おわりに
1 人は変わる思想も変わる
 激動の時代だったためか敗戦前と敗戦後では多くの人が思想を変えている。私が東京裁判史観に最も責任があると指摘した加瀬俊一は、1996年の終戦50周年に出版された『世界がさばく東京裁判』に、終戦五十周年国民委員会長として「東京裁判史観を是正しない限りわが民族の精神的独立は回復しがたい」と次のような序文を書いている1。

かねてから私は「東京裁判を裁判せよ」と主張し、歴代首相にもその必要を説いた。裁判は2年半にわたり423回も開廷し、鳴物入りで日本を糾弾したが、要するに勝者の敗者に対する一方的断罪であった。日本の立場を完全に無視しており、パル・インド判事の名言を借りれば一「歴史の偽造」なのである。それに、「法律なければ犯罪なし」の原則に反する。しかも一わが国民は戦勝国の世論操作によって洗脳され、いまだに裁判の真相を理解していない。これを是正せぬ限りわが民族の精神的独立は回復しがたい」。

この加瀬の心変わりをいかに解釈するかは読者にお任せするとして、本書を理解して頂くために著者にコミンテルン史観や海軍からの視点を生み育てた著者の体験、すなわち心変わりの変遷を告白したい。著者が進駐軍兵士と厚化粧の女が溢れる基地の町の横須賀に育ったためか、横須賀高校時代には社会科学研究部長、三浦半島地区民主青年同盟(民青同)高校の部のリーダーとして、「ゴーホーム・ヤンキー」のポスターを電柱に貼り、理解もできないのに「共産党宣言」や「マルクス経済学」を読み(読んだ振りをし)、九州大学の向坂逸郎教授の難解な言説に酔い、三池炭坑の闘争に拍手を送っていた。また、ソ連大使館から送られてくる『今日のソ連邦』など雑誌を見て共産主義に憧れ、選挙では「働く者の政権を!」「日中・日ソ国交回復!」「単独講和反対!」などとソ連に踊らされていた。それが著者にコミンテルン史観を抜きに日本の近代史を論ずべきでないとの史観を生んだのである。

 しかし、コミンテルンを視座とした史実はあまり深まらなかった。冷戦が崩壊し民主化とグラスノスチ(情報公開)のもとで公文書が部分には公開され、米国からはVENOA文書なども公開された。しかし、微妙な外交関係の文書は未だ未公開であり、多用した「ロシアでは最も質が高く学術的な日ソ関係史」といわれるクタコフの『日ソ外交関係史』の「精神は、事件の評価方法、導き出す結論はソビエト政府のあらゆる行為を正当化することに捧げられていることを強調して置かねばならぬ」とスラビンスキーは述べ、さらに同氏はロシア対日関係詞は「未だに中立条約を破って参戦した自国の背信を正当化するために、共産党中央委員会が外務省、赤軍参謀本部、国交警備隊本部、国家保安委員会やさまざまな学術研究所が「数字を歪曲し、事実を誤魔化し、日ソ関係の歴史を偽造した幾多の記録、地図を作り、それを基に東京裁判で日本を裁いた」歴史観に支配されておりスターリン時代と変わっていないからであった2。

 さて、マルクス・ボーイの著者がなぜ、防衛大学校に入学したのであろうか。それは将来は外交官として国を代表して働きたいので東大文一を受けたいと進学指導の教師に相談したら、「それなら駐在武官の方が外国に行ける確立が高いよ。保安大学校にしなさい。東大に行って外交官試験を受けても外務省は縁故採用が多いから」といわれアットいう間に決めてしまった。しかし、入学早々に「保安大学校も大学なのだから全学連に加盟させろ」と学校当局と団交したり、「大学にしては訓練が多すぎる。海上自衛官に銃はいらない」などと発言し、貸与される小銃の手入れもせず、パレードもさぼる問題児であった。この問題児を指導したのが「米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」と敗戦革命を夢見て、戦後はソ連との提携を進言した参謀本部戦争指導班長の松谷誠陸将補であった。松谷は吉田茂が駐英大使の時の武官で吉田の勧誘を受けて自衛隊に入隊し保安大学校の幹事になった。吉田茂は米国の開戦史観に同調し、外務省を庇い東京裁判史観を外務省の史観としたが、防衛大学校を国軍の骨格であると重視し、著者の在校中に4回も来校し、訓辞し学生を会食し、学生代表と懇談するなど強い関心を持っていた3。そして、1期生の卒業間近の57年2月に「どんな学生ができたか、学生と話をしたので大磯によこしてくれ」と槇智雄校長に依頼し、校長に選ばれた3人の1人が私であった。吉田総理訪問の細部については『人間吉田茂4』に譲るが、著者を32年間も海上自衛隊に縛り付けた吉田の言葉が「君たちは決して国民から歓迎されず日陰の道を歩むかも知れない。

しかし、君たちが日陰者であるほうが戦争も災害もなく国民は幸せなのだ」。「苦しいだろうが頑張って欲しいと」いう言葉であり、吉田から贈られた「治において乱を忘れるな」の書であった。そして、この吉田の言葉が著者を31年間も海上自衛隊に奉職させ、第2の人生で歴史家に転身した著者に海軍からの視点を与えたのである。海上自衛隊では艦長や司令などの指揮官のほかに、遠洋航海や各種の情報会議などで外務省とも関係し、また調査部時代にはソ連海軍主席分析官として各国の駐日武官との情報交換にもあたっていた。55歳の定年後は防衛大学校の戦史教官に迎えられ学生の教育に当たるとともに、学者として博士号にも挑戦し、この防衛大学校勤務時代に学術的に歴史を書くべきことを学んだ。

 海上自衛隊時代には山梨勝之助大将、新見政一中将などの講義を聴き、井上成美大将や高木惣吉少将からは個人的にお話を聞く機会があり、高松宮邸も6回ほど伺いお話を親しく聞く機会にも恵まれ、本書に登場する旧海軍の先輩から多くのことを教えられた。また、東郷平八郎元帥、上村彦之丞大将、山本五十六元帥、加藤寛治大将、鈴木貫太郎大将、米内光政大将などについては横須賀の海軍料亭・小松の女将山本直江女史から人間味あるれる逸話を聞かされ良き海軍の伝統や美風を教えられた。

 しかし、本書に登場する野村吉三郎大将については、井上大将が野村大将が防衛大学校で学生に講演をしたことを知ると、小松の女将に「あいつは相変わらずチャラチャラしている。敗軍の将が国軍の将来を担う防衛大学校の学生に講演をするなんて恥知らずと怒っていたわよ」と聞かされていたためか、昨年7月に野村邸の遺品の整理をお手伝いするまでの野村の印象は良くはなかった。しかし、野村邸に行き500点は越える日記や手紙、メモ、講演原稿、新聞の切り抜きなどを整理し(国会図書館憲政資料室に寄贈)、野村大将の強い愛国心と海上自衛隊に対する深い愛情に頭が下がった。また日米交渉中に野村を支えたフレドリック・ムーアーの40通を越す手紙に、野村の誠実な友人愛、人柄を知り心が洗われるとともに、日米交渉の失敗者と非難され続けている野村の無念に心が痛んだ。それが著者の反外務省史観となったのかもしれない。本書により歪められてしまった日米開戦史観や東京裁判史観が再検討され、野村の汚名が晴らされ日本人が真の歴史に目覚めるならば、これに過ぎたる喜びはない。

この写真は消失3ヶ月前の七賢堂祭出席時に特別許可で、吉田総理の今を見せて頂いたときの写真(写真左に袋戸棚があり、そこに官邸との直通電話がある)

脚注
1 終戦五十周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』(ジュピーター出版、1996年)1―2頁。
2 ボリス・スラヴィンスキー『考証 日ソ中立条約 公開されたロシア外務省機密文書』(岩波書店、1996年)  20―21頁。
3 柴田紳一「吉田茂は『親英米派』だったか」(『諸君』1995年1月)105頁。
4 吉田茂記念事業財団『吉田茂書簡集』(中央公論社、1949年)270―273頁。
5 吉田茂『世界と日本』(番町書房、1963年)204―205頁。
6 辰巳栄一「大戦前夜の英国駐在武官」(『昭和軍事秘話 - 同台クラブ講演集』上巻(同台経済懇話会、
  1986年)99―100頁。
7 平間洋一「総理大臣吉田茂と防衛大学校」(『小原台』第42巻第1号、1994年3月)12―24頁。
8 平間洋一「吉田茂と防衛大学校 防大生の吉田邸訪問記」(『外伝 吉田茂』(中央公論社、1991年)450―461頁。

2 本書執筆の動機
 さて、ところでドイツ語が全然できない著者が、なぜこの本を書くに至ったのであろうか、それは現役時代に情報交換を行っていた駐日ドイツ海軍武官ヨハシム・クルグ大佐との友情であった。クルグ大佐は40年前に輸送潜水艦U-238副長(中尉28歳)として、インド洋で日本海軍と共同作戦を行ったが、ドイツではU-Boatがアジアの海で日本海軍と共同作戦を行っていたことを知る人は少ない。インド洋に眠る戦友の功績と労苦を明らかにしたので一緒に書いてくれないかと、17年前に来日しクルグ大佐から共同執筆を依頼された。同じ海の仲間の友情から断ることもできず参加し、2000年にはRelactant Allie:German Japanese Naval Relation in the World War IIとして米国で発行された。この過程でドイツに送付した英語論文を日本語にし、ドイツから送られ史料などを加えて完成したのが本書である。
 
なお、これまでに発表した論文は下記のとおりである。
『防衛大学校研究紀要(社会科学編)』「第二次大戦中の日独海軍」
@「ドイツの開戦と日本海軍」第63輯、1991年9月。
A「日本海軍のインド洋作戦」第65輯、1992年9月。
B 「日本海軍と日独ソ関係」第68輯、1994年9月。
C 「日独技術交流」第71輯、1995年7月。
D 「日独人物交流」第74輯、1997年3月。
E 「日独経済関係」第76輯、1998年3月。
F 「独伊海軍のインド洋作戦」第78輯、1999年十1月。
「日独連合作戦の考察―戦争指導の視点から」(近藤新治編『近代日本戦争史』同台経済懇話会、1995年)
「ドイツの敗戦と日独海軍」(軍事史学会編『第二次世界大戦―終戦(3)』(錦正社、1995年)。
「同盟国との交渉」海軍歴史保存会編『日本海軍史』第4巻、第6編第3章(同会、1995年)。

日独年の2006年8月           平間洋一