大田かつ様を偲ぶ
大田さんとの出会い
 大田かつさんは、海軍沖縄方面根拠地隊司令官で、「沖細県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、三十二軍司令部もまた通信の余力なしと認めらるるにつき、本職県知事の依頼を受けたにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代って緊急御通申し上ぐ」と、沖縄県民がいかに軍に対して献身的協力をしたかを述べ、「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」との決別電報を発信後、自決された海兵41期の大田実海軍少将(後中将)の未亡人である。昭和20年の終戦から残された11人の子供を行商、YWCAの寮母、海上保安大学校図書館員などをしたがら見事に育てられたが、昨年11月8日午後8時10分に85歳で死去された。ここに生前のご厚情に心から謝意を申し上げるとともに、生前の思い出の一端を記し、こ霊前に捧げたい。
 大田さんとの最初の出会いは大田さんの表現を借りるなら、子供の頃家が近くでよく遊びに行かれた72期の「尚俊さん(左近允)」からであった。昭和60年2月に私が呉地方総監部の防衛部長として赴任する際に、左近允さんから「大田さんに紹介しておいたよ。そのうちにに連絡があると思う」との手紙があった。その翌日、大田さんからも来信があった。それは美しい和紙に流れるように書かれた毛筆の手紙であった。
 80歳を過ぎた老人であり、どうせ壊れたレコードのように、同じ話を繰り返し帰化されるのか。しかし、これも労を取ってくれた先輩の顔を立てるためにと自宅にお邪魔することとした。大田さんは呉市内に長男の英雄さん(県立宮原高校教諭)がおられるのに、干渉されるのが嫌いで、「自由がが欲しいのよ」と市営住宅にお一人で住んでおられた。家を訪れると歌声が閉こえる。ラジオでも掛けておられるのかと、呼び鈴を押すと歌声が止まり大田さんが出て来られた。腰が曲がった老人を想像していた私の眼前に現れた、若々しい太田さんを見るのは驚きであった。さらに大きな驚きは訪問時に聞こえたのはラジオではなく、大田さん自身がオルガンを弾きながら歌っていたことを知った時であった。

第七艦隊司令官訪問
 第七艦隊の旗艦「プルーリッジ」が呉を訪問することとなった。私はこの訪問を日米親善のため、何とか意義あるものにすべく、太田さんの第七艦隊訪問を考えた。「大田さん、今度第七艦隊旗艦が呉に来るのですが、夫がアメリカ軍に殺された司令官の奥さんが、そのアメリカ海軍の艦上パーティに出席されるのは日米の友好親善に大きな意義があると思うのですが、いかがでしょうか」と誘った。大田さんは「行ってもよいわよ。でも招待状もないのに、いくら平間さんが行けと言ったって先方に失礼よ」。「いや、私の招待状には夫婦同伴と書いてあるし、単身赴任なので私の妻の代理で行って下されば宜しいではないですか」、ということで第七艦隊司令官の艦上レセブショソに参加することとたった。夫をアメリカ軍に殺され、戦後30数年のさまざまな苦難の波を乗り越えてこられた大田さんの心境はどんたものであったであろうか。自分の夫が殺されたご遺族が、その相手を訪問することは苦しく、割り切れないものであろうと想像していたが、大田さんは元気にまた喜んでタクシーで官舎に私を迎えに来られた。
 大田さんと旗艦ブルーリソジの舷門を上がり第七艦隊司令官に、さて、何と紹介しようかと考えたが、それより先に我が口先は「ジス イズ マイ ジオロジカルワイフ(私の地理的妻ですとと言ってしまっていた。第七艦隊司令官は30歳も私より年上の大田さんを見てけげんな顔をしたが、私の説明に感動し、これこそ新しい日米関係の象徴だとカメラマンを呼び、並んで記念写真を撮るなど終始エスコートをされたが、出港後その写真にサインをして送って呉れた。いっも大田さんがその写真を飾っておられたことから、大田さんもこの訪問を喜んでおられたのであろうと思う。またチャメ気のある大田さんは、私の地理的ワイフがお気にいりで「平間さん、英語で言えばジオロジカル・ワイフと抵抗はないけど、日本語に訳すと現地妻、日本語って何とたく品がないわね」と言うことになったが、以後、海上自衛隊の行事やクラス会などで、夫婦同伴の場含には立派な大田さんを少しでも、部下隊員やクラスの奥さんにも知ってもらえたらと地理的ワイフを理由に出席戴くことになった。

PS―Iの事故と女房教育
 岩国のPS―1の墜落事故で、遺族が遺体にすがりつき泣き悲しむシーンがテレピで放映された翌日、「平間さん、自衛隊もだめね。夫が死亡するのは悲しいことだが、軍人の妻として人前では悲しみを耐えるのが必要よ」。「あのように夫の遺体にすがりつき嘆き悲しむ姿をテレピで見た国民は、こんたに嘆き悲しむ妻を持った自衛官が、本当に雄司に家族を忘れて国難に当たってくれるのかしらとの不安を持つわよ。」と厳しいご注意を受けた。そこで左近允先輩から送られて来た『小説新潮』掲載の太田田さんの半生を描いた小説、「わが夫を偲ぶ」を堀刷りし、幹部自衛官の女房教育資料として配布することを考えた。自身が賛美されているこの小説の印刷に最初は反対されたが、私は「それではどのようにして奥さんを教育するのですか。教材が必要です」と強引に了解を取り付け、呉地方隊の幹部だけに「教育参考資料」として限定配布させて戴いた。第七艦隊で地理的ワイフと言ってしまったため、以後はクラス会にも出て戴くことになったが、大田さんも若い人との会話が好きで、楽しんでおられたようであったし、わがクラスのご婦人方も大田さんからは教えられるところが多かった。
 また、カラオケの苦手な私は、部下とのコミュニケーショソを図るために、部下の幕僚や呉地方隊の各級指揮官を官舎に招待していたが、海軍の一流のご婦人と尊敬する大田さんの偉大さを少しでも知って貰おうと、大田さんも一緒に招待することとした。はじめの頃は私が料理を準備していたが、地理的ワイフをよいことに途中から主客転倒、いつの間にか部下などを呼ぷ時には、「大田さん明日宴会をやりますのでよろしく。予算は1万円でお願いします」などと申し上げると、午後から私の官介のカギを開け掃除をして料理を作り、待っていてくださるようになってしまった。そのうえ、私の部下にそれとたく話されるお話の中から、いかに部下が教えられたことであろうか。「部長やはり違いますね。大変教えられました」と常に感謝された。本当に太田さん色々とありがとうございました。お世話にたりました。

思い出のいくつか
 大田さんは戦後30数年のさまざまな人生を乗り越えて来られたためか、独立独歩、手とり足取りされるのが嫌いであった。80歳という高齢にもかかわらずヒールのある靴を履かれ、帽子を被り、そのセンスは抜群、呉の町よりは六本木が似合う方でもあった。話題も豊富で会話はセンスに溢れ、ウイットに富み、足取りも軽快で行動力に溢れ年齢を感じさせず、年寄だからとの配慮などは無用であった。大田さんが毎週2回はプールで泳がれると聞いて、冗談半分に「大田さんの水着姿を見たいものですね」と申し上げたが忘れていた。するとある日突然に「明日、英雄のところに泳ぎに参りましょう」と、計画されてしまった。80のオパアサソとの海水浴など考えてもいなかったが、冗談にしろ言ってしまった手前、武士に二言なしと行くことになった。海ではフランス製の水着を着て背の立たない沖の方へ、どんどん泳いで行ってしまう。心臓麻痺でも起こされたら、「母を海などに連れ出して」と、11人の子供達に非難されると泳いだ気がしない海水浴であった。
 大田さんとの会話はユーモアと機知に溢れ、話題も豊富で楽しかったが、私を常に当惑させたのは、話題がお子さまのことに及んだ時であった。「みどりがね、今度来るのよ」、「あーニュージーランドからですね」。「いや千葉からよ」。「あー、ニュージーランドは勝子さんでしたね」。「あら、勝子は横浜よ」。「失礼しました」の連続であった。私にとり11人もの子供の名前から、職業、住所までは覚えられなかったし、それに孫の名前まで加わると、もうどうにもならなかった。また、呉に海上自衛隊婦人協力会を設立した時にも、「今後は女性を動員しなくてはね。良いことに気がついたわね」、と最初の寄付を戴くなど心からの支援を受けた。大田さん、本当に色々とありがとうございました。大田さんがそれとなく教えられたご教訓は今後とも我がクラス、わが部下、そしてその奥さんたちの間長く生き続けることでありましょう。どうぞ、いつまでも天上から.こ指導下さい。この一文をご霊前に捧げ、謹んでこ冥福をお祈り申し上げます。