リンディ雷撃隊長(ミッドウェー海戦米国勝利の隠れた主役)の子孫の手紙
(リンディー隊長の長男)米海軍佐世保基地司令官の手紙) 市来会世話役(元練習艦隊主席幕僚)平間洋一
左近允氏の講演の後でお話ししたリンディー大佐とのことを古い『水交(昭和58年1月号)』から抜粋し紹介します。このリンディー大佐の父リンディー少佐は、最初に南雲艦隊を攻撃した雷撃隊長でした。一四機(多分)のほぼ全機が上空にいた戦闘機に撃墜されました。しかし、このリンディー雷撃隊を撃墜するために総ての迎撃戦闘機も艦上の見張りも低空に注意を集中、その隙間を縫うように雷撃隊より遅れて到着した急降下爆撃機は何ら妨害されることなく赤城などの空母に爆弾を命中させ、米海軍にミッドウェーの勝利をもたらしたとして米海軍ではリンディー大佐の功績は高く評価されております。次の手紙を読まれれば、世界にはキリスト教、回教、仏教と海軍教の四つの宗教―国境を越える世界共通の価値観の集団―があると言われておりますが、この手紙を読まれれば皆様も納得されるのではないでしょうか。
1.かとり実習幹部 M3尉の説明
遠洋航海出発前の内地巡航で練習艦隊は各地で盛大な歓迎を受けた,なかでも、佐世保での歓迎会は、私のふるさとが長崎市という関係もあり、特に印象深いものであった。その時グラスを傾けながら暖かくわれわれと意見を交わして下さったのが、米海佐世保基地司合官のユージン・E・リンディー大佐である。まるで自国の海軍候補生に対して、先輩として今後の生き方を提示するかのような親切な姿が、今も頭に残っている。光陰の矢の如き月日は、またたく間に過ぎ、そろそろ日本の週刊誌の記事がなつかしくなった頃、私は日本から送られてきた週刊誌の片隅に、彼の名前を発見した。それはミッドウェー海戦の戦死者の遺族の軌跡をたどった小説の一部であり、彼と同名の米海軍少佐が、雷撃隊長として同海戦で戦死し、その子息が、現在日本で海軍士官として勤務していることを知った。前述の佐世保でのご恩もふまえ、遠洋航海の成果報告かたがた、記事に対する感想を含め書かせて頂いた私の手紙に対する御返事が、以下の文である。
リンディー大佐のM3尉への手紙 1982年9月17日
親愛なる M三尉殿
この心地よい私の日にひとこと挨拶を述べます。貴君が元気で頑張っておられる様子、なによりです。貴君はたいへん親切にも私のことを記憶し、手紙を書いてくれました。その親切に感謝の意を表します。(私の「貴男のお父さんは、ミッドウェー海戦で戦死なさったのではありませんか。もし、その推測が当たっていたら、私にはただただお悔やみ申し上げますという言葉しかありませんという手紙に対し」)。そのとおりです。ミッドウェー海戦で戦死したのは私の父です。そして私は、父の死を他の百万人以上の人々の死と同じように悲しく思います。しかし、もし我々が戦争がもたらす恐怖というものを忘れてしまえば、その悲しさは、さらに深いものになるでしよう。われわれ戦争のプロは一旦戦火を開くことを命令されれば、常に高価な犠牲を払うことになり、おおきな損失を残します。軍人が持つ生来の危険とも言えるこの事実は、我々プロ意識を持つすべての者が是認し、かつ、共通のきずなとして認めあえるものです。
来たるミッドウェー海上慰霊祭においては、戦争であまりにも多くのものを失った人々のことを思うと同時に、勇気と知恵があればわれわれ両国が友好国であり続けられることを考えてもらいたいと思います。太平洋における我々二国の海軍の重要性は、われわれ殆どの者が考えている以上に深いものです。私はこの自由が将来においても守られるためには、ただ力をもってする他なく、将来われわれ2国間に到来するいかなる紛争に対しても、互いに討議し、協定を結び、友好国であり続けることを実現できると信じています。現在、貴君たちが遠洋航海で学んでいるように、世界は以外に狭く、各国にはそれぞれの相違点がある以上に人間には共通のものがあるものです。
海上自衛隊の歴史は、貴君が誇りにしている故国の歴史に比べるとそんなに長いものではありませんが、たとえ、ひとりの「少尉」としても、その遙かな歴史を目指して、職務に専念しなさい。「士官としてのボトム」の時機をエンジョイしなさい。初任幹部としての期間は、貴君の艦上における職務経験とリーダーシップを高める上で、記念すべきピリオドとなるでしょう。
貴君の将来に到来するであろう幾多の挑戦に対し、貴君が、幸運と勇気をもって対処することを望みます。私は常々「船にはサブマリンとターゲットの二種類しかない」ということを強調しています。私のこの意見は勿論ユーモアですが、同時に、潜水艦が我が海軍にとって最も脅威であることを言ったものです。貴君は、その脅成を無効にするように、懸命に努力しなければなりません。貴君に再び会える日を楽しみに待っています。貴君の美しい国における経験は、私の人生におけるハイライトです。運が良ければ少なくとも、あと一年は、ここで勤務することができるでしょう。既に私は、佐世保を去らなければならないことがいかに悲しいかを考えるようになっています。
手紙、ありがとう.
ユージン・E・リンディー
2.練習艦隊主席幕僚平間の説明
ミッドウェー海戦から既に四十年余りの歳月が流れ、あの海戦は、われわれ昭和二十年代生まれの者にとっては「歴史の一部」でしかない。しかし、私は大佐を知り、手紙をいただき、自かが歴史の流れのなかに生きていることを実感てきたと思う。しかし、それ以上に心を打たれたのは、戦争がもたらす増悪や悲しみを越え、かつての敵国の若者に対し、まるで自分の肉親か後輩に対して噛んで含めるかの如く、切々と自分の心を述べる一海軍士官の心の暖かさに対しである。国と国との交流というが、所註は人間としての個々のつながりに源を発するものと信じている。日本はいい友人を持ったと思う。ミツドウェーでの洋上慰霊祭では、以上のようないきさつで、私がリンディー大佐の代りに千羽鶴を海中に投じた。「アメリカのために祈る」―「海ゆかば」の流れるなかで黙祷をする私の脳裏を巡ったのは、無諭、大佐のことであった。しかし、心の奥にはミッドウェー海戦の敗戦に対する悔しさがあったのは事実である。愛国心は、ある意味では排他的であると思う。それを考えると、今更なから、国境を越えた大佐の心使いに深い感銘を覚えた。リンディー大佐の私信を『水交』に掲載することについて主席幕僚の私から諒解を求めたところ、次のような返事があった。
リンディー大佐の私への手紙 1983年2月17日
練習艦隊主席幕僚 平間洋一―佐殿
向寒のみぎり、貴下ますます御盛栄のこととお慶び申し上げます。無事のご帰国おめでとう御座います。今次の遠洋航海が多大な成果を上げられたことについては、各地のいろいろな人から聞きました。そして、かかる成果を上げられた貴下に心からの敬意と祝福を送ります。
私が実習幹部M三尉から手紙を受け取った時に、国境を越え、総ての若い海軍士官が同じようなきずなで結ばれているということを強く感じました。私は彼と佐世保市のレセプションと艦上レセプションで二回合い、そして話しました。その席でM三尉と彼のクラスメートが、旧海軍の伝統と歴史的偉業を大変誇らしげに語ったことを鮮明に覚えております。
私は,歴史と伝統に対するこの誇り、こそ、われわれの職務を成功裡に遂行する最も基本だと考えています。このような共通の考えが、遠洋航海を通して生れ育ち、そして私の父に対するあのような深い哀悼の言葉を得ようとは想像もつきませんてした。
私は、貴下がM3尉のような人間性豊かな若い士官をもっていることに、深く感動するとともに、そのようた若者を持つ貴官をに心から祝福を申し上げます。
もし、私のM3尉に対する手紙か価値あると考えられるのでしたら、あまり名文ではありませんが、どうぞ、公表されて結構です。
しかし、貴官が考えていられる目的に使うのでしたら、ロングビーチで贈呈されたコナー氏の詩の方がはるかに優れていると思いますが。私はコナー氏の詩を額に入れ、私の事務所に飾りました。これは我々にとり大変有意義な詩です。私は私の父に対するミッドウェーの洋上慰霊祭の写真を母に説明して送りました。母は貴下の好意を心から喜んでくれることと存じます。「KINO NO TEKI WA KYO−NO−TOM(昨日の故は今日の友)」という日本の古い諺が、今ほど意義を持ったことはありません。私は貴下と知り合いになったことを心から神に感謝するとともに、貴下が私のことを常に心掛けていてくれたことに心から感謝致します。敬具
米海軍佐世保基地司令官 E・E・リンディー大佐