序章 日英関係史における軍事
                                         
 日英同盟締結以来100年を迎える日英関係は、本書の目次が示すとおり海軍を主とする軍事関係を主軸として展開してきた。その間の日英関係は明治期には「教師と生徒」、大正期には「共に戦う戦友からライバル」、昭和期には「敵と味方」、そして、第二次世界大戦後は再び「自由主義を守る戦友」となり、今日では世界の平和と安全を守る「グローバルパートナー」として21世紀を迎えようとしている。
 東の島帝国と西の島帝国の遠く離れた日英両国を最初に結びつけたのは、世界の公道である海を渡り、1600年に来日したウイリアム・アダムス(日本名:三浦按針)であった。さらに日英を強く結びつけたのは、1902(明治35)年1月30日に締結された「日英同盟」であった。そして、「同盟国タル日本海軍ヲ誘指導スル旨趣ニ拠リ、各般ノ教育研究ニ於テ輔導ノ地位ニ立ツコトヲ諒セラレンコトヲ望ム1」と、日本海軍は英国海軍を師とし、多くの教官を招き留学生を送り、英国製の軍艦を購入し、技術を導入して育ち、日本海海戦では世界に類のない完全勝利を得た。
 
 一方、日本海軍は第一次世界大戦では、直接ドイツと砲火を交えることは少なかったが、大戦初期には英海軍の要請に応じて多数の艦艇を派遣し、チャーチル海軍大臣の表現を引用するならば、英国の「太平洋及び印度洋上の商船護衛や海上警備の大部分は日本の旗を揚げる軍艦に託されていた」。さらに大戦中期から後期に、ドイツ海軍が仮装巡洋艦による海上交通破壊作戦を開始すると、日本海軍は英海軍の依頼に応じて、オーストラリア・ニュージーランドに巡洋艦1から2隻、ケープタウンに2隻、ハワイに1隻、シンガポールに巡洋艦1から2隻と駆逐艦8隻を、さらに大戦後半には地中海に巡洋艦1隻、駆逐艦12隻を派遣して英海軍を支援した。このように、日本海軍は友邦英国のために、4年3ヶ月にわたり太平洋とインド洋の制海権を確立し、海上交通を完全に保護して英国を支援したという点ではフランスより寄与したとニッシュ教授は評価している2。

 しかし、第一次大戦が終了すると、米国や中国の反対を受けて同盟を解消され、両国の友好関係は国際政治のパワーポリティックスの前に切断されてしまった。とはいえ、日本海軍は英海軍を師とし、英国から軍艦を多数購入し、技術を導入し、第一次世界大戦が終結したときには、世界第3位の大海軍国に成長していた。その後も日本海軍は1921年に、セルピル空軍大佐以下30名の飛行教導団を招き、それまでは飛ぶことだけが訓練と言っても過言でない練度の日本海軍航空隊は編隊爆撃、機上射撃、降下雷撃、偵察などを学んだ。しかし、それから20年後には「生徒」の日本海軍が、「教官」である英海軍の誇りとしていた新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエルスを撃沈し、インド洋では航空母艦ハーミスや巡洋艦を撃沈するなど、成長した「生徒」が「先生」を打ち負かし、開戦半年後にはアジアから英国の勢力を駆逐してしまった。他方、日本軍の行動は捕虜虐待や国際法違反などを生起させ、「先の戦争」が日英100年の友好関係に彩られた歴史に大きな汚点を残し、その論争は本書にも見られるとおり現在も続いている。

  日英同盟解消後も日本海軍は、英国から戦術や武器を導入しようとしていたし、ワシント会議に出席した全権加藤友三郎海相も、軍人大臣制度を今後とも維持することは世界の大勢から不可能で、文官大臣制度が出現するであろうが、「之ニ応スル準備ヲ為シ置クヘシ・英国流ニ近キモノニスヘシ3」と現地から伝言を送ったように、ドイツよりは英国に親近感を示していた。しかし、日英同盟の解消がこの流れを変えてしまった。日英同盟が破棄されて留学先を英国から閉ざされた日本海軍は、留学先や技術導入先を、徐々に英国や米国からドイツに変えて行った。1867(明治元)年から日英同盟が破棄される1923年まで、日本からドイツに派遣された武官、監督官や留学生は77名(将官に昇任した者45名)であったが、英国に派遣された士官は352名(将官に昇任した者344名)に達していた。しかし、日英同盟が破棄された1922年から1940年までのドイツへの派遣者は、159名(大将6名)に達したが、英国への派遣者は175名(大将6名)とほぼ同率に低下し、1930年代後半には海軍中枢部に親独派が増え影響力を高めていった4。 そして、日本の命運を決する分岐点ともなった1939年から40年には、ドイツ留学者が海軍中央の枢要な地位に付き、これら親独派が日本海軍の政策決定に深くかかわることになったのであった。チャーチルは日英同盟が継続していたならば、第2次世界大戦を防止できたのではなかったかと次のように述べている。

 「日本がきちんと守っていた日英同盟の継続が、英米関係の障害になるということをアメリカが明らかにした。その結果、この同盟は消滅せざるを得なかった。同盟条約の破棄は日本に深刻な印象を植え付け、西洋のアジアの国の排斥とみなされた。多くの結びつきがばらばらになったが、それらは後になって平和に対する決定的価値を発揮するはずのものであった」。しかも日本は、ワシントン条約によって艦艇の保有量を英米より低い比率に規定されてしまった。「かくて、ヨーロッパでもアジアでも、平和の名において戦争再発の道を切り拓く条件が戦勝の連合国によって急速に作られた5」。

 また、14年間にわたり在米日本大使館の顧問をしていたアメリカ人フレドリック・ムーアは、日英同盟解消の歴史的重大性を次のように指摘している。

 「米国が英国を強要して日本との同盟を廃止させたのは、 米国外交の失策だった。..... 日本側は同盟廃止によって大衝撃を受けた。英国が大した議論もせずに、さっさ、米国の望み通りにやってしまったので、英国に対する日本側の考えが変わった。これが始まりで、以後日本は起こり得る戦争に備える独自の行動へと方向を転換した。ドイツが軍事力を回復した時、それと協力しようとする道が気持ちのうえで開けたのである。日本海軍はこの時まで、国民の間に強い勢力を持っていたが、日英同盟の破棄によって弱化し、陸軍に支配的な威信を譲り渡してしまった。もしも、日英同盟が存在していたならば、文官と海軍の勢力によって、陸軍に十分な抑止力を加え続け、陸軍が中国へ進出することを防止しただろうということさえあり得たかもしれないと私は考える。....日英同盟を廃止させたことは、アメリカ国民と政府の失策であったと確信する6」。

 このように、日英同盟の解消による英海軍との疎遠が、日本海軍の皇室との関係を希薄にし、英海軍を教師としてきた海軍の国内政治上の地位を下げ、1930年代には、ドイツを「教師」としてきた陸軍の発言力を高め、日本をドイツに近づけ、日本を戦争へと導いて行ったのであった。日英同盟は「日本外交のkey Stone」であり、日本は英国の指導と援助によって海軍を建設し日露戦争に勝ち、第一次大戦をへて国際連盟を牛耳る常任理事国として5大国に列せられ、軍事的には世界第3位の海軍国に成長し、日本に20年間の安全と繁栄をもたらした。しかし、日英同盟の最大の利益は、世界の海洋を支配する英国との同盟により、日本の安全保障をだけでなく、アジア、特に東アジアの安全保障を確保し、20年間の平和を維持したことであり、日英双方がこの平和を利用して貿易を増大し、経済的発展を維持したことであった。さらに、別の見方をすれば、日英同盟はロシアの満州占領を阻止するなど、日英だけでなくアジアの平和、特に中国の平和に大きく貢献したとはいえないであろうか。

1 外務省編『日本外交文書』第35巻(日本国際連合協会、1960年)19―22頁。
2 Ian H.Nish,Alliance Decline:a Study in Anglo-Japanese Relation,1908-1923(London:The Athlone Press, 1972),p.256.
3 「加藤全権伝言」(『太平洋戦争への道 開戦外交史資料編』(朝日新聞社、1988年)7頁。
4 厚生省引揚援護局編「外国に勤務した旧海軍士官名簿」(厚生省、1954年)から算出。
5 Winston S.Churchill, The World War(London:Cassell & Co.Ltd.,1948),pp.13,(毎日新聞社翻訳委員会訳『第2次世界大戦回想録』毎日新聞社、1949年)20―21頁。
6 F.S.C.Piggott, Broken Thread(Hampshire:Cale &Polden,LTD.,1950),p.148,長谷川才次訳『断たれたきずな 日英外交60年』(時事通信社、1951年)206―207頁。