国際平和に貢献する自衛隊であるために(対談録)

エリートはいつでも死ぬ覚悟があるー自決も辞さぬのがエリート
 防衛大学校は53年に創立されたが、当時は「妾の連れ子」とまで言われたよ。要は、学校自体が世間から認知されてなかったわけ。大江健三郎なんていうのは、防衛大学校は日本の屈辱だと糾弾してきたし、お茶の水女子大の学生会は、防衛大学校のお嫁さんには行きません、と決議文を送ってきた。世間の冷ややかな視線のなかで俺は第1期生として4年間、学んだんだよ。もっとも、学校内での教育は違った。いわゆるエリート教育をうけたわけだ。自分たちはエリートだということを徹底的に教えこまれた。防衛大学校の教育で一番優れていたことだ。残念ながら、現在までは続いてなく、エリート教育をうけたのは防大のシングル世代までだろうけどね。
 エリートには特権がある。特権があるけれど、国家の有事には生命を捧げて、国に尽くさなきゃいかんと。
 特権というと、金銭的なことも当然あるだろうけど、やはり、名誉。特に海外に行けば、エリート軍人として、なにかと優遇される。空港でもノーチェックのことが多い。自衛隊を退官した今でも中国に行ったら、人民軍の大佐がむかえにくる。しかも黒塗りの車。万里の長城へ観光に行くときでも、その車に乗ってね。
 特権を享受したから、いつでも生命を投げ出す覚悟はしていた。74年から1年間、護衛艦ちとせの艦長を務めたことがある。あるとき日本海から津軽海峡、宗谷海峡を通って、オホーツク海に出た。そしたら、ソ連の駆逐艦が来たわけだよ。実弾用意って命令したね。だけど、本心では撃つ考えはなかった。部下への建前だよ。もし本当に、ソ連艦にやられたら、自沈するつもりだった。反撃しないで、自分の船を沈めるんだ。乗員はボートで逃がしてね。
 そのあとは、俺の遺書をもって、新聞社に行くように、機関長に言っておいた。死ぬことによって、国民に訴えようとしたわけだよ。こんな矛盾と疑問だらけの日本の防衛体制が、一歩でも前進し、日本の安全に寄与できるならば、俺は笑って、船とともに沈もうと考えていた。自沈することが問題提起となり、法律改正につながればとね。「妾の連れ子」として育ってきたバイタリティーというのかな。やせ我慢ともいえるし、カッコよく言うと「昭和の侍」ってところだな。今度イラクに行く人たちも、指揮官クラスには、そういう覚悟がありますよ。いざというときの身の施し方を知り、その心意気があるのが、指揮官でありエリートというものだよ。

カンボジャでやせ我慢を貫き通す
 カンボジアPKOのとき、警察官がひとり撃たれて、大騒ぎになっただろ。情けない。エリートやリーダーっていうのは、やせ我慢しなきゃいかん。それができないんだ、警察官は組織としてはけんされなかったから。
 俺は防大の教授も勤めたけど、そのときの教え子もカンボジアに行った。若い隊員は、防大で4年、幹部候補生学校で1年だから、23歳とか、24、25歳。極端な話、小隊長をやったヤツだって、学校出たてのペイペイなわけ。それでも、足を震わしながら、がんばった。自衛隊からは600人ぐらい行ったけど、誰も帰るってヤツ、いなかった。自衛官は現地で、選挙管理事務所の警護もやった。ジープに乗って、8カ所の事務所を見回ったわけだ。

 最大の問題はジープの運転手を誰にするか、ということ。ペイペイの小隊長はすごく悩んだ。ドライバーが相手から一番ネラわれるからね。でも、苦渋したすえ、運転するものを決め、助手席に乗るものも決めた。下のモノは上からの指示に、はい、と言って従ったんだ。上下のシステムだからね。小隊長の彼は、その先が違った。パトロールに出かけたとき、座席に座らないで、ジープの上に立ったんだ。撃つなら、オレを先にやれとね。もし、相手から攻撃をうけたら、自分が先にやられるだろうから、その隙に逃げろとドライバーの部下に言って。ジープの座上に立って、見回った彼は、足がガタガタ、ガタガタ震えて、止まらなかったと話してた。生きるか、死ぬかのときに発揮された、美しいやせ我慢。エリートの姿だよ。

北朝鮮工作船を拿捕する訓練

 80年、舞鶴の第31護衛隊司令に就いた。日本海すべてを守る、海上部隊指揮官という任務。80年というと、帰国した拉致被害者の5人がさらわれたころだ。当時から自衛隊は、北朝鮮工作船の存在がわかってて、ちゃんとフォローしていたんだ。だから対策も立て、いろいろ訓練もやった。自衛隊以外も海上保安庁も警察も工作船のことは、みんな知っていたけど、政府のどこかのレベルでツブされたんだな。
 俺たちは、北朝鮮工作船を想定して臨検訓練をやった。臨検というのは臨時検査ということ。相手の船に乗り込んで、艦内を調べるわけだ。臨検隊は、船長に会って船舶証明書を出させ、どこの国の船でどこからどこに行くのかを確認する。積み荷証明書もチェックする。不審船を拿捕するには、禁制品、麻薬とか銃器をもっていることを実証しないといけないから。臨検訓練では、工作船の役を掃海艇が担った。そこへ臨検隊は鉄砲持って行く。ところが、船に乗り込んだ臨検隊は、相手の言葉を信じたばかりに、控え室に連れ込まれ、監禁されたりするわけだ。検査中にドアを閉められたりもする。不審船の船長役がうまくやって、臨検隊を捕まえちゃった。ということ。

 そうすると、工作船役の掃海艇が撃ってくる。さあ、どうするかってわけだよ。俺は撃てと命令した。撃ち沈めろって。訓練だから、そこまでなんだけど、そのあとは現在と同じでゴチャゴチャになる。訓練後の研究会などで、問題にされた。相手が小銃で撃ってきたのに、こっちが大砲で応じるのは過剰防衛だとか、武器使用比例の原則に反するなどとね。だから、そのときに覚悟を決めた。現場のことは現場で判断する。なにかあれば、責任とればいいと。結論は俺が死ねばいい。31護衛隊司令の突っ走りといわれたよ。

 でも、訓練じゃなく、実際の現場に出くわすときついと思ったね。2年前、能登半島沖で不審船をとり逃がしたことがあっただろ。逃がしたというか、逃げられたというか。不審船を発見したからには、海上自衛隊の指揮官は臨検隊を組んで、検査に行かせないといかん。24人ぐらいだな。俺のときは訓練で指名した。だから、むこうに監禁されても、帰ってきたときにバカ野郎と怒鳴ればすんだけど、本番は違う。このケースは臨検隊が相手の船に乗り込んで検査するところまでいかんよな、たぶん。臨検隊は相手に近づいた途端に、ドーンと撃たれる。

 そこへ誰をやるか。これは厳しい。自爆に等しいからね。自分がひとりで行く。または自分が先頭になって、部下を連れて行くならまだいい。でも、指名する指揮官が直接行くわけにはいかない。部下の奥さんや子ども、家族のことが頭のなかをぐるぐるかけめぐるんだ。いやあ、逃げられて、助かったんじゃなかったか」 
 ある別の艦長が言ってたよ。

国民の覚醒に必要な「血」
 国を愛せ、郷土を愛せというのは、いわば、一国愛国心だな。一国愛国主義では、いまのイラクは読めない。我々西洋社会のシステムを守るために、我々も応分の負担をし、デモクラシー社会の一員であることを理解しないと、本当の愛国心にならない。イラク問題は、日本の国家戦略、つまり10年、100年先を見据えて、考えなければならない。現地に赴く隊員が可哀想だという声が大きいけれどな。
 俺はかつて、どうしようもない国民性を覚醒させようと考えた。そのためには自分が死んで、遺書を残し、新聞にでも載れば、少しは改善できると思った。それが後輩に対する一歩になるはずと。実際にそう動いたしね。

 今度イラクへ行く指揮官クラスも腹は据えている。任務と義務、そして国家を考えると、何が大事かはわかっている。いまイラクで、捕まっても捕虜にもなれない。自衛隊は軍隊じゃないから。国際法で規定があって、捕虜として扱われるのは軍人だけ。だから、捕まったら、拷問されようが。処刑されようが、何もいえない。
 もっとも、イラクのゲリラがその条約に調印しているとは思わないけど、日本はサインしてない。自衛隊は軍隊じゃないから、署名する必要ないでしょと。言い出せば、きりがない。ただ、そういう問題を全部クリアしてから行くのかというと、それじゃあ間に合わない。だから、俺はすまんけど、10?20人死んでくれ、と思ってる。それでも日本の国にプラスになるんじゃないかと。20?30人といったら、毎年自衛隊のなかで事故死する人数だけど、そんなに多くなくてもいい。2?3人でも死んだら、法律もそれなりに改正されるだろう。そこで一歩前進するはず。それが、国防に何かを残していく自衛官の道ではないかと思う。

平間洋一 元海将補。33年、神奈川県横須賀市生まれ。防衛大学校第1期生。護衛艦ちとせ艦長、第31護衛隊司令、防衛大学校教授などを歴任(法学博士)。歴史・安全保障論などの著書多数。