神奈川県立第4中学校創設前史
(横須賀高等学校創立100周年記念誌掲載分は紙幅の関係で短縮しましたので全文を、ここに掲載します)
横須賀海軍光の歴史:文明開化と軍都横須賀
神奈川県立第4中学校が創設された当時の横須賀市はどのような町であったのだろうか。なぜ湘南中学校よりも先に横須賀中学が創設されたのであろうか。また、なぜ、創設時には厳しい教育が行われ厳しい「生徒規則」が強制されたのであろうか。母校創設時の横須賀の実情を文明開化の「光」の歴史と、急激な人口増加などの近代化にともなう問題、特に教育に関係が深い風紀の問題などの「影」の歴史を紹介し、創設時に横須賀中学に厳しい教育が行われた背景を探ってみたい。
横須賀(現在の元町)は「僅に30余戸の小漁村たりしが」、慶応元年に幕府が造船所を設置以来、「戸数頓に増加し明治6、7年頃には既に1000有余戸の大きに至り、今(明治22年4月)には4千余戸、人口は8700人」となり、明治40年に市制が敷かれた時には6万2876人(衣笠地区を除く)に増加し、横浜市に次ぐ大都市に発展した。しかし、人口の増加とともに伝染病なども流行し、明治20年には井戸や下水溝の浚渫や改造、便所の改造や移設、消毒などが義務付けられ、明治35年には「汚物処理規則」が横浜と横須賀町に、40年には浦賀町と小田原町、川崎町に適用されたが、この適用年度の差が都市化の進捗度、発展度を表していないであろうか。
横須賀は電灯や電話、水道や鉄道なども軍都のために他の都市より早く市民に提供された。電報は明治9年3月には鎮守府が臨時電報取扱所を開設し、市内の企業に開放したが、電話も横浜より5年も速い明治18年には横須賀と長浦の間に海軍専用の電話が使用されていた。電灯も横浜より5年も早い明治16年には海軍工廠が全国の工場のトップを切って孤光灯発電機を据え夜間作業用に使用しており、横須賀海軍に勤める事務官や工廠の職工は文明開化の実感を身近に体験していた。電話も日露戦争を控え軍事上の必要から明治38年3月には臨時軍事費で敷設され、横須賀町と豊島町を加入区域として、横須賀郵便局が普通電話の交換を横浜に次いで開始した。しかし、利用者は79戸で庶民には遠い存在であった。これは電灯も同様で家庭用電力が市民に供給されたのは明治38年9月と他の都市よりも早かったが、利用家庭は797戸で全戸の7%にすぎなかった。水道も海軍から水道管の払い下げを受けて明治41年12月には市営水道が完成した。しかし、使用者は332戸だけであった。横須賀線も艦艇の建造資材や鎮守府所属艦艇の軍需品、陸軍砲台の建築資材や重砲兵連隊の軍需品の輸送の必要性から、日清両国の緊張が高まった明治19年に、海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌が連名で伊藤博文総理に横須賀線の建設願いを提出すると、翌年7月には測量を開始し明治21年1月には御殿場線を単線に変更して工事を開始し、翌22年6月16日には開通という突貫工事であった。なお、当時の横須賀―大船間の所要時間は45分、料金は上等30銭、中等20銭、下等10銭であった。
横須賀市の経済も海軍に大きく依存しており、横須賀中学が開校前年の明治40年の横須賀市(衣笠、長浦などを含まない)の人口は6万2876名であったが、海軍工廠の職員は1万3452名を占めており、横須賀は「軍人職工町で商興業は、その付属物の如く誠に微々たるもので」「商人の如きは恰も軍人職工の腰巾着」よようであると当時の横須賀案内には記されていた。
一方、横須賀海軍工廠は、技術だけでなく@公休日や病休にも給与支給・明治9年)、A定期職工制度(勤務年限による退職金制度・明治9年)、B賃金等級制度、賞与加給制度や特殊作業手当など現在の日本的雇用制度を明治末期までには完成していた。また、女子工員も明治39年から製図工などとして採用し、給与の最高も大正7年には53等級の上位5等級まで昇級を認めたが、労働時間は男子の9時間半に対し8時間とするなど労働管理や福祉厚生面でも先導的な存在であった。
横須賀海軍影の歴史:急速な近代化とひずみ
横須賀鉄工所の建設とともに大規模な土木工事が始まったが、工事に必要なのは労働者、特に土木労働者であった。土木事業への人集めは慶応元年の横須賀製鉄所建設から始まつたが、幕府は石川島にあった囚人や出所しても引き取り手のない人、生活困窮者まで収容する「寄場人」を横須賀に送り、明治2年には汐入のプリンスホテル付近の湿地を埋め立て「寄場」を開いた。重労働から寄場からの脱獄者も多く、市中には白装束の者は脱獄者なので世話役に通報せよとの立て札があり、大滝町の花街で絡まれると「汐留の者だ」という一言で相手が後ずさりしたという。土木作業は海軍工廠だけでなく、陸軍も沿岸砲台や東京湾入口に海保などを建設中で、寄場人足だけでは足りず全国から人足(土木労働者・土方とも呼んでいた)が集まってきた。これらの出稼ぎ労働者や若い水兵、それに工員などが静かな横須賀村を新宿歌舞伎町に変え喧嘩などが絶えなかった。不名誉なことではあるが、横須賀警察署の創設は明治4年12月に民間の費用(1ヶ月45両)で大滝町廓会所に「横須賀村羅卒屯所」を設置し遊郭の取締から始まった。
当時の新聞を見ると人足や工員の犯罪は個人単位であったが、水兵の犯罪は徒党を組んだ狼藉が多く、明治14年1月6日の『東京横浜毎日新聞』には、「春を買わんと」3名の水兵が貸座敷に上がったが、番頭と喧嘩になり「家中を荒らし廻ったため」警察が出動、首謀者を逮捕すると水兵「数百名集合し、拘留の者共を取返さんと今度は警察署へ押向い、同署を打壊さんとするにぞ、今は捨て置かずと此由を横浜本署へ通知なしたれば、同日直ちに警部巡査60名程出張される由」との記事がある。また、明治34年にも「水兵数百人が柏木田で騒動」との記事もある。さらに市制当時の横須賀は約4万が外来者で、その中には一攫千金を求めて集まる者も多く、「商業に工業に幾分の利益を得んと欲して日々他邦より出入りするもの数百人」、「旅舎割烹店及び妓老楼等の繁昌」は「他邦のなき所なり」との繁栄をしめしていたが、外来者の中には旅の恥は掻き捨ての者も多く、犯罪も多発し明治41年から5年間の横須賀警察署管内の年間平均犯罪率は、殺人4件、強盗5件、窃盗443件、詐欺・恐喝39件、博打53件、放火5件、警察が即決した犯罪1119件など1771件の事件が発生していたが、さらに横須賀警察署は「悪漢」155名、浮浪者47名、仮出獄者・刑の執行猶予者64名など272名を監視下に置いていた。また、人□構成が男子3万5861名に対して、女子2万7015名と工員や水兵などの独身者が多かったため、遊廓だけでなく市内の風紀も乱れており私生児が全出産児の7%(146名)を占め、警察の記録には捨て子の報告や養育費を渡して子供を譲る事件なども記載されている。
このように環境の悪い土地に創設されたことから横須賀中学には寄宿舎制度が導入され、全生徒の約1割の60名が宿舎に入っていた。入居者は三崎や林などの遠距離通学者や父が転勤した軍人や官吏の子弟だけでなく、芸者置屋、遊郭、待合茶屋などの水商売の子弟、その近くに住む生徒も同級生に悪影響を与えると自宅通学を認めず、これらの地に住む生徒は入学願書と宿舎入所願書を同時に提出しなければ入学が認められなかったという。これ程に横須賀中学創設時の横須賀の風紀が悪かったのであった。
開校時の「職員服務要領」に「教員の登校時限は始業前15分とす」とか「生徒心得」に「始業前凡ソ20分ヨリ10分マデノ間ニ登校スベシ」と時間が厳密に規定されていたが、これは時計などがない当時の日本人の時間のルーズさにあった。時計、特に腕時計なは士官にならなければ、工員では組長にならなければ持てない時代であり、このため明治大正期には吾妻島の山頂から正午には「正午のドン」と呼ばれた時砲(空砲)を発射していた。時間や勤務時間の観念が如何に江戸時代的であり、また処罰が厳しかったかは「横須賀海軍工廠職工規則(明治5年)」に、出勤後直ちに脱出し昼食時の混雑に紛れて職場に戻る者は、「午後三時間改札場ノ木杭ニ縛置シ、ソノ側ニ犯罪者ノ姓名ト付属工場ノ名ヲ記シテ之ヲ懲罰スベキノミナラズ、脱出中ノ時間ニ応ジテ一日若クハ数日間ノ給料ヲ減ズベシ」と書かれていた。現在の視点で見るならば人権蹂躙などと騒がれるであろうが、教師は15分前に、生徒は10分前に「登校すべし」との「職員服務要領」や「生徒心得」などの規制は、当時の時代背景を理解しないと批判が生まれるかも知れない。母校の神奈川第4中学はこのような時代に、このように風紀の悪に土地に建設されたのであった。このため校舎は横須賀中央から1時間も歩かなければならない辺鄙な豊島町の町はずれの公郷に建設された。校舎の周りは全くの田圃で小矢部、大矢部、佐原、森崎から久里浜へと田圃が続き、森崎や佐原方面では雨の日には狐火が見える僻地であった。なぜ、このような交通の便が悪い土地に建設されたのであるか、明治21年には海軍兵学校も東京築地から瀬戸内海の孤島の江田島に移転されており、当時の教育は純粋培養の時代だったのかも知れない。
県立大津女学校に先を越された横須賀中学校
明治42年に夏目漱石が書いた『それから』の主人公の長井代助は東大を出て官吏になって、30歳でフランス料理のフルコースを食べるのが夢だった。しかし、海軍士官は遠洋航海に参加する前に洋食の作法を習うため、フルコースの洋食を20歳そこそこで食べていた。また、大尉の後半から少佐になれば女中は当たり前の時代であった。明治20年の『女学雑誌』に「横須賀では西洋風が流行しており、海軍武官や医師の妻、娘らが洋服を着て乳児を乳母に預け、英語を勉強し洋裁を習っている」と書かれているが、横須賀は外国艦艇の来訪も多く、その度に相互に歓迎レセプションや夕食会を催すため、海軍は横須賀鎮守府の敷地に女子教育会館を建て、将官2円、佐官1円、尉官50銭を拠出して妻や娘に洋食のマナーや英会話を教育していた。また、ここで海軍士官の子女は期間3年の普通学の教育も行われていた。しかし、子女教育会館の運営には経費もかかるため海軍も女子高等中学校の建設を強く望んでいた。
しかし、男子校の建設さえままならぬ当時の神奈川県の財政では、県立の女
戦艦「長門」で伊勢への修学旅行
学校を要求しても県議会を通過する可能性が全くなかった。このため男子の中学校を県立、女子の高等女学校を横須賀町と豊島町の町立で設立することし、豊島村が豊島町になった1903年に、横須賀町と豊島町から委員を出し、明治38年3月に管理者を横須賀町長として高等女学校の認可を知事に申請し、39年4月1日に横須賀町豊島町組合立横須賀女子補習学校として谷町(現在の田戸台)に県下では平沼女子高等学校、厚木女子高等学校に続く3番目の女子高等学校として認可され5月13日に開校式が行われた。
入学式には海軍軍楽隊が国歌や行進曲を演奏したが、この軍楽隊は鹿鳴館の夜会の演奏や、新橋―横浜間の鉄道開通式典で演奏した由緒ある軍楽隊で、明治19年に「軍楽員は横須賀鎮守府に属し、軍楽研究と海軍儀礼における奏楽に当る」。「各鎮守府艦隊に要する軍楽員は横須賀鎮守府から分派する」と横須賀が海軍軍楽隊の教育の中心に指定され、明治23年3月に横須賀海兵団に移転してものであった。海軍軍楽隊は市内の学校の入学式や卒業式、市の記念行事、海軍記念日や開隊記念日などで演奏し、市民は折に触れて西洋音楽を聴く機会に恵まれたが、特に市中演奏行進は多くの人々を魅了し、小学性時代に汐入に住んでいた作曲家の山田耕作はこの軍楽隊の演奏から作曲家になったが、音楽隊の後を追いかけ迷子になったこともあったと回想している。この横須賀との縁から山田耕作は汐入小学校や横須賀実業高等女学校校歌、横須賀市歌などを作曲している。この市中演奏行進の人気から東京には株式会社東京市中音楽隊、横浜には東洋音楽会(のち東洋市中音楽会)が生まれたが、特に東京市中音楽隊結成時には一度に18名も引き抜かれた横須賀海軍軍楽隊は大打撃を受けた。しかし、これら楽士の一部はさらに神戸に移り、神戸市中音楽会を結成するなど横須賀海軍軍楽隊は西洋音楽の普及に大きな足跡を残し、それが横須賀を西洋音楽伝播の地とし、敗戦後は横須賀をジャズの町としたのであった。
横須賀町豊島町組合立横須賀女子実業補習学校は、翌明治39年年3月には横須賀町豊島町・組合立横須賀高等女学校、明治40年には横須賀市立高等女学校と改称し深田に移転したが、昭和5年には県立大津高等女学校に昇格し大津に移転した。なお、横須賀市立高等女学校の校舎は横須賀海兵団から払い下げた古材で建築された。このように海軍の支援を受けたためか、創設時の校歌は次のようなものであった。
この横須賀はかしこくも 皇居に程も遠からぬ
東京湾の要塞地 帝国一の軍港ぞ
ここに建てたる学校は、その責(せめ)いかで 軽からむ
ますら男(を)ならぬ女とて 日本雄(やまとを)心忘れめや
神奈川県立第4中学校の創設まで
当時の神奈川県は横浜を先頭に文明開化の先頭を走っていたが、教育に関しては「本県の県立中学生数は、人口比でみますと全国46府県のうち、尻から2、3番というありさまであります。……全国各府県の平均は人口1万に対し、中学生は20余名であるのに本県は10人余で」と、明治39年11月の通常県会で県知事官房の坂仲第1部長が説明したように神奈川県は教育後進県であったが、そのなかで横須賀はさらに遅れていた。高等小学校を卒業し晩学を志する者は、横浜商業学校(Y校)や逗子の東京開成中学分校の第2開成中学などに通うしかなかった。この悩みは軍関係者も同じで、横須賀勤務を命じられる海軍士官は逗子や鎌倉に住み、子弟を逗子開成中学か東京の開成中学に通わせていた。横須賀中学の創設に横須賀町・鈴木忠平衛町長と豊島村・石渡担豊村長をはじめ三浦郡選出の小泉又三郎(小泉首相の祖父)、川崎喜之助などの県議が動き誘致合戦が展開されたが、横須賀中学のライバルは湘南中学(のちの湘南高校)であった。横須賀が陸海軍をバックに日露戦争の勝利の勢いに乗る軍都ならば、一方は東海道の交通の要衝、神奈川県の中央に位置し産業や農産物の中心地であり、さらに藤沢町は鎌倉町とも連携していた。横須賀と藤沢町の主戦場は県会で、すでに中学がある横浜、小田原、厚木の県会議員の取り込みが勝敗を決することから激化した。採択日の舞台裏を初代市議会議長(その後、市長)の石渡担豊は次のように語っている。「反対派の1人に因果を含めて当日欠席してもらうことになっていましたが、その日の朝になって三浦郡選出の議員4名のうちの1人が反対派に缶詰にされてしまいました。そこで私が反対派の小田原選出の某氏を東京に連れ出したのであります。つまり、ていのよい缶詰なのであります」と改装している。そして、県会では1000人もの町民が押し掛ける中で、横須賀に中学を新設する議案は1票差でかろうじて可決されたのであった。このようにして神奈川県立第4中学校は明治39年12月6日に県議会を通過し、明治40年8月には認可が下り明治41年6月20日に開校した。神奈川1中(現・希望ヶ丘高校)、2中(現小田原高校)、3中(現厚木高校)に次いで県下では4番目であった。なお、敗北した湘南高校は日露戦争後の不景気から緊縮財政が続き創立は横中より16年も遅れてしまった。
県議会では勝利したが議案が通過すると、建設場所をめぐり横須賀町と豊島町の内紛が起こった。石渡担豊によれば「ある事情から多数が坂本の奥にある金谷の山上を主張、金谷は地代は安いが山地なので平坦にする工事費がかさむし、3千坪は狭すぎると消えた。この「ある事情」とは横須賀が自由党(のちの憲政会)、豊島が政友会支持者が多く、また、外来者が多い横須賀町と旧住民が多い豊島町との利害関係や感情問題などがあったからであった。
金谷案が消えると次ぎに大明寺案(現在の三浦高校の位置)を主張するグループが現れもめたが、交通の便の悪さや井戸水の適否、それに公郷にするならば6、000円を提供するとの浦賀町の支援もあり公郷にきまったという。当時の浦賀町には浦賀船渠もあり浦賀町は横須賀町と対等な実力を有する町であった。浦賀と横須賀町の経済活動を当時のタクシーである人力車保有数で比較すると、日本で最初に人力車の営業を始めたのは横浜で明治2年であったが、横須賀は明治6年に1台、9年は浦賀が59台、横須賀が15台であったが、人力車が最盛期を迎えた40年には横須賀が浦賀を抜いて逆転415台となった。なお、人力車の料金は横須賀駅から鎮守府まで10銭、久里浜まで65銭、ソバが1杯2銭(明治37年)であった39。その当時に横須賀中学の月謝が月に1円50銭、それに修学旅行の積み立て金が30銭であったということは、かなり裕福な家庭でないと子弟を入学させるのは相当苦しかったのではないか。
草創期吉田校長の厳しい教育の時代背景
歴史は当時の時代風潮や当時の価値観で判断すべきであり、現在の視点で見ても得られるところは少ない。吉田庫三初代校長が松陰塾で学んだ少年時代には西欧帝国主義諸国の植民地化の波がアジアを襲いつつある時代であり、アジアの独立国は日本しかなく、この西欧帝国主義に対抗するために「富国強兵」が国を挙げての方針となっていた。吉田校長はこのような歴史体験や信念から「修身斉家国平天下」「知行一致」「報恩反始」を教育理念として国家有為の人材を教育したのであった。そして、多くの人材が育ったが、土地柄から海軍に入った者が多い。それは吉田の「修身斉家国平天下」の教育理念にもあるが、当時の『横須賀案内(明治41年、軍港堂書店発行)』には、横須賀線も田浦を過ぎると「客車という客車、尽く軍人で充満し、普通の洋服や和服の奴なんか頓と幅が利かなくなる」。駅をおりて軍港を見ると日露戦争で捕獲したワリヤーグ(宗谷)、ペレスエート(相模)、アレキサンドル(壱岐)が目に付く、ロシア人がこれを見たらどのように思うであろうか。「これを見るにつけても戦争には負けられぬ」と書かれていた。
また、同書には逸見や汐入の通行人の6分から8分は軍人か職工、中央付近になると5分5分となり、平坂を登ると軍人と職工は4分、6分の中の2分が農業、それが中里付近になると農家が4分で軍人職工が三分、その他が三分となっていた。当時の海軍工廠の職員が1万3452名、この他に砲術学校、水雷学校、海兵団などの陸上部隊や横須賀鎮守府所属艦隊の軍人や家族を加えれば、半数に近い市民が海軍か海軍に関連した職業で生計を立てており、横須賀は海軍の城下町の様相を示していた。このため当時の横須賀市民にとり「立身出世の理想的漂準は何であったといえば、言うまでもなく金装燦爛たる海軍将校であった。児童は勿論父兄もそれであった。それもその筈で将校とそれ以下とは当時極端な懸隔があったので、このような様子を見たり聞いたりしている市民が、その絶対権を羨みこれに憧れて人生須く海軍将校たるべしとは、当時の人の脳裏に深く刻まれていたので、学生が向上心の起点は殆どと皆んな海軍将校になること」であったと書かれているが、これが横須賀中学創設時の時代風潮であったのである。
しかし、日露戦争で大国ロシアに勝つと大国意識が高まり、世界の実情を理解しない民衆は日比谷焼打事件を起こし、国民には軽薄の風潮、怠惰と奢りの風潮が高まり、また、共産主義や社会主義思想が広がり、平等思想や革命思想などが人々の心をとらえ始めていた。また、日露戦争の勝利によって国民の間には奢侈がはびこり、私利私欲を追う国民の荒廃した傾向に歯止めを掛けようと「戌申詔書」が横中開校の年に発布された。また、文部省からも明治39年6月9日には学生や生徒の「風紀振粛」を求めた訓令を発したが、明治41年9月29日には学生や生徒の風紀取締強化の通牒を出し、同人雑誌、観劇、読書の統制を指示した。このような時代背景を受け創設時には「教育勅語」「戌申詔書」の書き写しが義務づけられ、「生徒心得」には「稗史小説類ハ休業中ニテモ閲読スベカラズ、新聞雑誌及教科書以外ノ書籍ヲ閲読セントスルトキハ、予メ学校ノ許可ヲ請フベシ(第57条)」と書かれていた。このような時代に横須賀中学は「坂の上の雲」を求めた明治日本の先頭を走った中学であったのである。