重巡・熊野の戦闘とその最期
                                     左近允尚敏氏講演録(2011.7.27)

 本日は67年前の1944年10月から11月にかけての重巡・熊野の戦闘についてお話するが、レイテ沖海戦の概要についてもご説明する。私は前年、1943年12月初めにトラックで熊野に着任した。熊野は44年6月のマリアナ沖にも小型空母群の護衛として参加した。レイテ戦のとき、私は中尉のなり立ての航海士で配置は艦橋だった。

 日本海軍は戦争で駆逐艦以上の戦闘艦の大部分を失ったが、昼間あるいは夜間、いきなり潜水艦に雷撃され、応戦のいとまもなく沈没したフネがかなりある。空母では翔鶴、大鳳、信濃、雲鷹など、戦艦では金剛がそうだった。熊野はフィリッピン周辺海域で33日間にわたり、対空戦闘、対水上戦闘、対潜戦闘を戦い、最後は沈没したが、同じ海域でこれほど一連の戦闘を重ねたフネはほかにはいない。水上艦の魚雷、潜水艦の魚雷、航空機の魚雷のすべてを受けたフネも熊野だけである。

 6月のマリアナ沖については、以前この会でお話したが、惨敗した小沢中将の機動艦隊は沖縄の中条湾に寄港してから6月25日呉に入港、レーダーを設置したり、機銃を増設したりした。空母部隊は内地で再建を図り、栗田中将の第1遊撃部隊は7月8日出港してスマトラ東岸沖のリンガ泊地に移って訓練を始めた。第1遊撃部隊は小沢中将の機動艦隊に所属し、大和、武蔵を含む戦艦、巡洋艦、駆逐艦多数を保有していた。10月上旬、ハルゼーの空母部隊が台湾を空襲、いわゆる台湾沖航空戦が生起したが、わが基地航空部隊は巡洋艦2隻を大きく損傷させたにとどまった。しかし大本営は撃沈、空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻と発表した。

ハルゼーは「撃沈された空母はすべて引き揚げられ、敵に向かって退却中」と皮肉たっぷりの発表をしたが、日本海軍の当局は基地航空部隊の報告を多少は割引したものの米空母部隊に大打撃を与えたと判断、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦数隻からなる志摩中将の第2遊撃部隊に残敵の掃討を命じている。陸軍も海軍が発表した大戦果を信じてルソン防衛をレイテ防衛に切り替えたため翌45年1月に米軍がルソンに上陸したとき、組織的な抵抗ができなかった。10月17日、米軍はレイテ湾のスルアン島に上陸、豊田連合艦隊長官は捷1号作戦警戒を発令、リンガ沖にあった栗田中将の第1遊撃部隊にブルネイ進出を、小沢中将の機動艦隊本隊には米空母部隊を北方に誘致するための出撃準備を命じた。ここで小沢艦隊はオトリになることが決まった。翌18日、豊田長官は捷1号作戦の発動を令した。

 栗田中将の第1遊撃部隊は18日0100にリンガを発し、20日にブルネイ着、燃料の補給と作戦打ち合わせを行ったが、ことでいわゆる栗田艦隊と西村艦隊に分かれ、栗田艦隊は北から、西村艦隊は南からレイテの突入することになった。西村艦隊は戦艦2、重巡1、駆逐艦4から成るが、戦艦。扶桑、山城は速力が遅いので別行動をとることになったのである。熊野は栗田艦隊所属の第7戦隊の旗艦だった。この20日に米軍の主力がレイテに上陸した。豊田長官は第1遊撃部隊を小沢長官の指揮下から外して直轄とし、第1遊撃部隊にはレイテ突入を、小沢中将の機動艦隊本隊にはオトリとしてルソン北東海面への進出を、基地航空部隊と潜水艦部隊には攻撃を命じた。志摩中将の第2遊撃部隊に対する命令は2転3転したが、結局西村艦隊に続いて南からレイテに突入することになった。

 次は熊野の行動図で@からIまでが戦闘した場所、ただしAは味方機の誤爆である。それぞれの戦闘の概要についてはB―2で示してある。Bー3では魚雷や爆弾で熊野の姿が変わっていくのを示した。

 さて北からレイテに突入する栗田艦隊と南から突入する西村艦隊は25日の早朝レイテ湾で合流してタクロバン沖の米攻略部隊を撃滅する計画だったが22日午前にブルネイを発した栗田艦隊は翌23日の早朝パラワン水道で米潜2隻の攻撃を受けた。栗田中将の旗艦、重巡・愛宕と摩耶が沈没、高雄が落伍した。ここで不思議に思うのは愛宕は約900米、摩耶は1400米くらいから雷撃されたが、だれも潜望鏡や雷跡を発見していないことである。米潜がいることは夜中から分かっており、海上はベタ凪ぎであったにかかわらず発見できなかった。あとでお話するが、熊野は11月6日距離2600米で潜望鏡を発見して回避している。

 さらに大きな疑問は艦隊の航路の選定であり、なぜパラワン島の南ではなく潜水艦伏在の可能性が大きい北のパラワン水道を通ったかである。モロタイのBー24重爆撃機を懸念したというが、爆撃機の高高度水平爆撃の命中率はきわめて悪い。よしんば1発や2発当たっても致命傷にはならない、一方潜水艦の魚雷は致命傷になり得る。司令部の大きなミスだった。

 早々に旗艦を失った栗田司令部は駆逐艦・岸波に拾われてあと大和に移った。大和には、大和、武蔵、長門から成る第一戦隊の司令官、宇垣中将が乗っていたから将旗が2本揚がることになった。重巡3隻と高雄の護衛に出した駆逐艦2隻が減少した栗田艦隊は翌24日、シブヤン海でハルゼーの艦上機約250機の攻撃を受け重巡・妙高が落伍、戦艦・武蔵が沈没した。熊野は7機に攻撃され1発が4番砲塔に当たったが不発だった。艦隊は前日のパラワン水道とこの日のシブヤン海の戦闘で予定が大幅に遅れサンベルナルジノ海峡の通過は深夜になった。25日の早朝西村艦隊と共にレイテに突入することは不可能になったのである。

 サンベルナルジノ海峡を出たとき艦隊は、アメリカの水上部隊と潜水艦が待ち受けていると予想したが、何もいなかった。ハルゼーはオトリの小沢艦隊に吊られて全軍を率い北上したからだった。しかしレイテ攻略の支援に当たっていたマッカーサー麾下の第7艦隊のキンケード司令官は、サンベルナルジノ海峡はハルゼーの艦隊でガードされていると思っていた。このためレイテの東にあった護衛空母部隊は危険が迫っていることを知らなかったのである。」

 25日早朝、栗田艦隊は一番北にあった護衛空母群、通称タフィ3と遭遇した。商船を改造した1万トンの護衛空母6隻と駆逐艦、護衛駆逐艦7隻のタフィ3は東に逃げながら艦上機を発進させ、かつ護衛の駆逐艦クラスに反撃を命じた。このため栗田艦隊は海戦史上例を見ない、対水上戦と対空戦の両方を同時に戦うことになった。栗田長官は巡洋艦には突撃を命じたが、18ノットしか出ない護衛空母を30ノット以上の正規空母と見誤ったので駆逐艦部隊は戦艦部隊の後ろに続くよう命じた。このため熊野は艦隊の先頭に立つ形になった。

 まず大和が発砲、戦艦、巡洋艦が続いたが、敵は煙幕を張って逃走し、ところどころにスコールもあってなかなか命中しない。熊野は護衛空母に対し0710から射撃を開始したが、まもなくアメリカの駆逐艦一隻がやってきて熊野に対し5インチ砲で射撃を始め、熊野と2番艦鈴谷の間に次々と水柱が上がった。熊野が空母に対し20センチ弾を約50発発射したところで、司令官は0718に目標を接近する敵艦に変えるよう下令した。熊野も主砲の目標を空母からこの駆逐艦に変えようとしたとき見張員が雷跡3本を右前方の至近距離に発見、その直後に1本が艦首に命中した。0724だった。ジョンストンという駆逐艦が発射した魚雷10本のうちの1本が命中したのである。35ノットで水柱を突っ切り、びしょ濡れになったが、見ると艦首がない。艦首から13米をもぎ取られたのだった。速力は14ノットに低下した。モリソンの公式戦史は述べている。

 ジョンストンは肉薄し、重巡列の先頭にあった熊野に対し、主砲の斉射を浴びせた。200発以上を発射して多くの命中弾が認められた。日本のフネはジョンストンを砲撃し、4つか5つの色をした水柱がジョンストンの周囲に上がり始めた。ジョンストンのエヴァンズ艦長はタフィ3のスプレーグ少将から命じられていたとおりホーエル、ヒーアマンとの共同雷撃をやると艦内に下令した。一番敵に近かったジョンストンは先陣を切った。25ノットで1万ヤードまで近づき10本を発射した。魚雷は異常なく直進した。全魚雷を発射したジョンストンは、反転し煙幕を展張して避退した。次に起きたことについて生き残ったた先任の士官は「2人の士官が2回、あるいは3回すさまじい爆発音を聴取した。わが魚雷が命中した音だった。1分後に煙幕から出ると先頭の巡洋艦の後部が激しく炎上しているのが見えた」と語った。

 この記述にはかなりまちがいがある。まずジョンストンの5インチ弾は一発も当たっていない。第2に各艦はジョンストンに対してまだ一発も放っていなかった。目標を空母からジョンストンに代える前に熊野は被雷したのである。第3に、熊野に命中したのは1本だけで、艦尾ではなく艦首に命中した。火災は発生しなかった。さて白石第7戦隊司令官は3番艦の筑摩に移ろうとしたが、すでに視界外を進撃している。2番艦の鈴谷は「われ至近弾のためだし得る速力20ノット」と言ってきたが、移るのは鈴谷しかいない。当時日本海軍にはハイラインというやり方がなかった。

 これは2隻が9ノットくらいの速力で平行して走り、まずロープ、次いでワイヤーを渡し、カゴで人や物を移すやり方で海上自衛隊も米海軍から導入してやっているが、日本海軍にはなかったから戦場の真っ只中で熊野と鈴谷は停止し、敵機が爆撃する中で熊野のカッターを降ろして司令官以下を送った。終わったのは被雷してから1時間以上も経った0830だった。こうして熊野は早々と落伍し、単艦で、つまりひとりでブルネイに引き返すことになった。艦隊の一艦として行動する場合は、敵機はまず大型艦を攻撃する。空母がいればまず空母、いなければ戦艦、次いで重巡、軽巡、駆逐艦の準である。だから前日のシブヤン海で約250機がきても熊野には7機きただけだったのである。

 しかし単艦で行動すると上空にきた敵機はすべてかかってくることになった。熊野はますサマール島に接近してから東岸沖を北上した。正午前、瑞雲という水上機3機が飛来した。久しぶりで見る味方機に上甲板にいた乗員は手を振ったが、そのうちの2機が爆弾を投下した。1時間ほどして今度は天山という雷撃機1機がきてまた熊野を爆撃した。幸いいずれも命中しなかった。栗田長官は1018に「損傷艦は接岸航路をとりサンベルナルジノ海峡に向かえ」と令し、熊野の人見艦長は1123に「0724魚雷10番フレーム付近に命中、25番フレームより大破浸水、35番フレーム隔壁に補強、防水確実、出しうる最大速力15ノット」と打電し、1340には「われ2回にわたり味方機(瑞雲、天山)の爆撃を受く。被害なし。1400の位置、サンベルナルジノ灯台の90度45マイル、針路西、速力15ノット」と打電した。

 味方打ちはムカシから陸でも海でもあり、近代になると空でも起きた。6月のマリアナ沖で熊野は先ほど述べたように前衛部隊の1艦として小型空母3隻の護衛についていたが、本隊の大型空母5隻の攻撃隊119機が上空にやってきた。敵味方不明だったが、空母・瑞鳳が発砲したので熊野を含むほとんどのフネが対空砲火を打ち上げ、2機を撃墜、8機に損傷を与えた。発砲しなかったのは武蔵だけだった。

 最近知ったことだが、真珠湾攻撃の翌月、日本海軍の落下傘部隊300数十名が中型攻撃機20数機に分乗して初めて蘭印のメナドに降下する前、味方の水上偵察機が5番機を撃墜、隊員12人と搭乗員が無念の死を遂げている。日本ではなかったが、アメリカでは潜水艦1隻が味方の航空機で、さらに1隻が味方の駆逐艦に沈められている。熊野より数時間あとの話であるが、栗田艦隊本隊も1700ころ味方の99艦爆に誤爆され、このためだ基地航空艦隊の福留中将は「今夜の航空攻撃をとりやめよ、味方打ち多し」と打電している。

 2度も味方機に爆撃されたので、熊野は3番砲塔の上に一番大きな日章旗を展張したが、まもなく今度は敵機に攻撃されることになった。日没1時間ほど前にサンベルナルジノ海峡に入ったが、まもなく急降下爆撃機と雷撃機30数機に攻撃されたのである。航海士の仕事は敵機の攻撃が始るまでは見張員を指揮したり、状況を艦長に報告したり結構忙しいが、いったん攻撃が始ると、終わるまでじっと耐えなければならない。まな板の上の鯉といった心境である。その間、考えていたのは重傷を負って目が見えなくなったり、手足をもがれて生き残るのは真っ平だ、それより一発で死んだ方がいい、ということだった。しかしこのサンベルナルジノ海峡では回避運動の都度陸地に近づくし、味方が入れた機雷原もあるから刻々と陸測位置を出し航海長に報告を続けたから雑念の入る余地はなかった。

 魚雷はすべてぎりぎりでかわし、爆弾も命中しなかったが、至近弾がかなりあり、フネはさらにガタガタになったような気がした。このときは零戦が2機か3機がどこからかきて戦ってくれた。夜になって乗員はほっとした。夜の航空攻撃はないからだった。艦長は1840に「1715より約40分間、サンベルナルジノ海峡にて敵艦上機30機の攻撃を受く。戦果撃墜2機、零戦数機上空にて空戦撃墜3機。出撃時のおおむね逆を通り、コロンに向かう」と打電した。

ここで時間を戻して西村、志摩の両艦隊について述べる。栗田艦隊は23日の午前にブルネイを発したが、西村艦隊は7時間ほどあとの1530に出港しパラワンの南のスル海に入って順調に航行した。栗田艦隊もこのコースをとっていたら、潜水艦にも爆撃機にも攻撃されることはなかったのである。西村艦隊は翌24日の0900過ぎに艦上機7機に攻撃され戦艦・扶桑と駆逐艦・時雨に1発ずつが命中弾を受けたが、戦闘航海に支障はなくスリガオ海峡に向かった。一方キンケードは邀撃準備を進めた。スリガオ海峡入口の南西40マイルから北25マイルまでに魚雷艇39隻を配し、海峡北側のレイテ湾に駆逐艦28隻、巡洋艦7隻、戦艦6隻を配備したのである。

 西村艦隊は魚雷艇の攻撃は数隻に損傷を与えて無疵で切り抜け、25日0125にスリガオ海峡に入ったが、0300前後の駆逐艦の雷撃で扶桑が大破、船体は2つに切断されて漂流を始め、駆逐艦・山雲と満潮が沈没し、朝雲は艦首をもぎ取られた。山城は駆逐艦の魚雷を1本、続いてまた1本を受けたが進撃を続けた。しかし米巡洋艦、戦艦の砲撃を浴び、さらに駆逐艦の魚雷2本が命中して0419に沈没した。重巡・最上は砲撃で損害が増大、海峡入口に向かって避退を始めた。艦首を失った朝雲、若干損傷した時雨も同様に南下を始めた。

 アメリカ側は駆逐艦1隻が中破したが、受けた命中弾18発のうち、11発は味方巡洋艦の6インチ弾、7発が敵の4.7インチ弾となっている。時雨は1発も撃たなかったというから、山城の副砲であったかもしれない。西村艦隊の戦果はこれだけだった。駆逐艦1隻を小破というところである。2つに折れて漂流していた扶桑の前半分は0420ころ、後ろ半分は0520こと沈没したようである。避退中の朝雲は追撃してきた米巡洋艦、駆逐艦の砲撃をうけ0721に沈没した。最上は0900過ぎに艦上機17機に爆撃されて大破し、志摩艦隊の駆逐艦・曙が魚雷を発射して1307に沈めた。西村艦隊は7隻中6隻が沈没、時雨だけが帰還した。

 志摩艦隊は西村艦隊と指揮関係はなく、西村艦隊の数十マイル後ろを続行したが、軽巡・阿武隈は0325ころ魚雷艇の魚雷1本を受けて落伍した。艦隊は0400ころ海峡入口を通過、0420ころ前方に敵らしいものを発見したので、那智、足柄は魚雷を発射したが、目標が何であったかは分かっていない。それから間もなくして旗艦の那智は避退中の最上と衝突し、速力は20ノットに低下した。ここで志摩中将はレイテ突入を断念して避退を令した。損傷した阿武隈は26日午前、ネグロス島沖で米空軍の爆撃機44機に爆撃されて沈没した。

 さて熊野は夜、前日に武蔵が沈んだシブヤン海を通過したが、26日0810、ミンドロ島南方で敵戦闘14機、次いで0845に急降下爆撃機、雷撃機29機に攻撃され、小型爆弾2発が煙突に1発が艦橋左下の上甲板に命中した。煙突の大部分は吹き飛び付近の高射砲や指揮所は黒焦げになり、缶が消えて動けなくなった。艦橋から見下ろすと、左下の25ミリ機銃座は指揮官以下全員が死んでいた。漂流している間にレーダーが大編隊を探知し、やがて肉眼で見えるようになってからまもなくして、水平線の向こうの目標に急降下を始めた。熊野より少し遅れてやってきた栗田艦隊に対する攻撃だった。

 熊野はようやく7ノットで動けるようになったが、間もなく志摩艦隊の重巡・足柄と駆逐艦・霞がやってきてコロン湾まで付き添ってくれた。1530ころコロン湾着、タンカー日栄丸に横付して燃料を補給した。熊野が打電した電報のうち何通かを読んでみる。

0810「ワレ敵グラマン14機と交戦中、地点ヤナサ55」、0845に「敵雷爆29機見ゆ」、0850に「われ航行不能」0830に「われ敵艦上機約30機の雷爆撃を受け、中央部に爆弾1発命中、1缶のほか使用不能、出しうる速力2ノット、コロンに向かう、地点ヤナサ35」1030に「われ航行不能、地点ヤナサ35」1155「航続距離、5ノット20時間」、1553に「われ足柄、霞の護衛を受けコロン湾着」

注 レイテ沖海戦については講師の『レイテ海戦の戦訓ー捷号作戦はなぜ失敗したのか』(中央公論新社、2010年)を参照

米海軍公式年表の10月26日の項には「空母ハンコックのF4F、SB2C、TBMは重巡・熊野を損傷させた」とあり、別の文献は次のように述べている。

 海峡の南の方では攻撃隊の主力がミンドロ島南端沖で西航中の最上級の重巡1隻を発見した。前日サマール沖で損傷した熊野だった。急降下爆撃機4機、雷撃機7機、戦闘機12機から成るハンコック隊が任務を付与され、高度1万4000フィートで散開した。少なくとも1000ポンド爆弾1発が命中し、魚雷2本も命中したかもしれないと報告された。攻撃中に撮った写真は熊野から黒煙、あるいは蒸気が立ち上っていることを示している。停止しており、沈没したと思われたが、後に何とか動けるようになって逃れていた。

 ここでいう写真は資料の1枚目に示したものである。この日使用不能になった兵器類は「12.7センチ高角砲2、25ミリ機銃若干、4式6米二重測距儀1、94式高角測距儀2、94式探照灯2、2号1型電波探信儀1、93式水中聴音機2型甲1、須式60センチ信号用探照灯1」でエンジン関係は「煙突粉砕、1号缶炸裂、5号缶煙路及び補助装置損傷、6号缶、8号缶後部隔壁に亀裂」となっている。コロン湾で横付したタンカー日栄丸の反対舷には志摩艦隊の旗艦、那智がいたが、夕刻になって零戦1機が那智に機銃掃射を加えるのを目にした。熊野は2330に出港、マニラに向かったが、まもなく戦死者を水葬に付した。このときは12ノットを出すことができた。しばらくして駆逐艦・沖波がきて付き添ってくれ、28日0720、キャビテにあった特務艦、隠戸に横付した。艦長は船体、人員の被害を打電したが、人員については25,26日の戦闘による戦死56人、重傷19人で全員入院、軽傷80人、うち31人入院、となっていた。

 ここで熊野が落伍したあとの栗田艦隊について概要を述べる。艦隊はタフィ3の艦上機と護衛の駆逐艦クラスの反撃と、ところどころにスコールがあったことから思うようば戦果は挙がらなかった。徹甲弾が米空母の薄い鋼板を突き抜けて炸裂しなかったのも一因だったとされている。大和は0754駆逐艦の魚雷を避けようとして北を向いてしまい両側を魚雷6本に挟まれたため10分ほど北上を続けた。この間の0800、長官は全軍突撃を命じた。タフィ3はレイテ湾に向かって南下中で大和以外の各艦はこれを追っていたから、北上する長官が南下する艦隊に命令するという妙な形になった。全軍突撃で後方にあった駆逐艦部隊は速力を上げて敵に向かった。往復20分のロスで大和は艦隊から大分遅れてしまい、状況がつかめなくなった。タフィ3を追撃した艦隊の前方にあった金剛、榛名はやはり護衛空母6隻を中核というタフィ2を発見し、榛名は一時砲撃を加えた。

 栗田長官は0911に至って長官は艦隊に集結を令したが、このとき金剛、榛名、利根、羽黒は護衛空母群を射程内に入れており、戦果を拡大できる態勢にあったが命令が出たので反転した。タフィ3から見れば奇蹟のような幸運だった。栗田艦隊が撃沈したのは護衛空母がギャムビアベイ1隻、駆逐艦がジョンストンとホーエルの2隻、護衛駆逐艦がロバーツの1隻だった。ジョンストンは熊野に魚雷を命中させた駆逐艦である。栗田艦隊では追撃中に重巡・筑摩、鳥海、集結後に鈴谷が沈没した。いずれも航空攻撃によるものだった。トン数にしてアメリカ側の損害は1万5900トンに対し、日本側は2倍以上の3万7000トンだった。第1遊撃部隊戦闘詳報は、撃沈、大型空母2、軽空母2、重巡1、軽巡2、駆逐艦4としており、トン数にして合計12万トンになるが、実際には2万トンに満たなかった。アメリカの文献の一つは次のように述べている。

 サマール沖で0700から始った混乱した戦闘は、2時間半続いた。まず戦場を支配したのは米駆逐艦の活躍であり、ジョンストンは雷撃で熊野を落伍させ、ホーエルとヒーアマンは戦艦・榛名、大和と重巡・筑摩という強力な敵と戦った。栗田艦隊の下手な砲撃と米駆逐艦、次いで護衛駆逐艦の積極的な反撃によってアメリカの損害は最小限に留まった。しかし日本軍の砲力によって駆逐艦ジョンソンとホーエル、護衛駆逐艦ロバーツは沈没した。しかし彼らの1時間に及ぶ反撃によって栗田艦隊は混乱し、護衛空母群に攻撃を集中できなかった。大和の艦長は魚雷を避けようと巨艦を真北に向けたため戦闘から外れてしまった。

 また別のアメリカの文献は「駆逐艦ヒーアマン、ホーエル、ジョンストンが栗田艦隊に向かって突進したときヒーアマンのハザウェイ艦長は「突撃ラッパが必要だな」と言った。各艦は至近距離まで迫って魚雷を発射した。ヒーアマンの6本で大和は一時戦列から離れざるを得なくなり、ジョンストンの1本は熊野を戦闘不能にさせた」と述べている。

 集結した栗田艦隊は、いったんはレイテに向かったが30分足らずで反転して北方にいると報じられた敵空母部隊に向かったが、むろん会敵することなく2130にサンベルナルジノ海峡を通過した。この敵空母部隊北方にありという電報は記録が残っていないので、議論の的になったが、南西方面艦隊司令部から出たことはまちがいないようである。

 一方ハルゼーの空母部隊はキンケードの度重なる要請や、ニミッツからの「TF34はいづこにありや」の電報もあって戦艦以下水上部隊を率いて南下したが、栗田艦隊の捕捉には間に合わなかった。栗田艦隊は26日、航空攻撃を受け軽巡・能代が沈没した。残った艦隊は28日にブルネイに入港した。

次に小沢艦隊に着いて簡単に述べる。10月20日に豊後水道を出てルソン北東海面に進出、24日は56機の攻撃隊を出し、一部は敵空母を攻撃したが戦果はなかった。ハルゼーはこの日午後小沢艦隊を発見したので全軍を率いて北上、オトリの小沢艦隊に向かった。25日朝からの航空攻撃で大型の瑞鶴、小型の瑞鳳、千代田、千歳の4空母すべてと駆逐艦・秋月が撃沈された。夜に入って駆逐艦・初月が追撃してきた米水上部隊に、軽巡・多摩が潜水艦に撃沈された。基地航空部隊も全力を空母部隊に指向したが、24日に軽空母プリンストンを撃沈、25日に初の神風攻撃によってタフィ3の護衛空母セントローを撃沈したに留まった。

 さて熊野が28日朝マニラに着いたことは先ほどお話したが、重傷した乗員を入院させ、工作部に依頼して切断した艦首の応急修理を急いだ。翌29日、米艦上機がマニラ湾の艦船を攻撃した。熊野は横付を離し午前中約10機に攻撃されたが被害はなかった。午後熊野は、損傷して湾内に錨を入れていた重巡・那智と青葉のそばに艦尾から小さな錨を入れ、3隻の共同砲火で応戦することにした。夕刻になって約20機が飛来、うち6機が熊野に来襲したが被害はなかった。しかし那智は命中弾を受け中部に火災が発生したが、まもなく鎮火した。熊野の人見艦長は南西方面艦隊司令部に赴き、護衛の1隻を付けてもらって速やかに内地に帰り修理したいと申し入れたが、1隻の余裕もないという回答だった。

 10月31日、連合艦隊長官から熊野と青葉は内地に回航、修理せよという命令が来て、11月4日の深夜に小型船団とともに台湾の高雄に向かうことになった。2000トン級の小型貨物船4隻、小型タンカー1隻を駆潜艇5隻が護衛する船団である。昼間あけ9ノットでルソン西岸ギリギリを北上し、夜はどこかに錨を入れる。高雄まで1週間かかる計画だった。11月5日の0100、出港、マニラ湾を出て青葉及び小型船団と合同して北上を始めた。この日の昼間、何度か米艦上機を見たが来襲しなかった。日没少し前、サンタクルーズ湾に着いて青葉に横付した。

 翌6日、0700に出港ゆっくりと北上を始めたが、ルソン西岸に配置された敵潜水艦4隻に次々に襲撃された。0920ころ、右正横の海岸に大きな水柱が上がったが、上空に敵機はいないので潜水艦の襲撃と分かった。0955ころ、左舷の見張員が「潜望鏡、左60度」と報告、「配置につけ、取舵一杯、前進一杯」が令され、見張員は「潜望鏡潜没、魚雷発射」と報告した。雷跡6本が右舷すれすれをかわっていき、うち3本は海岸の土砂を吹き上げた。

          巡洋艦「熊野」の戦闘と被害(1944/1024ー11.25)

シーン 月日 友軍 海域 交戦兵力 被害
@ 10.24 戦艦5 重巡7 軽巡2 駆逐艦13 シブヤン海 艦上機250の中の7機 爆弾1(不発)
A 10.25 戦艦4 重巡6 軽巡2 駆逐艦10 サマール沖 駆逐艦1、艦上機若干 魚雷1艦首切断
C 10,25 なし サンベルナルジノ海峡 艦上機30 至近弾多数(被害若干)
D 10,26 なし ミンドロ沖 同上 爆弾3煙突飛散、一時航行不能
F 10,29 重巡2 マニラ湾 艦上機20の中の6 なし
G 11,19 重巡1、小型船6,駆潜艇6 ルソン西岸 潜水艦4(23本発射) 魚雷2全部切断、航行不能
H 11,19 漁船(機銃装備) サンタクルーズ湾 艦上機16 死傷若干
I 11,25 漁船1 同上 艦上機30 魚雷4爆弾5(沈没)

 1時間後の1055ころ見張員が「潜望鏡、左60度、25、近い」と報告した。25は2500米の意味である。再び取舵一杯、前進一杯が令され、まもなく見張員が「潜没、発射」と報告、今度は余裕をもって魚雷をかわすことができた。熊野はそのまま敵潜がいたと思われる海面に向かい爆雷8個を投下した。外れた魚雷は6本すべて海岸で爆発した。しかし次の瞬間激動が襲って熊野は左右に大きく揺れた。当たり前のことだが魚雷が当たるとフネは左右に大きく揺れ、爆弾が命中すると激しく上下動する。

 艦橋右舷の張り出しににあった私が振り向くと、右舷中部に巨大な水柱が上がったところだった。艦橋の左舷にあった人見艦長に「艦長、右舷中部に魚雷命中です」と報告した途端、前にも増した激動がきた。2本目が前部に命中したのだった。艦首は25日の魚雷で13米をもがれていたが、そのすぐ後ろに命中さらに15米が吹き飛び艦首から28米を失って、1番砲塔の砲身は海の上に突き出す格好となった。1本目の魚雷は右舷前部器械室に命中した。このとき約40人が戦死したと推定されている。間もなく前後左右の隔壁が破れて機械室4つがすべて満水した。動力を回復する見込みは全くなくなった。万事休すである。熊野は右に11度まで傾斜したがそこで止まった。

 熊野被雷とみた青葉はすぐに信号で「われ曳航能力なし」を送ってきた。道了丸と駆潜艇2隻を残して船団と青葉は北上を再開した。道了丸は2000トンの小型タンカーである。人見艦長は1130ころ船長に曳航を依頼したがウンと言わない。大きすぎるからである。艦長が打った電報には、1105に「敵潜の雷撃を受け航行不能。N16度11分、E119度44分」、1150に「全機満水航行見込み立たず。付近に駆潜艇27号、駆潜艇19号、道了丸、曳航不可能」、1425に「浸水遮防きき、右傾斜11度に食い止めおれり」などがあった。しかし道了丸に曳航してもらうほかに手立てはない。午後になってようやく船長がやってみましょうということになった、私は内火艇に用具と作業員を乗せて道了丸に向かったが、離れてから振り返って、変わり果てた熊野の姿を見た。資料B―3の一番下の絵の姿である。

 道了丸の船尾から熊野の艦尾に曳索が渡され、2000ころからゆっくりと曳航が始った。熊野は後ろ向きの形で1ノットか1ノット半で曳かれた。行き先は少し北のリンガエンだった。ここで、船体の損傷は省略するが、エンジン関係の被害は次のようなものだった。

前部右舷機械室大破、瞬時にして満水、かつ中央隔壁大破により前部左舷機械室もまた瞬時にして満水す。なお軸貫通部、通風路並びに缶室給水戻り管などよりの浸水甚だしく両舷後部機械室及び各軸室も満水するに至り、全く航行不能となる。また本被害により造水能力を全く喪失し、かつ重油搭載可能量約800トンに減ず。4,5号発電機、蒸気とまり使用不能。かつ後部管制盤室満水、4,5,6,7,8番電源通路浸水のため送電不能となり、後部へは応急線により砲塔,舵、消防ポンプ、製氷機、工作機械、常夜灯のみに送電す。1,2号空気圧縮機使用不能。

次はアメリカの文献からである。
 熊野はサマール沖で米駆逐艦により損傷、栗田艦隊から除かれて修理のためマニラに向かい応急修理をした。11月初旬に船団とともに北上を始めたが、これほど危険な旅はなかった。ルソン西岸沖には南西太平洋潜水艦部隊の狼群がいて指揮官はブリームのチャップル艦長だった。ブリームのほかはグイタロ、レイトン、レイで,個々に哨戒中だった。熊野はこれら4隻にまっすぐに向かっていく運命にあった。最初はグイタロで0718に船団を発見した。目標は重巡2隻、貨物船7隻と護衛の艦艇だった。グイタロは熊野を選び、艦首から魚雷6本、艦尾から2本を46秒間のうちに発射した。3本命中を報じたが、熊野は航行を続けた。6分後にブリームが船団を発見して最大の目標を攻撃することに決め、0843に残っていた4本を発射、命中音を3回聴取したが、熊野は沈まなかった。

 レイトンは0846に船団を発見、重巡を攻撃することに決め、0943に6本を発射、3本の命中音を耳にした。熊野は沈んだと思われたが、なお航行を続けてレイの目標になった。レイトンが発射したときレイのキンセラ艦長は接近中でレイトンの魚雷が付近を通過していった。彼は頑強な重巡にマーク18魚雷4本を発射してから深く潜航した。1時間後に浮上すると、艦首を吹き飛ばされた熊野は停止し、タンカーが曳航しようとしていた。1時間46分ほどの間に単一の目標に対し、魚雷23本が発射されたのだった。キンセラ艦長はこの不滅のフネに止めを刺そうとしたが、接近中に座礁してしまった。熊野はなんと粘り強いことか。レイに浸水があり乗員が修理に没頭している間に熊野はルソンの西岸に曳航され、そこで最後のときを迎えることになったのである。

 これがアメリカ側の記録であるが、随分と命中音を聴取したとある。しかしこれは外れた魚雷が海岸で爆発した音である。もしレイが座礁しなかったら、熊野はここで確実に撃沈されていた。青葉には前月に沈んだ駆逐艦・浦波の航海長だった私のクラスの堀剣二郎君が乗っていたが、彼の私あての手紙には「まもなく大振動があり、熊野にはマストの高さの2倍の黒煙が上がった。私は青葉の振動があまりにも大きかったので青葉も被雷したと思った」とある。

 さて道了丸に曳航された熊野はのろのろと北のリンガエンに向かったが、向かい潮と向かい風で一向に進まないので深夜に苦労して反転、11月7日の夕方、2日前に一夜を過したサンタクルーズ湾に戻って後部から中型の錨を入れた。道了丸と駆潜艇1隻は出港して船団を追い、駆潜艇1隻が残ったが、8日に掃海艇と交代した。9日夜、強力な台風にきて錨が海底から外れ南東に流され始めた。座礁を覚悟したが、1200米ほど流されたところで錨が海底をつかんで事なきを得た。なんとか熊野を動けるようにしようという乗員の必死の努力が始った。まず機械室を排水し、左舷後部の機械だけを動かそうとしたのである。

 1軸を動かせば通常の状態なら12ノットは出すことができる。真水が必要だが造水装置は全く使えない。近くの川から真水をとり、カッターで運び始めた。11月17日に、漁船に機銃と爆雷を積んだ第21長運丸というフネがきて掃.海艇と交代したが、真水取りにも協力してくれた。このころは高射砲、機銃の半分は使えなくなっていた。熊野の対空能力は半減していたのである。航海士としての私の大きな仕事は戦闘詳報の作成でブルネイを出てからの詳しい経過を書かなければならない。機密書類の焼却も一仕事だった。交代で当直に立ち昼間は対空見張りに務めた。対空レーダーは使えたが、逆に探知されるのを恐れて使わなかった。

 11月19日午後グラマンの戦闘機が2機やってきて2回機銃掃射を加えていったが、まもなく14機がきてこれにも2回機銃掃射をやられた。一部は爆弾も投下したが、延べ32回の機銃掃射でうんさりした。海面に次々に水しぶきを上げてから船体をカンカンカンを叩いていく。私は艦橋前面の右側いたが、攻撃が終わってから見ると目の前の窓枠に1発ささっていた。1センチか2センチ上でも下でもやられていたところだった。艦橋のデッキにはまだ熱い機銃弾が何発がころがっていた。艦長は2006に「1355より1435までグラマン戦闘機延べ32機来襲、銃爆撃を繰り返す。戦果撃墜2機、被害戦死4名(うち少尉1)、重軽傷19名、その他なし」と打電した。これより先の1902には25ミリ機銃について4500発を消耗、残り3000発(1門100発)となったので、至急5000発の補充が必要、と打電している。この電報から54門あった25ミリ機銃は、使えるのが30門と、ほぼ半減したことが分かる。

 翌11月20日にマニラから「25日着のフネで工作部作業員50名と真水1000トンを送る、と言ってきた。21日、二缶一軸の試運転が行われた。艦橋から見ると艦尾に白い波ができた。半月ぶりにごく一部だがフネを動かすメドがついたのである。結果は良好だったが、蒸気の漏洩が激しいのでさらに修理に努めるることになった。1軸で出せるのは6ノットと推定された。この日私は戦闘詳報を書き上げて庶務主任に謄写を頼んだ。22日マニラからフネがきて機銃弾4500発、応急機材、糧食、軽油などが届いた。

 24日の夕方大型の海防艦・八十島と戦車を輸送するSBと呼ばれる2等輸送艦3隻が入港した。マニラ経由でレイテに戦車をもっていくという話だった。。熊野は19日の戦闘での重傷者を八十島に乗せマニラの病院に送ってもらうことにした。翌11月25日の朝がきた。熊野が沈没する日である。0730、ルソン東方のポリロ岬の見張所から敵艦上機が西に向かうという警報が入って熊野は見張りを強化した。

 まもなくF6F戦闘機が11機飛来、次いで14機が飛来して上空を旋回し始めたが、やがて14機は去り、残った11機が付近の島陰で偽装していた第21長運丸に激しい機銃掃射を加え炎上させた。乗員は島に逃れた。0905東南の方向にに約90機が視認されたが、南を向いていた熊野の前方約20キロを西の海上に向かった。まもなく水平線の向こうの何かを攻撃しているのが見えた。

 あとで分かったが、早朝に出港してマニラに向かった八十島船団で、4隻すべて撃沈された。マニラの病院に送ってもらうはずだった熊野の重傷患者は八十島とともに沈んだ。米海軍公式年表には「タイコンデロガ、エセックスのF6F、SB2C、TBMはラングレーのF6Fとともにサンタクルーズの南西15マイルにおいて海防艦・八十島、と輸送艦112号、142号、161号を撃沈した」と書かれている。

 1210、炎上していた第21長運丸は積んであった機雷が大爆発を起こして沈んだ。午後の2時を過ぎ、乗員は、今日はもう来襲はないのではないかと思い始めていたが、1430、戦闘機と急降下爆撃機がやってきた。戦後に分かったが、このとき熊野を攻撃したのは、空母タイコンデロガのF6F、8機、SB2C急降下爆撃機13機、TBM雷撃機9機の計30機だった。

 急降下爆撃機が一列になって急降下に入った。私は艦橋左舷の拡声器のあるくぼみに半身を入れ片ひざをついていた。目の前の海面に1本、また1本と水柱が上がる。1瞬目の前が黄色く光ったが、次の瞬間真っ暗になり、熱風が全身を吹き抜け、おそろしく熱い空気を吸い込んた。明るくなったので顔に手をやるとべっとりと血がつく。だれかの血だった。半そで半ズボンの防暑服の上に雨着、防弾チョッキ、鉄兜、双眼鏡どいういでたちだったが、見ると雨着の両袖が袖口から肘のところまで裂けていた。爆風が入ったのである。足首がヒリヒリするので見ると、足首からひざまですね毛がきれいになくなっており、右足首の内側が焼け爛れていた。艦橋後方に爆弾が命中したのだった。

 私は倒れている見張員、信号員の間に脚を入れて前に出たが、田島という兵曹が「天皇陛下万歳」と言ったのをミミニした。何かの本に兵隊は本当に「天皇陛下万歳」などと言うのか、と書いてあったが、実際に耳にしたのである。誰かを踏んでしまい、「痛い」とうめき声がしたが、あとで山本という兵曹が航海士に踏まれたお陰で助かりました、と言ってくれた。艦橋の前面に出ると人見艦長以下数名は健在で、艦長が弾火薬庫注水を令したので、私は伝声管について呼んでみたが、応答はなかった。爆撃について熊野の戦闘詳報には「SB2Cは艦尾を右に回りたる後、主として太陽の方向より急降下爆撃開始、被害は連続的にして順序不詳なるも60キロと推定される爆弾は艦橋旗甲板右舷寄りに2発、1番砲塔左舷、飛行甲板左舷に各1発命中」とある。

 私が伝声管から離れたころ見張員が「雷撃機、左130度」と報告した。左後方からTBMが低空で接近して次々と魚雷を投下した。見張員が「雷跡、雷跡」と報告するが、動けない熊野は避けようがない。魚雷は次々と命中したフネはたちまち大きく左に傾斜していった。河辺水雷長が進言して「総員退去」が令されたが、今にも沈むことはだれの目にもはっきりしている。高さ18米の艦橋の左側はまもなく水につかろうとしていた。私は艦橋の右をよじ登り普段は垂直の側壁に立って、雨着、鉄兜、防弾チョッキ、双眼鏡を捨て、脚から飛び降りた。4、5米の高さだったと思う。フネに添って前方に泳いだが、前部の砲塔の横にきたとき熊野は横倒しになった。

 耳栓を外すと対空砲火はやんで静かだが、なお爆音が聞こえる。見上げるとF6Fが1機、TBMが2機残って海面にある乗員に機銃掃射を浴びせている。TBMの後部の機銃員が、からだを乗り出し旋回機銃をうちまくっているのが見えた。やがて3機が去り、ふりむくと艦尾の底とスクリューが見え、そこに数人の乗員の姿が見えた。しばらくしてまた振り返ると熊野の姿はなかった。やがて海の底見えるようになり、まもなく海岸の土を踏んだ。泳いで上陸したのは私と数人だけで、あとの乗員は海岸に置いてあった内火艇、カッターなどに救助された。

再び戦闘詳報を読んでみる。

 引き続き左後方よりTBM群の発射せる魚雷は、2番砲塔左舷、2缶左舷、6缶左舷、5番砲塔左舷(順序不同)、に連続して命中、艦は急激に左へ傾斜し復元の手段を尽くすの余裕なくますます増大、約45度に達し射撃不能となり(これまで撃墜4機確実)、転覆迫れるをもって総員退去を命ず。この後爆撃数回ありしも命中せず、艦はまもなく左に横倒しとなり、次いで艦首沈下、暫時艦尾スクリュー付近水面上にあり。
 1515全没す。敵機は泳ぎいる乗員に対し爆弾2発を投じ、かつF6F1機とTBM2機は低速にて周囲を旋回、固定銃、旋回銃をもって執拗に銃撃を加う。敵機避退す。乗員は桟橋に派遣の内火艇、ランチ、カッターにて収容。1830、全員サンタクルーズ警備隊付近に集結す。生存者、機関長以下准士官以上41名、下士官兵554名。艦長は終始艦橋にありて冷静沈着最後まで乗員を激励力戦、ついに艦と運命とともにせり。

 これが沈没の状況である。今思っても、熊野の乗員の士気は最後まできわめて高かったことに感嘆するが、そのよってきたるところは、人見錚一郎艦長の卓越した指揮統率にあった。全乗員が心服していたのである。

 戦死者は11月19日までに99人、25日の最後の戦闘で艦長、副長を含む399人で合計498人だった。私の分隊員、つまり航海科員はこれまで一人の戦死者もなく喜んでいたが、61名のうち33名が戦死、8名が重傷を負った。ガンルーム、正式には第1士官次室というが兵学校、機関学校、経理学校の出身者と大学出身者の予備士官である、中、少尉の部屋であるが、20名中10名が戦死、私のヤケドも軽傷とすれば9名が重軽傷だった。負傷者を収容した集会所のような建物に行くと、水野軍医長とフィリッピン人の医師が治療に当たっていたが、爆風で胸を痛めた者と沈没後の機銃掃射がやられあものが多かった。

 下士官兵は近くの小学校、士官は古河鉱山の社員の宿舎に泊めてもらった。サンタクルーズには5日間滞在したが、ボートを出して遺体の収容も行われた。私は出来上がった戦闘詳報がなくなってしまったのでまたやり直すことになり、差し当たり最後の戦闘についてあちこち廻って話を聞いた。沈没時の話で驚かされたのは、機関学校出身で2期先輩の工作分隊長、木原大尉の話だった、右舷下の方の一画に部下10名ほどといたが、フネは沈没してしまった。左に140度くらい傾いた形で着底したが、水深が26米ほどだったから圧壊することはなかった。

 丸い舷窓からかすかに陽の光が差し込んでいたが、だれかが舷窓を開けてみようと言い出し、苦労してあけると、室内の圧縮された空気に押されて舷窓から次々に飛び出すことができたのである。木原大尉は必死で水を蹴り、もう息が続かないというときに水面から頭が出たそうである。棺おけのフタを開けて出てきたようなもので、上がったときは敵機の機銃掃射も終わっていた。海底に沈んだフネからの生還は、ほかに聞いたことがない。

 サンタクルーズでは上陸後亡くなった分隊員を埋葬したり、近くの島に明かりが見えたというので深夜に内火艇を指揮して調べたりしたが、29日にマニラから駆潜艇がきて熊野の乗員は乗艇し、夕方出港して翌30日朝マニラ着、大きなビルのガランとした空き部屋に放り込まれた。私は早速、南西方面艦隊の司令部に通って戦闘詳報のために必要な電報類を見せてもらい写し始めた。12月2日の夜、明朝内地行きの航空便があり、熊野の士官10名ほどが乗れるという通知がきた。先任の士官になった山縣航海長は、爆風で胸を痛めているため、乗員の指揮を執っていた白石砲術長が帰国組を決めたが、私もその一人だった。深夜なので分隊員に別れを告げることもできず、3日早朝ダグラスDC−3に乗り、台北で一泊、4日沖縄を経由して夕方、福岡の雁ノ巣飛行場着、夜行列車で呉に向かった。

 マニラに残った乗員のうち、士官の一部はさらに航空便で帰国しており、下士官兵7名は駆潜艇に乗って帰国、20名は輸送船に乗ったが撃沈されて3名だけが帰国している。あとの乗員はマニラの陸戦隊に入れられて497名が戦死した。合計すると乗員1130名中9割を越える1000名以上が戦死したのだった。私がその後に乗った駆逐艦・梨については配布資料に概略を書いてあるが、梨を沈めたのも熊野と同じ、空母タイコンデロガの艦上機だった。同じ空母に乗艦を2度沈められたのは、日本海軍で私一人かもしれない。資料に書いたが、戦後引き揚げられて海上自衛隊で再度のご奉公をした戦闘艦は梨だけである。

最後にプライベートな話になるが、私の父は乗っていた青葉が10月23日にマニラ湾の入り口近くで潜水艦の雷撃により大きく損傷したので軽巡鬼怒に移り、鬼怒、駆逐艦・浦波、輸送艦5隻で10月25日に陸兵の第1回レイテ輸送に成功したが、翌26日に鬼怒、浦波は航空攻撃を受けて沈没した。兄は栗田艦隊の駆逐艦・島風に乗っていた。島風はレイテ沖は切り抜けたが、11月11日レイテ輸送の途中、オルモック沖で沈没、砲術長だった兄は戦死した。父の乗艦が沈んで半月後に兄の乗艦、その半月後に私の乗艦が沈んだわけで、3人とも乗艦を失ったことは、日本海軍が10月から11月にかけて、フィリッピン周辺で多くの戦闘艦を失ったかを示していると言えよう。

                            (おわり)

【ご参考】やや詳しい経過を書いた手記「重巡・熊野の最後」は「なにわ会」ホームページにあります。→http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kumanonosaigo-sakonjyou.html