第9回市来会講演録
「ノモンハン事件」再考

                                                中山 隆志 陸自58(防衛大学2期陸)

東京裁判の矛盾の象徴―日ソ関係史
 ドイツが一方的に侵攻した独ソ戦とソ連が一方的に中立条約を破って侵攻した大東亜戦争末期の日ソ戦ではソ連の立場は全く正反対であった。にもかかわらず極東国際軍事裁判(以後、東京裁判と記す)は日本以外の関係国の事情等は一切無視し、一方的事実認定により日本はソ連邦の誕生の時から一貫対ソ侵略意思を持ち、政策を継続、実際に侵略行動を行ったと判決した。
同判決はソ連邦に対する日本の攻撃作戦として特に昭和13年の張鼓峯事件と同14年のノモンハン事件を取り上げ、いずれも日本側が計画的に準備し、先に攻撃を開始し、完全に敗退したとし、日本軍の作戦行動は明白に侵略的な(後者は侵略戦争というべき)ものと認定している。以後これがソ連の公式史観として定着し、わが国でもこれら事件はすべて日本側の責任として、専ら陸軍・関東軍を批判、指弾することをもってよしとする傾向が強かった。
 ソ連崩壊前後から秘密文書等の公開が始まり、ロシア人研究者の中から一部ではあるが、日ソ関係史を見直す研究者が現れた。日本で知られている研究者(著書等)としては極東関係の歴史学者B・スラヴィンスキー(『考証―日ソ中立条約』平成7年、『日ソ戦争への道』平成11年)、KGB出身のロシア科学アカデミー東洋学研究所先任研究員A・キリチェンコ(「東京裁判へのクレムリン秘密指令」『正論』平成17年7月)などがいる。スラヴィンスキーによると、東京裁判を契機に、国際世論に対しソ連の行動を正当化するために虚偽情報の大掛かりなキャンペーンが行われた。ソ連共産党中央委員会の特別指示により、外務、赤軍、国境警備隊、KGB、検察等の各機関、様々な研究所がでたらめな数字の入った証明書、文書、地図を作成し、都合のよい事実だけが集められて日ソ関係史が偽造された。これらは公開され、様々な本の形で出版された。その影響により今日もロシア国民一般と多くの研究者にも誤った日ソ関係史が植えつけられている。 
 二人の研究者は一致して、張鼓峯事件は東京裁判判決とは全く異なり、ソ連側が自己の主張する国境線(稜線)を越えて陣地を占領したために起ったとする。その直前の昭和13年6月13日、ソ連内務人民委員部極東長官のG・リュシコフがその近くで越境して亡命したため、内務人民委員代理M・フリノフスキーと赤軍政治総局長L・メフリスが極東に派遣され、調査と必要な措置をとっていた。極東方面軍司令官V・ブリュッヘル元帥は、国境警備隊の国境侵犯が軍事紛争を引き起したことに気付き、K・ヴォロシロフ国防人民委員に対し、この事実を指摘して国境警備隊の責任者の逮捕を要求した。しかし、反発したフリノフスキーらの連絡により、スターリンは逆にブリュッヘルをモスクワに召還した。ブリュッヘルは、この紛争で大きな損害を出した責任と、敗北主義的立場をとったことなどを責められ、内務人民委員N・エジョフによる取調べ中に死んだとされている。
(左の写真は広東省のある街の路上に有志が設置したもので通行人が縄や痰を掛けているそうです。『人民日報』の日本語版にありましたが、現在は削除されております)

◆満ソ(蒙)国境紛争の発生 
 日露戦争終結後、日露協約により両国は南北満洲をそれぞれの勢力範囲とした。第1次世界大戦間に誕生したソヴィエト政権は、露清間の不平等条約撤廃を声明したが、結局、北満の権益は手放さなかった。昭和6年の満洲事変、翌年の満洲国建国の結果、清朝の衰微以後、辺境として長らく国境防衛もなおざりにされていたところに、近代軍の実力を備え、意識の高い関東軍が配置され、国境不明確な場所で紛争が顕在化する。
 紛争の発生状況は、日本側の整理に従うと、昭和7〜9年は小規模紛争期で合計152回、昭和10・11年は中規模紛争期で176回・152回、昭和12〜15年は大規模紛争期で、12年113回、13年166回、14年195回、15年151回である。昭和16年以降は第2次世界大戦、独ソ戦のため、紛争は低調となっている。在満鮮日本軍と極東ソ連軍の兵力は、満洲国成立の昭和7年9月で師団数6:8(日本:ソ連、以下同じ)、飛行機数100:200、戦車数50:250で、ノモンハン事件の起った昭和14年末では師団数11:30、飛行機数560:2千500、戦車数200:2千700である。その間、戦力格差は逐年急速に拡大している。

◆張鼓峯事件
 
ー張鼓峯とは朝鮮東岸最北端にあり、ソ連、満州、朝鮮ー日本の3国の国境が接する緊要高地
1 事件の背景
 ソ連は、昭和3年に発足した第1次5ヵ年計画の目標を達成し、昭和8年に発足した第2次5ヵ年計画では急激に軍備を増強した。このような自信が昭和10年7月の第7回コミンテルン大会における、日独を主対象とする反ファシズム人民戦線テーゼの採択や、昭和11年1月のソ連中央執行委員会議におけるM・トゥハチェフスキー国防人民委員代理による東西両正面同時国防強化演説の背後にあるとみられる。昭和12年7月に起った盧溝橋事件が支那事変に拡大し、日本陸軍の大きな兵力が中国戦線に拘束されたこともソ連に対日強硬態度をとる可能性を与えた。
 一方、同12年5月、赤軍の星と言われたトゥハチェフスキー以下高級将校らの逮捕に始まった赤軍大粛清が複雑な影響を与えた。粛清の嵐の中で、生き残るためには必死の忠義立てが必要と考えられた。それでも死の粛清を免れ得ないと考えて、満ソ国境を越えて日本側に逃れたソ連極東地方内務人民委員部長官リュシコフの亡命が張鼓峯事件の直接的原因となったと、前述のロシア人研究者2人が一致して認めている。リュシコフ亡命を受けてフリノフスキーとメフリスが派遣され、原因調査と極東軍の秩序建て直しに当る間に、張鼓峯頂上の占領が行われたのである。国境線についてソ連側は張鼓峯頂上を通る稜線と考え、日本側は張鼓峯東麓を通る線と考えていたが、この付近に兵力を配置しないことが双方暗黙の了解となっていた。

2 戦闘の概要と特徴
 昭和13年7月9日、ソ連兵10数名が張鼓峯頂上に現れ、11日には約40名がソ連側の主張する頂上から西側に張り出して陣地構築中であることが確認された。日本陸軍は、当時漢口作戦を準備中であり、陸軍中央、朝鮮軍とも極めて穏健に反応し、外交交渉により撤退を求め、万一に即応するため朝鮮軍の兵力を事件地正面に集中することにした。しかし、ソ連との開戦を危惧される昭和天皇の御意思を体し、大本営は26日出動部隊の原駐地復帰を命じ、同日以降第19師団の出動部隊は逐次帰還し始めた。
 一方、ソ軍は兵力を推進し、7月29日張鼓峯北方の沙草峯南側高地に進出、工事中であることを発見した第19師団長尾高亀蔵中将16は、新たな事件と考えて独断これを攻撃、撃退した。その後、紛争を避けるため後退すると、ソ軍は兵力を増加し、またもや越境して張鼓峯、沙草峯一帯を占領した。師団長は再び独断、歩兵第75聯隊長佐藤幸徳大佐25指揮する2個大隊余をもって30―31日、夜襲と払暁攻撃により張鼓峯、沙草峯一帯の稜線を占領した。これに対してソ軍は、1個狙撃師団主力をもって8月2〜3日全面攻撃を加えてきたが、日本軍はこれをすべて撃退した。ヴォロシロフは8月3日付指令により、G・シュテルンを第39狙撃軍団長に任命し、3個狙撃師団、1個増強機械化旅団からなる第39狙撃軍団をもってハサン湖地区の敵の撃滅及び国境回復を命じた。ソ軍は8月6日から軍団主力をもって総攻撃を開始した。絶対的な戦力の懸隔下に第19師団は専守防御により善戦し、損害は累増して戦力の限界を危ぶまれたが、8月11日正午をもって停戦が成立した。

3 事件の結末と影響

 第19師団は圧倒的なソ軍の猛攻に対し、張鼓峯南東稜線の大部分はソ軍に制圧されたが、その他の稜線を含むソ軍の攻撃前の陣地を確保した状態で停戦した。日本軍は、戦場付近到着人員8千826(直接戦闘参加は6千814)、砲兵火砲37門がすべてであり、紛争の拡大を防ぐために戦車と飛行機は一切使用しなかった。(参謀本部「(軍事秘密)張鼓峯事件史草案」)これに対しソ軍狙撃軍団の全兵力は人員約3万2千、火砲609門、戦車345両、直接戦闘行動地区に集結したのは人員約1万5千、火砲237門、戦車285両、飛行機250機となっている(A・グレチコ監修『第2次世界大戦史』)。
 日本側の損害は、前掲「事件史草案」の数字が妥当と思われ、戦死526、負傷914、計1千440である。ソ連側では平成5年秘密指定解除によって刊行されたG・クリヴォシェーヴァ『ソ連軍の損害』が最も信頼できると思われ、戦死792、入院(負傷と戦病)3千279、合計4千71である。当初の一部による攻撃の後、圧倒的なソ連軍の攻撃を専守防御で堪えた日本軍は、我よりはるかに多い損害をソ軍に与えた。戦闘参加兵力を日本軍6千814、ソ軍約1万5千とすると、損耗率は日本軍21・2%、ソ軍27・1%になる。これならば、防御側の日本軍が戦力の限界に近づくと同等又はそれ以上に、ソ軍は攻撃の限界に達しつつあったと見てよい。日本側の戦果報告では、ソ軍戦車の破壊又は擱挫98両と報告されている。ソ連側のデータは確認できないが、相当の損害を与えたのは間違いない。損害の大きさがブリュッヘル糾弾の理由の一つになったのもうなづける。
 漢口作戦に専念するためにも、ソ軍との無用の摩擦を嫌った日本軍は中央の指示により、停戦間もなく2週間にわたって死守した戦線から撤退し、豆満江左岸に一兵も置かなかった。ソ軍は日本軍の撤退した後の自己の主張する国境稜線に野戦陣地を構築し、翌年解氷期以降、要点にトーチカ陣地を構築した。日本は実質的に国境線に関する主張を一方的に放棄したのである。
参謀本部の一部で考えた威力偵察の目的も日本側よりむしろソ連側に効果があったと見るべきであろう。その結果が翌年のノモンハン事件の際のソ連側の思い切った大兵力投入につながる。国境線をいとも簡単に放棄して第19師団の死闘を無意味にした責任も全く追及されなかった。この点に最も不満であったのは関東軍であり、本稿では触れないが、ノモンハン事件における関東軍と中央幕僚との確執等の問題にもつながることになる。

◆ノモンハン事件
1 事件原因に関するロシア側記述
 冒頭に挙げた日ソ関係史に新思考を持つ研究者の一人のスラヴィンスキーは先年急死し、新発掘史料による研究がノモンハン事件にまで及んでいなかったのであろう。平成11年の著書『日ソ戦争への道』においても、残念ながらノモンハン事件については、東京裁判の一方的判決につながる従来の紋切り型の記述しかなく、各種の数字もソ連時代の公式戦史の域を出ていない。
 ソ連以来の有力な公式史観は、同事件は日本が一方的に計画し、日本側に最も有利な地域を選び、外蒙を通ってシベリア鉄道を攻撃する橋頭堡を占領しようとしたとするものである。しかしながら、キリチェンコは、そのような「ジューコフの見解には疑問を抱かざるを得ない。このようなことを思い付くのは相当の愚か者だけである」と述べている。またロシア軍事博物館研究員のM・コロミーエツは自著『ノモンハン戦車戦』(平成14年)で、「紛争勃発の原因を日本軍に求め、『モンゴル占領に向かう橋頭堡を手に入れる、張鼓峯事件敗北の報復、ソ連の対中国支援を諦めさせる』等のソ連・ロシアの文献の記述の真偽は、地図を見て少し考えれば説得力に欠ける。このような僻遠の住民の少ない地域を多少奪っても、いずれの目的にも結びつかない」と述べている。
(写真はノモンハン付近の村落)

2 事件の背景
 この事件の真相は、国境紛争の当事者であるモンゴル及びこれを衛星国化したソ連の実情を知らなければ理解できない。誕生間もないソヴィエト政権は、ロシアに代って大正10年に赤軍をモンゴルに進入させ、活仏ジェブツンダンバ・ホトクトを名目上の首長とする制限君主制新人民政府を樹立した。同年モンゴル内で結成された人民党の急進論者による穏健主義者の粛清が始まり、同13年ホトクトの死後、ソヴィェト共和国の体制に似たモンゴル人民共和国が成立した。(モンゴルの内部事情等については、主としてTs・バトバヤル『モンゴル現代史』邦訳版)スターリンは、昭和3年以降コミンテルンの政策方針受け入れの圧力をかけ始めた。封建諸侯、旧体制下の官吏、とりわけラマ教の僧侶・宗教施設を攻撃して財産を没収し、牧民は私有家畜を公共財産とされて生活共同体に加入させられた。これに対し同5年以降各地で反乱が起こり、人民政府は同7年に正規軍と戦車で厳しく鎮圧した。
 日本の脅威を誇大妄想的に過大視するスターリンは、モンゴルを確固たる緩衝地帯とするため、モンゴル内部のすべての階級の敵の排除にかかる。その最大の目標はラマ教の僧侶・寺院であった。モンゴルのP・ゲンデン首相は昭和9年10〜12月、モスクワに招かれスターリンとの会談で口頭による相互軍事援助協定を結んだ。同10年12月、ゲンデン首相は再びモスクワでスターリンと会談し、スターリンは前回に引き続きラマ教寺院の破壊を要求したが、民族派のゲンデンは反対した。
昭和11年2月、ソ連を模した内務省という名でモンゴル秘密警察が組織され、ソ連派のKh・チョイバルサンが首長となった。スターリンの意に従わないゲンデンは、3月にモンゴル人民党中央委員会によって解任され、ソ連に送られて幽閉後処刑された。同月、先の口頭協定は10年間の相互援助議定書に格上げされた。昭和12〜13年の間に800の修道院のほとんどが破壊され、1万6千〜7千人のラマ教の高僧が殺害された。
 昭和12年6月、ソ連で赤軍を対象とする大粛清が始まった。同年8月ソ連内務人民委員代理フリノフスキーがモンゴルを訪れ、「国を危機にさらす日本の協力者の大陰謀」を根拠として、チョイバルサンと協力して「階級の敵」の名簿をつくった。同年9月以降大量のソ軍部隊がモンゴルに進駐(第57特別軍団となる)する中で、モンゴル内の大粛清が開始された。昭和12〜14年にかけて、党・政府指導者、軍の司令官、商工業者の代表者らを含み、5万6〜7千人が「ゲンデン前首相、デミド国防大臣のスパイ網」に関わったとして逮捕され、内2万人余が処刑され、5千700人が監獄に送り込まれた。粛清はソ連におけるスターリンの大粛清をそっくりそのまま真似たものであった。
チョイバルサンはソ連で休暇と静養の5ヶ月を過した後、昭和14年早々に帰国すると、早速国境方面における対日満強硬策を講ずる。次いで3月、党・政府合同会議で、最後に残った民族派の大物A・アマル首相を批判し、アマルは逮捕されてソ連に送られ、後に処刑された。チョイバルサンは、内務大臣の外に、粛清した要人のポストである外務大臣、国防大臣、国軍司令官、首相を兼務し、「モンゴルのスターリン」と綽名されるようになった。

3 事件の発生・拡大
 以下、事件の発生・拡大に関わる問題を3点に絞って検討する。
(1)国境線に関する論争 
 明治39年帝政ロシア軍ザバイカル測量隊調製の8万4千分の1地形図は、ノモンハン方面においてハルハ河を境界としていた。日本側はこのロシア地図をもとに10万分1地図を作成し、満洲国成立以来満蒙国境線はハルハ河としていたが、しばらく問題は起らなかった。しかし昭和10年にボイル湖東岸でハルハ廟事件が起こり、これをきっかけに満洲国とモンゴル両代表による国境協議のための満洲里会議が昭和10〜12年に行われたが、モンゴル内の大粛清によりモンゴル側代表達も粛清されてしまい、満洲里会議は継続不能となった。
 一方、モンゴル側の主張を知った満洲国外交部は、昭和12〜13年にわたり大規模な史料収集と調査を行い、彼らが主張する境界(清国内のハルハ《外蒙》とバルガ《ホロンバイル》の部族境界として清朝が画定)を概略把握した。関東軍はハルハ河の東方にあるその境界線を中央に報告している。しかし、日本側はロシア、ソ連の地図がハルハ河を国境線としており、一七二七年にモンゴル方面の清国・ロシア間の国境を定めたキャフタ条約の記載(山頂、河流をもって界となし……)からもハルハ河が有力であり、外交折衝上必要ある時はハルハ河の線を主張すると決定し、陸軍省から関東軍に通牒していた。ソ連は昭和10年に国境線をハルハ河から東方に移した地図を作っていたが、日本側がそれを知ったのは事件後のことである。これらの事実を否定し難かったのであろう、東京裁判判決文は「…ここで国境の位置を決定することは必要でない。それについてはその後(筆者註=停戦後)に協定がなされた…」となっており、双方が主張する国境線いずれについてもその正当性の認定を回避している。

(2)敵対行為の開始
 国境線の認識が双方違うのであるから、どちらが侵入し、攻撃をしかけたと言っても所詮水掛け論である。しかし東京裁判判決は、敵対行為は日満側によって始められたという検事側の証拠、証言等を受け入れ、日本軍が慎重な準備の後に企てた作戦行動たる本事件は日本側によって行われた侵略戦争というべきものと認定している。日本側の記録・証言、東京裁判における検事側証人の証言等を仔細に見ても、ノモンハン正面のハルハ河東方地区は、いずれの側も常駐警備していなかったのは明らかである。事件当時まで、モンゴル側のノモンハン正面唯一の警備部隊はハルヒンゴル国境警備隊第7国境警備哨所であった。同哨所長チョグドン少佐(当時少尉)に対する東京裁判における反対尋問によって明らかになったのは、同警備哨所はハルハ河西岸約10粁にあって、そこから巡察、歩哨等を派遣した。一方、日満側ではノモンハンに満洲国警察隊分駐所があって蒙系警官が常駐し、適時警察隊が巡察等を行っていた。昭和10年6月にホルステン河付近にモンゴル兵が侵入した事件があったが、以後この正面でモンゴル軍の東岸進出はなく、敵対行為はなかった。
 ノモンハン正面では昭和14年1月に入り、モンゴル側部隊の東岸進出が逐次増加し、満側部隊と接触、交戦する事態が発生するようになった。つまり、双方が自国領と認識していたにせよ、積極的に現状変更をはかって敵対行為を開始したのはモンゴル側なのである。しかし、日本側ではこの方面における敵対行為を憂慮すべき事態とは見ず、同方面担当の日本第23師団情報参謀鈴木善康少佐33によれば、それらは日本が扱う問題ではなく、満洲国軍の専管事項と考えていたという(A・クックス『ノモンハン』)。

(3)事件拡大のイニシャティヴ

モンゴル軍総司令官を兼任するチョイバルサンは、昭和14年1月27日タムスクに至り、侵犯している日満軍の徹底壊滅を命ずるともに、第7国境警備哨所に対してモンゴル騎兵1個中隊、ソ軍中尉の指揮する軽装甲車、高射重機小隊をハルハ河地域に増強した(O・プレブ『ハルハ河会戦―参戦兵士たちの回想』。駐蒙ソ軍第57特別軍団は3月に、有力な部隊をタムスクに推進した。日本側が第1次ノモンハン事件の発端と考える5月11日に始まる衝突は、チョグドンの証言によれば、ノモンハン・ブルド・オボ近くに出した国境警備哨が満側部隊と衝突したもので、チョグドン自身も進出したと証言している。第23師団長小松原道太郎中将18が師団捜索隊長東八百蔵中佐26の指揮する東支隊を派遣すると、モンゴル軍はハルハ河西岸に後退したので、小松原師団長は目的を達したものと認め支隊の帰還を命じた。一方、ソ・蒙側では、チョイバルサンが5月15日頃、国境警備隊に主力到着まで敵の攻撃をハルハ河で阻止するよう命じ、モンゴル軍、ソ軍が次々と兵力の推進を始めた。増強を受けたソ蒙軍は東支隊の引き揚げた後の東岸に進出して陣地を構築した。(D・ヨンドンドゥイチル『モンゴル人民軍50年』)
 関東軍は小松原師団長の意思を尊重し、師団長の権限により山縣支隊(歩兵第64聯隊長山縣武光大佐26指揮する同聯隊第3大隊と師団捜索隊基幹)を派遣した。支隊は28日攻撃を開始、機動速度の速い捜索隊が突進して、東岸配備ソ蒙軍の退路を遮断した。しかし、既に到着していたソ蒙軍の砲兵射撃と機械化部隊の反撃を受け、捜索隊主力は逆に包囲されて東隊長以下出動兵力の半数が戦死する損害を受けた。山縣支隊は31日、命により撤退し、ソ蒙軍も日本側の1個大隊増派措置を日本軍の大規模増援と誤判断して西岸に後退した。
この状況下で5月31日、関東軍は再び事件は落着したものと考え、関東軍参謀長から参謀次長宛「敵はこの方面にさらに甚だしく大なる地上兵力を使用するものとは判断しあらず……」と報告している。この衝突間、空の戦いでソ連空軍を圧倒した航空部隊も6月10日、原駐地に復帰の命を受けて撤収した。この時期に、ソ連側は圧倒的な兵力投入による日満軍粉砕を決意し、準備に着手した。従来『ジューコフ元帥回顧録』等により、白ロシア軍管区司令官代理であったG・ジューコフは6月2日にモスクワの国防人民委員部に出頭して命を受け、5日に現地に着いたことになっていたが、もっと早く行動していたという史料もある。
 ともあれジューコフは「ハルハ河東岸の要点を強固に保持し、縦深からの反撃を準備する」企図を報告し、大規模な兵力増強を要請した。国防人民委員部はこれに同意し、ジューコフを第57特別軍団長に任命し、要請を上回る大兵力(大量の戦車、装甲車、砲兵、航空等を含む)の派遣を決定した。(『ジューコフ元帥回想録』、『モンゴル人民軍50年』)この時点で、ノモンハン事件の勝負はあったと言ってよい。日満側が兵力派遣のつど一段落すると戦場から撤収するのに対し、ソ蒙側は一切撤収することなく一貫して予定兵力を集中投入した。ソ蒙軍の企図、能力等に対する日満側の敵情判断は不十分で、ソ連の手の内を読めず、兵力逐次投入と状況追随的な用兵に終始した。泥沼化した支那事変に足をとられた日本に、本格的対ソ戦争を賭する決意も準備もないことは張鼓峯事件で露呈しており、在東京のソ連スパイ、R・ゾルゲが6月4日に送った日本の実情に関する報告もソ連首脳にさらに自信を与えたであろう(NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ。ゾルゲの真実』)。事件発生前の経緯と併せ、事件の拡大は主としてソ蒙側のイニシャティヴによるものと言える。

(4)事件の結末と影響
 8月20日に始まったソ蒙軍の大攻勢により、日満軍は決死敢闘するが、圧倒的戦力格差により、ほぼソ蒙側の主張する国境線に押し下げられた状態で停戦せざるを得なくなる。9月16日午前3時「@日満軍及びソ蒙軍は9月16日午前2時を期し一切の軍事行動を停止す。A日満軍及びソ蒙軍は9月15日午後1時その占め居る線に止まるものとす」(いずれもモスクワ時間)との停戦協定が成立した。最終的な国境は、日ソ中立条約締結後の昭和16年6月14日妥結した満蒙国境会議協定により確定した。ノモンハン方面では概ねモンゴル側の主張に従い、ハルハ河東岸の最大で20粁程度の線になったが、南方のハンダガヤ方面では、9月に入ってから進出した日本第2師団第15旅団の歩兵第16聯隊(宮崎繁三郎大佐26)や第3独立守備隊の独立守備歩兵第16大隊(深野時之助中佐)等が積極行動に出て、アルシャン方面の鉄道・道路掩護のための地域を確保した。この結果、国境確定によりモンゴル側は500平方粁の領土を失ったと称している。(秦郁彦『昭和史の謎を追う・上』)
 両軍の参加兵力・損害を、ソ連側については、コロミーエツ書等を中心に、日本側については防衛庁戦史叢書を中心にまとめてみる。ソ連側は7万5千の日本軍を破ったというのを定説化しているが、日本軍が九月の反攻をも考えて集中しつつあった部隊を含めた総兵力でも5万8千余であった。7月の日本軍攻勢期、ソ蒙軍の8月攻勢の時期でも実際の戦闘兵力は3万を超えず2万数千程度であったと推定される。一方、総攻撃を開始した8月20日のソ軍兵員数はコロミーエツ書によれば約5万1千950(?がついている)である。日本軍の人的損害は、第6軍軍医部の作成した第2次ノモンハン事件の損耗に、第1次事件、航空部隊、戦車団の損耗を加えて、戦死・不明9千218、戦傷8千939、戦病2千363、合計2万520が妥当な数字と言える。ソ軍兵員の損害は、平成5年のクリヴォシェーヴァ書で、戦死・不明7千974、戦傷1万5千251、戦病701、合計2万3千926という日本軍より多い数字が出て、日本人を驚かせたが、最近の発掘史料により戦死・不明9千703、戦傷等1万5千952、計2万5千655というさらに大きい数字も出ている。
 戦車の損害は、日本側は出動数も少なく戦闘期間も短かったが、73両が参加し、29両が撃破された。ソ連軍の参加総数のデータはないが、8月攻勢開始時の参加数を見ると戦車438両、装甲車385両である。損害について、コロミーエツは極めて良心的で、発掘したデータをそのまま掲載しており、評価、集計はしていない。同書等に掲載されている範囲で明確に全焼または撃破と区分されている戦車は合計340両である。対象は2つの戦車旅団に絞っているので、機械化旅団や狙撃師団のもつ戦車は入っておらず、掲載データの対象期間にはかなり抜けがある。また、修理中・修復の数と撃破数等との関係(内数か外数が)も明確でない。いずれにせよ、340両よりかなり多いことは確かである。データを入手していないが、外に相当数の装甲車の損害が当然ある。飛行機の損害は日本側192機、ソ連側は250機(内43機は非戦闘用)のデータがある。(ジューコフ第1集団軍司令官「ノモンハン作戦全般報告」1939.11.15)
 日本が支那事変処理に苦慮している間に、欧州情勢は急変しつつあった。昭和13年には独墺合邦、ドイツのズデーテンラント進入、14年に入りドイツはチェコスロヴァキアを解体(併合と保護領化)、ポーランドにダンチヒ返還と同回廊を通る東プロシアへの連絡路建設を要求して情勢は緊迫した。欧州に大戦の危機が切迫する中で、ソ連としては西欧とドイツいずれと結ぶか選択を迫られていた。西方でフリーハンドを持つためには日本をおとなしくさせねばならない。ほぼその目処がついたところで、8月23日に独ソ不可侵条約を締結した。それでもなお慎重なスターリンは、9月16日に日本との間にノモンハン事件の停戦が成立した翌日になって、独ソ不可侵条約付帯の秘密議定書に基づく獲物を確保するためにポーランド東部に侵入を開始した。いずれは避け得ないドイツの攻撃を先延ばしすると同時に、日独防共協定を粉砕して日本を国際的に孤立させて東方の脅威をも減殺させた。その後のソ連・コミンテルンの工作を併せて日本を対ソ戦ではなく対米戦に向かわせる上で影響があったとすれば、ソ連の狙いはかなりの長期的効果があったことになる。
 このような政戦略面、本稿では触れなかった従来から指摘されている作戦指導等における問題は少なくないが、戦闘そのものについて見れば、常に相手側から見下ろされる不利な戦場で、大量の装甲機械化部隊を含む圧倒的な兵力、火力、物量のソ蒙軍を相手として、今日の日本人には信じられない程の善戦、敢闘をしたことが、彼我の損害数からも確認できる。その後不敗の名将と言われた事件時のソ蒙軍司令官G・ジューコフ元帥が、戦後アメリカ・ミシガン大学のロジャー・ハケット教授から「戦歴の中で最も困難だった戦いはどれか」と聞かれた時、即座に「ノモンハンの戦いだ」と答えたことからも、日本軍の戦いぶりがわかる。
この精強さが、大東亜戦争の敗勢濃くなっても、昭和20年8月までソ連の敵対行為を抑えたのである。そして8月9日、モンゴル領が満洲側に深く突き出たノモンハン付近は、ソ連軍が満洲侵攻の橋頭堡地域として活用したというのが歴史的事実である。  以上

 この文章は『偕行』2008年3月号に掲載されたものを一部、修正し著者の了解を得た掲載しましたので、当日の講演会の内容とは多少異なる点があることをご了解下さい。

写真の説明
 これらの写真はノモンハンを訪問した時の写真です(20年前)。写真のような中華人民解放軍から払い下げられたシープ7台でホロバインから行きましたが、途中3台が故障し、その都度修理や乗り換えがあり、8時間のところが10時間、見渡す限り砂漠、時々草原があるとモンゴル人のパオがありました。ところが私のジープは徐々に車列から引き離されついに道に迷ってしまいました。ドライバーは自信ありがに走っているので気にしなかったのですが、懐中電灯で車のわだちを探して走る状況が続きましたので、「おい、おい、北極星があちらにあるのに方向が違うぞ」と海軍士官の本領を発揮、そのうちに明かりが見えるだろうと、さらに走りましたが何も見えません。燃料がなくなるというので、「高いところに止めて見張れ」と指示、同行の女性が「飴でもしゃぶったら」と差し出しましたので、「2粒だけにしておけ。発見されなかったら餓死するぞ」。「みんな残りの食べ物を出せ、共同管理しよう」と、このころは私が指揮をとり、さすが自衛官は違うと尊敬の眼差し(笑い)。それにしても帝国陸軍軍人は何一つ目印や目標がない、この砂漠を良くも3日で予定地点に着いたものだと感心しました。写真から荒涼としたノモンハンの実情がご理解頂けるのではないでしょうか。帰りは懲りたので砂漠横断をやめ遠回りでしたが道路を使いました。ここに示した写真はモンハン事件の生起した蒙古系住民の部落(人口800人)にあるノモンハン事件記念館(このような部落でも中央政府への忠誠心を示すために戦争記念館(現地では「愛国心発信基地」と呼称されている)を作っているのですね。

 なお、「歴史を直視し日中友好、永久の平和を祈る」の写真は、廬構橋にある抗日戦争記念館正面入口ロビーにある村山冨一総理の書です。「このように書け、同志」などと言われて書いたのでしょうかね。(平間洋一)