アメリカから見たミッドウェー海戦(下) 左近允尚敏 (2010.2.16)
前回はミッドウェー海戦が始るまでの米軍の状況をお話したが、今回は戦闘開始直前から終了までの状況をお話しする。アメリカから見たと題したが日本側の状況についてもかなりふれる。空母ヨークタウンを持つフレッチャーのTF17と、空母エンタープライズとホーネットを持つスプルアンスのTF16は1942年6月2日の1000にミッドウェーの北東325マイルのラッキーポイントで合同したことは前回お話した。なおここで使う日時は現地時間である。日本時間ではブラス1日、マイナス3時間になる。したがってミッドウェーの勝敗を決めた現地時間の6月4日は日本時間で6月5日、現地時間の0800は日本時間の0500である。
日米の違いでまず顕著なのは情報についての取り組みである。機動部隊が索敵、偵察を軽視したのに対し、米軍は多数の哨戒、偵察機を出して日本艦隊の全貌を把握しようとした。ミッドウェーのPBY哨戒飛行艇、22機は5月30日以降、ミッドウェーの南南西から北北東までの180度の半円を425マイルまで索敵した。Bー17爆撃機もミッドウェーの西700マイルの地点を毎日捜索した。スプルアンス隊のホーネットは6月1日、エンタープライズは2日に偵察機を出したが天候不良で引き返している。この6月2日、スプルアンスは指揮下のTF16に対し「敵はミッドウェー占領を企図している。空母は4ないし5隻、あらゆる種類の戦闘艦艇、輸送船、補給船が加わっている。TF16とTF17が敵に発見されなければ、ミッドウェーの北東から奇襲攻撃をかけることができる。本作戦の成否はわが国にとって重大な意味を持つ。敵の攻撃でエンタープライズとホーネットが離れた場合でも極力視界内にとどまるようにせよ」と信号した。
6月3日0900少し前、ミッドウェーのPBY飛行艇がミッドウェーから約700マイルの地点で初めて日本部隊を発見して1100までに触接を続け、11隻が19ノットで東進中と打電した。これは輸送船を含む近藤長官の攻略部隊だった。
日米の海上部隊の勢力と構成
日本 機動部隊(南雲中将)
空母・赤城、加賀、飛龍、蒼龍
戦艦2、重巡2、軽巡1、駆逐艦12
アメリカ TF16(スプルアンス少将、全般指揮)
空母エンタープライズ、ホーネット
重巡6、駆逐艦9
TF17(フレッチャー少将)
空母ヨークタウン
巡洋艦2、駆逐艦6
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日本 攻略部隊(近藤中将)
空母・瑞鳳
戦艦2、重巡8、軽巡2、駆逐艦19、工作艦1、水上機母艦
2、輸送船15、タンカー5、掃海艇4、哨戒艇4
主力部隊(山本大将)
空母・鳳翔
戦艦7、軽巡3、駆逐艦13、水上機母艦2、タンカー4
報告を受けたミッドウェーからBー17、9機が発進して1624に高高度から輸送船を爆撃したが命中しなかった。次に魚雷を積んだPBY、4機が発進、4日の0115にレーダー探知し、0143ころ魚雷3本を投下、タンカー、あけぼの丸に1本が命中して死傷23名が出た。あけぼの丸は一時速力が落ちたが、まもなく復旧した。商船が魚雷を受けて沈まず隊列に復帰したのはきわめて珍しいケースである。米空母部隊は3日1950に針路210度とし、ミッドウェーの北200マイルの地点に向かった。そこから機動部隊を攻撃する考えだった。このころ機動部隊は西方約400マイルにあった。4日の日出は0457で南西の微風4−5ノットだった。ヨークタウンは0430索敵のためSBD、10機を方位280度から20度までの100度の扇形の200マイルまで出した。日本の空母は西方にあると判断されたが、万一北西にも空母がいた場合に備えての索敵であり、アメリカの偵察重視を示している。
SBDは急降下爆撃機で、アメリカの空母はそれぞれ34ないし37機を搭載していたが、半数が爆撃飛行隊、半数が哨戒飛行隊となっていた。哨戒飛行隊のSBDはいわば哨戒兼爆撃の飛行隊であって、ここにも哨戒、偵察重視がみられる。機動部隊は蒼龍から機動部隊ただ1機の彗星艦爆を0830に出しただけだった、
スプルアンス隊の西215マイルにあった機動部隊は、0430にミッドウェーに108機の攻撃隊を発進させていた。零戦、99艦爆、97艦攻、いずれも36機ずつだった。97艦攻は雷撃機だが、真珠湾攻撃の際に示したように水平爆撃もやる。機動部隊には敵海上部隊の出現に備えて対艦用徹甲爆弾や魚雷を積んだ99艦爆、97艦攻を含む93機が残っていた。この6月4日もミッドウェーのPBY飛行艇、22機が0400前後に発進したが、その1機が複数の日本空母発見を報告し、スプルアンスは0534に受信した。初めて日本空母の位置を確認したのである。次いで0545に「多数の敵機がミッドウェーに向かっている。ミッドウェーの方位320度、距離150マイル」、0603には「空母2隻と複数の戦艦がミッドウェーの方位320度、距離180マイルの地点にあって針路135度、速力25ノット」がきた。機動部隊の位置はスプルアンス隊の西南西約200マイルだったが、PBYの報告には約30マイルの誤差があった。
機動部隊発見の報告を受けたフレッチャーは0607、スプルアンスに対し「南西に進撃して敵空母の位置を確認でき次第攻撃せよ。当隊はヨークタウンの偵察機を収容後攻撃する」と命じた。ミッドウェーのレーダーは0553に距離93マイルで接近中の日本の編隊を探知し、全航空機が0600少し過ぎまでに離陸して戦闘機以外は避退し、戦闘機、F2FとF4F計29機が邀撃したが、17機が撃墜され、8機が破損して使えるのは4機だけになった。攻撃隊は0634から0650まで30分近く攻撃し、地上施設にかなりの損害を与えたものの、地上にあると予想した航空機の破壊も、また滑走路を使用不能にすることもできなかった。
機動部隊は水上偵察機7機を出した。0430の予定が12分遅れて0442に利根から2機,筑摩から3機、榛名から1機が発進したが、利根4号機はさらに遅れて0500に発進した。僅か7機だが、うち2機は対潜哨戒であったというから偵察に出したのは足が遅く、戦闘機に対してきわめて脆弱な水偵わずかに5機である。5機が方位20度から180度まで、160度の扇形を300マイルまで索敵した。先に述べたがアメリカは180度の半円に22機、日本は半円に近い160度に5機であって1機が受け持つ扇形は、アメリカは約8度、日本は32度と実に4倍であって、これで米海上部隊を探したのである。
南雲長官は0705にミッドウェー攻撃隊指揮官から第2次攻撃の要ありとの進言を受けたので0715に魚雷を爆弾に積み替えるよう命じた。急降下爆撃機についてはふれていなかったが、各空母は対艦用爆弾を対地用通常爆弾に積み替え始めた。ちょうどこの0715ころ、機動部隊はミッドウェーの基地航空機の攻撃を受けた。0615ころ発進したTBF雷撃機、6機とB−26爆撃機、4機の魚雷攻撃だったが、TBFは5機、Bー26は2機を撃墜され魚雷は命中しなかった。ここでアメリカの艦載機についてちょっとお話しすると、2年後のマリアナ沖伊では戦闘機はF4FからF6Fに、急降下爆撃機はSBDからSB2Cに、雷撃機はTBDからTBFに代わっていた。新しいTBFがミッドウェー基地に配備されていたのである。
南雲長官が下令した兵装転換はミッドウェー戦の帰趨を決定づけたものであり、最も議論のあるところである。大きな疑問は水上偵察機を出しながら、その報告が何もこないうちに兵装転換を命じたことであり、さらに連合艦隊司令部からあらかじめ、半数は米海上部隊攻撃の準備をしておけと指示されていたにかかわらず守らなかったことである。魚雷を爆弾に積み替えるには1時間ないし1時間半が必要であり、そのあと飛行甲板に上げてエンジンを始動するのにさらに10分程度かかる。
機動部隊司令部がおざなりにわずか5機の水偵を索敵に出したことと、長官が対艦攻撃用の兵装を対地攻撃用に転換を命じたことは、空母などいるはずがないと思い込んでいたことを示している。最悪の場合に備えるという考えはなかったのである。そして前回お話したように連合艦隊司令部は米空母が出ている可能性があるという情報を持ちながら無線封止にこだわり、これを機動部隊司令部に知らさなかったことが悔やまれるのであって、GF司令部も敗北に大きな責任があったと言わなければならない。これについてはあとでまたふれる。
0728に利根機は敵らしい10隻が見えると報告した。位置はミッドウェーの北東、距離240マイル、敵の針路150度、速力20ノットという報告だった。この0728というのは報告を打電した時刻であって、南雲司令部は0800に受信した。長官は0805、転換が進んでいる兵装を再び元の対艦用に戻すよう命令した。
このころミッドウェーの基地機が再び機動部隊を攻撃した。まず0605に発進したSBD急降下爆撃機16機が0755に攻撃したが、成果はなく半数の8機が撃墜され、次いで0810にBー17,15機が爆撃したが命中せず、0820にSB2U急降下爆撃機、11機が爆撃、命中はなく2機が撃墜された。このBー17は0430に発進して攻略部隊の輸送船の攻撃に向かったが、途中で目標を機動部隊に帰るよう指示されたのだった。このBー17と急降下爆撃機が攻撃中に潜水艦ノーチラスが現れた。先にPBYが機動部隊を発見したという報告を傍受して急いで北上、0800に機動部隊を発見した。0825に戦艦に対して4500ヤードの距離から魚雷を発射したが、命中せず、激しい爆雷攻撃を受けたが切り抜けている。
機動部隊司令部は利根4号機に敵の艦種知らせ、接触を保てと打電した。0800に利根機は「敵は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻」と報告、次いで0820に「後方に敵は空母らしき1隻を伴う」と報告した。これらの報告は10分程度で司令部に届いている。つまり南雲長官は0830に敵空母の所在を確認した。発見したのはヨークタウンのフレッチャー隊だった。この利根4号機は、ミッドウェーにまつわるよく知られたエピソードの一つになっていて、30分遅れではなく予定時間に出ていたら早く敵海上部隊を発見できたと言われている。しかし利根機は規定の300マイルの60マイル手前で北上し20マイル飛んでから帰途についた。扇形捜索であるから、こういう飛行になる。利根4号機が敵海上部隊を発見してから空母らしき1隻ありと報告するまで52分間、つまり1時間近くを経過しており、搭乗員は批判されたが全員が後に戦死したため、なぜ30分早く北上したのか、なぜ空母を確認するまで52分間もかかったかは不明のままである。
あとから調べたところ筑摩の水偵が利根機より約30分前にヨークタウンの上を飛んでいたことが判明した。雲の上を飛んでいたため発見できなかったが、なぜ雲の下を飛んでか海上を探さなかったのか不思議である。さて0830に敵空母の所在を確認しながら、南雲長官はすぐに攻撃隊を出さなかった。有名な話しとして残っているが、山口第2航空戦隊司令官はこのとき直ちに攻撃隊を出すよう進言、しかし長官はとらなかった。これが結果的に命取りになるが、司令部としては第1次攻撃隊と上空にある零戦を収容してから、攻撃隊には零戦をつけて1000ころに出すことにした。まもなく1000には準備が間に合わないことが分かったので南雲長官は1030に伸ばした。帰投したミッドウェー攻撃隊の収容は0837から始まって0917に終わった。被害は零戦2、99艦爆1、97艦攻5の計8機で、97艦攻3機が母艦のそばで不時着水している。
一方スプルアンスは、先に述べたように0607にフレッチャーから攻撃の命令を受けたので針路240、速力25ノットとした。PBYが報告してきた機動部隊の位置まではまだ200マイル以上ある。F4FやTBDの戦闘行動半径が175マイルしかないので、彼は機動部隊との距離が155マイルになると思われる0700に攻撃隊を出すことにした。実際には機動部隊の位置はPBYが報告した位置よりも27マイル遠かった。155マイルで発進を命じたが、実際には182マイルあったのである。もしスプルアンスが実際の距離を知っていたら、攻撃隊の発進をあと30分ほど遅らせたはずである。
日本空母3隻を大破させたSBD隊の攻撃は1020からだったが、30分発進を遅らせていたら、攻撃開始は1050ころになり、そのときには機動部隊は攻撃隊の半数くらいは発進させていたことと思われる。PBYの報告の誤差がアメリカには幸運、日本には不運をもたらせたのである。エンタープライズとホーネットの攻撃隊は0705から発進を始めホーネットは0755、エンタープライズは0806に終わった。TF16の攻撃隊は、F4F戦闘機20機、SBD急降下爆撃機67機、TBD雷撃機29機の計116機だった。上空直衛、アメリカはCAP、combat
air patrolというが、このためにF4F、36機を残している。
スプルアンスは発進に時間がかかるので全機の発進が終わる前の0752に、マクラスキー少佐指揮のSBD隊に対し、戦闘機や雷撃機を待たずに進撃せよと命じた。33機が発進したが1機がエンジントラブルで引き返したため32機が進撃した。フレッチャーも新たな情報がないので約半数を出すことにし、スプルアンス隊よりも約1時間あとの0906までにヨークタウンからSBDが17機、TBDが12機、F4Fが6機の計35機が発進した。
一方機動部隊は空母4隻が箱型を作り、戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦11隻が護衛してミッドウェーに向かっていたが、まず敵空母3隻の雷撃機に攻撃された。機動部隊にとって幸いなことに、アメリカの攻撃隊はばらばらになっていたので、脆弱で戦闘機の援護のない雷撃機が攻撃することになった。まずホーネットのTBDが0925に機動部隊を攻撃したが、零戦と対空砲火で15機全部が撃墜された。次いでエンタープライズの14機が攻撃したが、10機が撃墜され、最後に1000にヨークタウンの12機が攻撃したがまず7機が撃墜され、残る5機が魚雷を投下したものの、うち3機が撃墜された。計41機が攻撃して僅か6機だけが残るという壊滅的打撃を受け、機動部隊にはなんらの損害も与えずに終わったのである。
南雲長官は、先ほど述べたように当初考えていた1000の攻撃隊発進は準備が整わないため1030に改めた。そして1030という発進予定の10分前の1020ころからSBDの攻撃を受けることになる。
ホーネットのSBD、34機と護衛のF4F、10機は予想地点にきたが、目標を発見できなかった。PBYが報告した機動部隊の位置がずれていたからである。その後も機動部隊を探しながらミッドウェーに向けて飛行したが、結局発見できなかった。最後になってF4F、10機全部とSBD、2機が燃料切れのため海上に不時着水した。エンタープライズのF4F、10機はTBD隊を護衛するはずが、まちがってホーネットのTBD隊を護衛した。エンタープライズのTBD隊であれば、F4F隊に助力を求めたところだったが、無線の周波数も異なったため、助力を求めることをせず、ホーネットのTBD、15機全部が撃墜される間、F4Fは上空に留まったままで、雲もあったため、低空の状況は分からずじまいだった。こうしてエンタープライズのF4Fは零戦と戦闘することなく1000に母艦に帰投した。
エンタープライズのマクラスキー少佐指揮のSBD隊は、1時間半後の0920に予想地点についたが、やはり目標を発見できなかった。燃料はぎりぎりになっていたがそのまま35マイル進んでから針路を北に転じて0955に駆逐艦1隻を発見した。この駆逐艦は先に機動部隊を攻撃した潜水艦ノーチラスに、爆雷攻撃を加えるため残ってから、本隊に追いつこうと急いで北東に向かっていた嵐だった。マクラスキーは駆逐艦が向かっている方向に機動部隊がいると判断して北東に進み1005に機動部隊を発見した、幸運にも零戦が上空にいなかったが、零戦はその直前まで米空母3隻の雷撃機、TBD隊に対処するため低空にいたのである。
マクラスキーのSBD、32機は1020ころから赤城と加賀を攻撃した。1026に3発を赤城に命中させ、飛行甲板にあった40機が爆発炎上した。加賀も4発が命中して爆発炎上した。その直後にヨークタウンのSBD、17機が飛来した。エンタープライズ隊より1時間以上遅れて発進したが、機動部隊の位置を適切に予想したので、エンタープライズ隊とほぼ同時刻に機動部隊を発見したのだった。ヨークタウンのSBD隊は蒼龍を攻撃、2発が命中して爆発炎上させた。
南雲長官以下司令部は1047に軽巡・長良に移乗した。ニミッツは暗号解読でこれを知り、赤城は大破したと推定している。前出の潜水艦ノーチラスは水上航行で機動部隊に向かい、停止して炎上中の蒼龍を発見、1400ころ距離2700ヤードから魚雷を射して1本を命中させたが不発に終わった。
蒼龍は1913、乗員713名とともに沈没した。加賀も同じころの1925、大爆発を起こして船体が2つに折れ、乗員800名以上とともに沈没した。赤城では乗員が必死に応急作業を続けたが、見込みなしとして艦長は1915に総員離艦を命じ、赤城はその後しばらく漂流したが、山本長官の命令が出て、翌6月5日の0455に駆逐艦4隻が魚雷を発射して0455に沈めた。
エンタープライズのSBD隊は、32機のうち4機が撃墜され、12機が不時着水、16機が帰投した。ヨークタウン隊は17機が全機帰投したが、日本機が来襲したので母艦に着艦できず、2機が不時着水して15機がエンタープライズに着艦した。F4Fは6機のうち1機を失った。長良に移乗した南雲長官から一時機動部隊の指揮を委任された利根、筑摩の阿部第8戦隊司令官は、1隻だけ残った飛龍の山口司令官に利根機が発見した敵、を攻撃するよう命じた。フレッチャーのヨークタウンと巡洋艦2隻、駆逐艦6隻の部隊だったが、1050に飛龍から99艦爆18機と零戦6機が発進した。このころは機動部隊司令部もGF司令部も米空母は1隻だけと思っていた。
しかし99艦爆18機を護衛した零戦6期のうちの2機は機動部隊攻撃を終えて母艦を探していたエンタープライズのSBD、6機を発見したので列外に出てこれに向かった。アメリカのある本は規律に違反した最も愚かな行動であったとしているが、2機とも被弾して母艦に帰投を余儀なくされ1機は飛龍のそばに不時着水した。こうして99艦爆の護衛は零戦4機のみになった。SBD隊は損傷したものの1機も撃墜されなかったが、燃料切れで6機とも不時着水し、救助されたのは1機の搭乗員だけだった。飛龍の攻撃隊は1200少し前にTF17に接近した。ヨークタウンは1152に方位255度、距離32マイルでレーダー探知した。ミッドウェーの北150マイルの地点だった。CAPとしてF4F、12機が上空にあるか、あるいは発進中だった。
エンタープライズのレーダーも飛龍の攻撃隊を探知し、エンタープライズとホーネットの上空にあったF4F、19機のうち8機がヨークタウンを援護するため派遣された。戦闘は1202に始まり、99艦爆、18機のうち7機がたちまち撃墜され、3機は爆弾を捨ててF4Fと交戦、うち1機が撃墜された。1205に零戦4機が戦闘に加わった。CAPのF4F、10機が交戦して3機を撃墜、喪失は1機だった。当時の零戦の優越性とパイロットの技量からすると、信じられないほどの結果だった。
爆弾を積んだままの99艦爆、8機はヨークタウンに向かったが、ホーネットのF4Fがさらに1機を撃墜した。残った7機が1210からヨークタウンを爆撃して3発を命中させた。ヨークタウンの速力は6ノットに落ち火災が発生して、かなりの死傷者が出た。爆弾を投下した99艦爆7機のうち2機は、対空砲火で撃墜された。爆弾を投棄して付近で状況を見ていた99艦爆の2機のうち、1機はエンタープライズのF4Fに撃墜された。残った1機は母艦に帰る途中でヨークタウンのF4Fに撃墜された。発進した99艦爆18機中、帰投できたのは5機、零戦は6機中、2機だった。フレッチャーはミッドウェーの北150マイルで攻撃されたと打電している。ヨークタウンの火災は1400には鎮火して18ないし20ノットで航行可能となり、艦上機の発着艦もできるようになった。フレッチャーは1315に旗艦を巡洋艦アストリアに変更した。
飛龍では1245に第2次攻撃隊の準備ができたが、山口司令官は敵空母の所在についての情報を待ってから出すことにした。先に述べたが0830に蒼龍を発進して索敵に出た彗星艦爆が1300ころ飛龍に通信筒を落とし、敵空母3隻の存在を報告した。彗星はこのあと飛龍に着艦した。
次いで筑摩5号機から1315に、敵空母1隻が損傷していると無線で報告がきた。ヨークタウンだった。山口司令官は第2次攻撃隊の友永隊長に無疵の空母を攻撃せよと命じ、攻撃隊は1331に発進を終えた。97艦攻10機は飛龍の9機と赤城の1機、零戦6機は飛龍の4機と加賀の2機だった。攻撃隊は1430、前方35マイルに空母を発見した。無疵の空母と思われたが、復旧したヨークタウンだった。ヨークタウンはレーダー探知したが、上空のCAPはF4Fわずか6機だったので、東南40マイルにあるスプルアンス隊に救援を求め、F4F、8機がヨークタウンに向かった。1438、ヨークタウンのF4F、2機が97艦攻1機を撃墜したが、2機とも零戦に撃墜された。ヨークタウンは急いでF4F、8機を発進させた。先に上空にあって一時西方に離れていたF4Fが戻ってきて零戦2機を撃墜した。97艦攻、9機は友永隊長の4機と坂本大尉の5機に分かれてヨークタウンに向かった。1441に先頭の友永機から次々に魚雷を投下したが、命中しなかった。友永機は急いで発進したF4F、8機のサッチ隊長に、2番機は到着したエンタープライズのF4Fに、3番機はヨークタウンのF4Fに、4番機はヨークタウンの対空砲火で撃墜された。友永隊長直卒の5機はこうして全機喪失となった。
橋本大尉の5機は1443から攻撃した。赤城の1機は故障のため魚雷を投下できず、あとの4機が魚雷を投下した。どの機の魚雷かははっきりしていないが、2本が命中し、ヨークタウンは動力を失って停止した。攻撃を終えた97艦攻5機のうちの1機と零戦4機のうちの1機はF4Fに撃墜された。母艦に着艦できたのは97艦攻4機と零戦2機で、3機目の零戦は飛龍のそばに不時着水した。橋本大尉は1445空母に魚雷2本を命中させたと報告、南雲長官と山本GF長官はこれで米空母は1隻だけになったと判断した。
着艦できなくなったヨークタウンのF4Fはエンタープライズとホーネットに着艦した。ヨークタウンが攻撃される直前に出したSBDから1445に北西110マイルに飛龍と戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦4隻があり、北西に向かっていると報告した。1530にエンタープライズからSBD、25機が発進した。エンタープライズの11機と、母艦に着艦できなかったヨークタウンの14機だったが、護衛のF4Fなしだった。スプルアンスはさらにホーネットのSBD、16機に発進を命じたが、発進は1603となった。やはりF4Fの護衛なしだった。
飛龍では山口司令官が第3次の攻撃隊を出そうとしていた。まず蒼龍の彗星艦爆を索敵に出し、97艦攻1機、99艦爆4機、零戦9機の計14機が続く。指揮はヨークタウンを大破させた橋本大尉が執る。
発進したエンタープライズ隊のSBD、11機のうち1機がエンジントラブルで引き返して10機、ヨークタウン隊と合わせて24機になった。隊長のギャラハーは1630ころ飛龍を発見した。距離は約30マイルある。彼は南東に迂回してから攻撃することにしたが、これで奇襲に成功することになった。上空には零戦14機がいたが、気づかれるのが遅かったので、エンタープライズ隊の1機が撃墜されただけだった。ギャラハーは1705に急降下に移り5機が続いたが、零戦に阻止されたため2機だけが投弾、しかし命中しなかった。次いでヨークタウン隊のSBD、14機が飛来した。戦艦(榛名)を爆撃するはずだったが、ギャラハー隊の失敗を見たので14機のうち12機が飛龍を攻撃した。零戦がきて2機を撃墜されたが、8機が投弾して3発を命中させた。残る2機は榛名を爆撃したが命中しなかった。最後にエンタープライズ隊の残る3機が爆撃して1発を命中させた。攻撃したSBD、24機のうち喪失は3機にとどまった。
ホーネットのSBD、16機は、到着したとき飛龍はすでに大破炎上していたので巡洋艦を爆撃したが、至近弾1発を与えただけだった。
飛龍は漂流したがなかなか沈まなかった、加来艦長は0315に総員離艦を令し、0510に駆逐艦の魚雷で処分しようとしたがなお沈まなかった。乗員は駆逐艦に移ったはずだったが、機関長以下機関科員35名が下の方で閉じ込められたままだった。朝になって彼等はようやく防水扉蓋をこじあけて甲板に出たが、だれもいない。カッターをおろして乗り移った直後の0907、飛龍は山口司令官以下416名とともに沈没した。
機関長以下が乗ったカッターは2週間後の6月19日にPBY飛行艇で発見され水上機母艦バラードが生存者を拾い上げた。35名は捕虜として真珠湾の収容所に入れられた。日本空母4隻大破を知ったニミッツは夕方、「本日のミッドウェー戦に参加した諸君はアメリカの歴史に輝かしい1頁を加えた。諸君とともに参加したことを誇りに思う、諸君が次の機会にまた最大限の努力を払うならば、敵撃滅の使命を完遂することになろう」と打電している。
大破して漂流中のヨークタウンでは1445に総員離艦が令されたが、無人となって25度傾斜したまま浮いていた。巡洋艦2隻と駆逐艦7隻が付き添って曳航も検討されたが、2昼夜を経過した6日1330に伊168潜に攻撃された。発射された魚雷4本のうち1本は外れ、2本は近くにあった駆逐艦ハマンの艦底を通過してヨークタウンに命中した。ハマンは4本目を受け2つに折れて沈没した。ヨークタウンはなお浮いていたが、夜のうちに傾斜が増大、7日の0600に転覆、沈没した。ここで4日の午前に戻るが、GF司令部が空母3隻大破炎上の報告を受けたとき、戦艦7隻を中核とする山本長官直卒の主力部隊は機動部隊の西方300マイル、戦艦2隻、重巡8隻を中核とする近藤長官の攻略部隊は機動部隊の南西200マイルにあった。山本長官は1050に機動部隊の次席指揮官である利根、筑摩の阿部第8戦隊司令官から空母3隻被爆の報告を受け、1215には飛龍が米空母1隻に打撃を与えたことを知った。1220に山本長官はアリューシャン作戦のため北方にあった空母・隼鷹と龍驤に急いで飛龍に合同するよう命じたが、かけつけるまで3日もかかる距離にあったから意味のない命令だった。
1700過ぎになって飛龍も大破したこと、敵はなお空母2隻が健在であることが分かった。山本長官は南雲部隊を近藤長官の指揮下に入れ両部隊の戦艦、重巡を進撃させ、夜戦で米空母を撃破しようとして1915に「残敵を撃滅するとともにミッドウェーを占領する。主力部隊は針路90度、20ノットとし0000までに32−10N、176―43Eに到着の予定。全軍敵を撃滅せよ」と命じた。南雲長官が近藤長官の指揮下に入ったことについてアメリカの文献は、南雲長官は山本長官に更迭されたとしているが、2つの部隊を一つにしたのであるから、先任者である近藤長官が指揮官になったのは当然のことであって更迭ではないと思われる。山本長官は次いで2030に伊168潜にミッドウェーを砲撃せよ、0200になったら重巡4隻の第7戦隊が交代すると打電した。しかし南雲長官は2130に「敵の兵力は空母5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦15隻であって西進中。われは飛龍を援護しつつ18ノットで北西に避退中」と打電した。近藤長官は2340、新たに指揮下に入った機動部隊を含む麾下部隊に対し、夜戦に備えるよう命じた。しかしGF司令部は深夜の0020に至ってミッドウェー作戦は敗北に終わったと認識するに至り、山本長官は0225にミッドウェー作戦の中止を全軍に命ずるとともに、第7戦隊にミッドウェー砲撃の取り止めと主力部隊との合同を命じた。
宇垣連合艦隊参謀長は日誌に書いている。
けだし、夜戦以外に手なし。本作戦の成否正にこの夜戦にあり、しかも成算ありと認めたるをもって、敵捕捉の断固たる決定を下令せる次第なり。(中略)しかるに予期に反したる事象次々に出現し、これまた不能に陥れり。昼戦において飛龍の損害をこうむるや、機動部隊の行動全く消極的になり、薄暮前水偵をもって敵に触接するの擧なきのみならず、敵方に進撃せず、長良は飛龍を援護して北及び西に避退中の電あり。(中略)本夜戦もついに成功の算を失い、ここに合同の命令を発せざるを得なきに至れり。
これが夜戦に望みを託した砲術屋の宇垣参謀長の手記であるが、水上部隊が敵の空母部隊を主砲の射程内にとらえることは不可能であり、可能と思ったことに大きな疑問を感じる。同じようなことが2年後のマリアナ沖、さらにその4ヵ月後のレイテ沖でも起きているがむろん実現しなかった。マリアナでは大型空母の大鳳と翔鶴が沈んだが、小沢長官は栗田中将の大和、武蔵と重巡戦隊に夜戦を命じた。しかし繰り返すが、優れた索敵能力を持つ米空母部隊がみすみす、わが水上部隊の主砲の射程内に入るはずはないのであって、このときもわが方は若干の索敵機を出したものの敵情がつかめず断念している。
レイテでは栗田艦隊の大和以下は米護衛空母と遭遇して追撃したが、これは米側の大きなミスによって得られた僥倖であって稀有のケースだった。その後栗田艦隊は命令にあったレイテ突入をせず、北方にあると報じられた敵機動部隊、すなわち高速空母部隊と決戦するという理由で反転北上した。司令部は午前中に追撃した護衛空母部隊と新たに視認した護衛空母部隊を高速空母部隊と判断していたから、その多くを取り逃がしながら、どこにいるかも分からない別の高速空母部隊と決戦するというのは矛盾した話であり、もちろん決戦などは生起しなかったのである。さて4隻目の日本空母を大破させたあとの4日夕方、スプルアンスの幕僚の間では追跡して4隻に止めを刺すべきだという意見が強かったが、スプルアンスは夜になって東方に避退した。これについて彼は「優勢な敵水上部隊と遭遇する可能性を考えて夜戦のリスクを犯すことが正しいとは思わなかった」と語っている
ニミッツの司令部でもスプルアンスは消極的だという幕僚たちがいたが、ニミッツは介入しなかった。真珠湾攻撃の際、機動部隊が2度目の攻撃を加えなかった際のGF司令部の状況とよく似ている。ニミッツは幕僚たちに「スプルアンスはここにいるわれわれよりも現場の状況をよく知っている。現場の指揮官に口を出してはならないということを忘れるな」と言っている。
このころニミッツの司令部に、山本長官が戦艦7隻を率いてミッドウェーに向かっているという報告が入った。前回、アメリカは日本のミッドウェー作戦計画の概要をつかんでいたとお話したが、主力部隊についてはほとんどつかんでおらず、戦艦の多くは本土海域にいるか、あるいはせいぜい小笠原諸島方面と思っていたのである。
その主力部隊が機動部隊の後方300マイルにいてミッドウェーに向かっていることを知ったニミッツの司令部は心配した。レイトン情報幕僚はもしスプルアンスが西進して山本の戦艦群と遭遇したら壊滅し、ミッドウェーの勝利が帳消しになるところだったと書いているが、これは杞憂というものであろう。
仮定の話になるが、夜戦を命じられた近藤長官の戦艦、重巡が機動部隊の戦艦、重巡と合同して東に向かい、一方スプルアンス隊も西進して両部隊が遭遇したとする。予期しなかったスプルアンス隊は驚くが、日本部隊より早くレーダー探知するから直ちに反転すると思われる。日本側も気付いて速力を上げるが、近藤部隊の最大30ノットに対し米空母は33ノットであるから追いつけない。もう一つの仮定の話として山本長官の主力部隊が東進してスプルアンスと遭遇したとするが、今述べたところと同様な状況になると思われる。主力部隊の最大速力は25ノットであってスプルアンス隊とは8ノットの速力差がある。
山本長官は先に述べたように6月5日の0255に作戦の中止と全軍引き揚げを下令した。これは賢明な決断だったと思われる。そのあたりにうろうろしていたら、夜明け前に反転して西進中のスプルアンス隊の攻撃を受けたであろう。しかし戦いはこれで終わらなかった。さらに重巡1隻を喪失するのである。米潜水艦タンボールはミッドウェー西方90マイルで哨戒中だったが6月5日の0215に数隻の大型目標を発見して「所属不明のフネ多数を発見」と打電した。ミッドウェー砲撃の中止と主力との合同を命じられた栗田中将の重巡4隻と駆逐艦2隻だった。
先頭の旗艦、熊野は0342に潜水艦を発見、当直参謀は赤々を令した。緊急左45度一斉回頭の意味である。各艦は一斉に取舵を取ったが、当直参謀は45度ではまだ不足と感じたのでもう一度赤々を令した。これが大きなミスで、当直参謀は赤々90と信号すべきであった。こうして第7戦隊には大混乱が生じた。45度か90度か分からないか、あるいは2度目の赤々を聞き漏らしたのである。2番艦の鈴谷は熊野にぶつかりそうになったので急いで面舵をとって右に出た。4番艦の最上は左に45度とったが、2度目の赤々を聞き漏らしたため、90度をとった3番艦の三隈の左舷中部に衝突、艦首を大きく損傷して速力は16ノットに低下した。ここで栗田司令官は2隻と駆逐艦2隻と残し、熊野、鈴谷を率いて主力と合同すべく北西に向かった。この栗田司令官の措置について宇垣参謀長は「熊野、鈴谷の合同は何らの目的も有せず、この際において全部集結して最上の護衛に当たることこそ望ましき次第なれ」と批判している。
レイテに突入しなかった栗田中将は戦後批判されるが、このとき損傷した三隈、最上を残して避退したことがよく引き合いに出される。しかしここは難しいところであって、残っていたら被害が大きくなった、つまり熊野、鈴谷も大きく損傷したことが充分に考えられるのである。米潜タンボールは明るくなり始めた0412に目標は重巡4隻、駆逐艦2隻であり、西進中であることを確認して打電したが、攻撃位置につくことはできなかった。ミッドウェーのPBY哨戒飛行艇が発進して方位250度から20度まで250マイルを飛行し、1機が損傷した重巡2隻の位置を報告したので、ミッドウェーのSBD、6機とSB2U、6機が発進して0805に攻撃したが、至近弾6発にとどまった。しかし撃墜した1機がそのまま突入、三隈の被害を増大させた。次にミッドウェーのBー17、8機が0830に爆撃したが命中せず、2機が撃墜された。
一方スプルアンスはタンボールの0215の発見電を受信したので、0420に針路230度とし、0600にミッドウェーの北東130マイルに達したが、ここで損傷した敵重巡2隻があるとの報告、続いて北西200マイルに敵艦隊があるとの報告が入った。艦隊は近藤部隊だったが、スプルアンスはこれを攻撃することに決め1125に針路300度とした。1500から1543までの間に、エンタープライズから32機、ホーネットから26機のSBD計58機が発進したが目標を発見できず、帰投の途中で駆逐艦1隻を発見して攻撃したが1発も命中せず、1機が撃墜された。駆逐艦は飛龍の状況を確認のため南雲長官が派遣した駆逐艦・谷風だったが、飛龍はすでに沈没していた。スプルアンスの攻撃隊の帰投は夜になり、1機が不時着水した。
翌6日の夜明け前にエンタープライズから発進した索敵機が最上、三隈を発見、スプルアンスは0800から1330までの間にSBD、81機、TBD、3機、F4F、28機の計112機を3つの攻撃隊に分けて発進させた。1445までの攻撃で最上に5発を命中させたが撃沈に至らず、三隈には3発以上が命中し致命傷となった。しかし最上は西方に避退したため三隈の最期を見ていない。フネとともに沈んだ乗員は艦長以下648名となっている。駆逐艦・荒潮が捜索したが見当たらなかった。したがって沈没の時間は分からないままである。最上の艦長は、戦後米軍のだれかから、米潜が三隈を沈めたと聞いたと書いているが、そうした記録はない。
最後に日本側の話になるが、ミッドウェーの敗北について考えてみたい。機動部隊、さらには日本海軍全体が緒戦の勝利で驕慢になっていたことは別として、大きな原因は2つあり、その一つは情報の軽視、もう一つは攻撃隊発進を遅らせたことだったと言えると思う。情報の失敗の第1は、機動部隊司令部は、まさか米空母部隊が待ち構えているとは思っていなかったため、敵海上部隊の索敵に足が遅く脆弱な水偵を、それも僅か5機しか出さなかったことであり、第2は、このあと述べるが、連合艦隊司令部は米海軍の動きについてある程度分かり、機動部隊について懸念を抱いたにもかかわらず、機動部隊司令部は知っているだろう、無線封止は厳守しなければ、ということから、このきわめて重要な情報を機動部隊司令部に知らせなかったことである。
宇垣連合艦隊参謀長の日記には、5月29日に「攻略軍輸送船の前程あるいは付近と認むべき敵潜、長文の緊急信をミッドウェーに発せり。わが輸送船隊等を発見し報告せるものとせば、敵の備うるところとなり、獲物かえって多かるべきなり」、5月30日には「アリューシャン方面、ハワイ方面ともに敵飛行機、潜水艦の活動頻繁にして、緊急信の交信従来に例を見ず、自主的企図にあらずしてわが行動偵知に基づく対応策と思考せらるるかど少なからず」、5月31日には「ハワイ方面の電信180余通のうち72通の緊急信あり、敵は正にわが動きを察知し手当て中と認めらる。ことにミッドウェーの南西600マイル付近に潜水艦を配備し、飛行機とあいまって警戒を厳にしつつあることおおむね確実となれり」、とある。
連合艦隊司令部はこれだけ分かっていながら、無線封止の方を重く見て機動部隊に知らせなかった。機動部隊の草鹿参謀長の手記には「0830ころ利根機から「敵はその後方に空母らしきもの1隻を伴う」と打ってきた。想像しなかったわけではないが、さすが愕然とした」、また「一番大事なのは敵信傍受で、かつ、これに対し、適切な判断を下すことである。これには最も完備した無線設備を持っている大和が一番適当である。大和は「敵出撃のおそれあり」くらいのことは分かる。敵機動部隊野出撃を全軍に知らせることによって大和の位置を敵に暴露するという理由だけで渋ったと仮定するならば、いくら無線封止が重要だといっても、本末転倒もはなはだしきものである」と恨みごとを述べているが理解できるところである。ここで不思議に思うのは、主力部隊には小型空母・鳳翔がいながら、搭載している97艦攻を出して赤城の飛行甲板に敵情報を書いた通信筒を投下させるか、あるいは着艦させるということを、なぜしなかったかである。6月1日に軽巡・川内と駆逐艦1隻が迷子になったときは飛ばして2日の午後に発見しているのである。機動部隊が僅か5機の水偵しか出さなかったことについて草鹿参謀長は書いている。
このさい、計画者としての落ち度は、2段索敵を考慮したかというところにある。換言すれば、索敵に対する慎重さが欠けていたということである。この点に関しては全く自分自身の責任であった。なぜこんな分かりきったことに手落ちがあったのか。これは当時の海軍航空部隊、いな日本海軍、さらに日本人自身の特質に原因があると思う。すなわち攻撃という目覚しい派手な仕事には生命を賭してゆきたがるが、事前の準備とか索敵とか綿密地味な仕事にはゆき渋るということである。当時の参謀長として一言の申し開きもできないことである。具体的に言うと攻撃の機数を惜しんで索敵をゆるがせにしたことである。
海軍の高官が戦後書いたものには自己弁護や言い訳が多いが、これは反省が述べられていてその点は評価される。しかしミッドウェーの敗北の重大さを思えばその責任は重、かつ大である。もっとも一番の責任は指揮官である南雲長官と山本長官にあったことは申すまでもない。
次は攻撃隊の発進を遅くしたため、発進の直前にSBDの攻撃を受け空母3隻が大破したことについてである。0830に空母らしきものを伴うとの電報を受けととき、発進できる機から発進させるべきであった。帰ってきたミッドウェー攻撃隊はしばらく上空で待たせるか、燃料切れの懸念のある機は赤城、加賀に着艦させ、飛龍、蒼龍から攻撃隊を出すべきだったと思われる。護衛の戦闘機を付けなければということだったが、スプルアンスはしばしば護衛の戦闘機なしで攻撃機を出している。
さらに日本側の作戦と編成について言えば、まず、なぜ山本長官の主力部隊は機動部隊から300マイルも後を航行したかという疑問がある。ミッドウェーを攻撃、占領すれば、米艦隊が出てくるのは2,3日後になるからこれと戦艦が決戦するという考えだったようである。依然として最後は戦艦部隊の決戦で、かたをつけるという戦艦重点主義、艦隊決戦主義が根強く残っていたように思われる。主力部隊の行動について草鹿参謀長は「大和を中心とする戦艦群を300マイル後方に引き下げておいて、全作戦を支援するなどということは、私にとっては当時どうでもよいことであった」となげやりな調子で書いている。赤城の飛行隊長だった淵田中佐は「この作戦において一番みっともなかったのは、南雲長官の戦闘指導の失敗よりも山本連合艦隊司令長官の全般作戦指導の凡将ぶりであった。彼は戦艦大和に座乗して7隻の戦艦群を率い、これを主力部隊と称して、南雲長官も部隊の後方300マイルに占位しながら、全作戦の支援に任ずると呼称していた。けれども、南雲部隊の空母4隻が潰えると、生き残った米空母2隻に追われて、山本大将の主力部隊は全作戦の支援どころかあわれにも身をもってひたすら逃げ帰るほかなかったのである」と酷評している。
部隊の編成についてであるが、駆逐艦は別として機動部隊では空母4隻の護衛に戦艦2隻、重巡2隻だったのに対し、攻略部隊では輸送船15隻の護衛に戦艦2隻、重巡8隻、さらに空母1隻をつけている。おそらくは先任者である近藤中将の大きな第2艦隊から兵力を引き抜いて後任者である南雲中将に機動部隊にまわすことを避けたのではないかと思われるが真相は分からない。しかし攻撃を受けるのはまず機動部隊であること、空母4隻が本作戦で最も重要な兵力であることからすれば、いかにもアンパランスな編成だった。
もし近藤部隊の軽空母、瑞鳳を南雲部隊に入れておけば、搭載する97艦攻12機で充分な索敵ができ、零戦12機で機動部隊の上空直衛を強化できたはずだった。米海軍であれば主力部隊、攻略部隊の戦艦、巡洋艦の一部を引き抜いて機動部隊の空母の護衛を強化したにちがいない。米海軍は早くから戦艦の任務を地上に対する砲撃と空母の護衛に切り替えていたのである。ミッドウェー戦を通じてアメリカの喪失は空母1隻、駆逐艦1隻、航空機147機、307名で日本は空母4隻、重巡1隻、航空機234機、3000名以上だった。
さてミッドウェーについては日本でもアメリカでも議論されてきたが、議論の焦点が敗北をもたらした日本側の失敗、誤りであることは申すまでもない。今日のお話の最後にダラス・イゾムというアメリカ人が3年前に出した本、この本は機動部隊の戦闘詳報までつけてある随分と詳しい内容になっているが日本側の失敗についての彼の見解をご紹介することにする。まず利根機の第1報が発信から司令部の受信まで30分かかったことについては、アメリカでも時間がかかっており、特に避けられた失敗であったとして問題とするようなことではないとしている。
次に索敵機が少なかったことについて、増やしたところでさして変わらななかったであろう、雲が多く利根機より30分前にヨークタウンの上空に日本の索敵機がきたが発見されなかったと述べている。これは先ほどふれた筑摩機であろうが、この索敵機をふやしても、ということばは首肯できない。
次に淵田大佐、奥宮中佐の共著「ミッドウェー」には勝利病のことがあるがこれも失敗には関係ないとし、また日本の指揮官たちはアメリカの指揮官たちより能力的に劣っていたとよく言われるが、まちがいであり知的にも能力的にも決して劣っていなかったとしている。そのあとが著者のみる日本側の大失敗ないし大きな過ちになるが、次のように述べている。
では避けられた失敗とは何か。山本の通信の失敗と、魚雷を陸用爆弾に積み替えろという南雲長官の決定である。山本は日本出撃後に
得た、米海軍はミッドウェーの作戦計画を知り、さらに重要なこととしてミッドウェーに空母がきているかもしれないという情報を、南雲が知 っているだろうという致命的な推測をし、無線封止の方を重視した。赤城の受信機は性能が悪かったが改良の手段はとられなかった。この赤城の受信能力については事前に分かっており、機動部隊の草鹿参謀長は山本の参謀に赤城は受信できないかもしれないから重要な情報は送ってくれと頼んでいたのである。しかし山本はこれを無視し、無線封止の方を重要視した。これこそ明らかに大失敗であり、山本には機動部隊に大きな災厄をもたらした最も重大な責任がある。
このため6月4日午前における南雲は、米空母が付近にいるとは思わず、ミッドウェー基地の航空兵力の無力化に専念したのである。山本が知っていたことを、もし南雲が知っていたら、ミッドウェー基地の 攻撃のため雷撃機の魚雷を外せとは言わなかったであろう。しかし南雲にも若干の責任がある。彼はミッドウェー第2撃の要ありとの電報 を受けたあと、雷撃機に魚雷を外せという必要はなかったのである。なぜならば、攻撃の主たる目標は機動部隊攻撃を終えてミッドウェ ーに帰投した航空機だったからである。地上の航空機に対する攻撃で雷撃機の水平爆撃はあまり効果がなく、有効なのは急降下爆撃 機と戦闘機である。
さらに南雲は日本を出撃する前に雷撃機の半数は米空母出現に備えて常時半数は待機するよう言われていた。格納庫にある雷撃機の魚雷を陸用爆弾に変えるには1時間を要し、一方急降下爆撃機の対艦用徹甲爆弾を陸用通常爆弾に入れ替えるのは短時間でできる。したがって南雲はミッドウェーに第2次攻撃隊を出し、かつ雷撃機については山本の命令に従って待機させることができた。南雲が雷撃機の魚雷を爆弾に積み替えを命じたことは、避けることができた大きな誤りであり、それが彼に敗北という代償を払わせたのである。
以上がダラス・イゾムのみた日本側が避けることができた日本側の大きな誤りである。
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付録1 アメリカの航空機、パイロットの喪失(6月4日)
(注)MWはミッドウェー CAPは上空直衛機
区分 | 任務 | 機種 | 発進 | 撃墜 | 海没 | 帰投 | 可動 | 操縦員ロス | |
MW | CAP | 戦闘機 | 26 | 15 | 2 | 9 | 3 | 14 | |
索敵 | PBY | 22 | 2 | 0 | 20 | 20 | 2 | ||
攻撃 | 雷撃機 | 6 | 5 | 0 | 1 | 0 | 5 | ||
B-26 | 4 | 2 | 0 | 2 | 0 | 2 | |||
B-17 | 17 | 0 | 0 | 17 | 15 | 0 | |||
急降下爆撃機 | 27 | 11 | 0 | 16 | 11 | 11 | |||
空母 | 攻撃(午前) | 戦闘機 | 26 | 1 | 10 | 15 | 12 | 3 | |
雷撃機 | 41 | 35 | 2 | 4 | 3 | 33 | |||
急降下爆撃機 | 84 | 4 | 17 | 63 | 56 | 11 | |||
CAP | 戦闘機 | 42 | 5 | 2 | 35 | 33 | 3 | ||
攻撃(午後) | 急降下爆撃機 | 41 | 3 | 0 | 12 | 12 | 0 | ||
MW | 攻撃(午後) | B-17 | 12 | 0 | 0 | 12 | 12 | 0 | |
急降下爆撃機 | 11 | 0 | 1 | 10 | 10 | 1 | |||
空母 | 攻撃(午後) | 急降下爆撃機 | 139 | 3 | 1 | 135 | 56 | 3 | |
MW | B-17 | 12 | 2 | 0 | 10 | 10 | 2 | ||
急降下爆撃機 | 10 | 1 | 0 | 9 | 9 | 1 |
戦闘による喪失 125機
ヨークタウンの搭載機 20機
ミッドウェー地上で 4機
計 148機
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付録2 日本の艦上機、パイロットの喪失(6月4日)
区分 | 任務 | 機種 | 発進 | 撃墜 | 海没 | 帰投 | 可動 | 操縦員ロス | |
MW | 攻撃 | 零戦 | 36 | 2 | 0 | 34 | 29 | 2 | |
99艦爆 | 36 | 1 | 0 | 35 | 29 | 1 | |||
97艦爆 | 36 | 5 | 3 | 28 | 19 | 5 | |||
索敵 | 99艦爆(97艦爆) | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 0 | ||
CAP | 零戦 | 55 | 15 | 3 | 37 | 32 | 13 | ||
米艦隊 | 飛龍(1次) | 零戦 | 6 | 3 | 1 | 2 | 2 | 3 | |
99艦爆 | 18 | 13 | 0 | 5 | 4 | 13 | |||
飛龍(2次) | 零戦 | 6 | 2 | 1 | 3 | 3 | 2 | ||
CAP | 零戦 | 14 | 0 | 14 | 0 | 0 | 0 |
操縦員ロス 被爆によるもの
赤城 6
加賀 20
飛龍 15
蒼龍 24
計 65
戦闘によるもの 44
合計 110(戦死)
重傷、復帰不能 15
総計 125
注:Dallas Isom著 "Midway Inquest" (2007) から。
*99艦爆、97艦攻が3機索敵に出て1機海没したことになっているが、どこの機がいつ出たか、まだ調べていない。蒼龍から彗星艦爆1機が4日0830に出たことは分かっている。