海軍の教育制度
                                                          元防衛大学校教授 平間洋一
はじめに
 武器の優越が勝敗を決定的に左右するため、海軍は多種多様な近代的な武器を装備しており、その武器を運用するため多種多様な教育を必要とした。これらの教育は海軍大学校を頂点として術科教育を行う術科学校、搭乗員や整備員の教育を行う海軍練習航空隊、新兵教育を行う海兵団などで行われていた。日本海軍の教育は安政元年に長崎でオランダのスームビング号艦上で実施したのに始まったが、本格的には安政2年10月から、ライケン大尉など22人のオランダ海軍教育団により長崎海軍伝習所で開始された。次いで安政4年には築地の講武所内の軍艦教授所(慶応2年に海軍所と改名)、明治2年9月に東京築地の旧名古屋藩邸跡に兵学寮、明治9年に海軍兵学校と改称)が設立された。

 この当時の教育は「稽古艦」を使った実技教育で、砲術、運用、航海、蒸気、造船など、初期の海軍教育は術科教育が中心であった。明治7年には横須賀に兵学寮分校(明治11年には兵学校付属機関学校と改称)を設立し機関術を教えたが、明治14年には分離独立して海軍機関学校となった。一方、これとは別に応募や徴兵で海軍に入隊する新兵を教育し、海軍軍人として部隊に送り出す教育機関として海兵団があった。海軍の学校には海軍大臣(海軍教育本部、軍縮後は海軍省教育局)直轄の海軍大学校、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍軍医学校、海軍経理学校や海軍練習連合航空総隊と、鎮守府長官隷下の砲術学校、水雷学校、通信学校、潜水学校、工機学校、さらに太平洋戦争中には電測学校、工作学校、対潜学校、気象学校、衛生学校、魚雷艇訓練所などが新設された。一方、操縦士や整備士など航空関係の教育は教材の関係から、基礎課程から実用機課程までを航空部隊に練習航空隊を置き各航空隊で行っていた。また海軍艦政本部長が掌握する技術者(造兵・造船官や工廠の技師、技手など)の教育機関もあった。

 術科学校の主要な教育課程はいずれの学校も普通課程から高度の専門知識を教える高等科、特定の術科を研修する特修科や専修科があり、経歴と階級に応じて階層的な教育が行われていた。士官の場合は大尉または中尉で高等科に入り、それにより将来の専門がきめられた。これは下士官兵の場合も同様であったが、下士官兵の場合は普通科を終わると「マーク持ち」として職種別特技章が軍服の左腕に付けられ特技手当が付けられていた。なお、海軍では士官は学生、兵学校や機関学校の学生を生徒、下士官兵の学生を練習生と呼称していた。

海軍大学校
 海軍大学校は明治明治21年8月に築地の海軍兵学校跡に「海軍士官ニ高等ノ学術ヲ教授スル所」として開校した。当時の学生は甲号が海上勤務1年以上の大尉で、砲術、水雷、航海、機関長などを対象とした術科教育であった。また、乙号は特定の術科を研究する特修科であった。しかし、明治の後期になると将来、軍政・軍令系の中枢となる者や部隊指揮官になるために必要な戦略、戦術、戦務、軍政をはじめ政治、経済、国際法などが教授された。その後、大正12年には品川区大崎の新築校舎に移転し研究部も創設された。日清戦争や日露戦争、支那事変などでは教育が中断されたが、太平洋戦争では昭和19年3月に第39期の学生が、僅か8カ月の教程で卒業させたのを最後に海軍大学校の教育は終わった。

海軍兵学校
 東京・築地にあった海軍兵学校は兵科将校となる生徒を教育する学校で、昭和一桁代までは採用数が少なく、合格はきわめて難事とされていた。大正期まで在学期間は概ね3年で、旧制高等学校程度の普通学と、初級兵科将校に必要な砲術、水雷、航海などの基礎術科が教授された。昭和2年入校の生徒から3年8カ月に延長され、昭和7年入校の生徒はさらに4年に延長されたが、昭和16年5月には教育期間が3年に短縮された。また、昭和20年には14才(旧制中学校2年修了程度)の少年を、予科生徒として採用したが、これは優秀な若者を陸軍に取られることへの対策でもあった。また、大正9年から准士官や兵曹長から優秀な者を選抜し、1年8カ月の教育を行い士官(特務士官)に抜擢する選修学生課程も開設された。

 太平洋戦争がはじまり生徒数が増えると、昭和18年11月に岩国分校、昭和19年10月には大原分校(江田島市内)、昭和20年3月には針尾分校(7月に防府に疎開して閉校)を新しく設置した。兵学校の創設から終戦までの77年間の卒業生は、1万1182名、戦死者は4012人、戦死者の卒業生にしめる割合は33パーセントで、このような高い戦死率は世界の兵学校にはない。敗戦により兵学校の歴史は幕を閉じた。しかし、伝統と遺産は残った。新生日本で兵学校出身者は自衛隊を育て、さらに政官財学会などの分野で重要な役割を果たしたのである。

海兵団
 新兵教育は明治6年12月に、提督府に水夫・火夫を教育するため練習所が新設されたのに始まり、明治8年には横須賀屯集所が設置されたが、明治9年に東海鎮守府が創設されると、横須賀水兵屯集所と浦賀水兵屯集所が翌10年には東海水兵本営と同分営となり、明治15年には東海本営が水兵屯営、浦賀分営が水兵練習所と改称された。明治22年には各鎮守府に海兵団を設ける「海兵団条例」が定められ、浦賀の水兵練習所が廃止され、横須賀屯営跡に横須賀海兵団が開団した。

 海兵団は下士官兵を収容し必要に応じ各部に送り出すとともに、軍港や要港の防御や警備と陸上の防火などと、入隊する新兵に基礎教育訓練を施し、部隊へ送り出す任務もあったが、大正9年には練習部か置かれ新兵教育が第一の任務とされた。また、横須賀海兵団は新兵教育のほか、軍楽術補習生、特修科軍楽術練習生、普通科や高等科信号術練習生、掌厨術練習生などの特修兵の教育や、初任准士官教育などの教育も行っていた。戦争がはじまると海兵団は朝鮮の鎮海(9000人)、台湾の高雄(9000人)など、合計17個所1分団にまで増えたが、特に朝鮮籍の志願者が多く、昭和16年には45・1倍、17年に62・4倍、18年には48・1倍となた。

海軍機関学校(海軍工機学校・海軍工作学校)
 明治6年に兵学寮に機関科を設けたが、実地教育に適した横須賀造船所で行うべきであると、翌7年に横須賀造船所に兵学寮分校が置かれ、明治11年に兵学寮が海軍兵学校と名称を変えると、兵学校附属機関学校となったが、明治14年には機関学校として独立した。しかし、明治20年には兵学校に吸収されて廃止された。しかし、6年後の明治26年に機関工練習所と技手練習所(後の技手養成所)を機関学校付属機関として再び開校した。機関学校がこのように変遷を重ねたのは、機関科士官を技術者として高等文官とするのか、海軍士官と位置付けるのか、また兵科士官でも機関指揮はできるのではないかなどとの意見があり、身分が確定しなかったためであった。大正12年に関東大震災で校舎が倒壊したため、兵学校に寄宿したが、大正14年に舞鶴に本校舎を建て移転した。しかし、昭和3年に工機学校が再開されると、術科教育が同校に移され本来の機関科生徒を教育する学校となったが、さらに昭和17年には将校制度が改正され兵科と同格とされたため、兵学校と同一系列で教育することになり、機関学校は兵学校舞鶴分校とされた。

 海軍工機学校は機関学校とともに廃校されたり、再建されたり海軍の学校の中では最も改変の激しい学校であった。工機学校は明治17年に機関学校で本工と機関工生徒を合同で教育したことからはじまるが、明治19年7月に鍛冶、木工、機関工と3区分し、鍛冶練習工を兵器局兵器製造所、木工と機関練習工を横須賀造船所に通学させた。明治20年に横須賀にあった機関学校が兵学校に併合されて閉校されると、この校舎を利用して機関学校の名称を引き継ぎ開校したが、明治26年に再び機関学校が横須賀に新設されると、機関工練習所と改称され機関学校の付属となった。その後、明治30年月には機関工練習所を廃止し、新たに機関術練習所を開設したが、明治40年には工機学校と名称を変えた。しかし、大正13年には経費節減から機関学校付属練習科とされ廃校となった。

 溶接技術や潜水作業術などの新しい技術が登場すると、昭和3年に横須賀市久里浜に校舎を新築し工機学校が復活し、昭和9年には高等科も開設された。その後、収容能力が限界を迎えた昭和17年には横須賀市郊外に大楠分校を開校し、さらに昭和19年10月には舞鶴の機関学校が兵学校舞鶴分校に改められると、昭和20年3月には工機学校が再び機関学校と名を変え、大楠分校は大楠機関学校として独立し、二つの機関学校が併立した。なお、昭和20年5月に大竹分校、宇部分教場などが新設された。工作学校は昭和16年に工作(飛行機および築城関係を除く)と潜水作業関係の術科教育を行うこととしては大楠機関学校から分離独立したが、19年には沼津工作学校を新設した。なお、沼津工作学校は航空機の補修、築城、砲台、土木機械や設営隊員の教育を行った。

海軍経理学校
 明治7年に海軍会計学舎を創設し、米海軍主計官バートンにより主計科の教育が始められたが、翌年に閉校、明治15年に再興され、明治19年には海軍主計学校と改称し築地に移転した。しかし、翌明治26年には主計科士官を大学卒業生から採用することとし、少主計候補生の教育は横須賀海兵団、主計科練習生の教育は各海兵団で行うこととし再度閉校した。しかし、明治32年に海軍主計官練習所として少主計候補生と練習生の教育を行う術科学校の性格を併せ持つ学校として再スタートし、明治40年には海軍経理学校と改名した。このように経理学校が変遷を繰り返したのは、術科学校として発足し、のちに生徒の教育を追加し、生徒養成教育と術科教育を同時に行う学校であったことによる。最終的には教育期間、主計少尉任官までの経路は兵学校、機関学校とほぼ同様となったが、大きな違いは身体検査では、裸眼視力O・2(海兵は1・O)を合格ラインとしていたので、眼鏡をかけていても入校できたことであろうか。なお、特修兵養成コースとしては経理術練習生、衣糧術練習生課程などがあった。

海軍軍医学校(海軍病院練習部・海軍衛生学校)
 海軍軍医学校は国家試験に合格した軍医や薬剤官を教育する学校であり、兵学校などの士官養成機関とは異なっていた。軍医学校の創設は明治6年に英国の医学士アンデルソンを招聘し、海軍病院内に創設された海軍病院学舎(翌明治7年に海軍軍医寮学舎、明治9年に海軍軍医学舎)で最初の教育がはじまった。しかし、明治13年には英国人教師の解雇により閉校された。その後、軍備の増強や軍医の不足から、明治15年に医務学舎を設置し、明治17年には軍医学校、明治19年には海軍医学校と改称、さらに明治22年には海軍軍医学校と改称されたが、明治27年には教育を海軍大学で行うこととされ再び閉校した。その後、明治31年に海軍軍医学校として海軍大学校から分離独立し、明治41年3月に築地に移転した。大正4年には潜水医学、航空医学の研究も開始され、大正11年には学校付属病院を開院、昭和12年には治療用品の製造も所管することになったが、この業務は昭和17年には海軍医療廠に引き継がれた。
 明治23年1月に海兵団で5等看病兵の教育を始めたが、明治30年10月には海軍病院に移り、明治33年5月には海軍病院に看護術練習所を併設した。しかし、大正10年6月には看護術練習所を廃止し、軍港所在地の海軍病院に練習部を併設した。太平洋戦争が始まり大量の医官や薬剤官、看護兵が必要となると昭和20年4月に戸塚海軍病院と賀茂海軍病院の練習部を改組して、戸塚衛生学校、賀茂衛生学校を創設した。戸塚は医科、賀茂は薬剤科の大学、専門学校卒業者の教育を担当した。また、戸塚海軍病院、賀茂海軍病院の練習部を改組拡大し、海軍病院練習部が担当していた看護科の下士官兵の各種の教育を実施した。

海軍潜水学校
 大正9年9月に呉に潜水学校が創設されたが、最初は軍艦「厳島」を使用し、呉市吉浦に校舎を新築し陸上に移ったのは大正13年7月であった。初期の教育は兵科と機関科学生の2種であったが、同年11月に潜水艦長を教育する甲種学生課程が設けられた。潜水艦学校は太平洋戦争中に制度、機構に特別の変化はなかったが、昭和17年4月に大竹分校が創設され、11月には大竹分校が本校とされ呉の本校が分校に代わった。また、昭和19年4月には山口県に柳井分校、翌20年6月には瀬戸内海が機雷で使用不能となり能登半島の七尾に分校が創立された。

海軍砲術学校
 日本海軍が砲術の教育を開始したのは、明治3年に英国海軍ホース大尉を教官として、「龍驤」に各艦から乗員を集めて砲術講習を行ったのが最初であった。次いで明治14年には砲術練習艦を「淺間」に指定し、明治26年に砲術練習所を横須賀に開設したが、明治40年4月には横須賀軍港内の楠ヶ浦に校舎を新築し、名称も海軍砲術学校とされた。射撃距離の拡大から大正7年には測的術練習生課程を、大正12年には体育課程を追加したが、昭和に入り日中戦争が拡大すると陸戦隊が重視され、陸戦砲隊、陸戦隊などの教育が追加された。昭和16年6月には館山市に館山砲術学校を開校し、陸戦隊や対空砲関係の教育を移し、横須賀の砲術学校は従来の艦砲と体育関係の教育と任務が分担された。戦争末期には初任軍医、薬剤、技術士官の初任士官教育だけでなく、予備学生の教育も行うことになり、教育人数の増加にともない昭和19年4月には横須賀市長井に長井分校、20年4月には京都府宮津に栗田分校を開校した。

海軍水雷学校(機雷・対潜・通信・電測学校・魚雷艇訓練所)
 水雷術の教育が本格的に開始されたのは、明治11年に英国に発注した「扶桑」、「比叡」、「金剛」が回航され、これらの艦に装備されていた索曵水雷が導入されたことにはじまる。この回航時に英国海軍からゼー・パール技師が扶桑に乗艦して来日したので、「摂津」を水雷術練習艦に指定して伝習を開始したが、翌明治12年2月には水雷練習所を創設し、本格的な教育を開始した。しかし、当時の水雷は防御水雷と呼ばれる現在の機雷であり、本来の水雷(魚雷)が導入されたのは、明治18年7月、ドイツのシュワルッコプ社製14吋伊型水雷の導入からであった。
 明治16年には水雷練習所を廃止して水雷局を設置したが、19年1月にはこれも廃止して横須賀に水雷営、水雷武庫、水雷術練習艦「迅鯨」を置き教育を開始した。明治24年には最初の国産魚雷が開発され、これにより水雷兵器は機雷系防御水雷と魚雷系の攻撃水雷の2系列になった。明治26年には水雷術練習艦が廃止され、横須賀海軍水雷術練習所と校名が変わり横須賀市長浦に移転したが、明治40年4月には水雷術練習所を廃止し、海軍水雷学校として開校した。航空魚雷の実用化にともない昭和9年には水雷術航空魚雷練習課程が新設された。

 昭和16年4月には水雷学校の機雷関係部門を切り離し、横須賀市長瀬に海軍機雷学校を開校した。しかし、攻撃精神一点張りの海軍士官には人気がなく、学生は「嫌い学校」などと自虐していた。一方、米潜水艦による艦船の被害が激増すると、対潜水艦対策を緊急に講じるに迫られ、昭和19年3月に海軍対潜学校と改称され、対潜水艦作戦、爆雷投射、水中測的などが教授された。昭和18年6月には魚雷艇員に対する操縦や機関整備術教育を追加し、翌19年11月には附属施設として長崎県川棚に魚雷艇訓練所を新設し、震洋や回天搭乗員の教育を行った。海軍の通信に関する教育は明治34年4月に無線電信術講習を水雷術練習所ではじめ、明治36年12月には無線電信術課程を新設するなど、日本海軍の無線通信に対する関心は高く、日露戦争の勝利は通信による勝利とも言われている。日露戦争終結後の明治39年6月には掌電機練習生教程を開講し、機関科下上官兵に電気術の教育も開始した。

 通信兵器・器材の発展にともない昭和5年5月には、水雷学校内に通信学校を分離独立させ、昭和9年には横須賀市久里浜に校舎を新築し移転した。昭和13年には高等科電信術練習生に初めて暗号班か設けられ、交信班、兵器班、暗号班の3つの教程に分けられた。一方、航空無線の教育は昭和5年ころには実験研究航空隊がある霞ヶ浦で行っていたが、昭和7年に海軍航空廠(のちの海軍航空技術廠)が設置されると、機上通信、兵器整備が横須賀航空隊に引き継がれ、さらに一部は州崎海軍航空隊へ移管された。
昭和13年には高等科電信術練習生課程に暗号の専修班を設けて教育を開始したが、昭和18年3月には暗号練習生課程を開設し、5月には山口県防府に防府通信学校を開校、従来の通信学校は横須賀通信学校と呼称が変わった。また、レーダーなどの電波兵器の出現により、昭和18年8月には電測術課程を新設したが、昭和19年9月には藤澤分校を海軍電測学校として分離独立させ、さらに昭和20年7月には暗号教育を豊川分校に移した。

海軍航海学校・海軍気象学校

 明治18年12月に運用術練習艦「富士山艦」上で、運用術の教育と並行して航海術が教えらたが、兵学寮の生徒には基礎が、海軍大学校の甲種航海課程学生には高度な理論が教えられ、実習には運用術練習艦に派遣されていた。しかし、大正15年には海軍大学校の航海学生課程を廃止し、これを運用術練習課程に移し学生を航海学生と運用学生の2種とした。昭和9年には運用術練習艦制度が廃止され横須賀に航海学校が開校した。
気象術は兵科士官の常識として航海術の教務の一つとして教えら独立した課程はなかった。しかし、昭和13年ころから航空機の発達にともない、普通科信号術修業者に2ヶ月程度の講習を行い気象特技を付与していたが、昭和18年には高等科、普通科の気象課程を新設し、昭和19年5月には気象専門の分校を霞ヶ浦に開校、終戦5ヶ月前の昭和20年3月には海軍気象学校として独立した。

海軍練習航空隊
 航空要員の術科教育は練習航空隊によって行っていた。大正5年に横須賀海軍航空隊が開隊し、同年10には将校学生、翌6年には下士官に対する航空術の教育も開始された。大正9年には航空隊に練習部が置かれ、航空術学生、航空術機関学生と飛行術練習生の教育が本格的に開始された。大正10年には英国からセルピン大佐以下の教育航空団を招聘し、1年3ヶ月にわたる教育を受け、ここに日本海軍航空の基礎が確立された。大正11年10月には、練習部規則を改定し、航空術練習生、普通科および高等科航空工術練習生の3課程で教育を開始した。この年には霞ヶ浦航空隊も開隊し、横須賀航空隊を気球に関する航空術、霞ヶ浦を飛行術の教育と任務を分担をした。

 昭和4年のロンドン会議で艦艇の保有量が劣勢に押さえられると、航空兵力の増勢に力を入れ、横須賀と霞ヶ浦航空隊を練習航空隊に指定し、霞ヶ関航空隊では基礎的操縦と整備、横須賀航空隊では応用操縦、偵察、航空術(戦技)を教えた。太平洋戦争までは飛行学生や偵察学生は練習航空隊卒業後に実用航空隊で、1年程度の錬成訓練を受けた後、連合艦隊に配属され実戦的訓練を1年から2年行い実戦部隊の基幹要員となるのが一般的な教育であった。昭和13年には練習連合航空隊司令部が新設され、太平洋戦争開戦前には横須賀鎮守府に第11海軍練習連合航空隊(谷田部、百里原、土浦航空隊)、呉鎮守府に第12海軍練習連合航空隊(大分、宇佐、岩国、博多航空隊)が編成された。太平洋戦争が始まるとパイロット教育の必要性がさらに高まり、第13連合練習航空隊の他に9つの連合練習航空隊が編成され、昭和18年2月には連合航空隊を統括する練習連合航空総隊を編成した。

海軍の技術教育
  海軍教育でしばしば忘れられるのが海軍工廠や海軍航空廠などにおける技術教育である。海軍の技術教育は横須賀海軍工廠の前身の横須賀製鉄所で、慶応2年にヴェルニーの進言を受けた幕府が4名の幕臣を伝習生に命じたことにはじまるが、維新後に財政難から中止した。しかし、明治3年に黌舎という正規学校(技術者)と変則学校(職長・技手)が開校された。校長は明治8年までウェルニーが務め、フランス海軍の職工学校の教科書を使って行われた。教育期間は3年で幾何学、微分積分学、造船学、蒸気機関、海軍砲術、築造学などの高度な課目が教えられたが、明治13年には期間が2年に短縮され、予科生徒の教育は工部大学校(東京大学の前身)に委託された。

その後、明治22年に黌舎を廃し、工夫から技工になる者を育成するために海軍造船工学校(予科2年、本科3年)を開校した、しかし、26年には海軍機関学校が創設されたため造船工学校が廃止され、機関学校に海軍技手練習所を置き造船技師の養成を行うこととしたが、明治30年には基幹職工、技師および職長などを養成する海軍造船工練習所を設立した。しかし、国内各地に工業専門学校が創設され工業教育が向上すると、これら専門学校卒業者を技手に採用することとし、明治40年には海軍工廠による技術者養成は一旦幕を閉じた。
しかし、その後に職工の学術的知識が低下したため、大正8年に横須賀に海軍技手養成所を設立したが、昭和3年には呉に移転した。この技手養成所は旧工業中学校程度の学力を有する工員の中から選抜し、造船、造機あるいは造兵に関する工業専門学校程度の学術・技能を教え海軍技手を養成する機関で、呉海軍工廠に第一、航空技術廠に第二、第一海軍燃料廠に第3技手養成所を設置した。さらに昭和15年4月には高等小学校、中学校卒業者を対象にした工員教育機関として、海軍工廠、技術工廠、航空廠、火薬廠、燃料廠などに海軍工員養成所を開所した。この工員養成所には中学校卒業生を対象とした見習科、工員にさらに高度の技量を教授する補修科、中学卒業生を対象とした選科や青年科の4科があった。

その他の海軍の教育
 以上で海軍の教育機関の説明は終わったが、最後にこれらの教育機関を経て太平洋戦争に大きな足跡を残した予科練や予備士官などの功績を書き留めておきたい。海員を有事に動員する着想は明治初期からあり、明治8年に大久保利通内務卿が三菱に補助金を出し、三菱商船学校(東京高等商船学校)を創設させたが、明治や大正期には予備士官として召集するような情勢はなかった。しかし、日中戦争が拡大し国際情勢の急変を受けると、商船学校や海員養成所、水産講習所に海軍から指導者を派遣して軍事訓練を開始し、昭和12年以降召集され、特務艦船などに配属された。また、昭和16年10月以降には一般大学卒業者も逐次召集され、一般兵科予備学生、機関科予備学生などとして大量に入隊させたが、その数は1万3079名に達した。

 また、通常「予科練」と呼ばれる飛行予科練習生の制度は、昭和5年に発足したが、しかし、日中戦争が拡大し国際情勢の急変を受けると、昭和11年から商船学校や海員養成所、水産講習所に海軍から指導者を派遣して軍事訓練を開始し、卒業後に特務艦船などに予備少尉として配属された。また、昭和16年10月以降には一般大学卒業者も逐次召集し、兵科、機関科、飛行科航空予備学生、高等商船や水産講習所出身者は予備生徒などとして大量に動員し、予備学生の数は生徒を含め2万4158人に達した。また、通常「予科練」と呼ばれる飛行予科練習生の制度は、高等小学校卒業程度の学力のある者少年航空兵として昭和5年に発足したが、昭和12年には中学4年修業程度の者を甲種飛行練習生が採用されると、乙種飛行予科練習生と呼称が変わった。昭和18年4月には海兵団入団者から選抜し養成する丙種飛行予科練習生も始まった。なお、甲種飛行予科練習生は13万9720人、乙種練習生は8万7550人、丙種練習生は7732人、一般隊員や乙種志望者から採用した乙種(特)練習生は6841人であった。

 昭和12年には中学4年修業程度の者を甲種飛行練習生、高等小学校卒業程度の学力のある者を乙種飛行予科練習生として教育を開始したが、昭和18年4月からは海兵団入団者から短期間で養成する丙種飛行予科練習生も始まった。なお、甲種飛行予科練習生は13万、9720人、乙種練習生は8万7550人、丙種練習生は7732人、乙種(特)練習生は6841人に達した。これらの飛行予科練習生は全国の約80の練習航空隊で教育を受けたが敗戦前には乗る飛行機もなく、回天や震洋などの特攻隊員として散華した者も多い。予科練の歴史は昭和5年から太平洋戦争終結までの15年間しか存続しなかったが、鍛え抜かれた精神力と卓越した技量を発揮し、予科練を語らずして日本海軍航空史を綴ることは不可能といわれる程の大きな足跡を残した。
また、同じく日本海軍に大きな貢献をしたのが大学卒業と同時に海軍に軍医・薬剤科(4008人)、主計科(3910人)、技術科(7115人)、法務(167人)士官などとして入隊した学徒動員の短期現役士官(短現)であった。また、15才以上、16歳未満(後に14歳以上に改定)の「特年兵」と呼ばれる少年も、水兵、整備兵、機関兵、工作兵、看護兵、主計兵などとして1万7400人が少年兵として貢献したことも明記しておきたい。

おわりに
 国力に劣る日本海軍は戦略も戦術も短期決戦、少数精鋭主義であったが、教育も要員養成も同様であった。日露戦争では海軍大学校を閉校し教官を連合艦隊の参謀などに配置した。日中戦争が始まると昭和12年と14年の海軍大学校の教育を中止した。全力を傾注するほどの作戦行動をとっていない海軍が、なぜ僅か30名程度の次代を担う士官を割けなかったのであろうか。それはワシントン条約締結以後、13年にわたり兵学校の生徒採用数が減らされたため、中堅クラスの士官が不足したからであった。また、4年後の太平洋戦争では、軍縮で51期と52期が50人しか採用できなかったため、指揮官クラスが不足し定年退官後の佐官を召集、若い未熟者を指揮官に任命するなど不適切な補職とせざるを得ず、勝てる戦いに敗北を重ねている。兵学校を卒業して一人前の科長になるのに10年、艦隊参謀や艦長になるには20年が必要である。平和時に「百年兵を養うは一日の為なり」を国民に理解させるのは難しい。しかし、自存自衛の軍備を「一日の為に」整備し維持することは、現在の平和と繁栄を謳歌しているわれわれの義務ではないか。昭和世代は大正世代の「つけ」を払わされたが、平和と繁栄を謳歌しているわれわれが、平成の「つけ」を次の世代の子や孫に払わして良いのだろうか。