配していた一九三〇年代と変わっていない。変化したことと言えば、「東方の富強大国(中国建国五〇周年式典の江沢民国家主席の演説)」を宣言し、軍備を増強していることだけであり、政治体制や社会体制、諸外国との関係も、日英同盟時代や一九三〇年代の中国と変わっていない。そして、日米両国は一九三〇年代と同じように、中国の扱いをめぐって揺れている。 大正日本は、第一次世界大戦中の同盟国イギリスへの非協力や、戦後に生じた新しい世界情勢が理解できずに、 日英同盟を失って世界から孤立したが、 現在も冷戦後に生じた世界情勢の変化や、日米安保体制の変質と同盟国としての義務が的確に理解できず、「嫌米」・「侮米」・「避米」などのアメリカ離れが進んでいる。そして、アジア諸国と多国間安全保障体制を構築すべきであるとの「ASEAN安全保障体制論」、日米中等距離外交の「日米中正三角形論」、さらには日米安保体制を離脱すべしとの「自主軍備論」など、多様な安全保障論が展開されているが、この傾向も日英同盟時代と余り変わっていないといえるだろう。 戦略眼に欠けている日本人は、日米安保体制が崩壊した場合などを考えることなく、日米中関係や国の針路を論じている。しかし、日英同盟の崩壊過程と崩壊後の日本の歩んだ道のりを見れば、日米安保体制を離脱した場合の日本の将来が見えてくるのではないか。 また、日英同盟二〇年の歴史を学べば、同盟国選定の要件、同盟の利点や問題点、国際機関の限界など、今後の日本の針路を考究するうえに、学ぶべき多くの遺訓が見い出せるのではないか。 このような考えから、本書では日英同盟と日米安保を対比しつつ、同盟国の選択と国家の盛衰ということを視座に、日英同盟の締結と継続、日英同盟に対する日本の対応や同盟解消後の日本の動向、日英同盟の価値や変質に対する日本の対応、さらに、国際連盟や多国間安全保障体制の安全保障上の価値と限界などについても合わせて考えてみたい。 日本は島国という地理的環境から、蒙古襲来以外に外国から侵略された体験がなく、明治に入るまで他国と軍事同盟を締結し、勢力均衡を図るという同盟政策をとる必要がなかった。このため、経験上からも理論上からも、同盟政策については西欧諸国とは格段に遅れている。 本書により同盟国選定の要件や、同盟政策の利点や欠点、同盟関係解消の利害などが理解され、日本の安全保障政策の論議に歴史的遺訓が加味され、戦略的思考が加えられることになるならば、筆者としてこれに過ぎる喜びはない。 |