日本海軍の対米作戦計画
ー邀撃漸減作戦が太平洋戦争に及ぼした影響ー

    

はじめに

 日本海軍がアメリカ海軍を最初に仮想敵国と公式に認めたのは、 予算獲得上の便宜的想定敵の範囲に留まるものではあったが(1)、 1907年(明治40年)4月に裁可された「帝国国防方針」からであった。 また、 日本海軍が最初にアメリカ海軍を仮想敵国として実働演習(2)を実施したのは、 ホワイトフリートの示威訪問を横浜に迎えた1908年のことであった。
 しかし、 当時は駆逐艦は小型で耐洋性に欠け、 潜水艦も幼稚で補助兵力として期待できなかったこともあり、 長途来航するアメリカ艦隊をバルチック艦隊と同様、 戦艦・巡洋艦部隊を以て日本近海に邀撃し雌雄を決するという作戦であった。 その後、 日本海軍が第1次世界大戦で得た戦訓も列国同様、 「弩級艦隊ハ今日尚ホ海戦ノ大勢ヲ決スル最大要素ニシテ 海軍兵力ノ基幹タル位置ヲ失ハサルモノト謂フヲ得ヘシ(3)」という戦艦中心主義であり、 「巡洋戦艦ノ価値倍々大ナリ(中略)防禦力ノ薄弱ニ帰因セシ一部論者ノ杞憂ヲ一掃シ 今ヤ用兵上欠クヘカラサル艦種ナルコトヲ一般ニ是認セシムルニ至レリ(4)」と、 優速軽快な巡洋戦艦の価値の再確認であった。 そして、 その後も日本海軍は「各国相競フテ高速ノ巨艦ヲ実現シツツアリ(5)」、 との認識に立ち1907年制定の「帝国国防方針」に基づく88艦隊の整備に努め、 1917年には84艦隊、 1918年には86艦隊、 1920年には88艦隊の予算案を通過させ、 1927年には戦艦8隻 巡洋戦艦8隻 巡洋艦22隻 駆逐艦75隻 潜水艦80隻からなる理想的な88艦隊を見る予定であった(6)。

 特に、 アメリカが豊富な財力をもとに大艦隊の建設を始め、 さらに1922年のワシントン軍縮会議で主力艦の保有比率を5・5・3の劣勢に押えられると、 日本海軍は新しい戦法および武器を開発しなければならなかった。
それが1919年以降慣例となり(7)、 1923年改定の「帝国軍ノ用兵綱領」に、 「敵艦隊ノ主力東洋方面ニ来航スルニ及ヒ 其途ニ於テ逐次ニ其勢力ヲ減殺スルニ努メ 機ヲ見テ我主力艦隊ヲ以テ之ヲ撃破ス(8)」と規定された邀撃漸減作戦であった。 以後日本海軍は終始一貫してこの戦略構想の下に、 軍備・艦隊編成・教育訓練等を推進した。 本論は劣勢な勢力により戦わなければならなかった日本海軍が、この制約を補完するために開発した武器、 戦術およびそれに伴う用兵思想が、日本海軍および太平洋戦争にどのような影響をもたらすに至ったかについて考察するものである。

1 邀撃漸減作戦とその武器体系
 日本海軍の対米作戦構想は、 東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、 フィリピン・グアム攻略後は、 太平洋を横断して来攻するアメリカ艦隊を、 潜水艦・航空機および水雷戦隊の夜戦によって逐次撃破し勢力の漸減に努め、 機をみて決戦により撃破するというInterception-Attrition Tacticsと呼ばれる邀撃漸減作戦で、 その武器体系および戦術は概略次のようなものであった(9)。

1 潜水艦部隊を米艦隊の所在地に派遣して、 その動静を監視し出撃した場合は之れを追跡触接し、 その動静を 明らかにするとともに反復襲撃し、 敵兵力の減殺に努める。
2 基地航空部隊を内南洋諸島に展開し、敵艦隊がその威力圏に入るや、 陸上航空部隊は母艦航空部隊と協力 して航空攻撃を加え、 さらに敵勢力を減殺する。
3 敵艦隊が決戦場に入るや、 高速戦艦が護衛する水雷戦隊をもって夜戦を決 行し、敵艦隊に大打撃を与え、夜戦に引き続き黎明以後、 戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を行いこれを撃滅する。

(1)第1段邀撃戦ー潜水艦
 ワシントン軍縮会議で劣勢な比率を強いられると、 日本海軍は事前に敵艦隊の動静を入手し、 全力を所要海面に集中して部分的優位を確保するための偵察兵力として、 また敵艦隊を監視追跡し主力艦隊の決戦前にできる限り漸減し、 艦隊決戦を有利に導く兵力として潜水艦に期待していた。 この結果ロンドン軍縮会議前後には、 日本独特の運用構想のもとに開発した海大型潜水艦、 艦隊型潜水艦も実用の域に達し、 巡洋潜水艦6隻程度を開戦前からハワイ方面に派遣して監視・追跡させ、 敵主力出撃後は4ケ潜水戦隊(15ー18隻)を南洋群島方面、 あるいは敵の来航予想海面に配備することとしていた(10)。

 そして日本海軍はこのような運用構想から、 無補給で太平洋を往復できる航続力を持ち、 艦隊を追尾できる高速大型潜水艦の開発に努め、 1924年には日本独自の構想による最初の艦隊型潜水艦「海大1型」を竣工させ、 また、 偵察能力を強化するため欧米海軍が断念した潜水艦への航空機搭載を推進し、 1932年には航空機を伊5号潜水艦に搭載し世界で初めてその実戦化に成功した(11)。 また、日本海軍の潜水艦の用法が「潜水戦隊ハ適切ナル散開配備ニ依リ敵主力ヲ奇襲スルヲ以テ本旨トス(12)」という散開線の展開にあったため、 1937年から38年には、 潜水艦を指揮する旗艦潜水艦「巡潜3型」を、 続いて1939年から40年には第3次軍備充実計画(B計画と呼称されている)で、 水上速力23・5節、航続距離 1万6千浬の伊9号型潜水艦を完成させ、 さらに1940年には、 効果的な邀撃作戦を実施するため偵察機6機を搭載し、 通信能力を強化した潜水艦指揮用巡洋艦大淀を完成させた。

(2)第2段邀撃戦ー航空機
 海軍は1916年度に最初の3飛行隊設置予算を、 1918年度には5隊を1920年には欧州戦争の戦訓を入れて17隊を、 1924年にはさらに5・5隊の増勢を要求した。しかし、 戦後の経済的不況、 国際連盟の誕生やワシントン条約などによる平和ムードのため、 航空部隊の整備は常に延期、 繰り延べが繰り返され、 欧米諸国に比べ甚だしく遅れ、1931年度までに完成予定の航空隊は、 教育航空隊9・5隊を含み17隊(272機)で、 実用航空隊はわずかに7・5隊(120機)に過ぎなかった(13)。そこで海軍はロンドン条約の調印により「既定方針ニ基ク海軍作戦計画ノ維持遂行ニ兵力ノ欠陥ヲ生ズ 故ニ今次条約ノ成立ヲ見ルニ至ラバ其ノ欠陥ヲ最小限ニ止ムル為メ(14)」、 ロンドン条約による兵力不足の補填として16隊、 アメリカの航空軍備増強対応分として12隊を政府に要求し、 1931年度の第1次軍備充実計画(@計画)で14隊、 昭和9年度のA計画で8隊を増勢することとした(15)。1932年には94式艦上爆撃機が制式化し、 1935年頃には雷撃機や急降下爆撃機の命中精度も一段と向上、 大型飛行艇、 陸上攻撃機等によるアメリカ艦隊主力の捕捉、 航空撃滅戦、 艦隊決戦等の有効性が急速に認められるに至った。
 特に、 1936年には航続距離2700海里の96式陸上爆撃機が完成、 支那事変による実戦経験も加わり1939年ごろには練度も急速に向上した。 また、 1937年1月初頭には南洋委任統治領の軍事利用を制限したワシントン条約が失効したため、 南洋諸島が陸上攻撃機の前進基地として対米戦略上にわかに脚光をあび、 南洋群島の航空基地化の進展は母艦航空兵力のほかに、 陸上航空兵力も邀撃兵力に加わり、 航空関係者からは戦艦無用論が唱えられるにさえ至った(16)。

 特に、 日本海軍はワシントン条約破棄通知後の空母建造は、 「相手国をして建艦競争を誘ひ易いのである程度忍び、 我のみ有する地の利を活用(17)」するため、陸上航空兵力の整備に努め、 1937年度のB計画で14隊(合計53隊)、1939年度のC計画では75隊(合計128隊)を増設したが、 日米関係が緊迫した1940年度のD計画では、 実用67隊、練習93隊(合計288隊)、 大型空母3隻、 水上機母艦2隻、飛行艇母艦7隻の大幅な増強が計画されるなど、 徐々に艦艇重視から航空重視へと移行し、 邀撃漸減作戦の主役が航空部隊へと移行して行った。 また、 航空兵力の戦力化にともない戦術や運用法も逐次改善され、 1938年には陸上航空兵力を機動運用する「海軍連合航空隊令(18)」が制定され、 1941年1月には陸上航空部隊を統一指揮するため第11航空艦隊が、 1941年4月には空母8隻に駆逐艦を付属した4ケ航空戦隊からなる第1航空艦隊が編成された。

(3)決戦段階ー水上艦艇

 ワシントン・ロンドン条約で劣勢な比率に押えられた日本海軍の対応の一つに個艦能力の向上があった。 日本海軍は1923年には5500噸クラス巡洋艦と同等の性能を持つ2890噸の夕張を、 1928年には1万噸クラス巡洋艦に比敵する7100噸の妙高を、 続いて1933年には1万噸クラスで、 8インチ砲5連装10門、 魚雷発射管12門の重装備艦高雄型巡洋艦を進水させ、 さらに条約制限外の艦艇として魚雷発射管9門、 13センチ砲2連装6門を搭載する1680噸の特型駆逐艦を建造した。
 また、 日本海軍は訓練により他海軍を凌駕し得るためか、 条約の制約を受けない兵力であるためか、 魚雷を利用した水雷戦隊の夜襲を特に重視した。しかし、 アメリカ海軍がソルト・レイク・シティー(Salt Lake City)等の優れた巡洋艦を建造し、 水雷戦隊の前衛部隊突破が困難となると、 1929年度の艦隊編成では前衛部隊指揮官である第2艦隊司令長官に全夜戦の責任と部隊(重巡洋艦戦隊)を与え、 第2艦隊を夜戦専門部隊として再編成した。 また、 1933年には金剛型巡洋戦艦を夜戦に投入するための高速化改造工事を開始し、 1934年の海戦要務令の改定では、 決戦前夜の漸減戦を重視し、 巡洋戦艦部隊を積極的に活用することが強調された。 特に、 1935年には射程4万メートルの酸素魚雷が開発され、 以後魚雷を使用した水雷戦術が急速に進歩し、 1937年頃には有事に軽巡洋艦 北上 大井 木曾の3隻に4連装魚雷発射管10基(魚雷40本)を装備する重雷装巡洋艦への改装計画が年度出師計画に組み入れられるに至り、 1939年から1940年には決戦前の水雷戦術もほぼ完成し、 決戦時には本隊の前方20キロに配備される前衛部隊から280本の魚雷を発射し、 その到着時(20分後)に本隊である戦艦群が砲戦を開始することとされていた(19)。

2 日本海軍の戦術思想
兵力劣勢を強いられた日本海軍の戦術、用兵思想にどのような変化が生じたであろうか。 それは強者に対する弱者の戦法である先制・奇襲であり、自己の兵力を消耗することなく敵を倒そうとするアウト・レンジ戦法であった。 以下、日本海軍の体質ともなったこれらの戦術思想について概観してみたい。

(1)先制・奇襲・夜襲の重視

 日本海軍は日清戦争、 日露戦争、 そして太平洋戦争も奇襲という先制攻撃で開始したが、 奇襲・先制攻撃は1907年に策定された最初の「帝国軍ノ用兵綱領」以来、 「海軍ハ敵手ニ対シ努メテ機先ヲ制シ其海上勢力ヲ殲滅スルコトヲ目的トシ 陸軍ハ敵ニ先チテ所望ノ兵力ヲ速カニ1地方ニ集合シ以テ先制ノ利ヲ占ムルヲ目的トシテ作戦ス(20)(著者傍線)」と、 陸海軍の別なく「機先ヲ制シ」、 「敵ニ先チ」、 「先制ノ利」を占める「奇襲・先制攻撃」が強調されていた。

 ハワイ奇襲作戦は山本司令長官の着想といわれているが、 ハワイ奇襲攻撃は1927年に既に海軍大学校学生の図上演習で実施されており(21)、 1936年には同じく海軍大学校作成の「対A国作戦要領」に、 「開戦前、 敵主要艦艇、 特ニ航空母艦AL(真珠湾)ニ在泊スル場合ハ、 敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母機並ニ大艇・中艇)ニ依ル急襲ヲ以テ、 開戦ノ着意アルヲ要ス(22)」と、 空母あるいは飛行艇による奇襲が推奨されていた。 また、 同研究の「GK(マーシャル諸島)東端付近ヨリ発出シ、 予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給(23)」し、飛行艇によりハワイを奇襲すべきであるとの研究の影響からか、 1940年には水上機母艦神威を飛行艇母艦に改造し、 同年のC計画では8機の飛行艇に2週間分の戦闘行動に必要な燃料や弾薬を補給し、 1機を艦上で整備できる水上機専用母艦秋津州の建造を開始した(24)。

 また、 日清戦争・日露戦争と常に劣勢な兵力比率のもとで戦わざるをえなかったためか、 日本海軍の戦法や戦術は水雷戦隊や重雷装巡洋艦、 甲標的(小型潜水艇)等による艦隊決戦直前の隠密魚雷攻撃、 潜水艦や航空機による奇襲や先制攻撃が重視され、 武器や戦術等においてもパナマ運河攻撃用伊400型潜水艦、 敵の艦隊泊地攻撃用特4式内火艇の開発、 潜水艦から隠密に給油を受けた飛行艇による艦隊根拠地の奇襲攻撃等、 正攻法より奇襲的な要素を重視する傾向が強かった。 これは「劣勢ナル我海軍ハ優勢ナ敵ニ対シ尋常手段ニテハ対抗困難ナルヲ以テ 潜水艦ノ利用ニ依リ勝目ヲ求ムルノ外 策ナシ(25)」と、 奇襲的要素の強い潜水艦に期待せざるを得なかったワシントン体制の制約やその貧弱な国力、 日本人固有の弱小民族的体質に起因するものであろうか。

(2)アウト・レンジ思想
日本海軍が劣勢を補うために開発した戦術の一つがアウト・レンジ戦法で、 このアウト・レンジの思想が日本海軍に常に列国より大口径の砲を装備させた。 砲戦において、 魚雷戦において、 航空戦において、 日本海軍は常に相手に優る射程、 航続距離を技術者に要求し、列国海軍より射程の優る大口径砲や酸素魚雷を開発した。 アメリカ海軍は1914年竣工の戦艦ニューヨーク(New York)に初めて35・6センチ砲を装備し、 1921年に戦艦コロラド(Colorado)に40・6センチ砲を搭載後は、 終戦まで主砲の口径を変えなかったが、 日本海軍は1913年に世界で最初に36センチ砲を搭載した巡洋戦艦金剛を、 1919年には41センチ砲を装備した戦艦長門を、 1940年には46センチ砲(射程4万メートル)を搭載した世界最大の超大型戦艦大和・武蔵を進水させ、 また1941年のD計画では50・8センチ砲搭載の戦艦さえ計画していた(26)。

このため「我が主力艦ハ射程ニ於テ4、5千米優越シ」ているので、 「『アウト・レンジ』ニヨリ先制ヲ加フル(27)」べきであるとし、 1939年6月策定の連合艦隊戦策においても、 「我主砲ヲ以テ敵主力トノ射程差ヲ利用シ、 遠大距離ヨリ先制射撃ヲ実施シ敵ノ射撃開始ニ先立チ之ニ1大打撃ヲ加ヘ、 以テ戦勢ノ均衡ヲ破リ勝敗ノ帰趨ヲ決スルハ帝国海軍ニ執リ戦勝ノ一大要訣(28)」であるとしていた。
 また、このアウト・レンジは「敵航空母艦ヲ『アウト・レンジ』シテ先制空襲ヲ行ハントセバ 我攻撃機ハ敵攻撃機ニ比シ 少ナクトモ150浬以上ノ航続力ヲ必要トス。 故ニ飛行機能力ガ敵飛行機ト大差ナキ場合ハ 爆弾量ヲ減ジ(250キロ1発程度ニ)遠距離攻撃ヲ企画スル外 攻撃機ノ半数ヲ以テ空中燃料補給ヲ行ヒ 爾余ノ給油ヲ以テ攻撃距離ヲ延伸セシメル方策ヲ工夫訓練スルノ要アリ 又情況ニ依リ搭乗員ノミヲ救助スルノ手段ヲ講ジ片道攻撃ヲ企画スル要アルベシ(29)」と徹底したものであった。そして日本海軍は航空機の開発においても防御設備を無視して、 航続距離2200キロの零式戦闘機や、 主翼総て燃料タンクでパイロットから一式ライターと恐れられた(30)、航続距離6110キロの一式陸上攻撃機を造らせたのであった。

3 邀撃漸減作戦の太平洋戦争に及ぼした影響

(1)邀撃圏ー防衛圏の拡大
1937年7月に海軍航空本部教育部長大西滝次郎大佐(のち中将)は、 航空威力研究会の結論に基づき「航空軍備ニ関スル研究」を作成し、 「近キ将来ニ於テ艦艇ヲ主体トスル艦隊(空母等随伴航空兵力ヲ含ム)ハ 基地大型飛行機ヨリナル優秀ナル航空兵力ノ威力圏内(半径 約千浬)ニ於テハ 制海権保障ノ権力タルコトヲ得ズ」と述べ、 航空軍備を重視すれば「日米ノ水上艦艇ノ比率等ハ殆ンド問題トナラザルコトニ注意スベシ(31)、 西太平洋に於ける「制海権ノ維持ニ関スル限リニ於テハ 強大精鋭ナル基地航空兵力ノ整備ガ絶対条件」であり、 南洋群島への航空基地の建設は、 「実ニ帝国ニ恵マレタル地形上ノ最善ノ利用方法ニシテ海軍戦略思想ノ一大革命ナリ(32)」と、 邀撃漸減作戦を航空機で実施すべきであると主張した。
さらに、 海軍航空本部長井上成美中将(のち大将)は1940年1月に、 「新軍備計画論」を海軍大臣及川古志郎大将に提出し、「航空機ト潜水艦ノ活躍ニヨリ米ノ主力艦ノ如キハ 西太平洋ニ出現スルヲ得ズ。 艦隊決戦ノ如キハ 米艦隊長官ガ非常ニ無知無謀ナラザル限リ生起ノ公算ナシ」と断言し、 「潜水艦及航空機ノ発達ハ海防上ノ大革命ヲ来シ 旧時代ノ海戦ノ思想ノミヲ以テハ 何事モ之ヲ律スルヲ得ザルコトニ注意ノ要アリ(33)」と、 航空機・潜水艦により長期持久態勢を確立すべきであると主張した。

 この主張は当時「我海軍ノ目的ハ敵艦隊ヲ撃破スルニアリ 敵艦隊ニシテ撃破シ得ンカ 如何ナル問題ヲモ我ガ意ノ如ク之ヲ料理シ得ヘシ」、 「要スルニ戦争ノ目的ハ敵艦隊ノ撃滅ニアリ マタ其目標ハ敵艦隊ノ主力ニアリ(34)」との大艦巨砲主義と、 「決戦ハ戦闘ノ本領ナリ 戦闘ハ常ニ決戦ニ依ルベキモノトス(35)」との、 決戦主義から大きくは取り上げられなかった。 しかし、 開戦時の日米の戦力を比較するならば、 日本海軍はアメリカの空母7隻に対し9隻を保有し、 さらに兵力運用においても陸上航空機の機動運用を可能とした第11航空艦隊、 空母搭載機を統一指揮・運用する第1航空艦隊等の独特の航空運用思想を開発し、 不完全ではあったが世界最初の陸上、 海上機動航空部隊を創設した。 このように日本海軍は潜水艦、航空機等の発達により、 また南洋群島という「我のみ有する地の利を活用」して、 最初は南西諸島を前進基地とし決戦海面を小笠原諸島としていたが、 1936年頃にはマーシャル諸島、 東カロリン諸島を前哨線とし邀撃決戦海面をマリアナ以西に進め、 さらに1940年には邀撃漸減哨戒線を東経160度、 決戦海面を東カロリン・マーシャル線へと(36)、 5・5・3の劣勢な比率にもかかわらず安全圏を逐次東方へと拡大し得たのであった。

(2)軍縮離脱・開戦への加速
太平洋戦争への道程には三国同盟の締結、 ドイツ緒戦の圧倒的勝利、 アメリカの対日圧力、 特に石油の輸出禁止など多くの要素があるが、 このように開戦へと踏み切らせた大きな動機には7割の兵力でも勝算ありとの邀撃漸減作戦の可能性と対米兵力比率が以後急速に悪化するという、 いわゆる「ジリ貧論」が大きな要因であったと考えられる。 軍令部総長永野修身大将(のち元帥)は9月6日の御前会議で、 「我予定決戦海面ニ邀撃スル場合飛行機ノ活用等ヲ加味考量致シマスルニ勝利ノ算ハ我ニ多シト確信致シマス(37)」と邀撃作戦に対する自信を述べたが、 11月1日の政府連絡会議では「敵カ短期戦ヲ企図スル場合ニハ我ノ最モ希望スル所ニシテ邀撃シ勝算我ニアリト確信ス(38)」と、 また2日の軍事参議官会議では「第1段作戦及邀撃作戦ニハ勝算我ニ多シト確信致シテ居リマス(39)」とより強く主張した。 このように永野軍令部総長に「勝算アリ」と言わせたのが、「敵の進攻に伴う島嶼の攻防を誘起し、 われは内線的地の利を得て善戦し、 敵が大損害を蒙って敗退するの余儀なきに陥らしめ、 かくして随所随所に有利な島嶼攻防戦を展開して長期不敗に導くこと強ち不可能にあらず(40)」との邀撃漸減作戦に対する自信(過信)ではなかったであろうか。 7割の対米兵力でも「少なくとも50パーセント以上の勝算を以て邀撃作戦を戦い得る(41)」との海軍の邀撃漸減作戦に対する自信が、 海軍を開戦に踏み切らせる一因となったとは言えないであろうか。

 また、 さらにさかのぼれば昭和初期以降の航空機の性能向上にともなう航空兵力の戦力化が、 不沈空母南洋群島を利用した邀撃漸減作戦成功の可能性を高め、 長らく劣勢な比率に悩んできた日本海軍に「軍縮条約破棄ヲ契機トシテ軍備充実ノ自由ヲ獲得シ自主的ニ帝国国情、 地理的情勢ニ適応セル特徴アル軍備ヲ充実シ 其特徴ニ因ッテ帝国国防ノ安固ヲ求メント(42)」の南洋諸島への自主的軍備構築の願望となり、 海軍をワシントン条約離脱へと導びきはしなかったであろうか。

(3)邀撃漸減作戦の蹉跌

 日本海軍が初めて邀撃漸減作戦を採用したのは1944年5月3日に発せられた「連合艦隊ノ準拠スベキ当面ノ作戦方針(大海指373号)(43)」による「あ」号作戦であり、 アウト・レンジ戦法を全面的に適用したのは同年6月に行われたマリアナ沖海戦であった。 日本海軍は不沈空母「南洋諸島」に多数の飛行場を建設し、 これら「基地航空機を以て彼我機動部隊決戦前、 少なくとも敵機動航空部隊母艦兵力の3分の1を撃破する(44)」ことを目途として約1500機を投入した。 しかし、 これら航空機はアメリカ機動部隊の急襲を受け2月17日にはトラックで270機、 23日にはグアム・サイパンで123機、 3月30日・31日にはパラオで203機を失い(45)、 さらに5月27日のビアク島上陸に伴いパラオ・テニアン所在の第2・第3攻撃集団をニューギニア方面に投入してしまったため、 海戦が始まった時にはマリアナ方面には156機しか配備されていなかった。

 一方、 海上部隊は最新鋭の空母大鳳をはじめ空母9隻、 大和・武蔵などの戦艦5隻、 重巡洋艦10隻、 航空機439機(艦載水上機42機)を投入した(46)。 そして6月19日午前7時半には完全に機先を制して第1次攻撃隊を発進、 以後5波324機を発進させた(47)。 この時点でアメリカ艦隊は日本艦隊の位置を知らなかったし、 日本機の攻撃は米軍機の航続距離外からであった。 一方的な日本軍の先制攻撃でありアウト・レンジ攻撃であった。 「小沢部隊は敵に先んじて敵の位置を発見している。 そして攻撃隊は勢い立って全部出て行った。 正にベスト・コンデションである。 今や何の心配することもない。(中略)それこそ祝杯でも挙げようかというくらいまでに勝利を信じていた(48)」作戦であった。 しかし、 結果はアウト・レンジして発進した航空機は遠距離飛行のために殆ど敵艦隊を発見出来ず、 逆に航空機の航続距離圏外のため、日本艦隊を発見できず攻撃を断念し警戒していたアメリカ艦隊に早期にレーダーで発見され、 圧倒的多数の迎撃戦闘機の迎撃を受け殆ど戦果らしい戦果をあげることなく、 1日の戦闘で243機を失なってしまった(49)。 また、日本海軍はこの作戦に関連して36隻の潜水艦も出撃させたが、 ビアク島上陸にともない展開線をアドミラルテイ諸島方面と誤判断したため戦闘海域に1隻の潜水艦も集中することもなく、20隻を失ってしまった(50)。 これが30年間期待してきた邀撃作戦の成果であった。 このように日本海軍が練りに練ってきた邀撃漸減戦法が、 そして兵力劣勢から海軍の体質ともなってしまったアウト・レンジ戦法が、 太平洋戦争の天王山とも言われるマリアナ沖海戦の敗因の一つともなったのであった。

おわりに
日本海軍は南洋諸島の各島嶼に航空基地を設置したが、 狭い珊瑚礁のため一飛行場に駐機し得る航空機に制限があるため、構想としては各島嶼の航空機を機動運用し、 集中して対処する計画であった。しかし、100海里から200海里も離れた島嶼に分散する航空機を集中するのには、 早期警戒態勢と優れた指揮通信組織が必要であったが、 日本海軍にそのような組織的防空態勢はなかった。 このため、 迎撃機を上回る優勢な航空兵力を集中し得る機動部隊に、 ヒツト・エン・ドランの急襲を受け各個に撃破されてしまった。 また、 基地相互間の支援もレーダーで探知され、 展開先の飛行場上空に待ち受ける母艦搭載機の迎撃を受け大部分を失しなった。 日本海軍が長年期待した不沈空母ミクロネシアを利用した航空邀撃漸減作戦は、 このような科学的欠陥のため殆ど戦果らしい戦果を挙げることなく敗れ去ったのであった。 また母艦機によるアウト・レンジ攻撃はレーダーと組み合わされたEW(Early Warninig)とAC(Air Control)にアウト・レンジされ、 奇襲をモットーとした日本海軍がレーダー・近接信管という技術的奇襲を受け敗退したのであった。

マハンに学んだ日本海軍は、 「艦艇の是と同額の建設費を要したる砲台に対抗し難きは、 尚砲台の艦艇と速力を競ひ難き如し(51)」、 「艦艇の直接攻撃に対して要塞の海正面を防御するは比較的容易なり(52)」というマハンの託宣は、 陸上基地航空兵力と母艦航空兵力、 南洋群島とアメリカ艦隊との間にも適用されると考えたのかも知れない。 しかし、 この原則は航空基地と航空基地との間が数百浬離れた南洋群島では適用できなかった。 不沈空母南洋群島は「機動と集中」による圧倒的な母艦搭載航空兵力の前に覆され、 また「戦艦1隻の砲力は砲兵6ケ師団の砲力に相当する(53)」艦砲射撃によって可能となったアメリカ海兵隊の強襲上陸によって占領されたのであった。



(1) 佐藤鉄太郎『帝国国防史論抄』(水交社、 1912年)470頁。
(2) 土山広端「初めて米国を仮想敵国とするー明治41年海軍大演習」(『東郷』1972年11月)18ー20頁および「海軍大演習及観艦式」 (『水交社記事』第5巻4号、 1908年12月)50ー52頁。
(3) 「戦訓」『欧州戦争海軍関係諸表』(海軍大学校、日付なし)海上自衛隊幹部学校図書館蔵1ー2頁。
(4) 同右、 3ー4頁。
(5) 大正6年10月10日、 加藤(友)海相から勝田蔵相への照議、海軍大臣官房編『海軍軍備沿革』(海軍省、 1921年)133頁。
(6) 「海軍」編纂委員会『海軍 第4巻 太平洋戦争への道』(誠文図書、1981年)42ー48頁。
(7) 高木惣吉『私観 太平洋戦争』(文芸春秋、1969年)11頁。
(8) 大正12年改定の「帝国軍ノ用兵綱領」(島貫武治「日露戦争以降における国防方針、所要兵力、用兵綱領の変遷(下)」(『軍事史学』 第8巻第4号、1973年)69頁。
(9) 防衛研修所戦史室『ハワイ作戦』(朝雲新聞社、1977年)38頁。
(10) 「帝国海軍ノ最小限度所要兵力配備ト米提案ニ依ル帝国海軍保有兵力配備比較図」 同右、 493頁。
(11) 福井静夫『日本の軍艦ーわが造船技術の発達と艦船に変遷』(共同出版社、1956 年)164ー168頁。
(12) 「海戦要務命(改定昭和9年)」 防衛研修所戦史室『潜水艦戦史』(朝雲新聞社、197 9年)38頁。
(13) 防衛研修所戦史室『海軍軍戦備(1)』(朝雲新聞社、 1969年)450頁。
(14) 昭和5年7月23日の海軍軍事参事官会議決議奉答、 同右、 395頁。
(15) 日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(2) 軍備編』(時事通信社、1969 年)29ー51頁。
(16) 源田実『海軍航空隊始末記 発展編』(毎日新聞社、1961年)143ー146頁。
(17) 国防所要海軍兵力、潜水艦並びに常設基地、航空兵力の整備所要数と用法(「昭和 11年自2月至6月 帝国国防方針・帝国用兵綱領関係綴」防衛研究所蔵)。
(18) 「海軍」編集委員会編 『海軍 第13巻 海軍航空航空隊・航空機』(誠文図書、198 1年)60ー61頁。
(19) 海軍水雷戦史刊行会編『海軍水雷戦史』(非売品、 同刊行会、1979年)502ー5 10頁。
(20) 明治40年策定の用兵綱領、 前掲「日露戦争以降における国防方針、所要兵力、用兵 綱領の変遷(下)」9頁(21) 前掲『私観太平洋戦争』13ー16頁。
(22) 海軍大学校編「対A国作戦用兵ニ関スル研究」(海軍大学校、昭和11年)。前掲『海 軍軍戦備(1)』168頁に所収。
(23) 同右、 168頁。
(24) 「海軍」編集委員会編『海軍 第8巻 航空母艦 巡洋艦 水上機母艦』 (誠文図書、 1 981年)81ー83頁。
(25) 「軍備制限問題ニ関スル研究並ニ決議(大正9年9月)」、前掲『潜水艦戦史』24頁。(26) 前掲『海軍軍戦備(1)』177頁。
(27) 同右、171頁。
(28) 防衛研修所戦史室『大本営海軍部・連合艦隊(1)』(朝雲新聞社、1975年)406 頁。
(29) 前掲『海軍軍戦備(1)』169頁。
(30) 千早正隆『日本海軍の戦略発想』(文芸春秋社、1982年)100頁。
(31) 「航空軍備ニ関スル研究(海軍航空本部、 昭和12年)」防衛研修所蔵、4頁。
(32) 同右、 14ー15頁。
(33) 井上成美術伝記刊行会編『井上成美』(井上成美伝記刊行会、昭和57年)、資料編
128ー129頁。
(34) 佐藤鉄太郎述「兵理(未定稿)」(海軍大学校、 大正7年)防衛研究所蔵、11頁。
(35) 前掲『大本営海軍部・連合艦隊(1)』94頁。
(36) 福留繁『史観真珠湾攻撃』(自由アジア社、 1955年、)150頁、 前掲『私観太平 洋戦争』17頁および前掲『海軍軍戦備(1)』155頁。
(37) 日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 別巻 資料編』(朝日新聞社、 1988年) 512頁。
(38) 同右、 554頁。
(39) 同右、 557頁。
(40) 前掲『史観真珠湾攻撃』121頁。
(41) 同右、 135頁。
(42) 前掲『井上成美』127頁。
(43) 防衛研修所戦史室『マリアナ沖海戦』(朝雲新聞社、1968年)337ー338頁。
(44) 源田実『海軍航空隊始末記 戦闘編』(文芸春秋社、 1962年)224頁。
(45) 外山三郎『太平洋海戦史(X)』(教育出版センター、 1985年)25頁。
(46) 野村実『歴史のなかの日本海軍』(原書房、1980年)』171ー172頁および前 掲『マリアナ沖海戦』566頁。
(47) 野村実『海戦史に学ぶ』(文芸春秋、 1985年)202頁。
(48) 草鹿龍之助『連合艦隊 草鹿元参謀長の回想』(毎日新聞社、1952年)186頁。
(49) Samuel,Eliot Morison,History of United States Naval Operations in World
War ,Vol. ,(Boston,Little Brown,1953),p.263.
(50) 防衛研修所戦史室『潜水艦戦史』(朝雲新聞社、1979年)427頁。
(51) Alfred Thayer Mahan,Naval Strategy:Compared with the Principles with the
Principles of Military Operations on Land(Boston,little Brown,1911),p.139. A・T・マハン(尾崎主悦訳)『海軍戦略ー陸軍作戦原則との比較との対比対照』(海軍 軍令部、 1927年 復刻 原書房、 1978年)179頁。
(52) Ibid.,p.435、同右、545頁。
(53) 豊田副武述『最後の帝国海軍』(世界の日本社、 1950年)138頁。