『左近允尚敏先輩の思い出-市来会を中心に』
平 間 洋 一(市来会世話役 幹候8期)
『波濤』2014年10月)
はじめに
横須賀高等学校10期先輩である左近允尚敏さんとは、現役時代に第4護衛隊群司令と指揮下の「ちとせ」艦長の間柄であった。しかし、司令部が横須賀、私の船が大湊であったため、謦咳に接する機会は多くはなかった。
目を掛けて教えを頂いたのは左近允先輩の退職後、私が呉監防衛部長の時からで、そのときから「あこがれ」と尊敬の念を深めていった。スマートかつダンディな典型的海軍士官の点は真似しようとしても出来なかったが、現役隊員への対応には教えられた。日本製鋼の顧問で、呉に来ても「勤務中に迷惑を掛けるし、歓迎会などされたのでは心苦しいから」と、総監を表敬することもなく、呉出張時にはホテルから電話で「おい、今夜空いているか、××というバーに来いよ」と誘われ、いろいろとお話を承った。帰り際に勘定を払いながら必ずボトルを注文し、私の名前を書き、女将に「こいつは私の後輩だ。良い奴なので頼む」との言葉を残しタクシーで去って行った。
護衛艦隊の副官時代、われわれから毛嫌いされていた将官に限って再就職した会社の顧問を引き連れ「隊食で良いから昼食を喰わせてくれないか」とか、「駅まで車で送ってくれよ」などと無理な要求をするため幻滅を感じていただけに、左近允先輩の振る舞いは新鮮でさわやかであった。
OBになった私は早速真似をして、海上自衛隊には呼ばれない限り行かないことにしたが、国外の学会に出席する場合には防衛大学校の教授として参加するため、外務省が訪問国の防衛駐在官に公電を出すので、国によっては防駐官が空港まで出迎えてくれる。そこで左近允先輩の真似をして、後輩の防衛駐在官に食事をご馳走することにしていたが、ここでポーランドの思い出を話してみたい。
ポーランドで軍事史学会が開催され、出迎えにきた陸自の後輩に、「駐在勤務、ご苦労様です。ワルシャワ第一のレストランに君と奥様を招待したいので来てくれませんか」と夕食に誘った。後輩夫妻を前に先輩として自慢話などをして、ご満悦・・、しかし支払いの際に請求書を見て驚いた。24万5000ゾルチと書いてあるではないか。現金はない。腹をくくってカードで支払い、お礼を言われて良い気分ではあったが、「高かったな!明日から食費を節約しなければ」と気分はグレーであった。しかし、ホテルに帰り計算してみるとゾルチの換算率は円の10分の1で、2万4000円。やれやれであった。左近允先輩を真似てみた際の笑い話である。
左近允先輩と大田かつ様
昭和62年2月に私が呉地方総監部の防衛部長に着任すると、左近允先輩から「大田かつさん(大田実中将の奥様)に紹介状を出しておいたよ。そのうちに連絡があると思う」との手紙があった。その翌日、大田さんからも来信があった。美しい和紙に流れるように書かれた毛筆の手紙で、家にお出でくださいと書いてある。私は大田さんが80歳を過ぎた老婆であり、どうせ壊れたレコードのように同じ昔話を聞かされるのではないか、まぁ、これも先輩の顔を立てるためだと御自宅にお邪魔することとした。大田さんは呉市内に長男の英雄さん(県立宮原高校教諭)がおられるのに、「自由が欲しいのよ」とお一人で住んでおられた。家を訪れると歌声が聞こえる。ラジオでも掛けておられるのかと呼び鈴を押すと歌声が止まり、大田さんが出て来られた。腰が曲がった老婆を想像していた私の眼前に現れた大田さんが、非常に若々しかったのは驚きであった。さらに大きく驚いたのは、訪門時に開こえていた歌声はラジオではなく、大田さん自身がオルガンを弾きながら歌っていたのだと知ったときであった。
左近允先輩から紹介された女性は、年齢に関わらず美しくしっかりとした方が多いのである。
PS-1の事故と女房教育
岩国基地所属のPS-1の墜落事故で、家族が遺体にすがりつき泣き悲しむシーンがテレビで放映された翌日、大田さんから「自衛隊もだめね。夫が死亡するのは悲しいことだけれど、軍人の家族は人前では悲しみに堪えることが必要よ。あのように夫の遺体にすがりついて悲しむ姿を見た国民は、こんなに嘆き悲しむ妻を持った自衛官が、家族を忘れて国難に当たってくれるのかしらと不安を持つわよ」と厳しいご注意を受けた。そこで『小説新潮』掲載の大田さんの半生を描いた小説『わが夫にあらず』(家を出た夫は国に捧げた夫であり、私の夫ではない)を増刷りし、幹部自衛官の女房教育資料として配布することを考えた。大田さんは、自身が賛美されているこの小説の配布に最初は反対されたが、私が「それではどのようにして奥さん教育をするのですか。教材が必要です」と強引に了解を取り付け、呉地方隊の幹部に「女房に読ませろ」と「夫人教育参考資料」として配布させていただいた。実はこの『わが夫にあらず』を私に送ってくださった方が、左近允先輩なのであった。
カラオケの苦手な私は 部下とのコミュニケーションを図るため、防衛部の幕僚や呉地方隊の各級指揮官を官舎に招待していたが、大田さんの偉大さを少しでも知って貰おうと、大田さんも一緒に招待することとした。はじめの頃は私が料理を準備していたが途中から主客転倒、いつの間にか部下などを呼ぶときには、「大田さん、明日宴会をやりますのでよろしく。5名です。予算は1万円でお願いします」などと申し上げると、午後から私の官舎のカギを開けて掃除をし、料理を作り、待っていてくださるようになってしまった。大田さんがそれとなく話されることが、いかに部下のためになったことであろうか。「部長、大田中将の奥様はやはり違いますね。大変教えられました」と常に感謝された。大田さんから教えられた教訓は、今後とも自衛官とその奥さんたちの間に長く生き続けることであろう。どれもこれも、左近允先輩の紹介あってのことである。
市来会と左近允先輩
市来会という戦史研究会がある。そのスタートは水交会の第6代会長の木山正義氏が、「時を経るに従い実情を知らない戦後の研究者や作家が、現在の価値観で『遡及立法』的に批判することの多い現状を憂慮」されていたことに始まる。実戦に参加し、その後は戦史の研究(『戦史叢書』の執筆など)に当たられた市来俊男氏(兵67期)が、木山氏の遺志を引き継ぎ座長となった。市来会の名の由来はここにある。市来会は会員諸氏に戦争の実態を聞いてもらい、フランクに議論し、真の歴史を記録し発信することを目的としている。また、自著や研究会、史料紹介などの情報交換を通じ、参加者の戦史研究を相互に援助することも目的として発足した。
市来氏は主として日本側の史料から日本海軍について、一方、米国で発行されたほぼ総ての太平洋戦争関係の本を読破されている左近允先輩には、米国から見た太平洋戦争史をお願いし、これまでにない新しい太平洋戦争史観を聞かせていただいた。
その市来会において、左近允先輩に講演を頂いた日時と演題は次の通りである。5年間に30回の講演会を開いた中で、本稿を含めれば9回と3割弱が左近允先輩の講演であった。しかも、その内容は歴史解釈の多面性や史料吟味の重要性を教える内容であった。
回次 実施年月日 演 題
5 平成20年9月12日 戦前のアメリカの対日戦争観
6 平成20年11月14日 アメリカ(ワシントン)から見た真珠湾攻撃
7 平成21年1月20日 アメリカ(ハワイ)から見た真珠湾攻撃
11 平成21年9月15日 アメリカから見たミッドウェー海戦(1)
13 平成22年2月16日 アメリカから見たミッドウェー海戦(2)
16 平成22年7月27日 アメリカから見たマリアナ沖海戦
17 平成22年9月29日 アメリカから見たミッドウェー海戦(3)
22 平成23年7月27日 体験者が語る-重巡「熊野」の奮闘とその最後
32 平成25年7月20日 中止 大平洋戦争-本とあるテレビの間違い(未発表)
文末となったが、左近允先輩に心からの謝意を表しご遺訓を心に刻み、遺徳を忍びご冥福をお祈り致します。