本研究の目的
バルカン半島の民族紛争に端を発した第一次世界大戦は、 ドイツの無制限潜水艦戦を契機に中立国アメリカを巻き込み、
ついに世界戦争となってしまった。 大戦が勃発した当時の日本は日露戦争後の多額の国債、
外債の返還に追われ、対外的には移民問題から日米の対立が高まり、 日本外交の基軸であった日英同盟も形骸化し日本は世界から孤立しつつあった。
この財政難や世界的な孤立を救ったのが第一次世界大戦であった。
当時、 太平洋最大の海軍国であった日本は、 ドイツやイギリスなどの連合国にとって、
その去就が戦勢を変えるほど重要であった。 日本はこの優位を利用して東洋における地位を確立し、
さらに世界の檜舞台に登場するにいたったが、 この戦争を利用した急速な中国における利権拡大や大国化が戦後の国際関係に大きな摩擦を与え、
1930年代、 40年代の日本に大きな影響を与えた。 特に、 対華二十一ケ条の要求に伴う日中・日米の対立の激化、
ドイツの扇動によってアメリカやイギリス自治領カナダやオーストラリアなどで高まった人種差別問題、
日本海軍の南洋諸島の占領やドイツ海軍の消滅やなどにともなうアメリカやイギリス海軍とのライバル意識も伴った対立、
さらに第一次世界大戦中の急速な中国進出にともなう日英・日米の経済的対立、
ドイツの扇動によって生じたインドの独立運動にともなうインド亡命者保護や日英共同作戦に伴う反英感情から生まれた日英同盟解消論など、
第二次世界大戦への多くの因子が第一次大戦中に生まれ育つなど、 第一次世界大戦は日本の1930年代や40年代に大きな影響を与えたのであった。
しかし、 第一次大戦が遠いヨーロッパの戦争であったこと、 日本海軍の作戦が地中海に派遣された第2特務艦隊を除き、
目立たぬ地味なパトロール業務や監視警戒行動などであったことなどから、 わが国における関する関心は低い。
このためわが国における第一次大戦に関するこれまでの研究は、 日英同盟などの外交関係を主軸とし、
それにともなう国内政治や、 それを取り巻く人物などに重点が置かれ、 軍事的視点も主として国内政治にからむ陸軍の動向に限られ、
第一次世界大戦に対する日本の役割、 第一次世界大戦中の日本軍の軍事行動、 特に日本海軍の軍事行動が諸外国や日英関係に及ぼした影響などについてはあまり関心がはらわれてこなかった(1)。
一方、 イギリスのニッシュ(Ian H.Nish)教授やロウ(Peter Lowe)教授の研究には多少の軍事的視点は見受けられるが(2)、
その視点は地理的時期的に限られたものであり、 第一次大戦の全局面にわたる軍事作戦に正面から取り組んだものではない。
そこで、 本研究では第一次大戦と日本、 特に日本海軍の個々ののかかわりを通して、
第一次大戦にたいする日本の関与や役割の全体像を明らかにし、 さらに日本海軍がかかわった主要な事象が、
その後の日本や日本の外交に与えた影響などを明らかにすることを主要な分析の対象とした。
2 本研究の視点
(1)軍事作戦から外交への視点
第一次大戦に対して日本は開戦初頭にドイツの極東の根拠地青島を攻略し、 ドイツ領南洋群島を手中に収めると、
地中海へ巡洋艦2隻と駆逐艦12隻を派遣しただけで、以後、 戦乱に巻き込まれることなくほぼ完全な局外者として過ごし、
ヨーロッパ諸国が手が回らなくなったアジア諸国への輸出を伸ばして多額の利益を挙げたと一般には言われている。確かに日本が参加した戦いらしい戦いは、
青島攻略作戦と地中海における護衛作戦くらいのもので、 青島で陸軍が死傷者1929名、
海軍が砲艦高千穂をドイツ駆逐艦に雷撃されて沈没し295名、 地中海で駆逐艦榊がUボートに雷撃されて大破し59名の戦死者を出した程度で、
日本海軍は華々しい戦闘に直接かかわることはなかった。 しかし、 日本海軍は開戦劈頭にはシュペー(Maximilian
von Spee)中将指揮のドイツ東洋戦隊の捜索撃滅のために戦艦、 巡洋艦など10数隻を南米沖のガラパゴス諸島や南太平洋のフィジー方面まで派遣したのを始め、
戦争中期から後半にかけてはオーストラリアやニュージーランド、 ケープタウンに巡洋艦を派遣し、
これら英領自治領を警備しインド洋における海上交通を保護し、 さらに、 アメリカの要請に応じて1年8ケ月にわたりハワイに巡洋艦を派遣して太平洋航路の安全を確保するなど、
太平洋やインド洋における同盟国イギリスや参戦国アメリカのために海上交通の保護作戦を長期にわたり遂行した。
大戦中に日英間で取り交わされた外交文書を追うと、 イギリスの不平や日本の強引さが目立つが、
南洋群島の領有は開戦前と異なる戦局の変化、 すなわちシュペー戦隊の予想外の活躍にあり、
その領有はドイツ潜水艦の活躍による駆逐隊の地中海派遣により達成されたものであった。
また、 日本は1916年2月にインド洋へ巡洋艦、 マラッカ海峡へ駆逐艦の派遣要請を受けると、
外務大臣加藤他居明は議会の承認なく、 日英同盟の規定外の海域に艦隊を派遣したとの野党、
新聞や国民の批判に応えるためには、 かねてから問題となっているマレー半島における日本人医師の活動制限撤廃問題や、
オーストライア・ニュージーランドの日英通商航海条約への加入などを実現する要がある。
この問題が解決されるならば、 巡洋艦4隻と駆逐艦8隻の派遣は可能であると申し出るなど日本の軍事的優位を利用した。
日本は第一次大戦によって東洋における地位を確立し、 さらに大戦後は世界の檜舞台に登場するに至ったが、
この世界政治上の優位を確保したのが世界第3位の海軍力であった。“Show the
Flag"とか「砲艦外交」という言葉があるが、 海軍は国家政策を推進し外交に寄与しえる特質があるが、
日本はこのように軍事的優位を最大限に利用して多くの外交的成果を達成した。
そこで本研究では従来見過ごされてきた軍事行動、 特に海軍作戦(陸軍は青島攻略作戦のみ)を主軸に、
それにともなう外交交渉、 さらに、 そのような外交が展開された軍事情勢の変化にともなう国際政治の動きなど、
日本海軍の作戦行動が日本の外交や国際関係に与えた影響を中心に、 軍事作戦と外交交渉の相関関係の分析を重視した。
日本外交史の研究に新しい視点が加えられるならば望外の幸せである。
(2)日本をめぐる諸外国の動向
本研究で次の重視した視点は、 日本国内の動向のみならず、 同盟国イギリスの動向、
さらに日英の動向が日英を囲む第3国に与えた影響に極力目を向け、 日本の第一次世界大戦へのかかわりを広く多面的に捉え分析しようとしたことである。
すなわち、 日本の第一次世界大戦への参戦は日英間だけでなく、 日本の中国や太平洋への進出を危惧するアメリカにも大きなインパクトを与え、
その後の日米関係に大きな影響を残したが、 それは日米間のみに止まらず日本とメキシコ、
アメリカとメキシコとの関係にも大きな波紋を生起させた。 すなわち開戦直後にイギリスの依頼を受け、
日本海軍はシュペー戦隊の捜索撃滅のため遣米支隊をアメリカ西岸に派出したが、
この作戦中に巡洋艦浅間がメキシコ領のマグダネラ湾に座礁してしまった。 そして、
この座礁事故がアメリカ、 メキシコ、 そしてドイツなどによりさまざまに利用された。
すなわち、 アメリカと対立しているメキシコは浅間の座礁を対米牽制に利用し、
ドイツに日本とメキシコが同盟してアメリカを攻撃するとのチーマンマン事件の一因を与えるなど、
アメリカの反日・恐日世論の惹起と英米離反に利用されてしまった。 また、 日本のドイツ領太平洋島嶼の占領はイギリスやアメリカだけでなく、
当時のイギリス自治領オーストラリアやニュージーランドに強い反日世論を生起させ、イギリス本国と自治領間にも深刻な問題を生起させた。
一方、 大戦中にイギリスの依頼を受けて実施した日本海軍のオーストラリア・ニュージーランド警備作戦はオーストラリア野党の徴兵反対運動などの国内政治に利用され、
日豪、 日・ニュージーランド、 英豪、 英・ニュージーランド関係にも大きな影響を与えただけでなく、
それが再び日本に反英感情の増大をもたらすなど、 ミラー・エフェクトと呼ばれる相互不信と対立を相互に生起させた。このように日本の動向は同盟国イギリスに影響を与えただけでなく、
日英を取り巻く第3国間にもにも大きな影響を与えた。 本研究では日本の対応に対する同盟国イギリスの対応のみならず、
日本の動向に対する第3国の対応やその政策決定の過程などを、 極力諸外国の公文書館などの第一次資料を基に、
極力多面的に解明することを分析の重点とした。
第2節 本書の内容と構成
1 参戦と日英米関係
本節は日本の参戦をめぐる3つの論文からなっている。 第1節の「参戦と日本海軍」では日本海軍の参戦をめぐる意志決定過程の分析を重視した。 参戦に関する従来の研究の多くは参戦をめぐる外交や国内政治、 元老や陸軍の動向などであって、 海軍を主軸とした研究はあまり見当たらない。 また、 従来の研究では海軍が南洋群島の領有という観点から参戦に積極的であったとする節が有力である。 確かに山県有朋は参戦について「外ムノ若者ト陸海軍ノ若モノガ、 ブッテブッテヤレヤレト云フ事ガ遂ニ加トウ又ハ大隈を動カシタ」と書いている。 しかし、 当時の海軍の主流である山本権兵衛や斎藤実大将、 それに軍令部長島村速雄中将などは参戦による対米関係の悪化を憂慮し、 88艦隊の整備あ先であるとと参戦には消極的であった。 しかし、 参戦に積極的であった外務大臣加藤高明と同郷で「竹馬の友」の関係にあった海軍大臣八代六郎中将、 海相とは学生と教官の関係にあり、 さらには仲人であり八代海相から抜擢されて軍務局長となった秋山真之少将は、 杉山茂丸から参戦を推進した海軍の「少壮有力者」といわれておりやや参戦に傾いていた可能性がある。 しかし、 軍令部は対米戦備充実が急務と考えており、 海軍省と軍令部には参戦をめぐり
“あつれき"が生じていたが、 それは八代と親しい秋山軍務局長と八代海相との人間関係、 秋山の特異な性格などにあったことを明らかにした。
第2節の「参戦・戦域制限交渉をめぐる日英交渉」では、 自治領オ-ストラリア、 ニュージーランドやアメリカには日本が参戦すればドイツ領南洋群島を占領されてしまうとの危惧が、 イギリスには中国の権益が犯されるとの危惧があり、 イギリスは日本に援助を要請したが、 最初は参戦の一時延期を、 次いで参戦中止を、 そして、 それも不成功に終わると日本海軍の作戦海域を中国沿岸に限るとの戦域制限要求を要求した。 しかし、 日本の強引な参戦要求と海軍力の不足からイギリスは日本の参戦を許してしまった。 本節では日本の参戦要求と戦域制限撤廃要求を日本の南洋群島占領を憂慮して日本の参戦を阻止したいイギリス外務省と、 最初は同調していた海軍が、 極東における海軍力の不足から日本の参戦や戦域制限に反対しチャーチル海相とグレー(Sir Edward Grey)外相に“あつれき"が生じたイギリス国内の動向と、 南洋群島がチャーチルのカナダ方面の警備のための艦艇派出要望、 イギリス支那艦隊指令朝刊ジェラム(Sir Thomas M.Jerram)中将のシュペー戦隊がヤップ島に集合したとの通報が日本の戦域制限要求撤廃に連なったイギリス外務省と海軍の対応の相違にあったことを編みらかにした。
一方、 加藤外相はこの機会に中国問題を解決しようと参戦には積極的であったが、
戦域制限の撤廃、 特に南洋群島の占領には消極的であった。 しかし、 参戦により中国に深入りし対米軍備費を削減されることを恐れ参戦に消極的であった軍令部も対米戦略上から南東群島の占領には海軍省とともに極めて積極的であった海軍部内の状況を明らかにした。
第3節の「参戦と日米関係」では、 海軍が参戦をためらったのは、 参戦にともなう経費の増加から88艦隊の整備に悪影響があるとの危惧であり、
対米関係の悪化であった。 本節では海軍が対米関係の悪化を惧れ、 戦後に予想される人種問題がからむ日米の対立を予想し、
アメリカを刺激させないため作戦上に多くの配慮を示したが、 海軍は同時にアメリカを対象として兵力の温存をこの時期にしていたことなど、
従来の研究ではあまり触れられなかった分野にも光を当てることができたと考えている。
2 日英連合作戦と日英豪関係
本章では南洋群島の占領と、 占領がもたらしたその後の日英関係、 英豪関係、 そして日本海軍のオーストライア警備作戦が生起させた問題などを分析の対象とした。 南洋群島に関する研究は多々あるが、 これら研究は主として占領にともなう南進論の高揚や領有をめぐる外交交渉であり、 領有を巡る海軍作戦に関する記述が少なく、 特に南洋群島の占領を決断するに至った背景などについては余り触れられていない(4)。 第1節の「南洋群島の占領と海軍」では日本海軍が南洋群島の占領を決断した理由がアメリカにおける世論の沈静化や戦局の推移にあった海軍部内の経緯を解明し、 南洋群島の占領には大正初期の南進論の延長線上にあったが、 この占領には海軍挙げての意欲、 特に軍務局長秋山少将の強い意志が働いていたことを明らかにした。 次いで第2節の「南洋群島の占領と英豪の錯誤」では、 自治領オーストラリア・ニュージランド、 それにアメリカにおける反英世論などを考慮し、 極力日本海軍の活動を制限したいイギリス外務省と、 海軍兵力の不足から日本海軍に不快感を与えたくない海軍省間の摩擦があったが、 日本が南洋群島を占領するに至ったのは当時の海軍大臣チャーチルのイギリス支那艦隊(China Squadron)の香港集中命令や、 支那艦隊司令長官ジェラム中将などの兵力運用上の過失がかなり影響したことを、 またヤップの日本領有にはオーストラリア国防大臣ピアス(Geroge P.Pearce)のイギリス植民地相からの「Yap and Others(ヤップとその他の属領)」という電文を、 「ヤップとその他南洋群島全部」と誤解したことにあり、 それが日本のヤップ領有に連なったことを明らかにした。
第4節の「オーストラリア警備作戦と日豪関係」では、 日本海軍は日英同盟の情誼と日豪友好関係の促進を意図して大戦中3年有余にわたり、
巡洋艦1〜2隻をオーストラリアに派遣し、ドイツの仮想巡洋艦の海上交通破壊作戦に対処し、
オーストラリアを警備した。 しかし、 この警備作戦は移民問題もからみ日豪間に多くの摩擦を生起させた。
特に日本のドイツ領太平洋島嶼占領がオーストラリアやニュージーランドに強い反日世論を生起させたとフライなどに言われているが、
これはオーストラリア首相のヒュージがヨーロッパに兵を送るために徴兵制度を導入しようとし、
これに反対する野党が徴兵反対世論を喚起するために人種問題を利用し反対したため、
日豪間に大きな亀裂を作ってしまった。 このように日本のオーストラリア警備作戦は日英、
日豪、 英豪間だけでなくオーストラリアの国内政治などに多くの影響を与えたことなどを多面的に明らかにした。
次いで「青島攻略日英連合作戦」では青島攻略作戦は日英連合作戦として実施されたが、
青島の占領については主として占領後の領有をめぐる日本の対応を論じたもので、
攻略作戦そのものを論じた研究はない。 本研究では従来の研究で余り触れられなかった青島攻略作戦中に生じた中国に対する国益を賭けた日英の思惑と対立、
軍事作戦と外交交渉など軍事作戦がにいかに外交交渉と連動していたかを明らかにすることを目的とした。
すなわち、 イギリスが青島攻略作戦に積極的に参加したのは日本の出兵目的に対する猜疑心であり、
中国に対する発言権を得るとともに中国に対する調停者、 同調者としての利点を得て自国の利益を確保しようとする政治目標があった。
そのためイギリスは、 この作戦にフランス・ロシアを加えて日本の行動を抑制しようとした。
しかし、 イギリスのこれら意図はことごとく覆されてしまった。 本研究では参加兵力が少ない割りに多くの犠牲を出しながら、
何一つ目的を達することができなかった理由が、 ドイツ東洋戦隊の捜索撃滅やオーストラリア海域の警備など、
日本海軍に多くの支援をえなければならない厳しい軍事情勢が、 太平洋における海軍力の不足が日本に有利な外交を展開し得たことを、
海軍の対英支援作戦の実情から明らかにした。
3 太平洋における軍事行動と日米関係
メキシコ革命中の日・メキシコ関係については国本伊代の優れた研究があるが、
この研究は直接巡洋艦浅間の座礁を扱ったものではない。 第1節の「巡洋艦浅間のマグダレナ湾座礁と日米メキシコ関係」では、
大戦初期に日本海軍はイギリスの依頼を受け、 シュペー戦隊の捜索撃滅のため遣米支隊をアメリカ西岸に派出したが、
巡洋艦浅間が哨戒作戦中にメキシコ領のマグダネラ湾に座礁してしまった。 そして、
この座礁事故がアメリカ、 メキシコ、 そしてドイツなどの国々の思惑によりさまざまに利用されたのであった。
すなわち日本の参戦は日英間のだけでなく、 日本の中国や太平洋への進出を危惧するアメリカにも大きなインパクトを与え、
その後の日米関係に大きな影響を残したが、 それは日米間のみに止まらず日・メキシコ、
米・メキシコ関係などにも波紋を生起させた。 すなわち、 メキシコは浅間の座礁を対米牽制に利用し、
ドイツは日本とメキシコが同盟してアメリカを攻撃すると、 この事故をアメリカの反日・恐日世論の惹起と英米離反に利用した。
この結果、 単なる偶発事故がアメリカの対日猜疑心を高め、チーマンマン事件を生起させる一因を与え、
さらに戦争が終わるとアメリカの軍備増強に利用されたことを明らかにした。
第2節の「南洋群島の領有と日米関係」では日本海軍の南洋群島占領が日米関係に与えた影響を、
日本の要塞化への猜疑心という観点からアメリカ海軍や海兵隊の動向を軸として論じた。
すなわち、 第一次世界大戦で日本の委任統治領となった南洋群島は、 太平洋横断作戦を実施しフィリピン救援、
あるいは対日進攻作戦を基本とするアメリカ海軍にとっては補給修理などの中継基地として極めて価値ある存在であり、
日本が軍備を固めればその抵抗を排して上陸占領し、 艦隊支援基地を設定することを任務とする海兵隊には極めて困難な犠牲の多い作戦であった。
このためアメリカはベルサイユ会議で南洋群島の軍備を禁止し非武装化した。 しかし、
国際聯盟にも日米両国にも相互に確認する査察権はなかった。このため第一次世界大戦が終了し、日米共通の敵ドイツが消え日米が太平洋で対峠する国際関係が生起すると、日本は南洋群島への入島や貿易を制限しているとか、
軍事基地を秘密に作っているなどと反日・排日・恐日世論扇動の道具として利用され、南洋群島は日米間に多くの問題を生起させ、
その後の日米関係に大きな影響をもたらしたが、 特に兵力削減に直面した海兵隊がその存続を南洋群島に求めた。
1923年には海兵隊が南洋群島を奪取することを目的とする強襲上陸作戦を行う遠征海兵隊に改編された。
このように第3節の「南洋群島とアメリカ海兵隊」では、 日本の南洋群島領有がアメリカ海軍に与えた影響、
特に大戦後のアメリカ海軍や海兵隊の兵力整備に南洋群島が与えた影響を中心に論じた。
石井・ランシング協定に関する研究は枚挙に暇がない。 しかし、 これらの研究は主として日米の交換公文などをめぐる外交交渉や国内政治の問題をめぐるもので、
軍事的視点に立った研究は見当たらない。 第3節の「日本海軍のハワイ警備と石井・ランシング協定」では特殊利益の表現などで会談が行き詰まると、
特命全権特使石井菊次郎が日本海軍がアメリカ海軍の依頼に全面的に応じ、 ハワイに巡洋艦1隻を派出して太平洋航路の警備を引き受けたことをランシングに印象付け、
特殊利益問題の解決に利用しようと意図したためか、 最初は日米海軍の代表間で調印する予定であった日米海軍協定を、
日米海軍代表間ではなくランシング国務長官と石井特使との間で調印したいと申し入れたが、
さらに10月27日の会談では巡洋艦浅間への準備が完了したことを知らるなど、
石井ランシング協定成立の陰に日本海軍のハワイ警備という軍事的寄与があった。
しかし、 日米関係を好転し得ると考えた日本海軍の意図は、 ドイツ海軍が滅亡すると完全に裏目に出てしまった。アメリカでは一時的にせよ日本海軍にハワイの警備を依頼したという弱点を逆用し、
この警備作戦が海軍拡張主義者、 人種差別論者、親中国主義者などのそれぞれの思惑から、
反日・排日・恐日世論扇動の道具に利用され、 国民の無理解、 平和主義者の反対、
戦後の物価高騰などによってなかなか進展しなかったウイルソン(Thomas Woodrow
Wilson)大統領の「1916年の建艦法」を実現するキャンペーンの道具に使われてしまったのであった。
4 中国大陸と日本海軍
対華二十一ケ条に関しては多くの優れた研究があり(7)、 また、 二十一ケ条の要求をめぐる日米・日英関係などについては北岡伸一「二十一カ条再考-
日米外交の相互作用」、 石田栄雄「対華2十ヵ条問題と列国の抵抗」などがある。
しかし、 これらいずれの研究も主として日米の外交交渉や国内政治とのかかわりなどを論じたものであり、
北岡氏は従来の研究は加藤外相の強硬姿勢の背景として、 中国問題に対する加藤外相の危機意識や差し迫った選挙などの国内問題、
過熱した世論や元老との確執を挙げ、 野村氏は現地軍人の楽観論や中国通など右翼の強硬論など陸軍、
国内政治、 加藤外相の人物などを中心としたものであり、 海軍の動向を扱った研究は見当たらない。
第1節の「対華二十一ケ条と日本海軍」では最初は武力干渉に不同意、 消極的であった海軍が、
その後に中国問題に深入りするに至ったのは、 対華二十一ケ条の要求を境に激化した反日運動に対する海軍本来の任務である居留民保護、
対米関係の悪化にともなう資源確保や海軍の総力戦への認識の深まりにあったとした。
また、 最後通牒を伴った強引な対華二十一ヵ条の要求がアメリカ人の弱者媚贔の国民的同情を喚起し、
浅間の座礁事故と結びつけられ、 以後、 人種差別論者、 親中国派による反日・排日・恐日感情を高めたと対華二十一ケ条のアメリカへの波及についても触れた。第2節の「シンガポールのインド兵の暴動事件」では加藤外相が対華二十一ケ条の要求をめぐりグレー外相に日英同盟を破棄するのではないかと思わせるほど追いつめた強硬論を可能にしたのが、
シンガポールのインド兵の氾濫への海軍の協力や、 日本海軍のドイツ東洋戦隊や巡洋艦エムデン追跡作戦などの軍事的支援など、
太平洋・インド洋の海上交通の保護を大きく日本海軍に依存せざるを得なかったイギリスの弱みに対する自信と、
さらに強硬外交を展開して満州におけるロシア軍を撤退させた自信にあり、 グレー外相への強硬な対応となり、
一方、 グレー(Edward Grey)外相は妥協的な態度をとらざるを得なかったのは、
当時のイギリス外務省などから加藤外相にもたらされた多くの感謝電報などをもとに明らかにした。
5 ヨーロッパ派兵問題と武器援助
ヨーロッパ派兵問題を扱った論文は南洋群島領有をめぐる日英交渉で触れられる程度で本格的な研究は見当たらない。
第1節の「第2特務艦隊の地中海派遣」では、 なぜ日本海軍が艦艇のヨーロッパ派遣を躊躇し、
また、 なにが海軍を艦艇派出に応じさせたかという日本海軍のヨーロッパ派遣問題への対応とその意図、
および派遣したことによる成果を記述した。 第2節の「ヨーロッパ派兵問題と陸軍の対応」では、
ヨーロッパ派兵要請に最後まで応じなかったのは、 日本独特の国防観、 戦後に予想される世界情勢、
特に日独露の大陸国家が提携し、 アメリカ・イギリスに当たるという昭和の日独伊ソ4ケ国同盟構想へ発展し得る因子がすでに存在していたことを明らかにした。
第3節の「連合国への武器援助」については、 芥川哲士「武器輸出の系譜 - 第一次大戦期の武器輸出」や鹿島守之助『日本外交史
10 第一次大戦参加及び協力問題』に部分的に論じられている程度で、 未だ本格的な研究は見当たらない。
日本が莫大なロシアへの援助に応じたのは連合国の一員であることへの証、 ヨーロッパへの派兵要請拒否による連合国の反日感情の軽減、国内産業の振興と貿易拡大などの経済的期待、
武器自給態勢の確立などを目途としていた。 そして、 日露協商締結交渉ではこの有利な態勢を外交的に利用したが、
日本海軍も日露協商を締結するために陸戦用の武器弾薬だけでなく、 協商締結3ケ月前には日露戦争時に捕獲した戦艦ペレスウェート(日本名・相模)、
戦艦ワリヤーグ(同・丹後)、 巡洋艦バヤーン(同・宗谷)の3隻を譲渡するなど、 軍事援助を外交政策の道具として利用し、
東清鉄道の譲渡、 黒竜河の航行権の獲得などを実現したのであった。 また、 日本は援助により日露が協調して戦後に予想されるアングロサクソン同盟に当たろうとした。
しかし、 この日本の期待も、 武器自給体制確立の夢もロシアの資金不足と革命で消え、
武器輸出を促進するために応じた露国大蔵省公債の2億2000万円余をはじめ、
露国政府短期軍事公債など合計3億794万614円余が革命のために返却されずに消えたのであった。
6 第一次世界大戦の波動と余韻
本章は日本海軍が第一次大戦から何を学び、 何を学ばなかったかを解明する「海軍の戦訓研究と波動」と、
大戦中の日本および日本海軍の対英協力をいかにイギリスが評価していたかの2つの研究によって、
日本海軍への影響と日本及び日本海軍の対英支援を同盟国イギリスがどのように評価し底高を主たる分析の目的とした。
第2節の「海軍の戦訓研究とその波動」については、 日本海軍の総力戦研究の現状と、
その認識を解明した。 総力戦の研究についてはなどの優れた研究があるが本研究では軍部内部からの視点を重視し、
海軍の戦争指導が軽視された理由が海軍の体質や大正デモクラシーへの対応にあったこと、さらに軍縮にともなう反軍感情の増大や軍部軽視がその後の海軍を統帥権独立へと進ませたと論じた。
第2節の「日英同盟に対する日本の対応とその評価」ではイギリスにおける対日批判を各種秘密文書から明らかにするとともに、
日本の対英協力の価値、 日本がそのような対応をした背景を当時のドイツの対日動向、
イギリス自治領での厳しい人種差別政策の継続や日英通商航海条約への加入拒否を受けていた状況下の対英協力であったことを考えると、
グレー外相が指摘したとおり日本は同盟国に忠実であったことを日英の史料から明らかにした。
第3節の「中国大陸と日本海軍」では従来、 中国への介入を警戒していた海軍が第一次世界大戦中の資源問題などの総力戦思想、
対米関係の悪化、 さらにロシア革命による日露協商により英米のアングロサクソンに当たろうとした戦後の世界体制の崩壊が、
日中が協力してあたるという海軍の対米関係、 海軍の1930年代の世界観をも分析の対象とした。
脚注:
1 鹿島守之助編『日本外交史 10 第一次世界大戦参加および協力問題』、 国際政治学会編 『国際政治 日本外交史研究 - 第一次世界大戦』、 細谷千博編『日英関係史 1917-1 949』、 黒羽茂『日英同盟の軌跡』。
2 Ian Nish,Alliance Decline:Study Anglo-Japanese Relations,1908-1923(London:The
Athlone Press,1972).
3 長岡新次郎「欧州大戦参戦問題」、 野村乙二朗「第一大戦参戦外交と加藤外相の責任」、 黒羽茂「日英同盟と日本の参戦-グレーと加藤高明」、 波多野勝「対独開戦と日本外交」
4 波多野勝「対独開戦と日本外交」、 矢野揚「大正期『南進』論の特質」や大畑篤四郎「『南進』 の思想と政策の系譜」、 我部政明「日本のミクロネシア占領と『南進』」
5 大山梓「日独戦争と青島占領」、 義井博「第一次大戦中の山東および南洋群島に関する日
本の秘密協定についての一考察」長岡新次郎「第一次大戦における山東半島およびド
イツ領南太平洋群島の占領」など。
6 国本伊代「メキシコ革命と日本、 1913-1914」、 「マグダネラ湾事件とモンロー・ ドクトリンと日本」など。
7 山本四郎「参戦・二十一条要求と陸軍」、 島田洋一「対華二十一ケ条要求 - 加藤外相の 外交指導」、 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』、野村乙二朗『近代日本政治外交史の研究』)8 戸部良一「第一次大戦と日本における総力戦論の受容」、 吉田裕「第一次大戦と軍部 - 総力戦段階への軍部の対応」、 雨宮昭一「戦争指導と政党 - 外交調査会の機能と位置」 「近代日本における戦争指導の構造と展開 - 政戦と戦略との関係を中心として」などの 多くの研究があり、 特に海軍については斎藤聖二「海軍における第一次大戦研究とその 波動」、 黒沢文貴「臨時軍事調査委員会について」など。