アメリカから見たマリアナ沖海戦
 左近允尚敏
1 日本軍のガダルカナル撤退以後
 1943年2月、米軍は日本軍が撤退したガダルカナルを確保し、ニューギニア北東部では日本軍の要地に圧力を加えていた。
南方はマッカーサーが担当する南西太平洋とニミッツが担当する南太平洋に分かれていてニューギニアは南西太平洋、ソロモンやラバウルのあるニューブリテンは南太平洋としていた。海軍はハルゼーの指揮する太平洋艦隊南太平洋部隊が担当した。統一指揮官がほしいところだったが、うまくいかなかった。

 前回お話したように42年6月末にマーシャル陸軍参謀総長が立案し、7月2日に出た統合参謀本部、JCSの指示のタスク1はガダルカナル、ツラギの占領、タスク2はソロモンの残りの島とニューギニア東部の制圧、タスク3がラバウルのあるニューブリテンと、その隣のニューアイルランドの占領となっていたが、ガダルカナルを確保した43年2月にJCSはラバウル占領を計画した。このため南太平洋部隊はニュージョージャとブーゲンビルを占領して飛行場を建設することになった。

  しかし指揮系統や兵力配分の問題があるので3月に太平洋軍事会議が開かれた。ここでマッカーサーのサザランド参謀長はニューブリテン、ニューイングランド、ニューギニアを占領するためのエルクトン・プランを提示した。ラバウル攻略までの両部隊の作戦についてのプランであり、全般指揮はマッカーサーがとるというものだった。しかし22個師団、空母2隻、戦艦数隻、45個航空群などという所要兵力を用意することは困難だった。太平洋軍事会議は問題点をJCSにそのまま上げて検討を求めた。JCSは兵力不足であるとしてラバウルの攻略を断念し、3月28日に新たな指示を決定した。すなわち両軍ともラバウルを攻撃圏内に入れる飛行場を作るための要地を占領する。具体的には、ニューギニアのラエ、サラモア、フィンシハーフェン、マダンとブーゲンビルを含むソロモン諸島であり、ラバウルの攻略は44年に延期された。

 このJSSの指示に基づき南太平洋、南西太平洋の両部隊の計画担当者たちはエレクトンIIIという計画を作り上げた。作戦名はカートウィールで43年末までをカバーするものだった。5月11日、米軍はアリューシャンのアッツに上陸、激戦の末、29日に制圧した。この5月にワシントンで米英参謀総長会議が開かれJCSが提出した対日打倒戦略計画を19日に承認した。内容は、中部太平洋と南西太平洋の2本の進撃線で西に向かうが、中部太平洋の進撃線の方を重視する、フィリッピンを奪回し、中国沿岸に進出して香港を奪回する、その後、航空兵力を中国に置き、日本に対して戦略爆撃を実施するが要すれば日本本土に上陸する、というものだった。

 太平洋中部の進撃戦は、ソロモン、ビスマルク、ギルバート、マーシャル、カロリンの要地を占領、南西太平洋の進撃戦ではニューギニア東部の要地から日本軍を駆逐することになった。南太平洋、南西太平洋のカートウィール作戦は6月21日に始まり、ソロモンではニュージョージャに上陸、30日にはレンドバ島に上陸した。ニューギニアでは6月23日にウッドラーグとキリウイナを占領して30日にナッソー湾に上陸し、サラマウアの日本軍を攻撃した。7月2日、ソロモンではニュージョージャのルンダルに橋頭堡を築いた。7月20日、JCSはギルバート諸島制圧のガルバニック作戦の指示を発した。ソロモン、ニューギニアとも連合軍は苦戦が続いたが、8月4日、ようやくムンダを占領した。ニュージョージャ全島を制圧したのは8月24日である。

2 マリアナ攻略の決定
 JCSの計画担当者たちは8月6日、43年後半と44年の対日作戦計画を立案した。中国からの対日戦略爆撃と、要すれば日本本土に上陸作戦という基本は変わらなかったが、マッカーサー軍はラバウルを無力化した後、ニューギニアのボゲルコップ岬まで進撃し、ニミッツ軍はギルバート、マーシャル、トラックを占領、次いでパラオに侵攻するというものだった。既述したとおりJCSは中国からの対日戦略爆撃を考えていたが、キングの強い主張もあって中国よりマリアナの方が適当だと考えるようになっていた。7月29日、キスカの日本軍は撤退し、アメリカはアリューシャンのアッツ、キスカの2島の奪回を終えた。ソロモンでは、米軍はコロンバンガラをバイパスして8月15日ベララベラ、16日ブガに上陸、ニューギニアでは9月16日にラエを占領、日本軍はシオに撤退した。9月22日、米軍はフィンシハーフェンに上陸、10月20日に占領した。ソロモンでは10月27日にトレジャー諸島を占領してチョイセルに上陸した。11月1日にはブーゲンビル西岸に上陸、飛行場の建設に着手して12月初旬から使えるようになった。カートウィール作戦の最後は、12月26日のニューブリテンの西端、グロセスター岬への上陸だった。

 11月下旬、ギルバート制圧のガルバニック作戦が発動になった。米軍は20日にタラワのベティオ島とマキンに上陸、マキンの日本軍の抵抗は弱かったが、タラワでは激戦となり米軍は多大の死傷者を出したが、24日にようやく確保することができた。43年11月から12月の初めにかけて米英参謀総長会議が開かれたがマッカーサーはサザランド幕僚長を送り、中部太平洋での上陸作戦は時間がかかりすぎる、距離的に基地航空兵力は使えず、空母による支援も充分にはできないと反対し、ニミッツ軍がマッカーサー軍の進撃を支援すべきだと主張したので、中部太平洋の進撃線を重視する一派と対立した。

 ここで陸軍航空軍のアーノルド司令官が、対日爆撃の基地としては中国よりもマリアナが適当だと主張した。中国に基地を置いても弱い中国軍では守ることができない、マリアナならその点の問題はなく、サイパン、テニアン、グアムから日本を爆撃できることを強調した。検討の結果米英参謀総長会議は「日本打倒のための具体的作戦」という文書と「日本打倒のための全般的プラン」という文書を12月23日に出した。マッカーサー軍はニューギニア、蘭印を経てフィリッピンに至る。ニミッツ軍は日本の委任統治領を経てフィリッピンに至る。2つの線は相互に支援しつつ45年春にはルソン、台湾、中国の3つの地域で合流するというものだった。ニミッツはこれに基づき、44年1月13日に具体的なターゲットと予定の期日をグラナイト、プランとして示した。

  44年1月31日  クエゼリンを占領
      3月4日   トラックを空襲し、ニューアイルランドのカビエンを占領
      3月24日  マヌスを占領
      5月1日   エニウェトックを占領
      8月.1日   トラックとパラオを占領
     11月1日   サイパン、テニアン、グアムを占領

これがエレクトン・プランだった。
 1月27、28日に太平洋艦隊の主要指揮官が真珠湾で会同し今後の作戦について検討した。太平洋艦隊航空部隊のタワーズ司令官は、艦隊司令部のマクモリス幕僚長とシャーマン作戦幕僚も同意しているとしてマリアナ作戦に反対の意見をニミッツに出した。理由は、日本は硫黄島、父島経由で爆撃機に戦闘機をつけることができるが、アメリカはつけられない、またマリアナには適当な海軍の基地が建設できない、というものだった。タワーズはまたアドミラルティ諸島からパラオに進み、トラックとマリアナはバイパスしてフィリッピンに向かうべきだとしたが、これはマッカーサーの喜ぶ案だった。ニミッツはマリアナ取り止めに傾いたが、キングは彼に厳しい手紙を送り、中部太平洋の進撃線を放棄するのは実にバカげている、加えて米英参謀総長会議の決定に対する違反であると指摘し、マリアナの攻略が再確認された。

 中部太平洋を西に向かって進撃するニミッツ軍の直接の指揮官は第5艦隊司令官、スプルアンス中将だったが、1月31日に予定通りマーシャル諸島の要衝、クエゼリンに上陸、2月4日に確保した。2月17、18の両日、ミッチャー中将の第58任務部隊、TF58はトラックに激しい空襲を加え、多数の艦船、航空機を破壊し、地上にも甚大な損害を与えた(トラックの第4艦隊長官は更迭)。スプルアンスはクエゼリン攻略が予想したより順調に終わったところからエニウェトック上陸の予定だった5月1日を大幅に繰り上げ2月17日に上陸、21日に確保した。43年11月のギルバート諸島に続いてマーシャル諸島の制圧を終えたのである。

 JCSはマーシャル諸島の占領が予定より早く終わったこともあり太平洋作戦の日程を繰り上げられると判断した。マッカーサーは4月1日の予定だったアドミラルティ諸島の占領を2月29日に繰り上げ、ウエワクとハンザベイをバイパスしてホーランジャに向かうことを勧告した。ニミッツはマリアナ諸島を6月中旬、パラオを10月1日ころと計画した。アーノルドはBー29を配備するためマリアナの占領を急ぐよう求めた。こうした要素を加味してJCSは3月12日に指示を出した。マッカーサー軍はカビエン上陸を取りやめ、ラバウルとともにカビエンを孤立化させる。ホーランジャ攻撃は4月15日とする。マッカーサー軍はホーランジャ占領後、ニューギニアの沿岸を西進してミンダナオ攻略の準備を進め、一方でニミッツ軍のパラオ攻略を支援する。ニミッツ軍は空母によるマリアナ、パラオ、カロリンの攻撃を強化し、マリアナの占領は6月15日を目途とし、Bー29の基地と海軍基地を建設する。またマッカーサー軍のホーランジャ攻略その他の作戦を支援する。以上が3月12日のJCSの指示で、6月15日のマリアナ攻略が本決まりとなった。

 ニミッツはこの指示が出た翌日の3月13日に主要な指揮官たちに極秘の電報を送ったが、その内容はトラックの攻略を取りやめ、マリアナ攻略の準備を進めるというものだった。ニミッツは次いで6月3日にグラナイトII作戦プランを発したが、先のグラナイト・プランとは日程を異にしていた。すなわち6月15日にサイパン、グアム、テニアン、9月9日にパラオ、11月15日にミンダナオ、45年2月15日にルソンを攻略することになったのである。もっともこれらを攻略とあるが、これは上陸開始の日であって実際に制圧を終えた日は、日本軍の抵抗の度合いによって変わることになる。

3 日本軍の状況
 次に日本の状況である。1943年9月30日に大本営は絶対国防圏を定めたが、東はギルバート、マーシャルの線から後退して、小笠原、硫黄島、マリアナ、トラックの線になった。44年3月下旬、パラオにTF58の空襲があり、パラオにあった旗艦、武蔵の古賀連合艦隊長官は司令部をダバオに移すべく、飛行艇2隻で発したが、悪天候のため長官機は行方不明となり、福留参謀長の機はセブに不時着、ゲリラに捕らえられた。参謀長が携行していた次期作戦のための連合艦隊のZ作戦計画(43年8月15日)がゲリラの手に落ち、潜水艦でメルボルンに送られた。メルボルンは翻訳してマリアナ作戦参加部隊に配布した。米軍はきわめて貴重な文書であったとしている。5月3日、豊田副武大将が連合艦隊長官になった。

 5月2日大本営は会議を開き「機動艦隊と第1航空艦隊を概成し、5月下旬以降連合軍が絶対国防圏に来攻したら、敵空母部隊を撃破し、戦争の転換を図る」とした。機動艦隊は空母を中核とした海上部隊で、正式には第1機動艦隊、第1航空艦隊は基地航空部隊である、この作戦は「あ号作戦」と呼ばれ、嶋田軍令部総長は5月13日に豊田連合艦隊長官に対して指示(大海指)を出した。この指示には「5月下旬、機動艦隊、第1航空艦隊は兵力を整備する。機動艦隊はフィリッピン中部で待機、第1航空艦隊は中部太平洋、フィリッピン、豪州北方に展開して決戦に即応する」とあった。

 問題の一つは米軍がどこにくるかだった。既述したように米軍では紆余曲折はあったもののマリアナの攻略を決めていたが、日本はマリアナを予想していなかった。豊田長官が5月3日に発した連合艦隊作戦命令の別冊「あ号作要領」には「第1決戦海面をパラオ、第2決選海面を西カロリンと予定する」とあったのである。マリアナ来攻を予想しなかった第6(潜水艦)艦隊の高木長官は司令部を率いてサイパンに進出した。のちに長官以下壊滅することになる。軍令部第1(作戦)部長だった中沢少将は戦後「マリアナにはいずれはくると思っていたが、6月とは思わなかった。西カロリン、ニューギニアと逐次きて、フィリッピンのあとがマリアナであろうと考えていた」と語り、また第1部第1課長の山本大佐も「マリアナにあれほど早くくるとは思わなかった)と述べている。一方東条首相兼陸相は海軍の首脳部にマリアナの防衛には自信ありと言明していた。

 決戦兵力である機動艦隊にせよ、第1航空艦隊にせよパイロットの質の低下は著しいものがあった。優秀な搭乗員のほとんどは、ソロモンの戦いまでに消耗していたからである。陸軍航空部隊についてはパイロットが洋上飛行の能力を欠いているため「あ号」作戦の戦力としては多くを期待できなかった。

4 マリアナ沖海戦開始まで

 米陸軍航空軍の爆撃機(B-24重爆撃機とBー25中型爆撃機)は44年3月下旬から6月中旬までトラックをはじめ、パラオ、ヤップ、ポナペなどを繰り返し爆撃した。TF58も4月29、30日にトラックを、5月1日にポナペを、5月19、20日にマーカスを攻撃した。アリアナア攻略に当てられる地上兵力は海兵3個師団と陸軍の2個師団、参加する戦闘艦艇、支援艦船は635隻で兵員12万2600名を運ぶが、最も近い前進基地のエニワトックから1000マイル、真珠湾からは3500マイルある。

 太平洋艦隊で最も有力な海上部隊は、大きな作戦ごとに司令部が交代し、スプルアンスのときは第5艦隊、ハルゼーのときは第3艦隊と呼んだ。一方の司令部が戦っている間、もう一方の司令部は次の作戦を計画した。表1でマリアナ沖における日米の海上兵力を示す。空母は日本の9隻に対してアメリカは15隻、で1.7倍、戦艦、巡洋艦、駆逐艦は日本の36隻に対して88隻で2.4倍である。表1にあるように、機動艦隊はそれぞれが空母3隻を中核とする3つの部隊に分かれ、一方TF58は空母を中核とする4つの任務群、TGと戦艦を中核とする一つのTGに分かれていた。
                  表1  日米の海上兵力   

   日米  部隊 大型空母 軽空母 戦艦 巡洋艦 駆逐艦
日本 前衛    3  4   5   8  20
日本 甲部隊    3     3   6  12
日本 乙部隊    2    1  1   1   8  13
 合計    5    4  5   9  22  45
 米国 TG58.1    2    2   4   9  17
 米国 TG58.2    2    2   4   10  18
 米国 TG58.3    3    1   5   13  22
 米国 TG58.4    1    2   4   14  21
 米国 %G58.7   7   4   14  25
   8    7   7  21    60 103

(注)1 機動艦隊の空母は前衛が第3航空戦隊の瑞鳳、千歳、千代田、甲部隊が第1航空戦隊の大鳳、翔鶴、瑞鶴、乙部隊が第2航空戦隊     の隼鷹、飛鷹、龍鳳。
    2 日本の指揮官は機動艦隊が小沢中将で旗艦は大鳳、前衛が栗田中将で旗艦は愛宕、甲部隊が小沢中将直率、乙部隊が城島少      将で旗艦は隼鷹。
    3 TF58の指揮官はミッチャー中将で旗艦はレキシントン、第5艦隊司令官、スプルアンスが旗艦の巡洋艦インディアナポリスに乗艦。
    4 私は前衛の重巡・熊野の航海士。

                   表2  日米空母の性能比較    

  日本海軍         区分 艦名 満載排水量 搭載機数 速力 記事
大型 大鳳  37,720   75  33 沈没
翔鶴  32,105   75  34 沈没
瑞鶴   同上   75  34 損傷
隼鷹  28,330   51  25
飛鷹   同上   51  25 沈没
龍鳳  16,700   33  26
瑞鳳  14,200   30  28
千歳  15,300   30  29
千代田  15,300   30  29

  (注)搭載機数については資料により多少異なるが、この資料によれば、
    日本の450機に対してアメリカは2倍の約900機である。

 日本の基地航空部隊である第1航空艦隊(角田中将)は4つの航空戦隊から成り、次のように配備されていた。本土(館山、横須賀)に配備の80機は除外してある。
    
         第61航空戦隊:テニアンに125機、サイパンに80機、グアムに195機、
                    ペリリューに90機、ヤップに80機。
         第22航空戦隊:トラックに280機、メレオンに40機、グアムに40機、
         第25航空戦隊:ダバオに120機、ラサンに40機
         第23航空戦隊:ソロンに60機、ワシルに40機、メナドに40機

 以上で計1210機になるが、可動機は少なく、米海軍公式戦史を書いたモリソンは半分以下の計540機程度と見積もっている。6月3日、豊田連合艦隊長官は機動艦隊の小沢長官に対して5月20日までにフィリッピン南西部のタウイタウイに進出を命じ、これに基づき、機動艦隊の大分はスマトラ沖のリンガ泊地を、一部は内地を発して19日までにタウイタウイに集結した。海戦まで1ヶ月近くあったが、付近に米潜が存在したため空母が出港して発着訓練ができたのはわずか2日であり、搭乗員の錬度はさらに低下した上に、対潜制圧に出た駆逐艦2隻が逆に米潜に撃沈された。アメリカの文献は、マリアナ沖において米潜は比較的成功を収めたが、日本の潜水艦は情報報告の面でもなんら貢献せず、1隻も撃沈することなく25隻中17隻を失ったとしている。護衛駆逐艦イングランドが次々に5隻を沈めたという有名な話もあるが、潜水艦についてはこのくらいにしておく。

 マッカーサーの麾下、キンケードの第7艦隊司令部は、機動艦隊の大部がリンガを発した5月11日には早くも「強力な日本艦隊が5月15日にはタウイタウイ付近に集結するものと思われる」と見積もった。米潜4隻が派遣され、先に述べた駆逐艦2隻のほかタンカー2隻を撃沈している。5月27日米軍はビアクに上陸した。連合艦隊司令部は水上部隊により増援部隊をビアクに送り込もうとして渾作戦を実施したが、米軍は暗号解読によってビアク沖に強力な水上部隊を配備したため6月8日夜の増援部隊の揚陸に失敗した。連合艦隊司令部は翌9日さらに大和、武蔵を加えて第2次渾作戦を強行しようとした。

5 マリアナ沖海戦
 アメリカは既述したように6月15日からマリアナを攻略することを決めた。最初に上陸するのはサイパンであり、グアム、テニアンの上陸日はサイパン戦の経過によるが2週間以内とした。TF58は6月6日にメジュロを出港、11日からマリアナに対する激しい攻撃を開始した。豊田連合艦隊長官の予想に反したものだったが、長官は米軍の上陸は遠くないと判断し、13日に「あ号作戦用意」を令し、小沢長官の機動艦隊はタウイタウイを発して燃料補給のためギマラスに向かった。潜水艦が機動艦隊のタウイタウイ出港を発見して報告した。TF58の戦艦、巡洋艦は14日、サイパンに艦砲射撃を加えた、翌15日、米地上部隊が予定通りサイパンに上陸した。スプルアンスはミッチャーに対し、2個TGをもって16、17の両日、硫黄島、小笠原を攻撃するよう命じたが、14日夕に至り16日だけ攻撃し、18日は復帰してTF58の4つのTGが合同するよう命じた。日本の艦隊がマリアナの西方ににやってくると判断したからだった。機動艦隊は14日1400にギマラス着、給油を受け、15日0800に出港、ビサヤン海、サンベルナルジノ海峡を経て太平洋に出た。この日米軍サイパン上陸の報告を得た豊田連合艦隊長官は「あ号作戦発動」を下令した。スプルアンスはサイパンから長距離哨戒を実施するため、エニウェトックにあるレーダー装備のPBM哨戒飛行艇、6機に対しサイパン進出を命じた。

 フィリッピンにあるコーストウォッチャー、つまり沿岸監視員が15日の1100と1830に機動艦隊を発見して打電したが、スプルアンスの下に届いたのは2日後だった。サンベルナルジノ海峡にいた米潜フライングフィッシュは15日1845に機動艦隊を発見、夜に入ってから浮上して打電した。スプルアンスが得た日本艦隊が動き出したことについての最初の情報になった。米潜シーフォースも1845に別の目標を発見して16日0300に打電した。第2次渾作戦中止で原隊復帰を命じられた大和、武蔵を含む7隻の部隊だった。小沢長官は第1航空艦隊に大きな期待を寄せていたが、第1航空艦隊の攻撃は全く期待に反するものになる。

 この6月16日、ミッチャーは延べ332機をもってグアム、テニアンを攻撃し、喪失は6機、搭乗員3名だった。この日、大和、武蔵を含む部隊はタンカーと合同して給油を受けた後、1650に本隊と合同した。17日、太平洋艦隊潜水艦部隊のロックウッド司令官は、サイパンの北西にあった潜水艦4隻に対して100マイル南方に移動するよう命じた。6月18日、PBM飛行艇がサイパンから600マイルを哨戒、TF58からも0532から、F6Fが護衛に付いたSB2C急降下爆撃機多数が325ないし330マイルまでの索敵に当たった。しかし機動艦隊を発見できなかった。

 一方小沢長官は0600に97艦攻と零式水偵2機を方位350度から110度まで、距離425マイルまでの索敵に出し、さらに1200には彗星艦爆14機、零式水上偵察機2機を出した。1514から1600少し過ぎまでの間に小沢長官のもとに3機から報告が入った。1530に13番機の報告を受けた小沢長官は機動艦隊の針路を30度から反転して200度とした。報告された敵との距離は360マイルだったが、400マイルからでも攻撃できるから必要以上にTF58に近づかないことにしたのである。小沢長官はアウトレンジ戦法、つまり米機は脚が短いが日本機は長いから、遠距離から攻撃隊と出そうとしたのである。前衛の軽空母3隻から成る第3航空戦隊の大林司令官は攻撃隊の準備を命じ、67機が準備できたので1537に発進を命じた。しかし千歳の27機が発進したところで、小沢長官が1610に発した次の作戦命令16号がきた。

 硫黄島の220度、360マイルに敵の1群、サイパンの西160マイルにさらに1群がいる。機動艦隊は一時避退した後、北上して明日北方の敵を撃滅後、北東の敵を撃滅する。

 大林司令官は発進を終えた艦上機に対して直ちに帰投を命じた。豊田連合艦隊長官は基地航空部隊の索敵機の報告を小沢長官に送ったが、それによって北方の敵は存在しないことが分かったので小沢長官は1817、作戦命令19号をもって、明日の目標はサイパンの西の敵のみと打電した。機動艦隊は1900に艦隊を2つに分けた。栗田中将の前衛は東に向かい、甲部隊と乙部隊は針路190度として前衛を前方100マイルに置いた。敵艦上機の攻撃隊をまず前衛で阻止しようとしたのである。19日0300、甲部隊と乙部隊は針路50度、速力20ノットとした。前衛は甲部隊の前方100マイル、乙部隊は甲部隊の北8マイルにあった。一方TF58では北方から復帰した2個TGが18日の1200に合同した。その少し前に、スプルアンスは旗艦でTG.58.3に所属する巡洋艦インディアナポリスから要旨次の内容を打電した。

 TF58はサイパンを防衛しなければならない。敵主力は西から攻撃してくると思われるが、別働隊が南西から攻撃してくるかもしれない。サイパンを守るベストの方法は、昼間は西進し、夜間は引き返して敵が夜のうちにすり抜けないようにすることである。敵の状況にもよるが、われわれはサイパンに対する航空支援を続けなければならない。

 要するにスプルアンスは積極的に日本の機動艦隊を攻撃することはせず、基本的には守勢に立つことを決めたのである。第1航空艦隊のTF58に対する攻撃は終日続いたが、成果はなかったにかかわらず、過大な戦果報告を送った。以後も過大な戦果報告を続けて味方を誤らせることになる。TF58はスプルアンスの計画に基づき反転して針路40度、速力18ノットとした。2200、方位測定によって機動艦隊の位置が判明した。ミッチャーは幕僚に検討を命じ、機動艦隊は距離360マイルにあるが、明朝もほぼ同じ位置にあるであろう、もしTF58が0130に反転して西進すれば、0500には距離が150ないし200マイルという攻撃に理想的な距離になる、という結論になったので、ミッチャーはスプルアンスに意見具申をした。しかしスプルアンスは、機動艦隊は方位測定が得た位置の南東150マイルにいるという大きな判断ミスを犯したため承認しなかった。理由は長くなるので省略するが、後でご質問があればご説明する。もしミッチャーの進言を容れていたらマリアナ沖の戦いは全く異なった展開になったはずだった。

 6月19日の0100、PBM哨戒飛行艇が機動艦隊を発見、繰り返し打電したが、TF58は受信できなかった。受信したよその部隊もあったが、アメリカは太平洋戦争を通じて届かなかった重要電報の一つとしている。0218、エンタープライズからTBMアベンジャー15機が索敵のため発進したが、発見できなかった。一方、機動艦隊の前衛から0430に零式水上偵察機16機、0515から97艦攻13機と水偵1機、甲部隊から0530に彗星艦爆10機、天山艦攻2機、水偵2機が索敵に発進した

5 機動艦隊の攻撃
 機動艦隊の攻撃の状況は表3のとおりである。
               表3 機動部隊艦隊の攻撃状況(6月19日)

         部隊 発進開始 発進機数 喪失機数 記事
前衛   0825   64   41 命中弾1
甲部隊1次   0856  128    84 至近弾3
乙部隊1次   1000   49    7 目標発見せず
甲部隊2次   1100   18   10 状況不明
乙部隊2次A   1115   50   26 グアムで被撃墜
    2次B      15   10 至近弾3
                発進機総計 324 喪失機総計 178 被害率 55%

 324機の内訳は零戦が109機、爆装零戦が78機、彗星艦爆が62機、99艦爆が27機、天山艦攻が48機だった。前衛の攻撃隊は1049、米戦艦部隊(TG58.7)のサウスダコダに1弾を命中させたが、この日TF58に与えた唯一の命中弾となった。しかし発進した64機中、3分の2の41機を喪失した。小沢長官の旗艦、甲部隊の大鳳が艦上機を発進させていた0902、米潜アルバコアが魚雷を発射した。発進直後の天山のパイロット、小松兵曹長は雷跡を発見したので反転してこれに突入したというよく知られた話が残っている。しかし2分後の0904に魚雷1本が大鳳の右舷ガソリン庫の付近に命中した。損傷は軽微と思われ、速力もほとんど落ちなかった。

 甲部隊の攻撃隊は発進した128機のうち8機は直後に引き返し、120機は進撃したが前衛の直上を通過するというミスがあり、前衛の対空砲火を浴びて2機が撃墜され、数機が損傷して引き返した。攻撃隊は1150から1215までTG58.7の戦艦を攻撃した、損傷した1機がインディアナの右舷水線付近に衝突してから海に落ちた。空母部隊の一つ、TG58.3には正午ころ彗星1機と天山3機が飛来し、エンタープライズとプリンストンを攻撃したがいずれも撃墜された。

 TG58.2のワスプは1145に彗星1機を撃墜したが、直前に投下された爆弾がワスプの左舷中部への至近弾となった。1203ころTG58.2のバンカーヒルとキャボットが彗星2機の攻撃を受け、いずれも至近弾となった。至近弾では若干の死傷者を出している。1000、乙部隊の零戦17機、爆装零戦25機、天山7機の計49機の攻撃隊が発進したが、まもなくして小沢長官は、先に指示した目標ははるか南方にあるとして新たな目標を指示した。しかし受信したのは20機のみで、あとの29機はそのまま進み、目標を発見できないので母艦に帰投した。受信した20機は新たな目標に向かって進撃を続けたが、TG58.4のF6F、20数機に邀撃されて7機が撃墜された。数機が突破して空母の上空にきたが、投弾できたのは1機だけでその爆弾は1320にエセックスから600ヤード離れてら落下した。

 1120、甲部隊の第2次攻撃隊が発進した。零戦4機、爆装零戦10機、天山4機の18機だった。天山は1機が失われ、残る3機は目標を発見できなかったので帰投したが1機は不時着水した。零戦と爆装零戦は目標を発見したがF6Fに邀撃された模様で詳細は分かっていない。零戦は14機中8機を失い、天山の2機と合わせて10機の喪失となった。 1115から乙部隊の第2次攻撃隊が発進した。まず零戦20機、99艦爆27機、天山3機の計50機が発進したが、目標を発見できず爆弾を投棄してグアムに向かった。1449、TF58の各艦のレーダーがグアムに向かうこの50機を探知しTF58はF6F、55機を発進させた。
1500ころから空戦が始り、乙部隊の50機のうち零戦9機、99艦爆14機、天山3機の計26機が撃墜された。あとの24機はグアムに着陸したが、すでに損傷した機もあり、99艦爆7機だけがヤップ、またはパラオを経由してダバオに着いた。乙部隊からは、この50機の攻撃隊に続いて零戦6機と彗星9機の計15機が発進したが、3機は引き返した。12機は進撃したが、4機は分離して未帰還となり、残る8機は1440に空母部隊を発見した。ワスプは至近弾3発を受けたが3機を撃墜、バンカーヒルとキャボットも1機ずつを撃墜した。計5機になるが、日本側は6機を失ったと記録している。残った2機はグアムとロタに着陸し、グアムに着陸した1機はダバオに移動した。

 こうして機動艦隊の攻撃は終わった。300機以上を繰り出して半数以上を失い、戦果は命中弾1発という惨憺たる結果に終わった。既述したように米潜アルバコアの魚雷1本を受けた大鳳は依然として26ノットで航行していたが、応急班の致命的なミスによって艦内には気化したガソリンと重油が充満してさながら時限爆弾のような状況にあった。さらに不運なことに甲部隊は米潜キャバラがいた海域に向かっていた。キャバラのキスラー艦長は1152に潜望鏡を上げ、大型空母1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦数隻を視認した。空母は翔鶴だった。キスラーは空母に接近して魚雷を5本、次いで最後の1本を発射、4本が1220に翔鶴に命中した。キャバラは爆雷100個以上を投下されたが逃れることができた。翔鶴は1500に沈没し、乗員約2000名のうち1263名が死んだ。

 翔鶴が沈んでからしばらくたった1532、大鳳は大爆発を起こして停止した。小沢長官と司令部は駆逐艦・若月に移り、次いで1706に重巡・羽黒に移った。大鳳は1828に再び大爆発を起こして沈没、乗員2150名のうち1650名がフネと運命をともにした。機動艦隊の攻撃が全くの失敗に終わった原因の一つはパイロットの技量が著しく低下していたにかかわらず、アウトレンジ戦法を執ったことだった。敵との距離は300マイル以上で発進したから、最も近い場合で2時間10分、遠い場合は3時間10分程度かかり、目標を発見できなかった攻撃隊もあったことは既述した。アメリカは距離200マイル以内で発進させるから、わが空母は安全ということになるが、いかにも遠すぎた。そして敵に接近しても、空母の前方100マイルで待ち受けるCAPの敵戦闘機に多くが撃墜され、突破できた少数の攻撃機も強力な対空砲火を浴びた。周知のとおり、アメリカ側は「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んでいる。機動艦隊に残ったのは零戦44機、爆装零戦17機、彗星11機、天山30機の計102機だった。

 大型空母の大鳳と翔鶴の喪失は日本の駆逐艦の対潜戦能力の低さを示した。戦争を通じて日本は多数の空母、巡洋艦と戦艦・金剛を潜水艦の雷撃で失ったが、潜水艦が攻撃する前に駆逐艦が探知制圧して攻撃を断念させたという話は耳にしたことがない。

 19日1500、スプルアンスはミッチャーに対し、西進して機動艦隊に接近するよう命じた。このときミッチャーの旗艦、レキシントンはグアムの北西端からわずか20マイルの地点にあった。しかしTF58は艦上機の収容に時間がかかり、2000にようやく西に向かって速力20ノットとした。ミッチャーはその30分前にサイパン防衛のため、駆逐艦の燃料に不安があるTG58.4のハリル少将にグアム沖に残るよう命じた。2100、スプルアンスはミッチャーに「もし敵の正確な位置が判明したら、明日敵を攻撃したい。もし哨戒飛行艇が必要な情報を提供してくれるならば、索敵は必要がなくなる。そうでない場合には、サイパン防衛のため明日も索敵を続けなければならない」と指示した。TF58は2203に針路260度、速力23ノットにした。機動艦隊との距離を詰めたいが相手の位置は不明だった。機動艦隊は大鳳が1532に大爆発を起こした直後に針路を北西とし、前衛及びタンカーと合同しようとしていた。

 6月20日0530、機動艦隊から水偵9機、1時間後に97艦攻6機が東方の索敵に発進したが、敵を発見きず、F6Fと遭遇して水偵4機と97艦攻1機が未帰還になった。一方ミッチャーも夜明けとともに索敵機を出したが、発見できなかった。距離325マイルまでだったが、機動艦隊その先50ないし70マイルにいたのである。1200、レキシントンから爆装のF6F、12機が発進し、サンジャシントのF6F数機が護衛について北西に向かった。TF58は針路を260度から330度とした。位置はグアムから315マイルだった。

 機動艦隊はタンカーと1230に合同したが、現場は混乱し、給油作業は遅々としていた。小沢長官は1300になってようやく羽黒から瑞鶴に移った。長官は前日の被害の詳細を知ったが、なお第1航空艦隊の過大な戦果報告を信じていたから残った約100機で翌21日に攻撃する考えは変わらなかった。午後、前衛の千歳と瑞鳳から97艦攻3機が発進して1715に空母2隻、戦艦2隻を発見して報告、小沢長官は前衛から天山3機と97艦攻7機を発進させた。このときTF58の攻撃隊はすでに接近しつつあった。

TF58では1330,エンタープライズからTBM、8機と護衛のF6F、4機、さらにワスプからSB2C,2機とF6F、2機が索敵に発進したが、ワスプのSB2Cのネルソン大尉が発見、電話と無線で「1540、敵艦隊発見、15度N、135-25E。針路270度、速力20ノット、2群あり、北の群は10隻で大型空母あり、南の群は12隻で給油中の模様」と報告した。エンタープライズの機も甲部隊を発見、報告した。瑞鶴は1610に3機を発見して発砲した。ネルソンの報告を受けたミッチャーは、1548に攻撃隊の準備を令したが位置をチャートに入れると遠すぎることが分かった。攻撃隊を出せば帰投は夜になるが、パイロットの多くは夜間の着艦の経験がなく、夜間飛行の経験もほとんどない。帰投した攻撃隊の収容には約4時間かかるが、その間東に向いて風に立てていなければならない。攻撃はこの1回だけになる。ミッチャーは速やかな発進を命ずるとともにスプルアンスに対し「全力発進させる。おそらく夜間に収容しなければならない」と報告した。1621、大型空母6隻と軽空母5隻は23ノットで風に立ち、1624から攻撃隊を発進させた。1636には発進が終わり、TF58は針路を再び北西とした。

 計240機が発進したが、14機がさまざまな理由で引き返した。進撃した226機の内訳はF6Fが95機で一部は500ポンド爆弾を装備、次はTBMが54機で魚雷を装備した機と500ポンド爆弾4発を装備した機があった。次にSB2Cが51機とSBDが26機。このSBDという急降下爆撃機は2年前にミッドウェーで奇襲に成功し日本の空母3隻を大破させた機であり、今回が最後の実戦参加だった。発進して30分後にパイロットたちの下に、敵は予想より60マイル西にあるという情報が入った。1800の少し前、小沢長官は前衛の栗田中将に夜戦の準備を命じた。
TF58の機動艦隊攻撃状況は表4のとおりである。前衛の軽空母、千歳と瑞鳳は攻撃されなかった。

      表4  TF58の機動艦隊攻撃状況(6月20日)
           (注)(T)は魚雷装備、(B) は爆弾装備

      部隊 目標 SB2C SBD TBM(T) TBM(B)   F6F(B)
甲部隊 瑞鶴  30   2   2    2
重巡洋艦   2    4
乙部隊 飛鷹  6   4   2
隼鷹 12   6
飛鷹か隼鷹   3   11
龍鳳  6   5   5   14
駆逐艦   1
前衛 千代田  12   5   6
 榛名   1   2
重巡洋艦   2
補給部隊 タンカー4  12   7
合計  57  24  22  30  31(合計164)

 この攻撃によって飛鷹とタンカー2隻は沈没し、瑞鶴は大きく傷つき、隼鷹、龍鳳、千代田、榛名、摩耶が中破ないし小破した。残存する機動艦隊の艦上機は73機に減少した。攻撃が終わると栗田中将の前衛は夜戦を挑もうと東に向かったが、小沢長官は2000に「夜戦の見込みなければ速やかに西方に避退せよ」と命じ、豊田連合艦隊長官も2145に「敵より離脱、指揮官所定により行動せよ」と下令した。こうしてマリアナ沖の海戦は日本の大敗に終わった。ミッドウェーでも後のレイテ沖でもそうだったが、夜にせよ昼間にせよ、上級指揮官が本当に敵の空母部隊をわが水上部隊の大砲の射程にとらえるられるとどうして思ったのか不思議である。このときTF58は250ないし300マイル先にあったが、充分な索敵能力を持つTF58がみすみす大和、武蔵の射程内に入るはずはなかったのである。

 アメリカ側は攻撃隊の戦果は期待したほどではなかったとしているが、日本の空母1隻とタンカー2隻を沈め、空母3隻、戦艦、重巡各1隻を中破ないし小破させている。300機以上を投入して至近弾1発に終わった機動艦隊にくらべれば、はるかに上である。アメリカ側は、実際に日本のフネを攻撃したのは199機であったとしている。表3によると機動艦隊は164機に攻撃されたことになるが、これは爆弾を持たず機銃掃射したF6F戦闘機を加えてないからと思われる。

 米攻撃隊の損失については零戦により撃墜されたもの11機、対空砲火によるもの6機となっている。よく知られた事実として帰投が夜になったため82機が失われた。計99機となり、出撃226機の44%を失ったことになる。帰投中に82機が失われたのは、燃料切れで墜落したものがあったほか、既述したようにパイロットは夜間の着艦はもとより夜間飛行の経験が乏しかったからである。帰投した機の収容は2030に始まり、2245に終わったが、各艦は灯火をつけて着艦しやすいようにした。しかし飛行甲板あるいは付近の海にクラッシュする機が続出した。TF58はその後の数日間海上の捜索を続けて搭乗員を救助した。人的損失はパイロット16名、クルー33名の計49名に留まったのである。

      付録 TF58のその他のデータ