アメリカから見たガダルカナル戦
                             左近允尚敏(兵72期)

日露戦争以降の日米関係
 ガダルカナルのお話に入る前に日米関係の推移と、アメリカの対日戦略についてざっとおさらいしたい。日米関係は日露戦争までは良好であり、アメリカは日露戦争の講和の仲介もしてくれたが、日本が朝鮮を支配し、台湾と南樺太を領有し、シナにいろいろと権益や特権を有するようになり、軍事的にもアジアの強国として台頭したことろから警戒心を抱くようになった。

 そのアメリカも日清戦争の前年、1893年にはハワイを併合、日清戦争後、日露戦争前の1898年にはスペインと戦争して勝ち、日本に近いフィリッピンを領有するに至った。ここで興味深い事実がある。それはマリアナ、カロリン、マーシャル諸島はスペイン領であったから、アメリカは手に入れることができたのに、領土としたらお荷物になると思ったのか、グアムだけを米領とした。するとドイツがスペインの弱みにつけ込んで南洋諸島を手に入れてしまった。アメリカのある文献は、米西戦争のあと南洋諸島を米領にしていたら太平洋戦争であれほど苦労することはなかったと嘆いている。南洋諸島は第1次大戦後の講和会議でドイツの手を離れ日本の委任統治領になった。

 1941年の時点で南洋諸島が米領であったら、アメリカと戦争しようということにはならなかったのではないかと思われる。歴史のIFは面白い問題であるが、これははっきりと実現性があった問題だけに特に興味をそそられるのである。アメリカは1867年に720万ドルでアラスカをロシアから買ったが、ここがロシア領であったら、これまた世界の歴史はちがったものになったはずである。さて日米が対立するようになった理由の一つは日本のシナへの経済的進出もあった。アメリカが1899年以来唱えているシナの門戸開放と衝突したからである。最もシナに進出したのは日本だけではなく英国やドイツもそうだった。

 1921年から22年にかけてアメリカの呼びかけでワシントン海軍軍縮会議が開かれたが、アメリカの狙いは日本海軍の拡張を阻止し、1902年以来の日英同盟を解消させることだった。そしてアメリカはその目的を達成したのである。日本の対米感情は553の比率を飲まされたことで悪化した。1903年にカリフォルニア州が日本人の子供が学校に行くのを禁じ、1913年には日本の土地保有を禁じ、1924年には排日移民法ができて、日本人の移民を完全にシャットアウトとしたことも対米感情を著しく悪化させた。553の比率であるが、米海軍は太平洋、大西洋の両洋をカバーしなければならない。海軍力を太平洋、大西洋半々にしたとすれば太平洋艦隊と連合艦隊の比率は2.5対3であって日本が上回る。それほど大騒ぎするほどのことはなかったのではないかという気がする。太平洋戦争が始ったとき連合艦隊の兵力は太平洋艦隊のそれよりもかなり優勢だったのである。

 1930年、巡洋艦以下について制限するロンドン条約が結ばれ、日本はこれを批准した。31年陸軍は満州事変を起こし、満州国が独立したが、列強の反発を買い、日本は33年に国際連盟から脱退し、翌34年にはワシントン条約、ロンドン条約を破棄して孤立の道を進むことになった。1937年、日本はシナとの戦争に突入した。アメリカは蒋介石の国民党政府に経済援助を始め日米関係はいっそう悪化していく。国民党政府が要人をアメリカに送り込み反日キャンペーンを推進したこともアメリカ国民の対日感情をさらに悪化させた。ルーズベルト自身シナびいきで反日だった。この37年の7月、アメリカは1911年以来の日米通商航海条約を破棄し、日本は11月にドイツと防共協定を結んだ。12月、日本の海軍機が誤って揚子江でアメリカの砲艦バネイを撃沈、日米間は一挙に緊張したが、政府と海軍は直ちに陳謝し賠償金も支払ったので問題は沈静化した。1939年の9月、ドイツはポーランドに侵攻、第2次大戦が始まった。

 1940年4月、それまで米本土西岸を基地としていた米太平洋艦隊は真珠湾に移動した。9月、日本は独伊と三国同盟を結んだ。ヒトラー憎しで固まっていたアメリカはこれをきわめて不快に思ったのであり、この同盟の締結が太平洋戦争の第1の引き金になったと思う。41年6月ドイツはソ連に侵攻して独ソ戦が始った。ここで一言ふれておきたいのは、日本とちがってアメリカでは戦争を始めたり講和をしたりする権限は大統領や政府ではなく議会が握っているということである。ルーズベルトは英国を助けるためドイツと戦争したかったが、権限を持つ議会には孤立主義が強く国民も支持したから、それができなかった。ドイツが真珠湾攻撃の直後に対米宣戦したためアメリカは晴れてドイツと戦争できることになったが、ソ連への侵攻と対米宣戦はヒトラーの2大失策とされている。

 41年3月からワシントンで日米交渉が続けられたが両者の主張は食い違い進展しなかった。7月日本は南部仏印に進駐、これに対してアメリカは日本の在米資産を凍結し、石油の全面禁輸をもって応じた。実際には全面禁輸ではなく、一部は許可制としたが、審査する官僚が許可を与えなかったから実質的な全面的禁輸になってしまった。日本の政府、軍部はアメリカのこの強硬な対応を予想していなかったようであるが、この南部仏印進駐は戦争の第2の引き金になったと思う。日本は石油の大部分をアメリカに依存していたが、それが入ってこないとすれば、蘭印の石油を武力で手に入れなければならなくなったのである。日米交渉はなお続いたが、アメリカはシナからの全面的撤兵、8月以降はさらに南部仏印からの撤兵を要求した。東条首相はシナで倒れた英霊に申し訳ないといって応じなかった。

 そのため300万以上の兵士、民間人が死ぬことになるが、11月10日に日本がアメリカに示した回答は、シナ北部、満蒙の一定の地域と海南島は日本とシナが和平協定を結んだ後、一定期間駐留する、それ以外の地域からは2年以内に撤兵する、という内容で、もしアメリカからシナ北部などの一定期間とはどれだけかと質問されたら25年間と答えること、という注釈がついていた。アメリカは11月26日にいわゆるハルノートを提示し、日本が12月1日の御前会議で開戦を決定したことはご存知のとおりである。

アメリカの対日戦争計画
 次はアメリカの対日戦略についてである。最初に申したいのは日本はアメリカの謀略で戦争に引きずりこまれたというような説もあるようであるが、アメリカの本音は日本とは戦争したくない、戦争したいのはドイツであり、どうしても日本と戦争するならなるべく遅くしたいというものだったのである。さてオレンジプランとかレインボープランは省略するとして米海軍のトップ、スターク海軍作戦部長は39年7月、第2次大戦が始まった直前であるが、プランドッグとして知られることになるプランを立てた。プランはAからDまであり、プランDがプランドッグであるが、大西洋では攻勢に出る、太平洋では守勢に立つというものだった。アメリカは軍事的努力を一つにしぼって英国に最大限の支援を与える、太平洋では日本が勢力の拡張を図るおそれがあるが、アメリカとしては日本との戦争は極力避ける。しかし日本が英領、蘭領が脅かした場合は阻止しなければならない、とした。

 ここで話が飛ぶが、日本は41年12月8日、マレー、フィリッピン、真珠湾を同時に攻撃したが、もし英領だけを攻撃したらどうなったかである。先に申したようにルーズベルトに戦争することを決める権限はない。はたしてこの場合、アメリカ議会が参戦を決めたかどうかは不明とされており、決めさせるためにはルーズベルトは随分と苦労しなければならなかっただろうと言われている。これに関連するが、日本海軍は米英不可分説、つまり米英のいずれかとの戦争は両国との戦争になると考えていたのである。

 話を戻すが、統合参謀本部の前身である陸海軍合同会議は1941年1月、プランドッグを踏まえた次のような国防政策を立案しルーズベルトの承認を得た。日本と戦争せざるを得なくなったら、アメリカは同時に太平洋でも戦う。大西洋には速やかに太平洋から大兵力を送り込み、太平洋では残った兵力で限定された作戦を実施する。つまり独伊を打倒し、太平洋、極東では日本と戦争しないよう、また日本が極東の英領、蘭領を攻撃しないよう努める。これが新国防政策の骨子だったが、こうしてドイツファースト、ジャパンネクストの戦略が確認された。米英の軍事代表団は1月末から3月までワシントンでABC-1会議を開いたが、アメリカがこの会議のために用意した文書は「アメリカの基本政策は、西半球の防衛である。このため米政府は英国に物的、外交的支援を続ける。また日本がこれ以上アジアを支配しないように努める。ドイツは枢軸国の主要なメンバーであるから、大西洋、ヨーロッパが決定的な戦場になる。日本との戦争は望まない」という趣旨のものだった。
ABC-1会議は次を戦略目標とすることで合意した。
 
1. 早期にドイツを打倒する。このためアメリカの努力は大西洋、ヨーロッパに向けられる。
2. 地中海地域における英国と同盟国の立場を支持する。
3. 極東では戦略的守勢に立つ。しかし米艦隊は日本の経済力を弱め、マレーの防衛を支援するために攻勢的に使用する。

また次のような幕僚協定ができた。

・ アメリカは西半球を防衛し、英国は本土と植民地を防衛する。
・ 米英はUボートの脅威からシーレーンを防衛する。
・ 米英はドイツに対する経済戦争によりドイツを封鎖し、戦略物資を入手できないようにする。
・ 米英は対独航空攻撃を強化する。

 日本についてはやや具体的なものとし「もし日本と戦争になったら守勢に立つが、日本の進撃を阻止するため、必要な攻勢作戦は実施する。ハワイを防衛し、マーシャル諸島攻略の準備をする。ハワイ、アラスカに増援の部隊を送る。しかし、グアム、フィリッピン、ウエーキは所在部隊をもって対処する」とした。つまりこれらの米領は失うことを覚悟していたのである。しかし退役してフィリッピン軍の元帥になっていたマッカーサーは、フィリッピン軍を強化し米軍とあわせて20個師団にすれば、フィリッピンは防衛できると主張したので、スティムソン陸軍長官とマーシャル参謀総長はフィリッピン地上兵力の強化に加え、多数のBー17、レーダー、対空火器などを送り込むことにした。ワシントンは、これが対日抑止力になると信じたのである。フィリッピンなどにおいて、所在兵力による防衛から本格的防衛に転換したのである。7月、マッカーサーは現役に復帰して極東陸軍司令官に任命された。

 8月、カナダ東岸沖でルーズベルト、チャーチルと軍指導部の洋上サミットが開かれ、アメリカ側は英国に送る予定のBー17をフィリッピン防衛に送りたい、マレーの防衛にもなると説明して英国側は了承した、フィリッピンには42年4月までに185機を計画した。開戦までに50機足らずが送られ、開戦劈頭、その多くが地上で破壊されることになる。真珠湾攻撃でアメリカ政府はスニークアタックであるとし、リメンバー・パールハーバーを合言葉にして国民を奮起させたと思われているが、攻撃の第1報が入った国務省では、これで国民は結束する、日本は愚かなことをしたものだ、という見方だったというから、必ずしもリメンバー・パールハーバーが取り立てて効果があったというわけではなかったことになる。

 開戦の月の12月下旬から1月にかけて、ルーズベルト、チャーチルと米英の軍事指導者たちはワシントンでアルカディア会議を開きドイツファーストを再確認し、米英蘭豪のABDA軍を設けたが、3月までにこの連合軍は壊滅し、5月に解体されている。3月、アメリカは南西太平洋軍を設け、フィリッピンから豪州に逃げていたマッカーサーが司令官に任命された。日本は3月までにマレー、蘭印、フィリッピンを制圧した。

 ルーズベルトは依然としてドイツファーストであり、ドイツが倒れれば日本も倒れる可能性が大きいと考えていたが、合衆国艦隊司令官兼海軍作戦部長のキングは、真珠湾攻撃の直後から太平洋で攻勢に出るべきがと強く主張し、真珠湾攻撃に怒った国民も対日攻撃を求め、議会も支持したので、ドイツファーストは変わりつつあった。その一つの現れとして1942年に太平洋に投入された人と物はヨーロッパを上回った。7月にキングとマーシャルはルーズベルトに「われわれの意見は、ドイツにではなく、太平洋に目を向け日本を徹底的に叩くべきだ、というものである」という覚書を提出している。

ガダルカナル前史
 陸海軍合同会議は4月27日に新たな太平洋戦略を立てた。豪州に至るシーレーンを確保のためニューカレドニアに至る必要な島々の防備を固める、上陸作戦部隊を集め北西に向かう。これはソロモンの南から北西に進み、ラバウルが所在するニューブリテンに至る、というものだった。4月下旬という時点では日本はツラギやガダルカナルにはまだ進出していなかったから、アメリカは比較的容易にラバウルを奪回できると考えていたのかもしれない。2日後の4月29日、海軍は上陸作戦のためには2師団が必要であるとした。日本の陸軍と海軍は、戦争の進め方について考えを異にしていた。陸軍はシナ、満州の防備を固めてソ連の攻撃に備えようとし、南太平洋に兵力を出すことには抵抗した。海軍はパナマ、ハワイから豪州東部、ニュージーランドに至る7500マイルに及ぶアメリカのシーレーンを遮断しようとした。

 つまりアメリカは本土と豪州の間のシーレーンを守ろうとシ、日本はこれを遮断しようとして南太平洋の戦いになるのである。5月、日本はニューギニア東部南岸の要衝、ポートモレスビーを攻略しようとして珊瑚海海戦が起きたが、攻略を断念し、開戦以来の日本の進撃は初めて頓挫した。しかしガダルカナルのすぐそばにあるツラギを占領した。翌6月にはミッドウェーを占領しようとして連合艦隊の大部分が出動したが占領できず、主力空母4隻を一挙に失った。ミッドウェー以後戦いのイニシアティブは米軍の手に移り、日本軍は米軍の動きに対応していくだけになる。

アメリカにとってラバウルの日本軍は目の上のコブだった。6月8日、マッカーサーは海軍から1個海兵師団と2個空母部隊を提供してもらえば、2週間でラバウルを奪回できると申し入れたが、キングは応じなかった。開戦以来キング以下海軍はマッカーサーに対し反感を持っていたのである。キングとマーシャルはソロモンの作戦をニミッツがやるのか、マッカーサーがやるのかで対立した。マッカーサーはそもそも太平洋の戦いは自分が指揮すべきだと主張したが、むろん海軍は反対であり、統一指揮官を置くならニミッツだと考えていた。ワシントンでは陸軍のマーシャルと海軍のキングが2週間にわたり論争したが、結局ニミッツとマッカーサーは並列で戦うことになった。この問題は2年余り後の44年10月にニミッツ軍とマッカーサー軍がフィリッピンで合流したときに再燃し、結局統一指揮官を置かないまま戦った。そのため大きな失敗があったが、これは別のお話である。
6月末にマーシャルは、キングに「南西太平洋における攻勢作戦に関する指示の案」という文書を作成して送ったが、次のような内容だった。

1. 目標 ニューブリテン、ニューアイルランド、ニューギニア地域の戦力確保を最終目標とする攻勢作戦を実施する。
2. 目的 この地域から日本軍を排除する。
3. タスク
    タスク1はサンタクルーズ諸島とツラギ及び付近の日本軍の拠点の占領
    タスク2はソロモン諸島の残りの島とニューギニア北東岸のラエ、サラモアの占領
    タスク3はニューブリテンのラバウルと、ニューアイルランド及び付近の日本軍拠点の占領

 マーシャルは続けて、タスク1はニミッツ、タスク2と3はマッカーサーが担当するとした。陸海の妥協を図ったのである。マーシャルとキングは直ちにタスク1、作戦名オペレーションウォッチタワーを実施することにした。指揮系統は次のようになった。ニミッツ麾下の南太平洋部隊のゴムリー中将が全般指揮を執る。上陸作戦部隊(第62任務部隊)はターナー少将でマリンのバンデグリフト少将指揮の第1海兵師団が上陸する。フレッチャー少将指揮の空母3隻を中核とする部隊(第61任務部隊)が航空支援をする。航空支援兵力としてさらにマッケーン少将の基地航空部隊(第63任務部隊)の各種航空機291機がニューカレドニア、フィジーなどに配備された。陸軍航空軍のB17,35機、海軍の哨戒兼爆撃飛行艇PBY、31機もあった

 ハワイの通信情報班から日本が7月4日にガダルカナルに上陸するという情報が入った。上陸は4日の予定だったが6日になった。上陸したのは主として飛行場建設に当たる軍属を編成した設営隊だった。米軍が上陸したとき、ガダルカナルにあったのは守備隊230名と武器を持たない設営隊2000名だった。JCSはサンタクルーズの占領はやめ、ガダルカナルとツラギを占領することとして7月10日、ゴムリーに対し8月1日にタスク1を実施するよう命じた。この日、日本がガダルカナルで飛行場の建設を始めたという情報が入った。ゴムリーとマッカーサーは、準備不足であり、成功には多大の疑問があると打電したが、命令が変更されることはなかった。

 7月16日、ターナーを指揮官とする第62任務部隊が編成され、ターナーは輸送船マッコーリーに将旗を掲げた。部隊はニュージーランドのウェリントンに集結した。輸送船、貨物船は19隻で、上陸用舟艇472隻、各種兵器弾薬、糧食、医薬品を搭載した。護衛に当たるのはクラッチリー英海軍少将指揮の巡洋艦8隻、駆逐艦17隻である。上陸部隊として予定され本土西岸で上陸演習を実施していた陸軍の1個師団が北アフリカに送られたため、上陸兵力はバンデグリフト少将の第1海兵師団だけになった。この師団は第2海兵師団からの1個連隊、その他の部隊によって強化されて1万9500名。うち1万1000名がガダルカナルに上陸する。8月1日には間に合わないところから上陸は8月7日になった。7月25日、真珠湾、サンディエゴ、豪州、ニュージーランドを発した補助艦艇を含む76隻のターナーの部隊が7月25日フィジーに集結し、翌26日に上陸作戦のリハーサルを実施した。

 17人の指揮官クラスを集めサラトガで行われた会議でフレッチャーは、空母は上陸2日後の8月9日午前には引き揚げると言明した。海兵隊もターナーの部隊も8月9日からエアカバーなしで置き去りにされることになる。ターナーとバンデグリフトは強くフレッチャーに抗議したが彼は応じなかった。珊瑚海でレキシントン、ミッドウェーでヨークタウンを失っているフレッチャーは空母を3日以上危険にさらしたくなかったのである。7月31日、上陸作戦部隊はこの日にフィジーを発してガダルカナルに向かった。

ガダルカナルの戦い
 8月7日の払暁、クラッチリーの水上部隊の一部はガダルカナルとツラギに艦砲射撃を加えた。いずれの日本軍にとっても完全な奇襲となった。上陸部隊を乗せた輸送船は0650沖合いに達した。ガダルカナルへの上陸は0913に始った。海岸では大混乱を生じた。多数の舟艇がぶつかり合い、一部は座礁し、物資の揚陸は大幅に遅れた。ターナーは収拾がつかなくなったので揚陸作業の中止を命じた。バンデグリフトはマッカーサーが約束したガダルカナルの航空写真が届かなかったので、だれかの手書きの不正確な地図しかなく苦労していた。彼は日本の守備隊は7000名と予想していたが、既述のとおり実際は2230名であり、うち2000名は武器を持たない設営隊だった。マリンは1600までに飛行場を占領した。ツラギはやや時間がかかったが、8日朝には確保できた。日本の爆撃機の来襲が続き、輸送船、貨物船はその都度揚陸作業を中止して錨を揚げ分散した。

 7日朝米軍ツラギ上陸の報告を受けたラバウルの三川第8艦隊長官は旗艦、重巡・鳥海で出港、付近で行動中の重巡4隻と合同してガダルカナルに向かった。重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻の計8隻の艦隊だった。ハワイの通信情報斑は行動予定を傍受したが、解読が10日以上遅れたため役に立たなかった。1026に豪州の爆撃機が三川艦隊を発見、さらに別の爆撃機が1101に発見したが、基地に帰投後に報告、そのあとも通信処理が悪くターナーが知ったのは1900を過ぎていた。しかも巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、水上機母艦2隻となっていたため、ターナーはまもなく攻撃されるとは思わなかった。この海域を哨戒するはずのマッケーン少将の基地航空部隊、第63任務部隊は午前は視界不良で哨戒しないか、早めに引き返し、午後は全く哨戒機を出さなかったため、三川艦隊を発見できなかった。

 9日朝になったら引き揚げると言明していたフレッチャーは12時間早い8日1800、「戦闘機は99機から78機に減少した。当地域には多数の敵の雷撃機、爆撃機があることにかんがみ、直ちに引き揚げたい、燃料も少なくなったので至急タンカーを送られたい」と打電、承認を待つことなく、南方に向かった。実際には戦闘も燃料も充分だったとされているが、上陸作戦部隊はエアカバーなしで置き去りにされてしまった。しかしターナーは、フレッチャーは付近にあってゴムリーの返事を待っていると思っていた。彼はクラッチリーとバンデグリフトを呼び、フレッチャーの行動に関連してどうすべきか協議した。クラッチリーが旗艦オーストラリアに帰ってまもなく三川艦隊が彼の部隊を攻撃した。

 ターナーはサボ島の戦いが終わった後も若干の物資を揚陸したが、半数以上の物資を揚陸しないまま、9日正午に引き揚げた。このためマリンは対空火器、レーダー、無線機、建設器材がなく弾薬は4日分のみとなって、上陸から6週間、1日の食事は貧弱な2食だけということになった。バンデクリフト以下マリンは憤慨した。とりわけ対空火器が届かなかったことは痛手だった。マリンが強く望んだのは日本機の来襲に対処する戦闘機だったが、フレッチャーの空母は依然としてソロモンの南方にあり、ゴムリーも何もしようとはしなかった。マリンは孤立無援の形となったのである。ガダルカナル戦の経過をざっと見ることにする。

1941
年のガダルカナルの戦い
8.9  サボ島の戦い(水上戦闘)
8.15 米貨物船4隻到着、弾薬、航空ガソリンなどを揚陸
8.18 一木支隊900名上陸、米軍ヘンダーソン飛行場運用開始
8.20 F4F、19機、SBD,12機がフネでヘンダーソン飛行場に到着
8.21−22日  一木支隊攻撃失敗、死傷800名弱
8・22 米陸軍戦闘機隊、ヘンダーソンに到着
8.24 東ソロモンの戦い(空母戦)
8.31−9.2 川口支隊4000名上陸
9.11 ケープエスペランスの戦い(水上戦)
9.13−14 川口支隊、攻撃失敗、戦死500名、負傷400名
9.18 マリン1個連隊上陸、2万3000名となる。
9.27 キンケード少将、フレッチャーと交代
10.6 丸山第2師団上陸
10.11 米軍さらに3000名上陸
10.14 戦艦・金剛、榛名、飛行場を砲撃、90機中48機破壊
10.15 重巡・鳥海、衣笠、飛行場を砲撃
10.16 重巡・摩耶、妙高、飛行場を砲撃
10.18 ハルゼー、ゴムリーと交代
10.20−24 丸山師団(2万名)、攻撃失敗
10.24 ルーズベルト、JCSに対し、ガダルカナルの死守を命令
10.26 サンタクルーズ島の戦い(水上戦)
11.12−15 ガダルカナル島の戦い(水上戦)
11.30 タサファロンガの戦い(水上戦)
12.9  パッチ少将が、バンデグリフトと交代
12.31 東京、ガダルカナルから撤退を決定

1942年のガダルカナルの戦い
2.1−7   日本軍撤退、1万652名

 ガダルカナルの海上戦を付紙1、日米戦闘艦の被害状況を付紙2で示す(付紙1と2、付紙1の(1)と(2)は異なる文献からのものであるので、必ずしも整合していない)。あるアメリカの文献によると、日米の喪失したフネ、航空機、人員については次のようになっている。
フネはアメリカが空母2、重巡7、うち1隻は豪州海軍、軽巡2、駆逐艦15、日本は軽空母1、戦艦2、重巡3、軽巡1、駆逐艦11.航空機はアメリカ615機で日本は683機。海上の戦闘による戦死はアメリカ4900名、日本3500名、陸上戦闘による戦死はアメリカ1769名で日本は2万5600名。

ガダルカナルの戦いの所見
 最後にガダルカナルについての私見やエピソードを述べてみたい。
天皇が出された開戦の詔勅には「帝国は今や自存自衛のため決然と立って」とあるが日本、とりわけ海軍は手を広げすぎたと思う。真珠湾攻撃の翌月、1942年1月には遠くソロモンのニューブリテン島にあるラバウルを占領し、3月にはニューギニア北部の東岸に兵を進め、ソロモンのブカ、ショートランドとブーゲンビルの要地を占領した。そして5月にはツラギを占領したが、ポートモレスビーの攻略に失敗、続いてミッドウェー攻略にも失敗した。7月にはガダルカナルに進出した。ラバウルやソロモンの島々の占領はアメリカと豪州のシーレーンを遮断する目的だったが、陸軍と同様に海軍も補給、いまでいうロジスティックス、後方支援を軽視した。ッドウェーを占領できたとしても補給に行き詰まり、玉砕の島第1号になった可能性が大きかったと思う。

 連合艦隊司令部はミッドウェーが成功したらハワイ占領作戦に乗り出す考えだったようであるが、ハワイにはすでに5万4000名が増派された地上部隊は10万になっていた。そこを占領するための大兵力と必要な装備を送り込むに必要な輸送船、貨物船はいったいどれだけだったのか、考えると夢物語としか思えない。ガダルカナル、ツラギへの補給も同じように問題だった。輸送船は次々に沈められるところから駆逐艦による輸送、アメリカのいう東京エクスプレスに頼り、やがては潜水艦による細々として輸送になっていく。

 米軍のガダルカナル上陸は命令が出てからわずか1ヶ月で実施した作戦であり、護衛の水上部隊は寄せ集めで、一緒に訓練したこともなかったというから、全く自信がなかったというもの分かる。ダルカナルの原住民は、日本軍に虐待、ないし酷使されたことから、日本軍の兵力、場所なとについてマリンに貴重な情報をもたらしたので、マリンは先んじて攻撃することができたとなっている。
よく言われることだが、日本海軍で惜しまれるのは、米軍上陸2日後の夜、三川艦隊が殴りこみ、上陸部隊支援の水上部隊には大きな打撃を与えながら、まだ兵器弾薬食料の陸揚げが半分も終わっていない輸送船、貨物船には手をつけず引き揚げたことだった。翌朝の航空攻撃をおそれたからであるが、このときフレッチャーの空母ははるか南方にいた。もしラバウルから綿密な長距離偵察をやっていたら、米空母がはるか南方にあったことが分かったはずだった。

ヘンダーソン飛行場に進出したSBD、これはミッドウェーで日本の空母3隻を大破炎上させた急降下爆撃機であるが、その行動半径が200マイルであったのに対し、日本機は300マイル以上であったとしている。陸軍は兵力を小出しにして失敗した。8月に900,9月に4000,10月に2万以上を投入し、飛行場奪回を図ったが多大の損害を出して避退している。1万以上に対し900で勝てると思うのが不思議である。

 1万以上とは分からず3000程度と見込んでいたというが、それでも防御に対して3倍とすれば9000が必要である。どうやらシナ軍とフィリッピンの米軍相手に戦った経験から米軍の力を著しく低く見積もっていたようである。開戦前、米英は日本の軍事力を著しく過小評価していたが、その裏返しである。8月の時点で2万を投入していたらまちがいなくマリンをガダルカナルから駆逐できたはずだった。日本はアメリカの兵士は臆病だと宣伝し、かつ信じていた。だが実際に戦ってみると勇敢さは決して日本の専売特許ではなかった。海軍についても一部の駆逐艦長の積極的戦闘は語り草になっているが追撃不足の例が少なくない。1944年のレイテ沖で栗田艦隊が米護衛空母部隊と遭遇したとき、護衛に当たっていた駆逐艦、護衛駆逐艦、7隻は反転し、戦艦4隻、重巡6隻以下の栗田艦隊の真っ只中に飛び込んで砲撃し魚雷を発射した。私が乗っていた重巡は最初に飛び出してきた駆逐艦の魚雷を受けて艦首をもぎ取られ落伍した。7隻のうち3隻は撃沈されたが、6隻いた護衛空母の喪失は1隻にとどまり、この攻撃は米海軍でも特筆されるべき勇敢な行動として高く評価されており、栗田艦隊の小柳参謀長も感嘆している。

 アメリカも上陸後数ヶ月ははたしてガダルカナルをもちこたえられるか、全く自信がなく悲観的見方もかなりあった。これは日本が次々と兵員、物資を送り込み、基地航空機も頻繁に爆撃し、海軍も強力な空母部隊や水上部隊を繰り出したからであり、アメリカがよしこれで確保できると思ったのは連合艦隊が比叡、霧島を投入して失い、米艦隊撃滅を断念した11月以降だったとなっている。日本もこのころ見切りをつけて撤退に踏み切っていたならば、ガダルカナルの兵士の犠牲はもっと少なくてすんだはずだった。ガダルカナル周辺の海と空の戦いはほば互角で消耗戦になったが、ここで彼我の国力差が出てきた。日本海軍が消耗分、これはパイロットも含むが、埋めることができず、ジリ貧状態になっていったのに対し、米軍は消耗分を上回る人と物を投入した。これ以後、兵力差は大きくなる一方だったのである。しかし上陸した日本の兵士は兵器弾薬糧食の不足に苦しみながら勇敢に戦い抜いて米軍を感嘆させたことは忘れてはならないと思う。

 さてガダルカナルからの撤退は成功した。ミッドウェー以後成功した作戦はガダルカナルとそのあとのキスカの撤退くらい、いずれも撤退という消極的な作戦だった。しかし、幸いなことにいずれの場合も米軍に察知されなかった。米海軍は日本の主暗号を1942年の3月下旬、機動部隊のインド洋作戦のころから解読に成功し、ミッドウェーの勝利の大きな要因になったことはよく知られているし、撤退から2ヶ月半後の山本長官機撃墜が暗号解読に基づくものであったことも周知のとおりである。米軍は撤退のために駆逐隊を増援する兵士と補給品の輸送と思ったくらいだったから、全く事前に知らなかったのであるが、どうして分からなかったか、いろいろ調べてみたが明白な答えが得られていない。解読したといっても暗号書を更新したらかなり解読まで時間がかかるし、よく更新する乱数表の場合もある程度の時間がかかる。

 しかしガダルカナルの場合、ハワイの無線情報斑は、1月15日の解読電報で輸送船2隻が2日後にニューギニアのウエワクに到着するという電報をハワイが解読してトライトンという潜水艦に知らせ1隻を撃沈、1隻を損傷させている。しかしまたワシントンが1月13日に傍受したある電報は、日本海軍が乱数表を更新したため10日後に解読した、その電報は第20師団の1万名が17日にパラオからウエワクに配備されるという電報だったとなっている。したがってちょうど乱数表の更新で解読できなかった時期であったのかもしれない。暗号の話が出たついでにもう1,2お話すると、まず先ほど申したようにガダルカナルのすぐそばで伊1潜がニュージーランドのコルベット艦に撃沈された。しかし半分沈んだ状態だったので米軍は艦内から暗号書を回収した。

 潜水艦の先任将校はラバウルに帰って機密種類は処分した旨報告したが暗号書を奪われていたのである。米海軍が日本海軍の暗号を解読したのは現物なしで数学の計算だけでやったことだったが、初めて暗号書を手に入れたのであり、米海軍は大喜びしたようである。もう一つ暗号についてであるが、アメリカは日本陸軍の暗号についてはなかなか解読できなかった。これは陸軍の通信はローカルのものが多く地域にまたがる通信は量がすくなかったからであるが、日本軍がガダルカナルから撤退してから1年後の44年1月、ニューギニアで撤退中の第20師団が暗号書と乱集表を入れた金属製のトランクを地中に埋めておいたところ、地雷除去に当たっていた豪州の工兵が見つけマッカーサー軍にとってたいへんな宝物になった。

 次は米軍の作戦全般を指揮したゴムリー中将と空母部隊を指揮したフレッチャー中将についてである。まずフレッチャーであるが、彼がガダルカナルに上陸した1日半後にバンデグリフトのマリンと、ターナーの輸送船、貨物船、護衛艦艇を置き去りにして1日半後には南方に避退してしまったことは既述した。燃料が乏しくなったとか戦闘機を消耗したとか理由をつけているが、いずれもそうした事実はなかったとしている文献もある。しかし人名録には次のよう記されている。

 フレッチャーは敵大部隊接近の報告を受け、ゴムリーの承認を得ずに南方に引き揚げた。燃料が欠乏し敵の基地航空部隊の攻撃圏内にあるのを避けるという慎重な措置ではあったが、まだ揚陸の終わっていないターナーの輸送船、貨物船、水上部隊を置き去りにし、上陸したバンデグリフトのマリンをエアカバーなしにしてしまった。彼は8月24日、25日と史上3番目の大空母戦を戦ったが彼の旗艦サラトガは右舷中部に伊26潜の魚雷を受けて損傷、戦場を離脱した。しかしフレッチャーは魚雷命中の際負傷しその後数回手術を受けたがうまくいかず、海上の経歴には終止符が打たれた。1943年に北太平洋部隊指揮官、44年アラスラ海上防衛司令官となり、45年大将としてリタイア、73年に死去した。つまりガダルカナルでは別におとがめもなく大将としてリタイアしている。ではゴムリーはどうか。ニミッツの情報幕僚だったレイトンはこう書いている。

 10月のことである。幕僚会合のあと私を含む幕僚数名はニミッツの机のそばにいた。彼は何かリコメンドすることはないかと尋ねた。はっきりとは言わなかったが、ゴムリーが制海権を敵の手に渡していまったことを懸念していることは明らかだった。私たちはゴムリーの人格は別として彼は更迭されるべきですと言ったが、ニミッツは、これはふれてはいけない問題だと言った。それから数日が経ち情勢はますます悪くなっていた。私たちは協議した上でとうしてもニミッツに言う必要があるということで一致した。電話すると司令官は今おやすみになるところですが、5分間ならという返事だった。午後の10時ころだったが私たちはパジャマ姿の司令官に「ハルゼーは今フレッチャーと交代のためヌーメアに向かっています。司令官がゴムリーと親しいことはよく承知していますが、情勢は重大であり、同情は禁物と思います」と言った。ニミッツは私たちに感謝し、率直に話してもらってよく分かった、と言った。それでおしまいだった。ニミッツは10月18日、ハルゼーにゴムリーと交代せよと打電した。

 これがレイトンの書いた内容である。連合艦隊司令部の参謀たち何人かが山本長官に某艦隊長官の更迭を進言したようなもので米海軍の参謀もなかなかやるものだ、進言を容れて、親友を更迭したニミッツもたいしたものだという気がする。ハルゼーはゴムリーが足を踏み入れなかったガダルカナルにも飛んで視察したので士気は著しく高まったという。その後のゴムリーは44年までハワイの第14海軍区司令官、45年まで在独米海軍司令官をやり、46年8月中将でリタイア、58年死去している。ガダルカナル以後特に栄転はしていないが、別に経歴に疵がつくこともなく終えたといえそうである。

 ここで、大将でリタイアした、中将でリタイアしたと申したが、アメリカの将官のパーマネントランクは少将である。真珠湾のキンメルは大将、陸軍のショートは中将だったが、二人とも少将でリタイアしている。ゴムリーやフレッチャーがやめたときのランクでリタイアしたということは、リタイアするまで、その勤務に問題なく立派に遂行したと認められたことを示しているのである。

 一方日本では11月の戦闘で比叡、霧島を失った第3戦隊の司令官は予備役編入となった。ミッドウェーで空母2隻を失った山口第2航空戦隊司令官は進んでフネと運命をともにしたが、この場合も死ねということなのか、よくは分からない。日本では戦艦を失った2人の艦長のうち、霧島の艦長はその後少将に進級、マニの根拠地隊司令官になって戦死した。比叡艦長は残ろうとしたが、司令官が報告に来るよう指示したということがある。また総員退去の時間が早すぎたということもあったようである。モリソン著“The Two Ocean War” (彼の米海軍公式戦戦史を要約したもの)に、こう書かれている。

 サボ島の戦いが終わったあと、日本は最高のチャンスを失った。このとき日本は制海権、制空権を握っており、潜水艦を別にすれば、とめるものは何もなかったのである。ラバウルの百武将軍はマリンを3000人とみて1000人を投入すれば一掃できると考えていたが、一木支隊の815人はマリンの一部によって壊滅してしまった。                       (おわり)


付紙1           海 上 戦

(1)水上戦
海戦名(米側呼称))     日米  参加兵力(損害)
サボ島(8,9)
0125−0233        米   重巡5(沈没4、中破1)駆逐艦6
                  日   重巡5(軽微2)軽巡2(軽微2)駆逐艦1
駆逐艦の戦闘(9.5)
0100−0135        米   駆逐艦2(沈没2)
                  日   駆逐艦3
ケープエスペランス  
10.11(2345−0033)  米   重巡2(小破1)軽巡2(中破1)駆逐艦5(沈没1、中破1)
                  日   重巡3(沈没1、中破1、小破1)駆逐艦2(沈没1、小破1)
シーラーク水道  
10.25(1010−1024)  米   駆逐艦2(小破1)
                  日   駆逐艦3(軽微1)
ガダルカナル
10.25(0148−0226)  米   重巡2(大破1、中破1)軽巡3(沈没1、大破1、小破1)駆逐艦8(沈没4、中破2、小破1)   
                  日   戦艦2(中破1)軽巡1 駆逐艦11(沈没2、中破2、軽微2)
第2次ガダルカナル  
11・15(0000−0220)  米   戦艦2(中破1)駆逐艦4(沈没2、大破1、中破1)
                  日   戦艦1(沈没)重巡2(軽微1)軽巡2駆逐艦11(沈没1)
タサファロンガ
11.30(2306−2348)  米   重巡4(沈没1、大破3)巡航巡1
                駆逐艦6
            日   駆逐艦8(沈没1、軽微1)

(2)空母戦
東ソロモン(8.24)
0905、PBY哨戒飛行艇が龍驤を発見、サラトガからSBD急降下爆撃機29機とTBD雷撃機7機を発進させた。爆弾3発、魚雷1本が命中して龍驤は沈没した。
翔鶴と瑞鶴は米空母を発見99艦爆54機と零戦24機が発進し、翔鶴の99艦爆24機は1630ころからエンタープライズを攻撃、3発を命中させた。3機はノースカロライナを攻撃したが命中しなかった。瑞鶴隊はサラトガを攻撃しようとしたが、CAPと遭遇したので3機がエンタープライズ、4機がノースカロライナを攻撃したが、命中弾を与えることはできなかった。日本は艦爆18機と零戦6機を失った。
エンタープライズのSBD、11機とTBD、8機のうちSBD、2機だけが翔鶴を攻撃したが命中しなかった。サラトガは攻撃されなかったが、TBF(新しい雷撃機)5機とSBD、2機が戦闘機の護衛なしで発進し、1745に水上機母艦・千歳に大きな損傷を与えた。米側の喪失は17機だった。

サンタクルーズ(10.26)
0740、エンタープライズの偵察飛行隊のSBD、2機が瑞鳳を攻撃して大きく損傷させた。0859、38機いた米空母の上空直衛(CAP)が接近する99艦爆隊を発見、エンタープライズはスコールに入ったのでホーネットが攻撃された。
日本の指揮官機は損傷したので、飛行甲板に突入、大きな被害が生じた。続いて4発が命中、さらに97艦攻、1機が左舷前部の砲に突入、ホーネットは動力を失って停止した。ホーネットの52機は翔鶴を発見、11機が6発を命中させ田(修理に9ヶ月を要した)。あとのグループは筑摩に2発を命中させた。
1240ころ、エンタープライズに爆弾3発が命中、44人が死んだが致命傷にはならなかった。1101、隼鷹の99艦爆隊が飛来し、サウスダコタに1発、軽巡のサンフアンに1発を命中させた。
ホーネットは重巡ノーザンプトンに曳航されていたが、さらに3発が命中したので放棄され、日本の駆逐艦2隻が沈めた。アメリカはホーネットを失い、太平洋艦隊の空母は、修理中のサラトガと修理を要するエンタープライズの2隻だけになった。しかし日本は100機以上と優秀なパイロットの一部を失った。

(2)付紙          日米戦闘艦の被害状況
1942(昭和17)年
8月7日 日本機により駆逐艦マグフォードが損傷
8月9日 水上戦により重巡アストリア、クインシー、ビンセンズ、キャンベラが沈没
8月10日 米潜により重巡・加古が沈没
8月19日 米機により駆逐艦・萩風が損傷
8月22日 水上戦により駆逐艦ブルーが損傷(翌23日に処分沈没)
8月24日 空母戦により空母・龍驤が沈没、水上機母艦・千歳が損傷。空母エンタープライズと駆逐艦グレイソンが損傷。潜水艦(伊25潜)により空母サラトガが損傷
8月25日 米機により軽巡・神通が損傷、駆逐艦・睦月が沈没
8月26日 米機により伊17潜が損傷
8月28日 米艦により伊52潜が損傷、米機により駆逐艦・朝霧が沈没、白雲、夕霧が損傷
8月31日 日本潜(イ25)により空母サラトガが損傷
9月14日 米機により重巡・妙高が損傷
9月15日 日本潜(イ19)により空母ワスプ沈没
9月24日 米機により駆逐艦・海風が損傷
10月3日 米機により水上機母艦・日進が損傷
10月5日 米機により伊22潜が沈没
10月11日 水上戦により重巡ソルトレークシティ、軽巡ボイス、駆逐艦ダンカン、ファレンホルトが損傷、このうち駆逐艦ダンカンは12日に処分沈没、駆逐艦・吹雪が沈没。重巡・古鷹が損傷し翌12日に沈没。重巡・青葉、駆逐艦・初雪が損傷。
10月15日 米機により駆逐艦・五月雨が損傷。日本機により駆逐艦メレディスが沈没
10月16日 日本機により駆逐艦マクファーランドが損傷
10月19日 米機により駆逐艦・浦波が損傷
10月25日 米機により駆逐艦・暁、電が損傷。軽巡・由良が損傷し、処分沈没
10月26日 日本機により次が損傷。空母エンタープライズ、ホーネット、戦艦サウスダコタ、軽巡サンフアン、駆逐艦スミス。このうちホーネットは処分を試みたが成功せず、翌27日、日本駆逐艦の雷撃で沈没、米機により次が損傷。空母・瑞鳳、翔鶴、重巡・筑摩、駆逐艦・照月。
10月27日 米機により駆逐艦・照月が損傷
10月29日 米機により伊172潜が沈没
11月7日  米機により駆逐艦・長波、高波が損傷
11月8日  米機により駆逐艦・望月が損傷
11月10日 米水上艦により伊15潜が沈没
11月12日 日本機により重巡サンフランシスコが損傷
11月13日 水上戦により重巡アトランタが損傷して自沈、駆逐艦カッシング、モンセン、バートンが沈没、重巡ポートランド、サンフランシスコ、軽巡ヘレナ、駆逐艦アーロンワードが損傷。戦艦・比叡が損傷後、米機により沈没 駆逐艦・秋月と夕立が沈没、駆逐艦・村雨、電、天津風が損傷、米機により駆逐艦・雪風、満潮が損傷
11月14日 米機により重巡・衣笠が沈没、重巡・摩耶、鳥海、軽巡・五十鈴、天竜、駆逐艦・綾波が損傷。日本水上艦により駆逐艦プレストんが沈没
11月15日 水上戦により戦艦サウスダコタが損傷、駆逐艦ベンハムが損傷後処分沈没。駆逐艦グインが損傷。水上戦により戦艦・霧島と駆逐艦・綾波が沈没
11月24日 日本機と水上艦により潜水艦スナッパーが沈没
11月29日 米機により駆逐艦・白露と巻雲が損傷
11月30日 水上戦により重巡ペンサコラ、ノーザンプトン、ニューオーリンズ、ミネアポリスが損傷、このうちノーザンプトンは翌12月1日に沈没、駆逐艦・高波が損傷
12月1日 米機により駆逐艦・磯波が損傷
12月3日 米機により駆逐艦。巻波が損傷
12圧7日 米機により駆逐艦。野分、嵐が損傷
12月9日 米魚雷艇により伊3潜が沈没
12月10日 日本機により潜水艦スティングレイが損傷
12月20日 日本水上艦により潜水艦アンバージャックが損傷
12月21日 米潜により伊4潜が沈没
12月26日 米機により駆逐艦・有明、卯月、太刀風が損傷

1943(昭和18)年)
1月2日  米機により駆逐艦・涼風が損傷
1月5日  日本機により軽巡アキレスが損傷
1月6日  米機により駆逐艦・太刀風がさらに損傷1月10日 日本機により駆逐艦アーガノートが沈没、米機により駆逐艦・初風が損傷
1月15日 米機により駆逐艦・嵐、谷風、浦風が損傷
1月18日 日本水上艦により潜水艦シルバーサイズが損傷
1月23日 米潜により駆逐艦・浦風が沈没
1月29日 日本機により重巡シカゴが損傷し、翌30日再び日本機により沈没 ニュージーランドのコルベット艦により伊1潜が沈没
1月30日 日本機により駆逐艦ラベレットが損傷
1月31日 日本機により駆逐艦デヘイブンが沈没、駆逐艦ニコラスが損傷、米機により駆逐艦・巻波が損傷
2月2日 触雷により駆逐艦・巻雲が損傷し、処分沈没
2月4日 米機により駆逐艦・白雪、舞風、黒潮、川風が損傷
2月7日 米機により駆逐艦・磯風が損傷