日露戦争に見る日本の教科書

日露戦争は侵略戦争

 「坂の上の雲」が放送され日露戦争への関心が高まり、当時、日露戦争を世界の国々はどのように報道し、1世紀が過ぎた現在、どのように評価しているのかを書いてと、頼まれ『世界は日露戦争をいかに報じたか』(芙蓉書房出版)を、5月に出版することになった。この本で現在の評価を最も明確に示すのが教科書ではないかと考え、終章で世界の国々が日露戦争をどのように教えているかを、日本の教科書と比較し要約したのがこの一文である。日本の教科書の第1の特徴は、日露戦争が他国の領土で行われたことから、侵略戦争であったとの書き方が多い。しかし、対戦国ロシアの教科書『最も簡潔なロシア史』(1934年版)には、「『ロシア帝国』の建設者どもは、同帝国の境界を更に押し広げようと企図し挫折を招いたのである。……….ロシアの国内情勢が戦争への拍車をかけた。革命の機運が高まり、『ロマーノフども』と彼等の取り巻き連中にたいする民衆の憎悪を他に向けさせることが必要となった。そこで、かねがね目の敵にされていたユダヤ人が対象に選ばれた。1903年4月、キシニョフで大々的に『ユダヤ人征伐』が行われたが、予期した成果が上がらず、別の対象を探さなければならなくなった。そこへ、丁度よく日本人が舞い込んできた。日本人は『不信仰者』、非キリスト教徒、『邪教徒』であった。……日本のような小僧っ子なんかが、ロシアのような巨人と、何条、渡り合えようぞ?……….こうして、戦争の助けによって『革命的熱気を吹き散らす』ことに決定された」。

 これに対してイギリスの中等歴史教科書『近代の世界』は、「ロシア人は『ちっぽけなサル』と呼んでいた相手と問題を議論することを拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した」と書かれ、アメリカの教科書『アメリカ盛観』には、「アジアをのっしのっしと歩き回るロシア熊は、その凍傷にかかった手足を満州の不凍港、とくに旅順で温めるべく狙っていた。日本人の目から見ると、満州と朝鮮がロシア皇帝の手に落ちれば、日本の心臓部にピストルを突きつけられるのと同じだった。….日本は旅順に停泊中のロシア艦隊に奇襲を仕掛け、日露戦争の口火を切った。日本は不器用なロシア人に屈辱的な一連の打撃を与えた。非欧州系の軍隊が欧州勢力に対して軍事的ダメージを与えたのは、16世紀トルコの欧州侵略以来、初めてのことだった」と書かれている。

 しかし、日本書籍新社の『わたくしたちの中学社会』には「イギリスはロシアの東アジア進出に対抗する同盟国を求めていた。1902年、中国でのイギリスの利益と、中国・朝鮮における日本の利益を守ることを認めあって、日英同盟が結ばれた。この同盟によって日本とロシアの対立はさらに深まった」と、日本が戦争を欲し日英同盟の締結が戦争につらなったようにも読める書き方であり、そこには日本が追い詰められて、やむなく開戦に踏み切らざるを得なかった当時の国際関係、先人の苦悩などは全く記されていない。しかも東京書房の『新しい社会 歴史』には、フランスの風刺画を掲載し、「『うしろにおれがついている』とイギリスが日本をけしかけ、ロシアに立ち向かわせていると風刺しています」との説明だけでなく、さらに「この絵は、どんなことをあらわしているかな」との質問を掲載しているが、ロシアの同盟国フランスの風刺画が、歴史を公正に理解する史料として適切であろうか。この記述は日教組が日米同盟解消を刷り込もうとしているというのは言い過ぎであろうか。

日露戦争は悲惨な戦争
 第2の特徴は何れの教科書も日露戦争中の戦闘に関する記述が極めて少なく、戦争の悲惨さや国民生活への悪影響を強調していることである。三省堂の『改訂版 日本史B』には、「1904年2月、日本は旅順のロシア軍を奇襲して、その2日後、宣戦布告をした(日露戦争)。戦争は満州を中心に戦われ旅順や奉天では両国軍とも数万人の死傷者を出すはげしい戦闘となったが、日本は日本海海戦に勝利した。しかし日本は100万人をこす兵力と、当時の国力をこえた17億円以上の戦費を使い、そのうち7億円は外国で募集してまかなったもので、資金や兵器、弾薬がとぼしくなって戦争を継続できなくなった」と、当時は国際法上問題とはなっていない宣戦布告前の奇襲を特記し、さらに多数の戦死者と多額の戦費を費やしたことが強調されている。

 一方、実教出版の『新訂版 高校日本歴史』にも「戦没者約8万8000人、入院戦負傷病者約39万人、捕虜2000人に達した。陸軍の満州方軍総司令官は大山巌、海軍の連合艦隊司令長官は東郷平八郎であった」と、陸海軍の指揮官が多数の戦死者を出した戦犯とも読める流れで書かれている。また、実教出版は「戦時下の国民」の項には「開戦後、幹線鉄道や大部分の外航船が軍事輸送に動員され、貿易や国内の商品流通が阻害され、不況で都市に多くの失業者がでた。やがて景気は回復したが軍需のため生活必需品の物資が高騰した。農村では多くの働き手が軍に徴集され、牛馬の徴発、肥料の不足で農業生産が困難になり、軍馬の飼料として大量の大麦が供出させられた。兵士の家族に対する援護事業が各地で実施されたが、動員兵力が予想外に増加したので援護が行き届かず、家族の生活を心配した兵士の脱走や、残された家族の自殺など、日清戦争当時にはみられなかった事件が発生した」と書かれ、さらに注には日清・日露戦争の戦死者数の図表と、「歴史の窓」として靖国神社や村に忠魂碑が建てられたと、村の忠魂碑の写真を掲載するなど、国家の防衛に命を捧げた兵士の挺身的な行為よりも、戦争の悲惨さ遺族の嘆き、銃後の不自由な苦しい生活などを強調している。

反戦平和の日本の教科書
 イギリスの教科書には「1905年5月27日、疲れ切ったロシア艦隊は、対馬海峡で日本艦隊と遭遇した。ロシア側のにぶい艦艇は日本の近代的な艦艇の敵にはまずなり得なかった。司令官東郷提督は砲火を一杯に開きつつ、ロシア艦隊の先頭を横切って進むことができた。このTの横棒を書くやり方は、蒸気船の軍艦にとっての最善の攻撃形態であり、勝利はほぼ確実であった。日本軍の砲撃はツァーの軍艦を木っ端微塵に打ち砕いた。たった1時間の間に8隻のロシアの艦船が沈められた。東郷は1798年のナイルにおけるネルソンの勝利以来最も大々的な海での勝利を勝ち取ったのである」と、東郷元帥だけでなく丁字戦法一敵前回頭を解説している。
 しかし、日本の教科書はいずれも反戦平和主義者を過大に評価し、山川出版『詳説 日本史』の註には、「対露同志会や戸水寛人ら東京帝国大学の七博士は強硬な主戦論を唱え、『万朝報』の黒岩涙香や『国民新聞』の徳富蘇峰が主戦論を盛り上げた。開戦後、歌人の与謝野晶子が『君死にたまうことなかれ』とうたう反戦詩を『明星』に発表した」と書き、三省堂の『日本史B』には、「幸徳らは平民社の機関紙として週刊『平民新聞』を創刊し、社会主義の紹介につとめるとともに反戦を訴えた」「1904年に与謝野晶子は『明星』に「君死にたまふことなかれ」を発表した。詩人の大塚楠緒子も1905年に『太陽』に「お百度詣で」を発表して反戦を訴えた」との註を付けるなど、日本の教科書のほぼ総てに反戦運動が不釣り合いに大きな紙面を占めている。

 一方ロシアの教科書には帝政時代からスターリン時代、改革開放時代、プーチン大統領、そして現在のベドヴェージェフ大統領に到るまで、一貫して勇戦した兵士の功績や指揮官の英雄的行為を名前を挙げて讃えているが、日本の教科書には自由社の『新しい歴史教科書』と扶桑社の『中学社会 新しい歴史教科書』を除いて、東郷平八郎大将の名前はない。

日露戦争の意義の否定
 第4の特徴は外国の教科書が、日露戦争が有色人種や被圧迫民族に独立の夢と自信を与えたと評価し、インドネシアの『高校歴史教科書』には、明治天皇とその家族の写真を大きく掲げ、日本はロシアに対し歴史的勝利を収めた。ロシアの敗北はアジア諸国の民族主義を興起した」と書き、日露戦争については「日本は満州でロシア軍を撃退させるのに成功した。この勝利はアジア諸国にも非常に大きな影響を与えた。アジア民族が西洋諸民族に力で対抗できた事実によって、ナショナリズムに目覚めるという大きな影響を受けた」。「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起こった。たとえば、インドネシアでは1908年にブディ・トモが生まれ、ベトナムでは1907年にベトナム復活同盟が生まれた。一方、それより以前にすでに民族運動を経験していた国々、なかでもインド、フィリピンでは日本の近代化のあと民族運動がいっそう活発になった。太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。日本は八絋一宇(Hakko Ichiu)の旗印の下、世界支配に向けいっそう精を出した。神道に従って他の民族を指導する神聖な任務を帯びていると考え、自らをアジア民族の兄貴分とみなし、弟たち、すなわち他のアジア諸民族を指導する義務があると主張した」と教えている。

 ポーランドの高校歴史教科書『歴史 1895−1939(2002年版)』は、明治天皇と三笠艦橋の東郷司令長官の写真を大きく掲げ、五箇条のご誓文や教育勅語も全文を掲載し、旅順封鎖作戦や日本海海戦の作戦図を全ページを使って示し、独立運動の指導者のドモフスキやピウスツキが戦争中に相次いで来日し、外務省や参謀本部と接触した事実も詳しく言及し、日露戦争勃発直後の1904年2月8日に、ポーランドの社会党員がオーストリア公使・牧野伸顕に宛てた書簡から「ポーランド人はロシアの生来の仇敵です。ポーランド人民の利益は決して日本の利益と衝突することはないので、日本は間違いなくポーランド人の共感を得られるであろう」と、「ロシアの生来の仇敵」との部分を引用して掲載するなど、日露戦争がポーランド独立の建国物語であることから多くのページを割いている。しかし、東京書籍の『新しい社会 歴史』は「日本の勝利はインドやアジアの諸国に刺激をあたえ、日本にならった近代化や民族独立の動きが高まりました」とは書いているが、続いて「国民には日本が列強の一員となったという大国意識が生まれ、アジアに対する優越感が強まっていきました」と否定している。また帝国書院の『わたくしたちの中学生の歴史』の「ネルーが娘に語った歴史」のコラムで、「日本のロシアに対する勝利がどれほどアジアの諸国民を喜ばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国を付け加えたに過ぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは朝鮮であった」と、日本が日露戦争でアジア諸国に与えた独立の意義を否定している。

 日本の教科書は、どうして正の部分を書かずに負の面だけを強調するのであろうか。例えばネールは同じ本に「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた」。「ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」。「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」と書いているのに。また、与謝野晶子は4男が海軍大尉としてシナ事件に出征するときには、「水軍の大尉となりてわが四郎 み軍にゆくたけく戦え」と励ましているが、負の部分や反戦の部分だけを作為的に引用した教科書の公平中立性の喪失を、高名な学者である執筆者や文部科学省の検定官はどのように考えているのであろうか。

その他の国の教科書
 アメリカの教科書『アメリカ国民』は「ポーツマス条約は日本に朝鮮だけでなく満州の支配権を与えた。ルーズベルトはこのことを十分理解していた。その見返りとして1908年のルート高平合意で、アメリカのフィリピン支配を日本が尊重すること、これ以上日本が中国を侵害しないことを認めさせた。だが、一部の日本人はポーツマス条約はロシアからの賠償金に一切触れてないとルーズベルトを非難した。移民問題に対するアメリカの無神経さが日本人に悪感情を与えていた。満州ではアメリカ総領事が日本の銀行や鉄道への資本投資計画に反対する運動を積極的に行っていた。この『ドル外交』と呼ばれる政策は、ルーズベルトの後に大統領となったタフト大統領に引き継がれた。この政策は市場開拓同様、成果自体よりも政策目標としての方が大きかった。いずれにせよ、アメリカは日本の進路に立ちはだかった」。「ルーズベルトの『ビッグ・スティック』はすでに明確だった。1907年、『太平洋はわれわれの海だ(Home Water)』ということを明確にするために、『ホワイト・フリート』を極東に送った。最初の寄港地は横浜だった。水兵たちは暖かく迎えられたが、こうした行為自体、日本の海軍主義を刺激し、それが1941年(真珠湾)でアメリカに向かってきたのかもしれない」。このようにローズベルトを賞賛はしているが、太平洋戦争に至る要因を人種差別、移民問題に対する配慮の欠如、強硬な「ドル外交」や海軍力の増強にもあったことなど公正な中庸を得た書き方である。
 日露戦争時にはロシアの同盟国であり日本を非難していたフランスの『中学高校教科書』は本文には2―3行しかないが、日本海海戦の錦絵を掲げ、「新しい軍事大国、日本。対馬列島沖海戦の日本艦隊、1905年5月。この版画はよく知られているもの。日本軍は奉天の陸戦でロシア軍を破った。救出のためヨーロッパから来たロシア艦隊も、東郷平八郎司令官(のち元帥)の率いる連合艦隊に数時間で敗れ去った。この絵は愛国心を高めるために使われた」とのキャプションを付けている。

 これに対して韓国の『高校歴史教科書(2006年版)』には日露戦争に関する独立の章や節はなく、「日帝は第一次英日同盟(1902年)を締結して国際的立場を強化した後、韓半島の支配権をめぐってロシアを先制攻撃して戦争を引き起こした(露日戦争、1904年)。大韓帝国は局外中立を宣言したが、日帝はこれを無視し韓日議定書を強制的に締結して政治的干渉と軍事的占領を企てた。次いで第1次韓日協約を締結し、外交、財政などの各分野に日本が推薦する顧問を置いて韓国の内政に干渉した。日帝はアメリカとは桂・タフト密約、イギリスとは第二次英日同盟を結んだ後、露日戦争で勝利するとポーツマス条約によりロシアから韓半島への独占的支配権を承認された」と書き、中国の中学校用の『入門 中国の歴史』、高校生用の『中国の歴史』には日露戦争に関する記述もなければ年表にも日露戦争の記載はない。
第5の特徴は文部科学省の「近隣諸国事項」の指導のためか、ほぼ総ての教科書が日露戦争を中国や韓国の視点で詳細に記述していることである。特に実帝国書院の『わたくしたちの中学生の歴史』は「韓国の教科書に見る安重根」とのコラムを入れ、「安重根は韓国侵略の元凶である伊藤博文が、大陸侵略についてロシア代表と交渉するため、満州のハルピンに来たところを射殺した。安重根のこの行動は、日本の侵略に対するわが民族の強い独立精神をよく表したものである」と、韓国の教科書の記述をそのまま掲載している。

おわりに:歴史は国家アイデンティの支柱
 世界の教科書をみてきたが、何れの国の教科書も自国の歴史に誇りを持ち国を愛することを教えている。歴史教育は国家の盛衰を左右する死活的に重要な問題であり、その骨幹である教科書については、如何なる国からの干渉を受けてはならない。残念ではあるが日本の教科書で学ぶより、『フィリピンの歴史教科書』『インドネシア高等歴史教科書』で学ぶ子供の方が、正しい日本の歴史を理解し、国際人として通用するのではないか。国際人を育てるには世界から尊敬され、世界の教科書に取り上げられている東郷元帥や、乃木大将の名前を覚えておく方が、韓国人以外は誰も知らない安重根を覚えるより重要ではないか。国際人に最も必要なことは自国の歴史を理解し、自国に対するアイデンティを確立し、初めて外国人と対等に話ができるのであり、いくら「友愛精神」を発揮してもアイデンティに欠けると国籍不明人として相手にされないからである。最後に「歴史を失った民族は砂漠の砂のように消え去ることは中央アジアのソ連に併合された民族を、また中国に併合された内モンゴルのモンゴル人を見れば明らかであろう。歴史は国家の骨髄であり、歴史は民族のアイデンティティの根源である」との言葉をもって結びとしたい。