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戦艦大和伝説を再考する
日本海軍はなぜ、大和を造ったか
戦艦大和の構想は1933(昭和8)年ころから具体化していったが、海軍はただ誇大妄想にかられて世界最大の戦艦を造ろうとしたのではない。日本海海戦の勝利で世界に勇名を轟かせた日本海軍ではあったが、ワシントン・ロンドンと二つの海軍軍縮条約によって、海軍兵力が米英の約6割に制限されていた。この両条約の期限が1935年に切れることから、海軍は海軍力の再整備に取り組んだが、そのとき知恵を絞ったのが「数の少ない艦艇で、いかに米英と互角に戦うか」という一点であった。海軍が到着した結論は、敵を射程外から攻撃するアウト・レンジ戦法であった。一般に砲弾は口径が大きいほど遠くへ届く。そこで、敵より口径の大きい主砲を装備して遠い間合から攻撃すれば、敵の砲弾を受けることなく、相手に損害を与えることができると考えたのであった。航空機の性能が低かった当時の戦法としては、合理的な戦法だったのである。また、この46センチ砲には米国海軍が同口径の砲を製造するとしても、研究開発などに長期間を必要とし、その間の4−5年間は優位を維持できること、また、米国が大和と同口径の砲を搭載した戦艦を建造すれば、パナマ運河や西岸の軍港の浚渫、ドックや工作機械などの整備も必要であり、米国に膨大な経済的負担を与えるという時間的経済的アウトレンジも期待していた。

46センチ砲は巨砲ではあったが、すでに48センチ砲の試作に成功しており問題はなかった。発射時の衝撃も甲鈑を構造材料とすることにより解決した。総重量2770トンの砲塔を毎秒2度の速度で旋回させ、砲身を毎秒10度の速度で上下させる難関は1040馬力の水圧ポンプで解決した。 列国海軍は防禦面を2層以上にし、第1層で信管を起動させて弾丸を爆発させ、第2層以下の防禦甲鈑で炸裂した弾片の侵入を阻止する方式を採っていたが、大和は1層の強固な甲鈑で2層以上の防禦効果を発揮させるため、舷側甲鈑を410ミリ(ワシントン305ミリ、アイオワ307ミリ、リシュリュー(仏、343ミリ)とし、さらに命中弾があっても砲弾を防御甲鈑で滑らせ、効力を削減するため外舷甲鈑を20度傾斜させる独特の構造を採用した。煙突の弱点は煙は通すが弾丸や爆弾を阻止する多数の穴を開けた「蜂の巣甲鈑」をボイラーの上に付けることで解決した。また、主砲発射時の爆風は艦橋を完全な閉鎖型とし、飛行機や内火艇などを艦内に格納するなど、列国海軍にはない先進性を見せていた。
軍艦の戦闘力維持の第一の要件は船体を水平に保つことであるが、大和は注水により8度から9度程度の傾斜は回復可能であり、また、魚雷1発を片舷に受け、傾斜修正命令が出されてから5分以内、さらに2発目が同一場所に命中しても30分以内に傾斜を復旧できる排水ポンプも装備していた。さらに艦内の重油の移動や最悪の場合には缶室などに注水することにより、18・3度の傾斜までは回復できるとされていた。これらの防御能力が優れていた証として、シブヤン海に沈んだ武蔵が魚雷20本以上、命中弾17発以上、至近弾20発以上を受けたが、沈没まで4時間45分以上堪えていたことからも実証されよう。大和は列国の戦艦より口径が6センチ多い46センチ砲を装備していたが、この6センチの差によって、射程は列国戦艦より約5キロ長く、炸薬量は約1・8倍もあり、いかなる国の戦艦に比べても攻撃力、防御力ともに圧倒的な強さを持っていた。大和の性能上の問題を指摘するならば、当時の米国の戦艦の速力が23ノットであったことから、27ノットに抑えたこと、「自艦搭載主砲弾に堪えることを防禦目標とする」との原則から、実在しない46センチ砲弾に対する防御を行ったことであろう。もし実在する米国戦艦の主砲に合わせて、40センチ弾程度の防禦とし、砲力・防御力・速力などをバランス良くまとめていれば、活動場面も多少は増加したのではなかったと惜しまれる。
戦艦を比較する場合に、米国人は例外なく大和より2年も遅れて就役したアイオワと比較し、レーダーと連動した射撃指揮装置、33ノットの高速力や、副砲を廃止し対空水上両用砲とした先見性などを指摘する。米国人に「なぜ、大和と同じ時期に建造したワシントンと比較しないのか」と聞いたところ、「戦艦という艦種で世界一を比較するのだから、アイオワと比較するのは当たり前ではないか」と応じる。なるほど、そうかもしれない。しかし、この大和とアイオワの比較に、私は常に世界一をモツトーとしながら、日本に世界一の戦艦を造られてしまったことへの、米国人特有の「コンプレックス」を感じる。米国各地の海軍博物館には、回天や零戦など多数の日本海軍の兵器が展示されているが、ワシントンの海軍中央博物館には、米国の40センチ砲で打ち抜いた大和型砲塔前面(信濃用)の甲鈑は目立つところに展示しているが、大和の砲弾は大きさを比較されるのを避けたいのであろうか、米海軍の40センチ砲とはかなり離れた片隅に展示されている。
沖縄で大和と共に沈んだ第2艦隊司令長官伊藤整一中将は、「こうした偉大な戦艦を造り得たことは」、「大いに民族的な誇りとして自負して良いと思う」と述べたというが、大和は黒船に驚嘆した日本人が造り上げた技術的誇りであり、日本人が到達した巨大プロジェクトの世界的偉業の象徴であった。
大和の戦績:ミッドウエー海戦からガダルカナル撤退まで

大きな期待をもって建造されたが、大和の戦績には見るべきものは何もない。大和の初陣はミッドウェー海戦であったが、空母部隊が一撃を加えた後に戦艦部隊が止めを指すという旧来の艦隊決戦思想から、空母部隊の300海里後方に配備されていた。このため「敵空母ミッドウェー近海にあり」との情報を空母部隊に知らせず、損害を与えた米空母追跡作戦も遠距離のため断念した。また、それに続くガダルカナル争奪戦では、山本五十六長官が大和によるガダルカナル砲撃を主張したが、大和型戦艦の主砲の陸上射撃の効果は少ない、水深が不正確で座礁の惧れがあるなどと見送られ、竣工からフィリピン沖海戦まで、出撃しても敵に遭遇することなく燃料だけを消耗し、寄与したことと言えば、1000余名の陸軍部隊や零戦の補助燃料タンクなどを輸送した程度で、ガダルカナル争奪戦の間、「大和ホテル」と揶揄されながらトラック島に巨体を横たえていた。
大和が本格的な戦闘に参加したのは、米軍の反攻が本土に迫った1943年6月の「あ号作戦」からであった。この海戦で大和は航空機に対して念願の主砲も発射した。しかし、遠距離のため成果はなかった。次の「捷1号作戦」では対空・対水上射撃も行い、主砲31発を含め2万1500発を発射し、サンベルナルジノ海峡通過後の護衛空母部隊には電探射撃も実施した。しかし、護衛空母ガンビア・ベイを撃沈したのは戦艦金剛と重巡利根、筑摩であり、損害を受けた他の艦艇の命中弾も8インチ砲や6インチ砲弾で、大和の砲弾はなかった。ガダルカナル争奪戦に大和を積極的に投入していたならば、戦艦サウス・ダコダがレーダー利用の射撃指揮装置を装備していたとはいえ不完全なものであり、ラバウルの航空部隊と連携すれば、ソロモン海域の制海権・征空権を確保でき、ガダルカナルの戦いをある程度は有利に戦い得たのではなかったか。日本海軍のアウトレンジ思想の裏側にある兵力温存思想が、兵力の逐次投入となり、ソロモン海の制海権の喪失となり、ガダルカナルの敗北を早めたのであった。
先にアウトレンジ戦法は、兵力劣勢な貧乏海軍が編み出した合理的な戦法であると述べたが、裏を返せば兵力温存につらなり、海軍は大事なところで大和の出し惜しみを繰り返した。しかし、大和を温存するうちに、米軍は戦訓を加味してレーダーやソナーなどの新兵器を開発し、暗号解読を進め、あらゆる分野から徐々に大和を無力化し、無用の長物としていったのである。
大和の特攻
そして、最後には沖縄への特攻攻撃が命じられ、大和は1945年4月7日14時23分、魚雷を9本から12本、爆弾を4発(第2艦隊の報告では魚雷8本と爆弾5発)を受け、九州南方海域に沈没し4年5ヶ月の生涯を閉じた。米軍は「艦隊上空の対空砲火は激しく、かつ正確であった。日本艦隊はよく訓練された連携と、すばらしい陣形を保っていた。命中弾が集中した後も、密集陣形は崩れなかった。日本艦隊の対空砲戦指揮官が並外れた指揮能力の持ち主であることを信じさせるに十分であった」と大和の勇戦を讃えている。しかし、この海上特攻作戦で戦艦大和以下、軽巡矢矧・駆逐艦朝霜、浜風、霞、磯風が沈没し、大和2740名(司令部を含む)、第2水雷戦隊981名の合計3721名が英霊となったが、米軍側は爆撃機4機、雷撃機3機、戦闘機3機と、パイロット4名、エアクルー8名を失ったに過ぎなかった。

このようなことから、大和の特攻を非難する声は多い。しかし、当時の状況を見ると、海軍は3月1日には練習航空部隊も改編し、全航空機3770機を特攻部隊に指定し、3月18日から21日には彗星の菊水部隊、桜花の神雷部隊が特攻攻撃を行うなど、航空部隊は総力を挙げて特攻作戦を進めていた。3月18日に東京大空襲があり、19日には焼け野原の戦災地を昭和天皇が御巡幸され、その写真が大きく新聞に掲載され、新聞は艦載機による襲撃が海軍の責任のように書いていた。また、沖縄では陸海軍10万の将兵が血みどろの苦戦を強いられ、30万の沖縄県民が逃げまどっていた。このような時に大和が内海に隠れ、傍観していることが許されたであろうか。もし大和が沖縄に出撃せずに戦いに破れ、爆撃で焼け野原となった呉軍港に横たわっていたならば、国民は大和を許したであろうか。祖国の危機に直面したとき、最後の1機1艦まで護国の任に倒れるのが海軍の伝統ではなかったか。当時の指揮官たちは、勝敗を無視し情義を捨て、民族の抵抗の意志を発揮すべき、また大和の名誉を守るべき最後のチャンスと苦渋の決断をし、出撃を命じたのではなかった。
大和の海軍史的意義
大和が就役しマストに軍艦旗を掲げたその月に、大艦巨砲の時代に幕を引き、航空機の時代の幕を開いたのは、皮肉にも大和を建造した日本海軍であった。開戦劈頭の12月8日に6隻の空母部隊を飛び出した350機が、
停泊中ではあったが海軍力の象徴と考えられていた戦艦4隻を撃沈し、1隻を大破し、3隻を中破した。
また、その2日後には陸上攻撃機が行動中の戦艦プリンス・オブ・エールズ、巡洋艦レパルスを撃沈した。ハワイを襲った機動部隊は、年が明けた1942年1月にはラバウルを、2月にはオーストラリア本土のポートダーウィン港を、4月にはセイロン島のコロンボ港とトリンコマリ港を強襲した。また、インド洋では空母ハーミスと
巡洋艦2隻撃沈し、英国東洋艦隊をアフリカまで後退させた。ハワイに次ぐ大規模な戦略的航空機動作戦であった。
空母6隻を集団的に使用し350機を投入するという大規模なハワイ攻撃と、 それに続く南雲機動部隊の太平洋からインド洋へと地球の3分の1を駆け抜けた絶大な破壊力と機動力が、世界の海軍作戦に一大改革をもたらし、大和の時代が終わったことを示したのであった。
しかし、敗戦後は空母が海軍力の主柱となったが、日本海軍は大艦巨砲主義から脱皮できなかったと非難されている。その中で特に引用されるのが、ハワイ・インド洋作戦の事後研究で、第1航空艦隊航空甲参謀の源田実中佐の「秦の始皇帝は万里の長城を築き、日本海軍は戦艦大和を造った」との批判である。しかし、日本海軍は大艦巨砲主義の亡者であったのであろうか。史実は逆であった。太平洋戦争開戦時に、日本海軍は1○隻(1隻は特設空春日丸)の空母を保有していたが、米国は8隻(制式空母7隻と商船改造の空母ロングアイランド)であった。また、日本海軍は開戦前の昭和16年11月の軍備充実計画では、優先順位の第1位を航空機とし、戦艦を第7位(空母は3位)に下げた。また、当初は大和級の戦艦を4隻建造する計画であったが、実際に建造したのは大和と武蔵の2隻だけで、3番艦の信濃はミッドウェー海戦後に空母に改装され、4番艦は解体し戦争中に1隻の戦艦も造らなかった。
一方米海軍は、日本海軍が航空機の威力を示した後も戦艦の建造を継続し、サウス・ダコダ型4隻、アイオア型5隻(2隻は終戦で中止)、アラスカ型2隻(終戦で中止)など11隻の戦艦を造り続けた。また、英国海軍も戦争が終わった1年後の1946年にヴァンガードを完成したが、フランスはさらに遅れて、1949年にジャン・バールを完成した。そして、源田中佐も終戦後には「航空主論に対する対応は、何にも日本海軍のみが誤ったわけでなく、列国いずれも間違った判断処置をした。日本海軍などは、まだ、処置の速かった方である」と前言を取り消している。

戦艦大和は確かに貧乏国の日本にとり「床の間の飾り」としては、高い買い物であった。しかし、もし、大和に5○機程度の防空戦闘機が付けていれば、どのような結果となっていたであろうか。あれほど無惨な敗北にはならなかったのではないか。航空機によって制空権を確保し、水上部隊の総合的海軍力(打撃力・長期展開力・海兵隊なの揚陸能力など)を発揮するという、古来いわれてきたウェル・バランスド・フリートという海軍力の特質は不変なのではないか。それは現在の第7艦隊の艦艇の構成や活躍を見れば理解できのではないか。
ここで忘れてならないことは、戦後、日本が造船や自動車といったモノ造り大国として復興していくための萌芽が、大和の建造を通じて得られたことである。たとえば駆逐艦1隻分の重さの砲塔を秒刻みで動かすメカニズム、VH甲鈑やMNC甲鈑などの特殊鋼や溶接技術、射撃角度を瞬時に機械的に計算する射撃指揮装置などの新技術が大和とともに開発された。またブロック工法や、作業管理や品質管理、コスト管理といった工程管理は、戦後の日本のメーカーでは当たり前に行なわれているが、その多くが大和を造った呉海軍工廠から始まっていることにも注目すべきであろう。46センチ砲をはじめ、大和に搭載された新技術は、黒船に驚嘆した日本人が明治以来進めてきた近代化の一つの到達点であり、近代日本が誇るべき歴史的文化財であった。また、その最後は悲運ではあったが、ただただ国のためにと生死を顧みずに散っていった日本民族特有の強い祖国愛や同胞愛の象徴でもあった。この大和への国民の想いが、映画の「戦艦大和」やアニメの「宇宙戦艦大和」となり、プラモデルの定番となり、多数の出版物(約140冊)となり、呉市に大和ミュージアム
(愛称・正式名称は呉市海事歴史技術館)を建設させ、その建設に全国から多数の寄付が寄せられ続けているのであろう。