父が子に教える昭和史の25のなぜ
戦艦大和は時代遅れの鉄屑だったか

 戦艦大和には日本人の心をひきつける「神秘性」がある。それは大和が日本人が造った世界最大の戦艦であり、日本の技術の頂点を極めた戦艦であり、またその壮絶な最期が日本人の戦い方を象徴しているからであろう。同時に大和ほど批判される戦艦もない。はたして大和ば本当に「時代遅れの鉄の塊」だったのだろうか。大和建造計画は昭和8年に始まる。海軍はただ誇大妄想にかられて世界最大の戦艦を造ろうとしたのではない。海軍の目的は、世界で最も口径の大きい主砲を搭載した戦艦を造ることだった。その背景には日本海軍なりの戦略があった。有体にいえば、日本海軍は米英海軍に比べて「貧乏海軍」だった。

 日露戦争の日本海海戦の勝利で、世界に勇名を轟かせた日本海軍であったが、その後列強から圧カを受け、ワシントン・ロンドンとニつの海軍軍縮によって、米英の約6割の海軍力しか持てなくなってしまった。この両条約の期限が昭和10年に切れることから、海軍は海軍力の再整備に取り組んだが、そのとき知恵を絞ったのは「数の少ない艦艇でいかに米英と互角に戦うか」という一点だった。そこで海軍は1隻あたりの質を高める戦略を採った。一般に砲弾は口径が大きいほど遠くへ届く。そこで、敵より口径の大きい主砲を装備して遠い間合から攻撃すれば、敵の砲弾を受けることなく、相手に損害を与えることができる。これを「アウトレンジ戦法」と呼び、限られた兵カで米英と戦うための合理的な戦法だったのである。日本海軍では伝続的に大口径砲の研究を進めてきたが、大和に搭載された46センチ砲はその到達点であった。同時斯のアメリカの最新鋭戦艦のアイオワの主砲は40センチ砲。この6センチの差によって、射程でアイオワより約5キ日長く、炸薬量は約1・8倍多く、貫徹できる甲飯も最大で約100ミリも厚く、大和はまさに世界最大の攻撃力を実現していた。海軍は、大和と、同級の武蔵の2隻を連合艦隊の要と位置づけた。ちなみに大和の主砲の口径は最高機密とされたが、当時の日本人はこの機密をよく守り、アメリカが口径を知るのは終戦後のことになる。アウトレンジ戦法は貧乏海軍が編み出した合理的な戦法であると述べたが、裏を返せば兵力温存思想につらなり、海軍は大事なところで大和の出し階しみを繰り返した。

 太平洋戦争開戦直後の昭和16年12月に竣工した大和は、翌年ミッドウェー海戦やガダルカナル作戦支援に参加する。ミッドウェー海戦では大和は空母部隊の後方に控えていて艦隊決戦の機会は訪れなかった。その後は兵員や弾薬の輪送に使用されるくらいで、トラック島の停泊地に巨体を横たえていることが多かった。ガダルカナル作戦では、トラックからガダルカナルヘ出撃して、46センチ砲による艦砲射撃で陸軍を援護すべきだという意見も出た。これが実現していれば、ガダルカナルの制海権と制空権を確保し、戦況は有利に展開したかもしれない。しかし海軍はガダルカナル周辺の正確な海図を持っておらず、座礁の恐れがあるという理由で却下された。戦わない大和は「大和ホテル」とか「大和大学」などと郡楡された。もし、大和が出撃していれば、戦局が変わっていたかもしれない、と思える機会は何度かあった。しかし海軍が大和を温存するうちに、米軍は兵力だけでなく暗号の解読やレーダーの開発など情報面でも日本海軍を圧倒し、海軍は多くの艦艇と航空機とを失っていった。

大艦巨砲主義批判は「後智慧」

 大和に対する批判では「大艦巨砲主義の遺物」が代表的だ。では日本海軍はそんなに大艦巨砲主義に固執していたのだろうか。航空主兵論を早くから唱えていたのは山本五十六元帥である。昭和10年に海軍航空本部長になった山本は、軍令部や艦政本部に対して多額の費用を必要とする大型戦艦を建造するより、航空兵カの整備にカを注ぐべきだとしばしば進言していた。しかし当時の世界の趣勢は、目本だけでなく米国も英国も大艦巨砲主義で、決して航空重視ではなかったのである。たとえば米海軍は太平洋戦争開戦時点では空母を8隻しか保有しておらず、日本の10隻よりも少なかった。米海軍は反対に17隻の戦艦を保有していたが、日本ば11隻であった。しかも、ハワイ、マレー沖海峨で日本海軍の航空機に戦艦を撃沈される経験をした後も、米海軍は21隻の戦艦を造り続けているのである。英国海軍とフランス海軍も戦艦を戦争中に建造し続け、就役したのは戦後であった。一方の日本は、開戦前の昭和16年11月の軍備充実計画で優先順位の第1位を航空機とし、戦艦を第7位に下げている。海軍は当初大和級の戦艦を4隻建造する計画であったが、実際に建造されたのは大和と武蔵の2隻のみで、2番艦の信濃はミッドウェー海戦後に空母に変えられ、4番艦はスクラップにされた。

 つまり、日本海軍の方が列強よりも早く大艦巨砲主義からの転換を図っているといえるのである。確かに、山本五十六が航空主兵を唱えた昭和10年前後に、思い切った軍備の転換を図っていれば、全く違う展開があったかもしれないが、現在の価値観でことさらそう一言い募みのは「後知恵」に過ぎないだろう。現在の目本でも一度始めて.しまったダムや高速道路の建設を途中で止めようとすると大工事が残る。昭和12、4年の時点で、大和や武徳の建造を中止することは、その何百倍も困難なことであった。言い換えれば、高速道路やダムなど大和の頃と同じ問題を現在の日本も抱えているといえるのである。大和はその後のフィリビン沖海戦でもはかばかしい戦果をあげられず、46センチ砲も発射したものの命中弾はなかった。そして、昭和20年4月7日、水上特攻隊として沖縄突入の途上、米軍航空機の爆撃で魚雷12本、爆弾4、5発を受け沈没する。2062名の尊い命が犠牲となった。おそらく指揮官たちは、違合艦隊がほとんど壌滅し大和だけが残った状況で、ここで大和が出撃して民族の低抗の意志を発揮しなけれぱ海軍は許されない判断したのであろう。しかし、このとき大和にせめて護衛の航空機がついていたならば、という思いは抑えがたい。が、もう海軍には飛行機がなかったのである。大和の戦いぶりについてアメリカ側の評価は極めて高く、その操艦も対空防御も見事だったという記録が残っている。兵力温存思想が出し惜しみにつながり大和を不幸な最期に導いたことは、現在の日本人にも多くの教訓を含む。