国家指導者論:日本とイギリスとの比較
国家指導者とは民主主義国家であるかぎり、 国民の投票によって選ばれた大統領や総理大臣が、
その国の国家指導者であり、 またその国の軍隊の最高指揮官でもある。 そして、
その国家指導者の国防への対応が国家の命運を決してきたことを歴史は教えている。
1 山本連合艦隊司令長官の近衛総理観

昭和11年(1936年)11月25日、 世界に類のない共産主義というイズムを対象に、 日本はドイツと日独防共協定を締結したが、 その対象は明らかにソ連であった。 しかし、 昭和13年から始まった日独防共協定強化交渉では、 ドイツのねらいはイギリス・アメリカを対象とするものであった。 海軍大臣米内光政大将や海軍次官の山本五十六中将などは、 イギリス・アメリカを対象とするからと反対した。 このため右翼団体の聖戦完遂同盟から「天に代わって奸賊山本五十六を誅す」との脅迫状が送られ、 山本海軍次官は次の遺書を書いての反対であった。
述志
一死君国ニ報スルハ素ヨリ武人ノ本懐ノミ豈戦場ト銃後トヲ問アラムヤ。
勇戦奮闘戦場ノ華ト散ラムハ易シ、誰カ至誠一貫俗論ヲ排シ斃レテ後已ムノ難キヲ知ラム。
高遠ナル哉君恩、 悠久ナルカナ皇国、 思ハサルヘカラス君国百年ノ計。
一身ノ栄辱生死豈論する閑アラムヤ。 此身滅スヘシ此志奪フ可カラス。
昭和14年5月31日
於 海軍次官官舎 山本五十六(華押)
このような山本次官の強い反対もあり日独防共協定強化問題は流れた。 するとヒットラは日独防共協定の対象国であるソ連と突然に不可侵条約を締結、
このドイツの背信に平沼騎一郎総理は「欧州の天地は複雑怪奇なり」との名セリフを残して退陣し、
ここに三国同盟に反対していた米内内閣が誕生した。 しかし、 昭和15年4月9日にドイツ軍がデンマーク、
ノルウエーを、 1〇日にはオランダ、 ベルギー、 フランスを急襲、 マジノ要塞を突破し、
5月末にイギリス軍がダンケルクから撤退すると、 6月1〇日にはイタリアがドイツ側に立って英仏に宣戦し、
6月12日にはドイツ軍がパリに入場、 22日には独仏停戦協定が調印された。
この戦局の電撃的な変化に、 新聞は「外政一新の要請は国民的信念にまで高揚した(大阪朝日
6月22日)」とし、 対米英協調を推進してきた米内内閣は「外交転換期に立つ 英米仏依存外交は失敗(報知新聞
6月25日)」、 「大転換必至の帝国外交(大阪朝日 7月13日)」と激く非難され、
成立半年で倒され近衛文磨内閣が誕生した。 そして、 9月27日には外務大臣松岡洋石の精力的な活動によって、
山本次官が命をかけて反対した日独伊三国同盟が締結されてしまった。 連合艦隊司令長官となった山本大将に近衛総理は「しっこく」面談を申し出た。
山本大将は「再三辞退せしが余りしつこき故、 大臣の諒解を得て2時間計り面会せしが、
随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて、 現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり。
是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。 要するに近衛公や松岡外相等に信頼して、
海軍が足を地からはなす事は危険千万にて、 誠に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感深く致候、
御参考迄」と同期の海軍大臣嶋田繁太郎に報告した(昭和15年12月1〇日 嶋田海相宛書簡)」。
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近衛内閣はその後、 翌年7月25日には南部仏印に軍を進め、 26日にはアメリカから在米資産の凍結、 8月1日には対日石油全面輸出禁止の報復を受け、 さらに日米交渉が不成功に終わると総辞職してしまった。 この近衛の総辞職を山本司令長官の参謀長宇垣纒中将は「近衛はお殿様であり長袖流である。 自分がいやになれば何時でも放り出す。 今回も亦然りであろう。 昨年の国会では随分気休め的な覚悟を述べ立てたが、 彼は真実に国家を思い、 滅私奉公の志が腹に出来ているのか如何、 疑問視せざるを得ない。 矢張り今日の危機は長袖者流には無理だろう」と日記(昭和16年1〇月16日)に書いた。 なんたる政治不信であろうか。
2 チャーチルの闘志とイギリス人

一方、 そのころイギリスは5〇万を越える陸軍主力をヨーロッパ大陸に派遣していたが、
フランス・ベルギー国境でドイツ軍に破れ、 33万8〇〇〇人が本国に撤退し得たが武器や弾薬を悉く大陸に遺棄し、
国内に何ら兵器なく、 オランダとフランスの戦いで463機と284人のパイロットを失い、
ロンドンは連日連夜のドイツ軍の空襲を受けていた。 ドイツ軍のイギリス上陸は時間の問題とみられ、
世界の多くの国がイギリスの敗北を予想し、 イギリス国民も失意の深淵にあった。
しかし、 チャーチル首相はイギリス軍が辛うじてダンケルクから撤退した6月4日、
「欧州の各国が倒され、 将来さらに倒れ去らんとするも、 われわれは戦い抜くであろう。
海浜において戦い、 上陸地点において戦い、 野原において戦い、 街路において戦い、
われわれは断じて降伏しない。 そして、 万一 − そのようなことをわれわれは一瞬たりとも信じないが
− 本土の大部分が征服されても、 その時は海のかなたの我が帝国(英連邦を指す)で戦い、
新世界(アメリカを指す)が、 その権力と武力の総てをもって旧世界の救済と解放とのために進み来る日まで戦い抜くであろう」と議会で演説した。
さらにフランスが降伏した6月17日には、 ラジオで「イギリスはただ1人残された自由の戦士として戦うであろう。
人類文明の安危はこの一戦によって定まる。 勝利が死か。 われわれは一つを選ぼうと思う。
もし大英帝国が千年の久しきにわたって続くならば、 諸君、 この時をイギリスの最も光輝ある時であったと、
後世の人から賛美させようではないか」と訴えた。 チャーチルの気迫とこの決心がイギリス人を失意の底から、
敗北から立ち上がらせ、 さらにアメリカ人の良心と同情を引き出しイギリスを守ったのであった。
3 吉田茂の防衛大学生に与えた訓示

チャーチルの演説から16年後の昭和32年3月、 防衛大学校の1期生の卒業式に来校した元総理大臣吉田茂は、
来賓代表として「防大生に与える」とし「独立国の国民として国の独立程大事なものはなく、
この独立を守る事こそ、 国民としての名誉であり誇りであり、 この誇りが愛国心の基礎をなすものである。
国民に独立を愛し独立を守る決心なくんば、 その国の存在はあり得ない。 この決心が一国の興隆繁栄を来すのである。
第一次世界大戦の始め、 パリーがドイツ軍に正に占領せられんとする時、 仏首相クレマンソーは国民に告げて日く、
『パリーの外で守り、 パリーの内で守り、 又パリーの外において守るべし』と。
仏国民にこの決心ありたるが故に、 破竹の勢ひを以て攻め来たりたるドイツ軍を遂にパリーの外に退け得たのである。
第2次世界大戦おいて英国軍が仏白国境に破れて、 ダンケルクより3〇万余の敗残兵僅かに身を以て英国本国に引揚げ、
武器、 弾薬、 悉く大陸に遺棄し、 国内には国を守る何等の兵備なく、 ドイツ軍の英国侵入は時の問題とも思われた時、
チャーチルは議会に演説して日く、 『英国内において敵を防ぎ、 英国外においてこれと戦い、
遠くカナダに退いてドイツ軍と戦う』と言った。 英国々民の戦闘意識を最も明白なる言葉を以つて言ひ表はしたものである。
クレマンソー及びチャーチルのこの決心がパリーを守り、 英国を守り得たのである」と訓示した。
また、 さらに帰り際に「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されり、 歓迎されることなく自衛隊を終わるかも知れない。
きっと非難とか誹ぼうばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。 しかし、
自衛隊が国民から歓迎され、 ちゃやほやされる時は外国から攻撃されて国家存亡の時とか、
災害派遣の時とか、 国民が困窮し国家が混乱しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほうが、
国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。 一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。
自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ」といわれた。 そして、
この言葉や訓示が多くの防衛大学校卒業生の脳裏に強く残り、 世間の誹ぼうや非難に堪え、
低い礼遇や社会的地位に甘んじて、 防衛大学校卒業生を国家、 国益、 国民という価値観に縛り付け、
自衛官としての一生を歩まし続けているのでもある。
4 国家指導者と国民
吉田総理が防衛大学校で訓示をしてからさらに2〇年後、 海上自衛隊の掃海部隊が国際国家日本の責任を果すために、
ペルシャ湾に派遣されクエート東方百キロ沖のMDA(Most Danger Area)ー7,
次いでMDAー1〇の掃海、 さらにクェート・サウジアラビア沿岸航路の拡張及び確認掃海にあたり無事帰国した。
しかし、 新聞報道によれ掃海部隊が帰国する時、 日本の国家指導者筋から自衛艦旗は往時の軍艦旗と同じデザインのため、
軍艦マーチは軍国主義のイメージが強いからと、 自衛艦旗の掲揚と軍艦マーチの演奏に反対があったという。
このような国家指導者の命令で彼らは危険な任務についていたのであろうか。 考えさせられる事件であった。
この処遇にペルシャ湾派遣部隊指揮官は海上幕僚長に、 また主席幕僚は日記になんと書いたであろうか。
しかし、 この問題で国家指導者のみを責めることは酷かもしれない。 それは国家指導者は国民の知性や良識以上のことができないからである。
イギリスではチャーチルの大演説にもかかわれず、 昭和17年年1月に北アフリカではロンメル軍に敗北し、
極東では香港が、 続いて2月にはシンガポールが、3月にはラングーンが日本軍に占領された。
イギリスの議会や国民は動揺し、 チャーチル非難の言動や記事が新聞などにあふれた。
この事態にチャーチルは信任投票で応じた。 結果は461対1、 不信任は1票しかなかった。
461対1のイギリス議会のこの良識が国民の動揺を鎮め、 連合国に信頼感を与え、
イギリスを勝利に導いたのであった。 チャーチルが優れた国家指導者たりえたのは、
このような議会や国民の良識に支えられたからであり、 今回の自衛艦旗事件で総理筋のみを非難するのはあたらない。
国家指導者は国民が育てるものであり、 国民のレベル以上の国家指導者を期待するのが所詮無理なのであるから。
とはいえ、 今次国会で難産の末に国連平和維持活動協力法が成立し、 いよいよ自衛隊のカンボジャ行きが確定した。
しかし、 いくら自衛官が「ことに臨んでは危険をかえりみず、 専心職務の遂行を期す」と宣誓しているとはいえ、
今回の選挙で自由民主党が大勝したとはいえ、 世論調査によれば国民の半数47アパーセント(あまり評価しない32パーセント、全く評価しない14・8パーセント)が評価せず、
58パーセントが憲法上に問題と回答した任務、 しかも危険な任務に就くのである。
国家指導者がそれを受ける側から信頼されるような、 名実を備えた指揮ぶりを見せなくては、
国連平和協力活動も、 辞退者が続出し由々しい事態になりはしないであろうか。