偉大なる史家ー大井篤さんを偲ぶ

  太平洋戦争を評価すべき重要な節目である終戦50周年を迎えることなく、 偉大な海軍の良識の象徴でもあった大井さんは逝ってしまった。 太平洋戦争の意義や解釈をめぐって多くの議論が起こらんとしているこの重要な時期に、 大井さんを失ったことは「正しい歴史」を後世に伝えようとする正当歴史派にとって、 極めて大きな打撃であり無念の1語に尽きる。 私が大井さんに初めてお目にかかりご指導を戴くようになったのは、 私が海上自衛隊の第1線部隊指揮官の配置を去り、 防衛研究所戦史部に配置された昭和60年4月からであった。 それまでは大井さんが書かれた戦記物などを2-3読んだ程度で、 戦記物を書く海軍出身の歴史家との記憶しかなかった。 そして、 水交会で最初にお目にかかった時にはダンディな方で、 話し方も学者か外交官風で、 これが海軍士官だったのかとの違和感が残った。 しかし、 私が軍事史学会の理事となり、 第二次世界大戦開戦50周年記念シンポジュームや軍事史学会の開戦特集号の発刊、 定例研究会の講師などをお願いするようになり、 ご指導をえる機会が増えるに従い大井さんの偉大さに打たれるようになった。 私が大井さんが歴史観に強い衝撃を受けたのは、 「大東亜戦争史観」や「マルクス史観」を共に批判する、 中庸をえた実務体験を土台とした実践的歴史観であり、 思想や哲学にまで及ぶ歴史観の深さであった。 大井さんが太平洋戦争50周年記念軍事史学会例会で行われた「世界史における太平洋戦争の意義」という講演が、 大井史観を良くあらわしていると思われるので紹介したい。

  この講演で大井さんは戦争とは意識や感情の衝突であり、 一方の意識や感情の特殊性が相手の意識や感情の特殊性と対立し衝突するものであるが、 太平洋戦争に対する日本の意識(情熱)の特殊性は、 明らかに理性に欠けたものであった。 いかに情熱が貴ぶべきものとしても、 理性に欠けば情熱は災害・没落に連なりかねない。 常に貴ぶべきものは情熱ではなく、理性である。 従来の日本における太平洋戦争の取り上げ方は圧倒的に日本独自の世界観、 価値観に捉われてきたような気がするが、 なぜ日本は自己の価値観で他国の迷惑も考えずに大東亜戦争などと勝手な名前を付けて侵略してしまったのか。 それは日本が理性や真理の追究を徹底的に非難し、 熱狂的情念、 独善的解釈や激情などの感情を重視するニーチェの哲学にのめり込んでしまったことにあったのではないか。

 すなわち、
太平洋戦争とは思想的には共産主義の変形したナチズムとデモクラシー、 哲学的にはニーチェ哲学とヘイゲルの哲学との戦いではなかったか。 ニーチェの思想、 特に既成の欧米道徳に反逆した内容の『権力への意志』という著書が、 ヒトラーやムッソリニを動かしたことは有名だが、 日本ではニーチェの哲学と日蓮の教義が結合した形で高山樗牛が日本主義を高揚させた。彼は若くして文学界においても文明評論界においても、 日清・日露両戦役間の日本言論界の第一人者だった。 ニーチェの令名がヨーロッパに高まり始まるや否や、 ドイツ留学中の姉崎嘲風から『権力への意志』その他のニーチェの論文を送られ貪り読んだし、 他方『宗門の維新』を田中智学から贈呈されと、 共鳴して智学の運動を推進する論陣を張った。 田中智学は日蓮の教義と日本帝国憲法とを結び付け、 「世界の統一は日本民族に与えられた天の使命なり」との主張(明らかに侵略を奨励)のもと、 『宗門の維新』なる小冊子を大量に印刷し、 これを当時の各界の有力者に配布したが、 それが近衛篤麿(文麿の父)や樗牛などから絶賛と強力な支援を受けたのである。樗牛の名文と智学の雄弁とによって宣伝された日本主義が、明治後期から昭和初期にかけて大正デモクラシーという自由主義と抗争状態に入った。

  そして、 自己領域を拡大し独占する日蓮的な思想が、 ハウスホーファーのレーベンスラウム - 国家は国家の生存に必要な領域を確保する権利があるとの生存圏思想の地政学を受け入れ、 それが近衛文麿首相の世界新秩序声明となり、 大東亜共栄圏を日本のレーベンスラウムとして建設させたのではなかったのか。 本来ならば英米などの資本や技術を利用し、 共同建設すべきであった大東亜共栄圏を「不施不受」の日蓮的思想から独占を目指し、 その結果ABCD包囲を招いたのではなかったのか。もし日本が理性を強調し「世界史は自由の意識の進歩である」というヘーゲルの哲学に学んでいたならば、 理性が重視され日本がドイツを過信し、 ドイツに傾倒することはなかったのではないか。

 ニーチェと日蓮に心酔し日本主義を実行に移したのは、
満州事変の立役者石原莞爾であるが、 彼は智学に徹頭徹尾心酔してドイツに留学、 そして、 智学の説く世界を統一するのが日本民族の天業であり、 そのためには自由民主主義文明の代表国アメリカを打倒すべきであるとの信念を固めた。 そして帰朝後は陸軍大学でこの信念のもとに講義をしていたが、 満州へ関東軍参謀として転任を命ぜら赴任すると、 対米戦争計画を私的に立案した。 そして、 対米戦争時の資源を確保するために満州事変を起こしたのであった。

  われわれは開戦50周年を迎えて、 太平洋戦争によって(というよりはむしろ第二次大戦によって) 世界が何を失い何を得たかを考えなければならないが、 太平洋戦争をクラウゼビッ的に「勝った負けた」の次元で考えるべきでなく、 過去・現在・未来と人類文明の連続を取り扱う世界史の中の視点で、 世界に通じる史実に忠実な史観で考えなければならないと思う。 大井さんのお話しはこのように哲学や思想を含む深い歴史観に支えられた大変格調の高いものであった。

  このような史観をお持ちであったから、 昨年の暮れも迫った12月のある日に久し振に1時間近いお電話を戴いた。 それは定年退官した陸上自衛隊の1佐の人が元防衛大学校教授の肩書で、 ある雑誌に「東京裁判史観を打破せよ」と強い論調を展開したことに関するものであったが、 大井さんのご指導は太平洋戦争によって日本側も損害を被ったが、 相手側 連合諸国やアジア諸国・諸民族に与えた痛手にたいしてもわれわれは真剣に反省せねばならないと思う。 「東京裁判史観を打破せよ」というが、 東京裁判は全部不当で、 日本に不当な点は全然なかったのか。 反省すべき点はないのか。 東京裁判史観を打破した後にどのような史観を示すのか。 打破するならば世界が納得する新しい史観を史実をもって示さなければならないが可能か。 こんな単純な人によって防衛大学校の戦史が教えられているとすれば、 自衛隊の将来が心配だ。 しっかりしてくれということであった。

  学者とか著述家などの世界では史料などを見せると、 自分より良い論文が自分より先に書かれ、 学会やジャーナリズムの世界での地位が低下することをおそれ、 資料を隠す人が多いが大井さんは全く反対であった。 研究者などが訪れると奥様に暖かく迎えられ、 大井さんは正しい歴史を残すには正しい史料が必要であると、 持っておられるすべての史料を見せコピーすることを許しておられた。 資料を戴き指導を受けた学者や大学院生などから「海軍は国際感覚があり良識派が多かったというが、 大井さんとお話して実感しました」とか、 「やはり海軍士官はオープンでスマート、 それにダンデイですね」などと、 大井さんのお陰で海上自衛隊出身の私までもが同列に扱われ、 敬意を表されるに至ったことを感謝いたしております。

  また、 2年前に大井さんから防衛大学校の「旧軍資料室」に多量の蔵書を戴きましたが、 今後われわれ戦後派はこれら寄贈されました蔵書とともに、 「大井イズム」を防衛大学校の歴史教育の支柱として引き継ぎますことをここにお誓い申し上げます。 また、 失礼とは重々承知しながらも、 本追悼文を「大井さん」との呼称で書きました。 生前に「大井さん」「大井さん」とお呼びしていましたので、 他の呼称を用いたのではどうしても別人への弔辞となってしまい私の気持ちが表現できなかったからです。 お許し下さい。

  最後にまたお願いですが、 生前に投函されました賀状の「去る年は久遠をもとめ歩みけり 新しき年 その旅はつづく」は読めたのですが、 添え書きの部分の3字ほどがどうしても読めず、 文意が完全に理解できませんでした。 この3字につきましては、 あの世でまた歴史同様に教えて戴きたいと存じます。

  ここに多くのご指導を賜りました戦後派研究者を代表致しまして、 大井さんのご冥福を心からお祈り申し上げ追悼の辞といたします。