ハワイ奇襲作戦
1 ハワイ作戦決定の経緯
太平洋戦争に対する大本営の戦争指導は速に東洋における米英蘭の根拠地を占領して自存自衛のための地域を確保するとともに、
さらに積極的な措置により蒋介石政権の屈伏を促進し、 ドイツ・イタリヤと連携し「先ツ英ノ屈伏ヲ図リ米ノ継戦意志ヲ喪失セシムルニ勉ム」とドイツの勝利を前提とし、
東洋における敵の海上勢力を撃破し南方の資源地帯を確保後は、 もっぱら防衛態勢を強化し、
ドイツの勝利まで持久するというものであった。
これを受けた海軍の対米作戦計画は1919年以降慣例となり、 1923年改定の「帝国軍ノ用兵綱領」に、
潜水艦・航空機によって逐次撃破し勢力の漸減に努め、 機会を捕らえて夜戦に引き続く決戦によって撃滅すると規定された邀撃漸減作戦であった。
この大本営の長期持久の戦争指導や邀撃漸減作戦に強力に反対したのが、 連合艦隊司令長官山本五十六大将であった。
山本長官は開戦1年前の昭和15年3月の艦隊訓練の時に、 航空部隊の見事な雷撃成果をみて、
傍らの参謀長福留繁少将に「飛行機でハワイをたたけないか」と漏らしたが、 11月下旬には口頭で、
翌16年の1月7日には「戦備ニ関スル意見」との文書で、 海軍大臣及川古志郎大将に開戦劈頭のハワイ奇襲を提示し、
さらに、 1月下旬には日本海軍航空育ての親でもある第11航空艦隊参謀長の大西瀧次郎少将に腹案を示し研究を命じた。
なお、 及川海軍大臣に送られた書簡の趣意は、 今までの艦隊決戦を想定した図演などにおいて、
「帝国海軍ハ今タ一回ノ大勝ヲ得タルコトナク、 此ノ儘推移スレハ恐ラクジリ貧ニ陥ルニアラスヤト懸念セラルル情勢ニ於テ演習中止トナルヲ恒例トセリ」、
劣勢な海軍が守勢をとり受けて立っては優勢なアメリカ海軍に対して勝算はない。
日本海軍伝統の邀撃漸減作戦は主導権が敵の手中にあり、 受け身にならざるを得ない。戦機を捕えることは言うべくして実行不可能であり、
さらに敵を待ち受けるためには捜索も必要であり戦力が分散する不利を生む。従って「開戦僻頭敵主力艦隊ヲ猛撃撃破シテ、
米国海軍及国民ヲシテ救フヘカラサル程度ニ其ノ志気ヲ沮喪セシムル」ため、 開戦劈頭のハワイ奇襲が必要であると主張した。
8月7日にはハワイ作戦を軍令部に正式に提示した。 しかし、 空母部隊を危険にさらすこと、
行動秘匿の困難性、 湾内の水深が浅く航空魚雷の使用が困難で戦艦を撃沈する有効な手段がないことなどから軍令部との調整がつかず、
さらに9月に海軍大学校で行われた図上演習の後に至っても、 作戦を実施する第1航空艦隊司令長官南雲忠一中将が主として作戦実施の困難性から、
また南方航空作戦を担当する第11航空艦隊司令長官塚原二四三中将が陸上航空兵力だけでは不十分で、
南方作戦に空母も配分してもらいたいとの用兵的見地から反対し、 さらに山本長官から最初に検討を命ぜられた大西滝次郎少将さえも反対した。
しかし、 山本長官の強い要求から10月29日に至り軍令部総長永野修身大将の「山本が、
そこまでいうのだから」との言葉で決済され、 11月5日に至り正式に認可された。
2 作戦の実施
(1)機動部隊の作戦

機動部隊は11月21日に択捉島の単冠湾に各地から集合し、 同月26日に同湾から行動の秘匿を考慮し商船航路から外れた北方航路をとりハワイに向かったが、 その勢力は第1航空艦隊の正規空母6隻と駆逐艦1隻に、 戦艦2隻、重巡洋艦2隻、水雷戦隊1隊(軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻)、 潜水艦3隻と給油艦7隻を加えたもので、 その編成は次のとおりであった。

機動部隊指揮官(南雲忠一中将)
第1航空戦隊 赤城・加賀
第2航空部隊 蒼龍・飛龍
第5航空部隊 翔鶴・瑞鶴 駆逐艦(秋雲)
第3戦隊 戦艦(比叡・霧島)
第8戦隊 重巡洋艦(利根・筑摩)
第1水雷戦隊 軽巡洋艦(阿武隈)
第17駆逐隊(谷風・浦風・浜風・磯風)
第18駆逐隊(不知火・霞・霰・陽炎)
第2潜水隊(伊号潜水艦3隻)
補給部隊 極東丸・健洋丸・など7隻
南雲部隊は12月2日に攻撃実施日を12月8日とするとの「新高山登レ1208」との電報を受信し、
8日には途中発見されることなく、 ハワイ北方230海里の地点に達し、 0130に第1次攻撃隊(183機)、
次いで上空警戒機、 さらに接近して200海里の地点から0245に第2次攻撃隊(170機)を発進し、
その後、 機動部隊は真珠湾北方190マイルまで南下したが、 0405に反転した。
なお、 第1次攻撃隊183機の構成は次のとおりであった。
第1次攻撃隊
第1集団 水平爆撃隊 艦攻49機(赤城15、 加賀14、 蒼龍10、
飛龍10)
雷撃隊 艦攻40機(赤城12、 加賀12、 蒼龍8、 飛龍8)
第2集団 急降下爆撃隊 艦攻51機(翔鶴26、 瑞鶴25)
第3集団 征空隊 艦戦43機(赤城9、 加賀12、 蒼龍8、 飛龍6、
翔鶴5 瑞鶴6)
第1次攻撃隊指揮官淵田美津雄中佐(赤城飛行隊長)は0319(ハワイ時間7時49分)に「ト連送(全軍突撃せよ)」を下令、
続いて0322(ハワイ時間7時52分)に「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」を発信、
最初の爆弾はハワイ時間の7時55分(日本時間の8日午前3時25分)に投下された。
第1次攻撃隊は奇襲であった関係から対空砲火も散発的であり、 要撃した戦闘機も4機に過ぎず、
しかも直ちに征空隊に撃墜されてしまった。 しかし、 地上砲火により9機を失い、
74機中46機が被弾した。 第2次攻撃隊嶋崎重和少佐(瑞鶴飛行隊長)が指揮する第2次攻撃隊の167機は0245に発艦したが、
その編成は次のとおりであった。

第2次攻撃隊
第1集団 水平爆撃隊 艦攻54機(翔鶴27、 瑞鶴27)
第2集団 急降下爆撃隊 艦攻78機(赤城18、 加賀26、 蒼龍17、 飛龍17)
第3集団 征空隊 艦戦35機(赤城、 加賀、 蒼龍各9機、 飛龍8)
第2次攻撃隊は0425に全機突撃が令され、 水平爆撃隊はカネオヘ、 フォード、
ヒッカムなどの飛行場を爆撃し、 急降下爆撃隊は在泊艦艇の攻撃に当たり、 終わって付近飛行場の銃撃を行った。
しかし、 水平爆撃隊が攻撃を開始したころには、 湾内が第1次攻撃隊の攻撃による煤煙や火煙に覆われ目標の確認が困難となったため、
爆撃隊は高度を予定の3000メートルから1500ないし1800メートルに下げなければならなかった。
爆撃高度の低下に加えて第2次攻撃隊が到着したころには、 迎撃態勢も整い防御砲火も熾烈となり、
第2次攻撃隊の被害は20機に増加した。 しかし、 当時は撃沈戦艦4隻、 大破、
戦艦2隻、 乙型巡洋艦2隻、 駆逐艦2隻、 中破戦艦2隻、 乙巡洋艦4隻、 航空機450機を撃破の戦果をあげたと考えられていた。
そして、 攻撃10日後の12月18日に大本営は戦艦5隻、 甲型巡洋艦または乙型巡洋艦2隻、
給油艦1隻撃沈、 戦艦3隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦2隻大破、 戦艦1隻、 乙型巡洋艦4隻中破、
炎上せしめた敵航空機450機以上、 撃墜せるもの14機、 破壊せるもの多数」と発表し、
開戦と同時に招集された第78議会の開院式の戦況報告で、 海軍大臣嶋田繁太郎大将は「この戦闘により米国太平洋艦隊主力の大部分はその戦闘力を喪失した」、
と結んで万雷の拍手を受けたのであった。

なお、 アメリカ側の資料によれば撃沈は戦艦アリゾナ、 オクラハマ、 ウエスト・ヴァージニア、
カリフォルニアの4隻、 標的艦1隻(旧戦艦ユタ)、 敷設艦オグララ、 大破は戦艦ネバタ、
軽巡洋艦ラーリ、 ホノルルの2隻、 駆逐艦キャシン、 ショー、 ダウンズの3隻、
工作艦ヴェスタル、 中破は戦艦メリーランド、 ペンシルバニヤ、 テネシーの3隻、
軽巡洋艦ヘレナ、 水上機母艦カーティス、 工作艦ヴェウスタルで、 航空機の損害は231機としている。
なお、 戦死者および行方不明者は2403名、負傷者1178名であった。 しかし、
これら艦艇はアリゾナ、 オクラハマおよびユタを除き引き上げられてしまった。
当時アメリカ海軍は太平洋に3隻の空母を保有していたが、 サラトガはサンジェゴにあり、
レキシントンはミッドウェー島に航空機を輸送中、 エンタープライズはウェーク島へ航空機を輸送したあと真珠湾に帰投中であったため被害を免れた。
一方、 機動部隊が全航空機の収容を完了したのはハワイ時間の7日午後1時50分で、
オワフ島の北方約250海里を北上中であった。 このように有利な状況であったが、
南雲中将は第2撃を行うことなく、 そのまま北上しオワフ島の航空機飛行圏外に脱出、
ウェーキ島攻略作戦を支援するために空母の蒼龍・飛龍と重巡洋艦2隻を分派したが、
主隊は12月29日に呉軍港に帰投した。 なお、 この作戦における日本側の損害は航空機29機(搭乗員55名)であった。
(2)潜水艦部隊の作戦
ハワイ奇襲攻撃には潜水艦部隊も参加し、 航空部隊がハワイを攻撃している時にはハワイ周辺には25隻の潜水艦が配備についていた。 これら潜水艦部隊はマーシャル群島のクエゼリン環礁内の軽巡洋艦香取に乗艦する第6艦隊司令長官清水光晴中将から指揮されていたが、 これら潜水艦部隊の編制は次のとおりで、 第1・第2潜水部隊には機動部隊に先立ってハワイ諸島周辺の監視・偵察任務に従事し、 さらにアメリカ艦隊が出撃してきた場合には要撃する任務が与えられていた。
旗艦 香取(クエゼリン)
第1潜水部隊(第1潜水戦隊) 4隻(伊9号、 伊15号、 伊17号、 伊25号)
第2潜水部隊(第2潜水戦隊) 7隻(伊7号、 伊1号から伊6号)
第3潜水部隊(第3潜水戦隊) 9隻(伊8号、 伊74・75号、 伊68号から73号)
また、 第3潜水部隊にはラハイナ艦隊泊地の偵察の後に、 オワフ南方海面に進出しアメリカ艦隊の動静を監視するとともに、
空襲を受け出港する艦艇があれば攻撃撃沈すること、 さらに、 そのうちの1隻(伊74号)には不時着航空機の救助任務が与えられ、
ニイハウ島南方に配備された。 しかし、 不時着した航空機はなかった。 残りの5隻には特殊潜航艇各1隻が搭載され、
空襲の前夜に湾口5から10海里からの特殊潜航艇の発進と攻撃後の艇員の救助、
および空襲により出港する艦艇があれば攻撃する任務が与えられていた。 この作戦に使用された特殊潜航艇は、
魚雷2本を搭載する2人乗りの小型潜水艇で、 本来は艦隊決戦時に千歳・千代田などの潜水艇母艦に搭載され、
艦隊決戦時に母艦の艦尾から発進し敵の艦艇を攻撃するために開発されたものであった。
当初はこの作戦に使用する予定はなかったが、 搭乗員たちの潜水艦に搭載し敵の根拠地の攻撃にも使用すべきであるとの強い上申があり、
一応の収容手段も講じられたため10月13日に至り最初は反対していた山本司令長官も艇員の熱意に承認を与えたという。
なお、 特殊潜航艇の搭乗員および搭載潜水艦は次のとおりであった。
搭載艦名 潜航艇指揮官 同付
伊3号 岩佐直治大尉 佐々木直吉1曹
伊16号 横山正治中尉 上田 定2曹
伊18号 古野繁実中尉 横山薫範1曹
伊21号 広尾 彰少尉 片山義雄1曹
伊24号 酒巻和男少尉 稲垣 清2曹
空襲前に親潜水艦から発進した5隻の特殊潜航艇の1隻は、 航空部隊の攻撃4時間前のハワイ時間0342に真珠湾港外で発見され、
哨戒艇と航空機により撃沈された。 また1隻は故障のためオワフ島東岸のベローズ航空基地沖に座礁し、
艇内にいた酒巻和男少尉が捕虜となった。 残りの2隻ー3隻はアメリカの工作艦がバージを曳航して入港するため湾口の防潜網が開かれた時に工作船の跡をつけて港内に潜入、
1隻は在泊艦船を攻撃したが命中せず発見されて撃沈され、 他の1隻は湾口付近で巡洋艦に対して魚雷を発射したが命中せず、
リーフに当たって爆発したとアメリカ側の記録には記載されている。 残りの1隻の行動は現在も不明である。
しかし、 平成6年12月7日付のホノルル・アドバタイザー紙は、 日本海軍から接収した写真をコンピューター解析した結果、
航空機の攻撃数分前に特殊潜航艇から2発の魚雷が発射され、 命中した可能性があったと報じている。
一方、 親潜水艦は特殊潜航艇の脱出後の会合点であるラナイ島西方に夜間浮上して、
5隻が5日間、 2隻がさらに3日間待ったが帰投した艇はなかった。 また、 この攻撃で捕虜第1号となった酒巻和男少尉以外の戦死者9名は軍神とされた。
4 ハワイ奇襲攻撃の問題点と論争
ハワイ作戦は空母6隻を集団的に使用し、 3500海里も離れた敵の艦隊根拠地を攻撃するもので、
海軍戦略の大家マハンの艦艇は陸上砲台と戦闘を交えてはならないとのテーゼに背き、
世界海戦史上初めて艦艇部隊が艦載機による大規模な陸上攻撃、 言葉を変えれば艦艇というシーパワーから母艦航空機というエア・パワーを陸上に投入した画期的な作戦であり、
世界海戦史上に輝く偉大な作戦として今後とも称賛されるであろう。 しかし、 このように輝かし大戦果を上げた作戦ではあったが、
このハワイ攻撃には次のような問題点があり、 批判がある。
(1)開戦通告の遅延
日本海軍は最初は12月7日1230に最後通牒を手交することを政府・大本営連絡会議で示したが、
多数の航空機のため編隊を組むのに30分は必要なことがわかり、 1時間前の通告ではハワイに通報され、
待ち受けられることを懸念し手交時間を30分繰り下げ1300とした。 外務省は最後通牒を14通の電報に分割して送信し、
13通までは駐米大使館で6日の2300までに翻訳を終えた。 しかし、 大使館では日米が緊張しているとは考えずに受信した電報の清書タイプを行わず、
当直電信員も残さずに退庁してしまった。 最後の最後通牒を1300に手交せよとの第14通目の電報は、
翌日曜日0900に登庁した海軍武官補佐官実松譲中佐が郵便受けで見つけ、 翻訳は電信員が登庁した1000から開始された。
ハル国務長官との会見を1300に取り付けたがタイプが間に合わず、 1230には会見時間の延期を申し出1345とした。
しかし通告文をもって国務省に到着したのは14時5分、 さらに待たされ会見できたのは1420分と、
最後通牒が手交されたのは攻撃開始50分後となってしまった。 そして、 この遅延と奇襲が、
それまでイギリス支援に消極的であったアメリカ国民を第二次世界大戦に突入させてしまったのであった。
当時、 イギリスは苦戦を続けており、 対英支援を強化したい政府首脳と戦争に引き込まれることを恐れる国民の間にはギャップがあり、
欧州の戦争に介入しないことを公約して当選したローズヴェルト大統領の対英支援には限界があった。
しかし、 このハワイ奇襲がアメリカの世論を一転させてしまった。 12月7日午後2時に大統領から真珠湾奇襲の知らせを受けたスチムソンは、
この奇襲によって「未決定状態が終わって救われた」。 「これで米国国民はすべて結束する」と日記に書いたが、
ルーズベルト大統領は、 この攻撃をスニーク・アタック(騙し討ち)と非難し、 「レメンバー・パールハーバー」のスローガンのもとに国民の対日敵愾心を煽った。
ノックス海軍長官は「もはや1秒たりとも遅疑逡巡するの暇なし。 わが国は1隻たりとも多くの艦艇を欲し、
1門たりともより多くの大砲を必要とし、 1人たりとも多くの人手を必要とする。
今や猶予すべき1秒の時間なし。 海軍よ決起せよ」との電報を全海軍宛に発信した。そして、このハワイ奇襲が宣戦布告なき卑劣な闇討ちと敵愾心を高め、
自国の防衛にバイタルでない対日戦争に長期間国民が耐えられるか、 というアメリカ海軍が常に悩んできた問題を一瞬にして解決し、
アメリカ海軍のみならず全国民を一斉に立ち上らせ、 3年9ケ月も戦わしてしまったのであった。
なお、 当時、 アメリカが日本の外交暗号の大部分と軍事暗号の一部を解読していたことなどから、
ローズヴェルト大統領やチャーチル首相が日本軍の攻撃を事前に知りながら、 アメリカを参戦に導くため現地の陸海軍指揮官に知らせなかったと主張するレビジョニスト(修正主義者)も存在するが、
現在までのところローズヴェルト大統領やチャーチル首相が事前に知っていたことを示す証拠はないし、
また知らなかったというのが真実に近いように思われる。
山本大将は日独伊三国同盟に「勇戦奮闘戦場ニ華ト散ラムハ易シ、 誰カ至誠一貫俗論ヲ排シ斃レテ後已ム難ヲ知ラム(中略)此身滅スヘシ此志奪ヘカラズ」と生命を賭けて反対し、
さらにハワイ作戦の図上演習が終了した9月26日に至っても、 「一大将ヲシテ言ハシメレバ、
日米戦ハ長期戦トナルコト明ナリ。 日本ガ有利ナ戦ヲ続ケ居ル限リ米ハ戦争ヲ止メザルベキヲ以テ、
戦争数年ニ亙リ、 資材ハ消耗シ艦船兵器ハ傷キ補充ニハ大困難ヲ来シ、 遂ニア拮抗シ得ザルニ至ルベキノミナラズ、
戦争ノ結果トシテ国民生活ハ非常ノ窮屈ヲ来シ、 .......カカル成算少ナル戦ハナスベキニ非ス。
1艦隊、 2艦隊、 3艦、 4艦隊各司令長官略同意見ナリ」と避戦を進言していた。
しかし、 開戦となり山本大将は連合艦隊司令長官として日米開戦の第一撃を加えなければならなかった。
アメリカの実力を知る山本大将は「到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。 結局桶挟間とひよどり越えと川中島の合戦とを合わせ行うの已むを得ざる羽目に追い込まれ」、
そしてハワイを襲った。 また、 奇襲成功の報告を受けた山本長官が藤井政務参謀に「攻撃前に対米最後通牒は確実に届いているだろうな」と確かめたというが、
対米最後通牒遅延の責任を外務省が認め、 国民に「申し開きの余地はない」。 「二度と繰り返してはならない重大な教訓と受け止め、
執務態度の改善に心掛けている」と謝したのが53年後、 また責任者がその後に外務次官、
大使に栄進し、 さらにアメリカが攻撃53年後の平成6年11月29日に、 12月7日を「真珠湾追憶の日」との国家の記念日とし、
官庁や学校に半旗を掲げ、 追悼行事を行うことを決し、 今後永遠に日米離反の日とされてしまったことをどのように感じているであろうか。
(2)ハワイ攻撃の戦術的問題点

第2は撃沈・撃破したはずの戦艦が後に引き上げられ、 昭和19年には戦列に加わったが、 洋上で艦隊決戦を行っていたのならば永遠に引き上げることはできなかったとの批判である。 確かにハワイを襲しなかったならば、 アメリカ太平洋艦隊司令長官のキンメル中将は、 日米開戦とともに日本艦隊はトラックで給油して北上し、 開戦15日あるいは17日後にはウェーキ島付近で発見され遭遇戦が生起するであろうと判断していた。この艦隊決戦では日米の航空戦力比が空母では10対3、 航空機では2対1であったが、 戦艦第1主義者でパイロットを“Flyboy(蝿ボーイ)"と軽視し、 航空兵力を偵察などの補助的任務しかできないと考えていたキンメル長官は、 この航空劣勢でも壊滅的打撃を受けるとは考えていなかった。砲戦の権威である黛治男(元海軍大佐)によれば、 アメリカ戦艦の弾着散布界(遠近)は平均800メートル、 日本海軍の散布界は250から300メートルで、 命中率はアメリカの2倍、 そのうえ日本海軍には射程2万メートル(アメリカ海軍は8000メートル)の酸素魚雷、 さらに、 インド洋作戦で巡洋艦に88パーセント、空母に89パーセントの命中率を誇る母艦航空部隊や、 戦艦レパルスやプリンス・オブ・ウエルズを撃沈した陸上海軍航空部隊を保有していたので、 ハワイを奇襲しなかったならば日本海軍が長年予期し準備してきた念願の艦隊決戦が生起し、 日本海軍が勝利をおさめた公算はかなり高かった。
日本海軍は海軍兵力は「陸軍と異なり整備に年月を要するから、 一度大きな損害を蒙ると形の上に於いても術力の上に於いても、
よくバランスの取れた戦闘兵力が再建されるにはどうしても最低2年の歳月を要する」。
そこで敵海上勢力撃破後は、 もっぱら防衛態勢を強化し一層有利な邀撃態勢を確立し、
邀撃作戦を繰り返して西太平洋の制海権を維持し、 ドイツの勝利まで南方要地を占領して資源を確保して持久すれば「米国ノ屈服ヲ求ムルハ先ツ不可能ト判断セラルルモ、
我南方作戦ノ成果大ナルカ英国ノ屈伏等ニ起因スル米国与論ノ大転換ニ依リ、 戦争終末ノ到来必ズシモ絶無ニアラザルベシ」と勝算を考えていたが、
この決戦でアメリカ海軍が2隻の空母を失った可能性は高く、 建造中の空母が1年半後にしか戦線に投入されなかったことを考えると、
戦争は長期化しアメリカ国民の厭戦気運を増大させるなど、 その後の戦争の推移はかなり有利な展開となった可能性を否定することはできない。
南雲司令官が艦艇修理施設や陸上施設、 特に陸上の燃料タンクを攻撃しなかったこと、
第2撃を行わなかったことへの非難も多い。 再攻撃については第3戦隊司令官の三川軍一少将が意見を具申し、
さらに山口多聞第2航空戦隊司令官も「第2撃準備完了」と、 それとなく進言した。
しかし、 南雲部隊は第2撃を加えることなく帰投してしまった。 確かにこれらの施設が攻撃されなかったため、
アメリカ海軍が短期間に立ち上がることができた。 しかし、 第2撃ができなかったのは山本長官以外、
全ての者がハワイ攻撃が南方作戦の補助作戦と解釈していたことにあった。 すなわち大海令には「開戦劈頭ハワイ所在敵艦隊ヲ奇襲シ其ノ勢力ヲ撃殺スル」とあり、永野軍令総長は従来の対米漸減作戦要領を上奏し、
連合艦隊の作戦命令にも「開戦劈頭、先遣部隊、 機動部隊ヲ以テ之ヲ奇襲撃破シ、
ソノ積極作戦ヲ封止シ米国艦隊機動スル場合ハ之ガ捕捉撃滅ニ努ム」と、 「積極作戦ヲ封止」することが目的とも解釈できる不明確な命令であった。
また、 軍令部第1部長の福留少将はハワイ作戦の目的は「南方作戦中米艦隊主力の来攻を阻止する」ことであり、
また第2撃については「機動部隊の戦果がどの程度であったかもわからないし、
出動中の空母の位置も不明であったので十分な索敵能力を持たぬ機動部隊が余り深入りし過ぎることのない様念じていた(『史観真珠湾攻撃』)」し、
第1航空艦隊参謀長の草鹿龍之助少将も戦後でははるが、 「そもそも真珠湾攻撃の大目標は、
敵の太平洋艦隊に大打撃を与えて、 その進攻企図を挫折させるにあった。 だからこそ攻撃は一太刀と定め、
周到なる計画のものに手練の一撃を加えとところ、 奇襲に成功しその目的を達成することができた。
機動部隊の立ち向かうべき敵は一、2にとどまらない。 いつまでも獲物に執着すべきでなく、
すぐ他の敵に対する構えが必要であるとし、 何の躊躇もなく南雲長官に進言して引き揚げることに決した。
“なぜもう一度攻撃を反復しなかったか"“工廠や油槽を破壊しなかったのは何故か"などの批判もあるが、
これは、 いずれも兵機戦機に触れないものの戦略論であると思う(『戦藻録』)」と述べている。
さらに、 草鹿参謀長は出撃前に軍令部から「母艦を損傷しないように」強く要望されてもいた。
また、 9月に海軍大学校で行われた図演では、 参加空母は4隻であったが、 4隻中2隻が沈没し2隻が被害を受け無傷のものはなく、
航空機の損害も127機に達していた。 これから2倍にも3倍にも勢力が増大するアメリカと長期間の戦争を行わなければならない日本海軍にとって、
兵力の損耗は常に考慮しなければならない事項であった。 第2撃を行えなかったのは以上の他に、
日清戦争・日露戦争、 そして日米戦争と常に優勢な兵力で戦わなければならなかった劣勢な日本海軍の、
自己の損害を最小限にしたいとの“貧乏根性"の体質、 日米戦争を常に漸減作戦という戦術的レベルでしか演練しなかった現場重視の体質、
補給、 修理や救難態勢などを軽視する体質、 さらには戦闘兵力のみを攻撃目標とする(マレー沖海戦では救助中の駆逐艦を攻撃する着意さえなかった)日本人特有のサムライ気質にもあったのではないか。
一方、 日本海軍はハワイ沖に25隻の潜水艦を展開しながら、 常に航空哨戒を受けて制圧され、
なんら戦果なく1隻を失って帰投しなければならなかった。 ハワイ作戦の戦訓から、
日本海軍は潜水艦の主要攻撃目標を警戒の厳しい水上艦艇から商船に変更すべきであった。
しかし、 潜水艦部隊はついに終戦まで目標を変えることができず消滅したのであった。