「秋山真之・広瀬武夫中佐に与えるの書」
海軍指導官・海将補(海軍少将)平間洋一
はじめに
本木優弘さんから海軍の伝統やマナー、秋山真之の人物について教えて欲しいとの希望がありました。しかし、これは広瀬武夫を演じる藤木隆宏さんも同じであろうと考えて作成した資料です。これにより海軍を身体に取り入れて演じて頂ければ幸いです。海軍は大陸的な封建社会にあって異質な存在で、伊藤徳は「海軍は日本の文化であった」書いていますが、考え方は英米的(海洋的)で対外関係を重視する良識派でした。しかし、「平家・海軍・国際派」と言われる通り国内的な政治力に欠け滅びました。しかし、その滅亡は特攻隊や戦艦大和の沖縄のように「滅びの美学」を実戦しております。それが、未だに海軍に対する憧憬や好意に連なっているのかもしれません。
海軍士官の基本的なモットー
1. 5分前の精神(5分前には次の作業に掛かる準備を完了しておけ)
2. 出船の精神(仕事を終えた後には、次の仕事にかかれる準備をしておけ)
3. 「スマートで、目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り」
4. ユーモア精神:「ユーモアは一服の清涼剤」
私の艦長時代の指導方針
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旧海軍の初級士官心得
兵学校卒業時に渡されたと言うが、私も江田島の幹部候補生学校卒業時に渡された。ポケットサイズの大きさであるが若い頃は「負けた海軍の教えが参考になるか」と無視していたが、それが理解できるようになったのは尉官となり部下を持った後であった。
◎熱と意気を持ち純真であれ
初級士官は一艦の軍規風紀・元気の根源であることを自覚し、青年らしい純真さと若々しさの中に、熱と意 気を失わず、勤務に精励せよ。
◎つねに修養に努めよ
常に自啓自発に努め、士官としての品位を保ち、清廉潔白の風を養い、厳正な態度動作を心掛け、公正無 私を念とし、功利打算を脱却することに努めよ。
◎広量大度で常に快活であれ
狭量は艦(隊)の統制を乱し、陰欝は士気を沮喪(そそう)させる。忙しい艦(隊)の中にも伸びのびした気分を 漂わすように注意せよ。日常は細心でなければならないが、こせこせすることは禁物である。
◎礼儀正しく、敬礼は厳格であれ
厳格な敬礼は、規律の第一歩であり、正しい秩序は礼儀によって保たれる。初級士官は常に謙虚な心構え で上司及び同僚に対し、親しい中にも礼儀を失わず、上下一致の源泉となるように努力せよ。
1.上の人の顔を立てよ、良かれ悪しかれケップガン(士官室の先任士官)を立てよ。
2.上級者との対談中は親密な態度になっても、その前後には厳正なる敬礼、特に左手の「ポケットハンド」は禁物。
3.上官に提出する書類は必ず自分で直接差出せ。質問又は訂正あるやも知れず。
◎旺盛な責任観念を持て
これは士官としての最大要素の一つである。命令を下し、若くは之を伝達する場合は必ずその遂行を見届け、初めてその責任を果したる ものと心得よ。号令の掛け放しは禁物なり。
◎進んで難事に当り、常に縁の下の力持ちとなれ
艦(隊)内各部の配置及び諸作業は、実に千差万別である。各自がその配置において、それぞれ全能力を発揮することによって、全艦の 全能力を発揮できるのである。これが為には私慾にとらわれることなく、素直に物を考え、正しく物を見て、どんなに苦しい立場におかれて も、すすんで難事に当る覚悟と縁の下の力持ちになるという犠牲的精神を持たねばならない。
◎日常座臥、研鎖に努めよ
1.日常の艦(隊)務そのものが勉強であることを銘記し、忙しい時程自分の修養ができることを考え、常に寸暇を利用して、自己研鏡の資と すべし。
2.日常研鑽の資料、成果は常に整理して記録し、後日の参考にするがよい。
3.何事によらず一事に通暁徹底し、第一人者となる心構えで努力すれば、ついには万般に通ずることができる。
4.失敗の多くは、得意慢心の時に生ずる。艦務にもなれて、自己の力量に自信を持つ頃になると、ともすれば先輩の思慮がかえって愚かし く見える時がある。これこそ慢心の危機に臨んだ証拠であり、最も慎むべき時である。かかる時は、よく先輩の意図の理解に努めると共 に進んでその教えを乞う謙虚にして熱心な態度が必要である。決して人を侮ったり、軽卒に批判すべきではない。
5.一日に30分でよいから読書する習性をつけ、判断力の涵養に努めなければならない。研究会や講話にはできるだけ出席せよ。教養を 高めるためには、単に専門分野をのぞいているだけでは不可である。
6.平素研究テーマを持ち、その研究をまとめ、後に気づいた点は追加訂正しておく習慣をつけておけば、物事に対する思考力の涵養に役 立つばかりでなく時に思わぬ貴重な資料となる。
◎信ずるところを断行せよ
事象の千変万化する海上生活においては、熟慮断行の余裕のない事が多い。日常研鑽によって得た信念にもとづいて、迅速果敢に決 断をせよ、また如何なる場合にも、士官たる者は率先垂範が必要であり、躊躇逡巡はますます、消極的気分を助長させる。信ずる処を断 行して経験を深めよ。
◎報告はマメに行なえ
上級者は常に下級者のすべてをみているわけではないが、それらの行為に関して全責任を負っている。従って上級者は下級者の些細 な行動まで充分に把握しておく必要がある。何か起ったら必ず上官に報告せよ、また作業が順調に進んでいる時でも「異常なし」と云うこと を報告せねばならない。
◎骨を惜しむな
赴任当時はさほどでもないが、少し馴れてくると、とかく骨惜しみをする様になる。一度、骨惜しみや不精をすると、それが習性となり容易 に抜けきらないものである。身体の汚れるのを忌避する様ではおしまいである。
◎自身で問題を解決せよ
ある問題に遭遇したならば、その事が上官の裁決を必要とする場合でも、できるだけの情報を集めて、自身で考えた最良の手段を示す 必要がある。何か事が起きた場合、みずから考える事をせずして「どうしたらよいでしょうか」等と伺いをたてる者があるが、その様な士官 は、将来重い職責を課せられた時、適切な判断を下すことが出来ない。
◎命令は忠実に、その実施は拙速確実に
1. 上司から調査又は立案等を命ぜられた場合はすぐ実施せよ。
明日にてなさんは禁物なり。
2. 上司の希望であっても、命令と考えて実行せねばならぬものがある。よく上司の意のあるところを察知する努力を欠いてはならない。
3.上司には誠実な尊敬をもって接すべきである。意見の相異があれば卒直に述べて教えを請うべきである。部下の前で上司の悪口を云う 様な事は、天に向って唾をするにひとしい。
◎船乗りらしくあれ
シーマンライクとは、船乗りとして特に持たねはならぬ心構えとわきまえて、日常これを実践することである。昔から「スマートで目先がきい て凡帳面、負けじ魂これぞ船乗り」といわれているが、これをそのまま実行すれば良いので、船乗りとして欠くことのできない能力の養成と 共に、絶えず心掛けねばならないことである。
◎技術に対する関心を深めよ
用兵者は、とかく用兵術の研鑽のみにとらわれ、技術への関心、研究をおろそかにし勝ちである。与えられた兵器、計器をして最高度に能 力を発揮させる為には、そのすべてを詳細に知らねばならない。さらに兵器、計器の進歩には用兵者の一層の理解協力が必要である。
◎回覧類は熟読せよ
回覧類は必ず目を通して、必要な処はメモして置け、これをよくみていないが為に、当 直勤務に間違いを生じたり、大切な書類の提出期日をあやまり、将来勤務上必要な時の 用に立たないことがある。
◎小言をいわれるうちが花である。
初級士官時代は新しい経験の連続である。失敗をおそれ、また上司に叱られる事や部 下や同僚に笑われる事などを恥かしく思う様な女々しい態度では、遂には消極の淵には まり込んで任務が全うできなくなってしまう。何事も意気と熱で積極的に体当りせよ。これ によって得た教訓は将来の勤務を全うさせる力となる。青年将校が積極性を失うに至れ ば、青年将校たるの真価を失ったと云うべきである。留意すべきは失敗後、其の原因状 況その他充分研究し、此の事に関しては以後再び繰り返す事なく完全なる自分の知識と する事は更に肝要な事である。
◎デアル、ラシカレ主義で行け
少尉は少尉である。中尉は中尉である。何事につけても分相応、らしくあれ。
◎常に整理整頓を心がけよ
すべてあるべき物をあるべき時に、あるべき所に、あるべき状感でスタンバイ(用意)しておくこと。これが戦闘即応の大切な要素である。
◎五分前の精神を堅持せよ
日本の社会では集合時刻などに遅れる事を何とも思わぬ風習が根強く残っている。日常の諸作業についてだけでなく、公務以外の集合 についても五分前を厳守するとともに、引きあげもあっさりしているのがよい。人は艦を待つも、艦は人を待たず。
◎公私の別を明らかにせよ
部下に私用を頼む場合は、その程度を充分考えて、部下に無理を強いたり、部下の貴重な時間を奪ったりすることが、かりそめにもあっ てはならない。
◎他者の依頼には快く応ぜよ
依頼とは、相手の好意に依存するものである。上級者と雖も強要することはできない。しかし、下級者は上級者のみならず、同僚等の依 頼に対しては職務上支障ない限り誠意を以て応じるのが礼である。人にしてやったことは片っ端から忘れ、ひとからして貰った事はいつ迄 も覚えている。
◎物事にけじめをつけよ
当直と非番の区別を判然とさせ、非番の時は努めて緊張をほぐし、当直の場合は全責任をもって、当面の任務の遂行に当る等、時間的 にも空間的にもけじめをつけることが大切である。当直の場合は出来るだけ非番の人間の仕事も処理してやる様努めるべきである。
◎部下指導の基礎は至誠なり
至誠を根本とし、熱と意気とを以て国家保護の大任を担当する干城を築造する事に心懸けよ。
◎部下指導の日凛は「戦斗の要求に適当させしる」に在り。
◎功は部下に譲り、部下の過ちは自ら負う。
「先憂後楽」とは味わうべき言であり、部下統御の機微なる心理もかかる処に在る。
◎常に部下とともにあれ
いかなる仕事を命じても、必ずその終始を監督し、いわゆる放任主義に陥ってはならない。特に苦しい作業等の場合は、必ず最後まで現 場にとどまり、仕事の状況によっては、風呂や夜食の用意をすることを考えてやれ。
◎部下の指導には寛厳よろしきを得よ
部下を指導するに、あまりに厳格に過ぎてはならない。さればとて、寛に過ぎ放任に陥ってはならない。艦を直ぐに「宜侯」に持って行く為 には、舵の取り放しは不可。「あて舵」「もどし舵」の呼吸が大切である。部下に悪い処があれば、その場で遠慮なく注意せよ。温情主義は 絶対禁物、然し叱責する時は場所と相手とをみてなせ。正直小心な若い兵員を厳酷な言葉で叱りつけるとか、又は下士官を兵員の前で叱 責する等は、百害あって一利なし。
◎ショートサーキットを慎め
非常の場合をのぞいて、必ず順序を経てやらないと、艦内の秩序が破れ統制の乱れるもととなる。
◎率先垂範の実を示せ
物事をなすにも常に衆に先んじ、難事と見れば真先に之に当り、決して人後に遅れざる覚悟あるべし。又自分で出来ないからと云って部 下に遠慮気兼ねをしたり、部下の機嫌をとる様な事は禁物である。
◎感情に訴える様な部下指導は避けよ
親分子分的な関係をつくったり、自分の好みに合った部下をつくったりすることは好ましくない。将来誰の下についても、真面目に勤務す る部下をつくる様心掛けよ。
◎ワングランスで評価するな
誰にも長所あり短所あり、長所さえみて居ればどんな人でも悪く見えない。雅量を持って、先づ短所を探すより先に長所を見出すに努める 事が肝要、賞を先にし罰を後にするは古来の名訓なり。
◎名前を覚えよ
「オイ」とかいうのは下士官兵の人格を無視した呼び方である。記憶法は色々あるが、着任後早い時機に数名宛呼び、一人一人につき、 家庭、特技等一般身上につき聴くことも一法である。
◎部下の能力を確認せよ
一等水兵に下士官の仕事を命じ、その結果が不満足だとして叱るのは無理である。自分の考え或は才能を以て部下を同程度に見ること は禁物、その能力相当の仕事を命ぜよ。但し、事ある時の為の訓練にやや上級の仕事を与え之を訓練することは大いに必要なことであ る。
◎テーブルマナーは一通り心得ておけ
海外に出ることの多い海軍士官は、一人一人が外交官〃としての自覚と矜持を持たねばならない。外国語の習得はもとより、食卓の 作法、話題についても、水準以上のものを身につけていなければならない。
◎上陸して飲食や宿泊する時は、一流の店を選べ
海軍士官は品位を重んずる種族〃である。あまり下品な所に出入して、酒色の上などで士官たるの品位を失し、体面を汚す様な事が あれば、海軍士官全体の体面にかかわる重大事である。
海軍士官として心掛けるべき主なモットー
1.日常生活と平時の航海
○頭よりも艦を早く走らすな ○海の上には待ったなし
○青年士官は青天井(Always on deck) ○同じ航路も初航路
○カームに衝突 月夜に坐礁(油断するな) ○私情を捨てよ舷梯で
○多少の貯え、身だしなみ ○重い物は下に積め
○天気は西から ○左警戒右見張れ
○モラルの根源「士官室」 ○元気の根源「士官(ガン)次室(ルーム)」
○タラップは駆け足で ○外舷外に手を出すな
○メモは手ばなすな ○言訳するな
○ユーモアーは一服の清涼剤 ○艦内で口笛を吹くな
○5分前にはスタンバイ(配置よし) ○靴のカカトをよく磨け
○ボヤボヤするな ○ダロウに手を打つな
○「ダラリ(ムダ、ムラ、ムリ)」の追放(これを「ダラ幹」と呼ぶ)。
○一艦一命主義(「三惚れ主義」仕事に惚れ、仲間に惚れ、妻に惚れろ)
○不関旗(われ応じ得ずという意味の旗)は最後の切り札――みだりに使うな
2.戦争・戦闘
○砲声に赴け ○風に立て(困難な方へ向かえ)
○個艦戦力の最大発揮 ○旗艦先頭単縦陣
○戦機に投ぜよ ○訓練には比率も制限もなし
○勝つと思うな、負けじと思え ○海戦は時計で戦うもの
○わが全力を以て敵の分力を撃て ○攻撃終末点を適確に掴め
○もう一歩 捧げ銃 帽振れ(トイレットマナー)
△整列は後列、外出は前期(これはおまけ)。
4.秋山真之大尉の勤務訓「天剣漫録」
秋山真之が折々の所感を記した30ヶ条の語録で、秋山が「良将になる心構えはどんなものと考えてよいのか」を自問自答し、記録したのが以下の「天剣漫録」です。ここには現代にも連なるリーダーの条件の数々が見出せるのではないでしょうか。
1. 細心焦慮は計畫の要能にして、虚心平気は実施の原力也。
2. 敗けぬ気と油断せざる心ある人は、無識なりとも用兵家たり得る。
3. 大抵の人は、妻子を持つと共に片足を棺桶に衝込みて半死し、進取の気象衰へ退歩を治む。
4. 金の経済を知る人は多し。時の経済を知る人は稀なり。
5. 手は上手なりとも、力足らぬときは敗る。戦術巧妙なりとも、兵力少なければ勝つ能はず。
6. 一身一家一郷を愛するものは悟道足らず。世界宇宙等を愛するものは悟道過ぎたり。
軍人は満腔の愛情を君国に捧げ、上下過不及なきを要す。
7. 本年の海軍年鑑を見るに、吾国海軍も幕の内に入れり。精励息まざれば、大関にも
横綱にもなるならん。勉強せざれば、又3段目に下がらざるべからず。
8. ネルソンは戦術よりも愛国心に富みたるを知るべし
9. 人生の万事、虚々実々、臨機応変たるを要す。虚実機変に適当して、始めてその事成る。
10. 吾人の一生は帝国の一生に比すれば、万分の一にも足らずと雖も、吾人一生の安を偸めば、帝国の一生危し。
11. 成敗は天にありと雖、人事を尽さずして、天、天と云うこと勿れ。
12. 敗くるも目的を達することあり。勝つも目的を達せざることあり。
真正の勝利は目的の達不達に存す。
13. 平時常に智を磨きて天蔵を発き置くにあらざれば、事に臨みて成敗を天に委せざるべからず。
14. 苦きときの神頼みは、元来無理なる注文なり。
15. 教官の善悪、書籍の良否等を口にする者は、到底啓発の見込み無し。
16. 自啓自発せざる者は、教えたりとも実施すること能はず。
17. 岡目は八目の強味あり。責任を持つと、大抵の人は八目の弱味を生ず。
宜く責任の有無に拘はらず、岡目なるを要す。唯是れ虚心平気なるのみ。
18. 虚心平気ならんと欲せば、静界動界に修練工夫して、人欲の心雲を払い、無我の妙域に達せざるべからず。兵術の研究は心気鍛錬に伴ふを要す。
19. 天上天下唯我君国独尊は軍人の心剣なり。
20. 進級速かなれば、速やかなる程吾人は早速にて勉強せざるべからず。何となれば
一定の距離を行くに少き時間を与へられたればなり。
21. 吾人の今後三十年、其の内十五年は寝て暮らすと思へば、何事を為す遑もなし。
22. 治に居て乱を忘るべからず。天下将に乱れんとすと覚悟せよ。
23. 世界の地図を眺めて日本の小なるを知れ。
24. 世界を統一するものは大日本帝国なり。
25. 家康は三河武士の赤誠と忠勤とに依りて天下を得たり。小大、此理を服膺すべし。
26. 元亀天正の小天地は、目下世界の全面なり。
27. 人智の発達と機械の進歩は、江戸長崎の行軍時間を東京倫敦(ロンドン)の行軍時間
と同一にしたることを忘るべからず。
28. 3月になると早や寒さを忘れて陽気に浮かるるようなことにては、次の冬の防寒は覚束なし。
29. 咽元過ぐれば熱さを忘るるは凡俗の劣情なり。
30. 観じ来れば、吾人は緊褌一番せざるべからず。
五省(江田島の海軍兵学校のモットー)
1.至誠に悖(もと)るなかりしか(真心に反していなかったか)
2.言行に恥ずるなかりしか(言行に不一致な点はなかったか)
3.気力に缺(か)くるなかりしか(精神力は十分であったか)
4.努力に憾(うら)みなかりしか(十分に努力をしたか)
5.不精に亘(わた)るなかりしか(最後まで手を抜かなかったか)
海軍とユーモア
旧海軍最高の傑作電報:妻宛の電報「チンタッタ、サセニコイ」
(青島を発った佐世保に来い)
宇佐美町町長・安川博の平成20年の成人式の祝辞
新年あけましておめでとうございます。
輝かしい平成20年の新春を迎え、本日ここにめでたく成人の日を迎えられた皆様方に一言お祝いと励ましの言葉を申し上げます。
昨年を振り返ってみますと、世相を表す漢字に「偽」が選ばれたように、食肉や野菜の産地偽装、大手菓子メーカーやファーストフード店の賞味期限改ざんなど、身近な食品の相次ぐ食品偽装や年金記録にも偽りが見つかるなど、国民の信頼を失墜される「偽り」の出来事が多かった年でした。
今年こそは、希望の持てる明るい意味の漢字が選ばれる事を皆さんと一緒に祈りたいものです。さて、昨年の成人式では「硫黄島からの手紙」という映画を題材にして「命」の大切さについてお話をしました。今年は「旧日本海軍」の新人教育や士官採用にまつわるお話をしてみたいと思います。
旧日本海軍では、基礎教育が始まってすぐ「士官心得」が渡されました。これは一般企業でいえば「新入社員マナー本」の様なもので、中には50項目のモットーが記載されており、その中には「ユーモアは一服の清涼剤」というものがあったそうです。海軍では「ユーモアを解かせざるものは海軍士官の資格なし」とまで言われ、『ユーモア精神』をとても大切にしていたようです。
士官の採用試験ではこんなことがあったそうです。英語が堪能で海軍も採用したくなるような好青年が志願してきましたが、いかんせん、小柄だったそうです。試験の最初には身長と体重測定があり、体重52キロ以上ないと不合格になるわけですが、この青年は、案の定体重不足らしく、試験官は「もう一度体重計に乗りなさい」と指示したそうです。何回乗っても体重計の目盛りが変わるわけは無いのですが、三回目に教官が「ドーンと乗れ!」と指示したらしく、そうしたら針がピーンとふれて「よーし、合格!」となったという話です。また、技術系の士官の採用試験では、「蟻の歩くスピードは何ノットか?」と聞かれた学生がいて、この場合、正確に計算して何ノットと答えても駄目だそうで、「世界には約四千種類の蟻がいますが、どの蟻のスピードをお答えしましょうか」という風に言えたら点数がぐっと高くなったそうです。さらには、「君の満年齢は?」と訊かれて、自分の時計を見せながら、「こればかりは時々刻々と変わりますから、お答えできません」と言って最高点をもらった人もいるそうです。ともすれば、規則づくめで堅いイメージがある海軍ですが、意外にも、ユーモアのある人材が求められていたようです。
また、ユーモアと並んで海軍が重視したものに「柔軟な物の考え」がありました。教官はいつも生徒に「アングルバーじゃだめだぞ、フレキシブル・ワイヤーになるように」と言っていたそうです。アングルバーとは橋梁工事などに使われる太い鋼材で、見た目は立派ですが、これ自体としては格別の働きをしません。それに対してフレキシブル・ワイヤーは、ダランとした鋼線で、一見だらしなく見えますが、何十トンもの重量物を上下左右自在に動かすことができるのです。つまり、「身体のこなしも物の考え方もワイヤーのように柔軟であれ」と教えたそうです。今、お話しした「旧日本海軍」の考え方は、現代社会でも十分参考になる内容ではないでしょうか。新成人の皆さんには、画一的でマニュアル通りの人間になるのではなくて、体のこなしや物の考え方が柔軟で、ユーモアの心を持った大人になっていただきたいと思っております。
結びになりますが、本日の成人式が心に残る式典となりますことを祈念いたしますとともに、今後、益々知性を磨いていただき、体を鍛錬して、宇美町のそして日本の担い手となっていただくことを切望いたします。新成人の皆さんの前途洋々たる未来に祝福と期待を込めまして、式辞といたします。
阿川弘之の講演「日本人のユーモア〜文字に書かれた笑いの歴史」
日本芸術院会員。東京帝国大学文学部卒業。海軍大尉として中国・漢口で迎え、翌年帰国。1999年、文化勲章受章。主な作品「山本五十六」「春の城」「志賀直哉」など。
「まことに変な話ですけど、日本人のつくった社会で、ユーモアというものを大事にせよと、口をすっぱくして言った組織が一つだけあります。それは58年前に滅んでしまった帝国海軍です。海軍ではユーモアのセンスを解せざる者は、海軍士官の資格なしといって、非常に、そのことを強調しました。つまり、英国の上流階級のまねを一生懸命やろうとした結果なんです。幕末に海軍はオランダから、陸軍はフランスから学びました。しかし、明治以後は一貫して海軍は英国を、陸軍はドイツをお手本にしました。それが陸軍と海軍の違いにはっきり現れて、海軍は英国式の大人の知恵を働かすところがあったんです。
例えば遠洋航海というものがあります。あの時代、海軍の軍人が比較的広い目で世界を見ることができたというのは、20才になったかならないころに、ヨーロッパや南北アメリカなどを見て回ったからです。ただで世界漫遊やらせてくれるかというと、そうじゃなくて、航海中は訓練に次ぐ猛訓練で候補生を鍛え上げるわけですけれども、中尉クラスの指導官づきというのが一番怖い。鬼の鈴木というのがいて、鍛えに鍛えていたんですが、ヨーロッパ遠航が終わり、最後の那覇だか鹿児島だか港へ入るころになると、にこにこし出したんです。鬼の鈴木中尉は帰国して間もなく大尉に進級して、東京にいるフィアンセと結婚するんですが、4か月ぶりのフィアンセとの再会というので、「八雲 鈴木中尉 何月何日何時何分ごろ横須賀入港の予定」という電報を打つわけです。それをもらった東京のお嬢さんは、海軍に縁のない家庭のお嬢さんだから、民間電報を海軍士官に送ると、どう扱われるか知らないで、信書の秘密を保って通るものと思っているから、「まあうれしい 花子」と書いて出したわけです。
横須賀郵便局から横須賀公務部という海軍の施設に一括して配達された電報を、公務部が一通一通チェックし、緊急を要すると思うのは手旗信号で、あるいは夜なら発光信号で、その船に送ってやるんです。非常に気をきかしたのがいて、「まあうれしい 花子」というのも送ってやれよということになったんですね。戦艦山城を呼んで、「八雲鈴木中尉あて民間電報あり、中継頼む」という信号を発信、「了解 送れ」というので、「本文、まあうれしい 花子 終わり」(笑)。山城からも直接見えないんで、もう1隻巡洋艦というのがある。「了解 送れ」「本文、まあうれしい 花子 終わり」。これ、三段跳びで届くわけです(笑)。
笑ってらっしゃるけど、公務ですから、全部、当直日誌に書いてあるわけです(笑)。当直将校が午後点検に回ってくると、「何じゃ、こりゃ」。それで怒られたかというと、みんな喜ぶんだそうですね。それから鈴木中尉は大尉になっても半年ぐらい、会うたびに「まあうれしいが来た」とやられたものだそうです。
まだまだ1時間話すぐらいあるんですが、森さんにご迷惑かけますから、中途半端ですけどおしまいにします。繰り返しますけれども、どうかユーモアというものの価値をお互いさま、もう少し大事に考えて、今後の活字文化の交流に資していこうと思います。
ユーモア戦後編:海上自衛隊練習艦隊
◇2000年7月4日、20世紀最後のアメリカ独立記念日を祝う洋上式典に参加するため、世界各国の帆船170隻、海軍の艦艇70隻がニューヨーク港に集結した。翌日の5日に英国の豪華客船「クイーンエリザベス号」が入港してきたのだが、折悪しくも2ノット半の急流となっていたハドソン河の流れに押された巨大な客船は、あれよあれよと言う間もなく、係留中の我が海上自衛隊の自衛艦「かしま」の船首部分に接触してしまったのである。着岸した「QE」からすぐさま、船長のメッセージを携えた機関長と一等航海士が謝罪にやってきた。相手の詫び言に対応した「かしま」艦長はこう答えた。
「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」
これが何千人もの船乗りたちの間で大評判になり、ニューヨークだけでなく、ロンドンにも伝わって「タイムズ」や「イブニング・スタンダード」も記事にし日本のネイバル・オフィサーのユーモアのセンスを評価する声が高かったそうである。
海軍と英語と隠語
戦争中も英語を教えてことが示すとおり、また、日常生活でも英語もどきが多用されていた。一方、淫猥な話を一般人(シャバ)でするのは気品を失うと多くの隠語があった。海軍士官は外観は白い服を着てスマートで素敵に見えたが、普通の日本の男性であったのである。次の会話が分かれば一人前の海軍士官である。付録の隠語表を用いて解読してください。
昨日パインで大勢のコレスに会ってヘルソングの大合唱。五月蠅いとゴッドに怒られ、インチには馬鹿にされたので大ストームさ、終わってスタンしたものだからピーハウに行ったがウウオッシュ不十分でアールにかかってしまったよ。貴様もヘルだからな。
秋山真之について
松山城下に生まれる。士族の家庭で、父は旧松山藩下級武士の秋山久敬で5男、母は山口家の娘貞。地元の漢学塾に学び、和歌なども習う。親友の正岡子規の上京に刺激され、愛媛県第一中学(現在の松山東高校)を中学5年にて中退、明治16年(1883年)に将来の太政大臣を目指すために上京し受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)を経て、翌1886年に海軍兵学校に17期生として進学。
大学予備門では東京帝国大学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし、海軍兵学校に入学する。明治23年(1890年)に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したトルコ軍艦の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には「和泉」分隊士、明治29年(1896年)年1月には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生となり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付となる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年11月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。
明治31年(1898年)に留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れずにはじめは私費留学であった。アメリカへ留学した真之は、ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき米西戦争を観戦武官として視察し報告書を提出する。アメリカ海軍がキューバの港を閉塞する作戦を見学しており、このときの経験が日露戦争における旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている。翌1899年1月にはイギリス駐在となり視察を行い8月に帰国。明治33年(1900年)には海軍省軍務局第1課員、常備艦隊参謀となる。
1902年には海軍大学校の教官となる。明治36年(1903年)8月に結婚。翌明治37年に海軍少佐・第1艦隊参謀(後に先任参謀)。朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀となり、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)撃滅のための旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。明治38年(1905年)12月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第1艦隊の参謀長を経て大正元年(1912年)12月1日からは軍令部第1班長(後の軍令部第1部長)に任ぜられる。
大正3年(1914年)、軍艦建造を巡る疑獄事件であるシーメンス事件が起こる。事件は政府批判に発展し、また、事件に際しては秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた陸海軍治罪法の問題が再燃し、衆議院議員の花井卓蔵が賛同者を集め、軍法会議の公開などを要求。同年1月に調査委員会が設置されると、その委員の一人に指名される。3月に山本権兵衛が退陣し、大隈重信内閣が発足すると、海軍大臣には八代六郎が任命され、秋山は海軍省軍務局長として八代を補佐することとなった。秋山は軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する。11月に治罪法改正委員会が設置されると、花井卓蔵らと論争を行う。大正5年(1916年)2月には軍令部に転出となったため、委員は鈴木貫太郎に引き継がれる。
軍務局長時代には、上海へも寄港する軍艦「音羽」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。小池張蔵らと同士を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。久原房之助など実業家に働きかける。1911年、辛亥革命で清朝が打倒され、中華民国が成立。翌大正4年に袁世凱が皇帝に推戴されると、中国各地で反対運動が起こり、日本政府など諸外国も抗議。秋山ら“小池部屋”の思想と日本政府の政策が一致するが、その後、政府が袁世凱政権が成立すると諸外国、日本も支持に代わり、孫文を支持した秋山が日本にいるのは問題があると、大正5年(1916年)3月に第一次世界大戦を視察を名目に国外にとばされた。
朝鮮半島からシベリア鉄道へロシア、フィンランドなど東欧などを視察。5月にはイギリスへ渡り、日本海海戦を観戦したペケナム中将、イギリス艦隊司令長官のジェリコ提督らに歓迎される。フランス、イタリアに滞在したのち、翌1917年9月にはアメリカへ渡り、10月に帰国。帰国後には第2艦隊の水雷司令官となるが、病状悪化もあり直ぐに辞職。同年7月には名誉職としての海軍将官会議議員となる。
大学校教官時代には、佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘され、経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭するようになった。軍人にも信仰する者が多かった日蓮宗に帰依。また、神道家の川面凡児に師事して神道研究を行い、二人で皇典研究会を設立。 勢力拡大期にあった新興宗教の大本教には海軍機関学校教官の浅野和三郎との親交も縁となり入信、綾部参り等を行ったが信仰ではなく神道研究が目的であったとも言われる。 後には仏教研究に戻り、生涯特定の宗教に帰依したりはしなかったようである。1918年に死去する直前には般若心経を唱えていたという。晩年は腹膜炎を煩って箱根で療養に努めたが、のちに悪化して小田原の山下亀三郎別邸にて死去。享年49歳。墓所は東京都港区の青山墓地。
秋山への批判
日露戦争における日本海海戦が彼の人生のピークであったと評されることもあり、最後は中将まで登りつめたが、第一次世界大戦の結果を見事に言い当てた事を除き、以後は特に目立った活躍をしていない。しかしながら、日本海軍では長らく秋山真之を神秘的な名参謀として崇拝の対象としていたようである。ただし、近年の研究によって、秋山の業績として知られていたもので、実際には島村速雄の発案、企画を継承したものであることが明らかになっている部分が少なからずあり、再評価がのぞまれている。
同郷の俳人・正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、和歌なども学ぶ。また、大蔵官僚となった勝田主計も秋山や子規の松山時代からの友人として知られている。東郷平八郎は「智謀如湧(ちぼうわくがごとし)」と評価した。秋山真之は、名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家でもあった。 日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、「本日天気晴朗で訓練を重ねてきた連合艦隊には有利であるが、波浪が高く小型艦艇は出撃できない」という意味を、漢字を含めて13文字という驚異的な短さで説明しているため、今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている。またZ旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も彼の作である。また、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における、東郷平八郎の訓示(聯合艦隊解散の訓示)の草稿も秋山がしたものとされる。この文章に感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。
一方、秋山は身なりなどを気にしない性格であったと伝えられる。晩年の宗教研究は戦争で目撃した人の生死や戦争の勝敗について人知外の力を感じたとされる。日本海海戦に関しては事前に戦況を幻で見たと語っている。山本英輔大将は、秋山はあまりに理性的なため、理論でつきつめられない宗教にのめりこむことができなかったのだろうと指摘する。
なお参謀としての秋山の功績は、長らく東郷平八郎連合艦隊司令長官の影にかくれ、ひろく一般に知られている人物とはいいがたかったが、戦後島田謹二によって紹介され、1972年に司馬遼太郎が発表した小説『坂の上の雲』で主人公としてとりあげた結果、国民的な知名度を得るようになった。
廣瀬 武夫
- 明治37年(1904年)3月27日)は、明治の大日本帝国海軍軍人である。日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は「軍神」として神格化された。慶応4年5月27日(1868年7月16日)に岡藩士・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる(兄の勝比古も海軍軍人である)。
飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務め、明治18年(1885年)に退職して攻玉社を経て海軍兵学校へ入学、講道館で柔道も学ぶ。明治22年(1889年)に卒業。入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。
明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し、明治30年(1897年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、明治35年(1902年)に帰国する。明治37年(1904年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索中、ボート上で敵軍砲弾の直撃を受け戦死する、享年36。
広瀬は戦死の際に首を飛ばされ、流れ着いた胴体はロシア軍により埋葬された。戦死後中佐に昇進し、日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には昭和に入ってから広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。
東京の旧万世橋駅前に銅像(杉野孫七像とあわせての群像)があったが、戦後に撤去された。ロシア駐在中に社交界でロシア海軍・コヴァレフスキー少将の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。広瀬の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。
エピソード
海軍兵学校時代、大運動会のマラソンで左足が骨膜炎に冒されながら完走。一時は左足切断を宣告されたが最終的には安静にすることで完治した。ただしその後も時折左足の痛みには悩まされていたらしい。
日清戦争後、捕獲艦鎮遠の清掃活動で「一番汚い箇所からやるものだ」と便所掃除へ向かう。躊躇する部下を尻目に広瀬は爪で汚れを擦り落として部下にその態度を示した。講道館紅白戦で柔道の5人抜き(6人目で引き分け)により、ニ段に昇段。旅順閉塞戦で戦死すると嘉納治五郎から忠勇を称えられ四段から六段へ昇段した。講道館殿堂入りもしている。駐在武官としてペテルブルグ市に滞在していた頃、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えていた。旧ソ連邦で発明された着衣格闘技・サンボに強く影響を与えたといわれている。君国に命を捧げることを誓い、妻も迎えず、子も持たず、生涯独身を保った。よって唱歌に「男子のうちの真男子、世界に示す鑑とは、広瀬中佐のことならん」と歌われる。
女性関係については真面目で、遊郭に出入りすることも皆無で、社交界でも女性との関係は全くなくアリアズナとの文通の秘話以外には無い。また、女性とデートしても部下との対面があると言い手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している。
唱歌『廣瀬中佐』明治45年(1912年)『尋常小学唱歌 第四学年用』に初出。
1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸。荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。
2.船内隈(くま)なく 尋ぬる三度(みたび)、呼べど答へず、さがせど見へず、
船は次第に 波間に沈み、敵弾いよいよあたりに繁し。
3.今はとボートに 移れる中佐、飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、軍神廣瀬と その名残れど
フリー百科事典『ウィキペディア』を参考に手を加えました。
海軍用語と隠語表
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店の名前編
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ハーバー (港月)横須賀のうどん屋 パイン (小松)横須賀の料亭
フラワー (華山)呉の料亭 フォレスト(烏森)新橋の花柳界
フィッシュ (魚勝)横須賀の小料理屋 メープル(楓)呉軍港の旅館
ロック (岩越)呉の料亭