指揮官・真珠湾名将の光りと影 山本五十六
名将とリーダーシップ

 何をもって名将とすべきであろうか。また、名将のリーダーシップはいかにあるべきであろうか。最初にこれらの定義から始めたい。名将とは歴史に何を残したか、国家や人類に対してどのような貢献をしたかなどの成果で決めるべきであるといわれており、山本元帥は世界に先駆けて空母機動部隊を編成し、6000マイルも離れたハワイを、Sea Powerである艦艇にAir Powerという航空機を搭載して空襲し、世界の海軍史上に一大変革をもたらした。この点だけを取り上げても、山本は海軍戦略の一大創設者であり、名将といえるであろう。中国の『外国海軍名将伝』は山本を東南アジアに侵入し、「犯下的罪行....戦争罪犯遺臭万年」であり、「花柳界」では「8本指将軍」といわれ、遊興に耽ったとは書いているが、「航空兵必将成功作戦的主力」を実現し、 ハワイを攻撃し「世界震撼」させた。 山本は「日本海軍航空兵的創始者」で、 世界の近代海戦史上に「最出名的海軍将領」であると、イギリスのネルソンとジェリコ、 アメリカのニミッツ、ドイツのデーニッツなどの6名とともに名将の称号を与えられているので、山本が世界的に偉大な名将であることは、国家を越えイズムを越えて認知されているといえよう。

 次ぎに名将のリーダーシップについて考えてみたい。 リーダーシップを扱った本を開けば、率先垂範、責任感、勇気や至誠、実行力、優れた人格や人間性など、10や20要件は直ちに列挙できるが、その中で名将に求められる最大の要件は何であろうか。現存する世界最古の兵法書の『孫子の兵法』は、将の資質として@智(才知)A信(誠心)B仁(仁慈)C勇(勇気)D厳(威厳)の5つを挙げ、西欧の代表的戦略家であるクラウゼヴィッツは、@優れた知性と情熱を合わせ持っ強い精神力、A危険を無視し自己の行動に対して責任を負う勇気、B不確実な事態でも適格に真実を見抜く鋭い知性、C果断な実行力を挙げている。

 このように、一般に東洋では指揮官の人格を重視し、西洋では目的を達する実行力をやや重視している傾向が見られるが、名将に要求される第1の要件は組織の進むべき方向を示し、適時適切に正しい判断をして目的を達成する能力であり、部下に対する思いやりや配慮も大切な要件ではあるが、必要なときには温情を殺し、時には冷酷に指揮官を替えてでも、戦いに勝つことではないであろうか。この観点から山本のリーダーシップを見ると、海軍次官の時には日独伊三国の締結には、「勇戦奮闘戦場ノ華ト散ラムハ易シ、誰カ至誠一貫俗論ヲ排シ、倒レテ後止ムノ難キヲ知ラム」、と生命を賭けて反対するなど、先見性や勇気など軍政面では高く評価できる。しかし、山本の作戦指導を詳細に見ると、ハワイの第2撃問題、準備不十分なミッドウェー作戦の強行、連続攻撃作戦にこだわりガダルカナルの消耗戦に引き込まれたことなど、作戦指揮上の問題や不徹底な作戦指導、信賞必罰の人事管理の欠如などへの批判が残る。しかし、多くの山本伝説は「日米戦ハ長期戦トナルコト明ラカナリ。.........カカル成算少ナキ戦ハナスベキニ非ス」と対米戦争に反対したが、戦いを命ぜられると常に最前線で戦い、全身全霊を国家に捧げ悲劇的な最後を遂げたこと、誠実なお人柄と時に見せる茶目気、部下に対する深い愛情と思いやりなどが日本人の心の琴線に触れ、山本の光りの部分のみが常に取り上げられてきた。しかし、本論では優しさ故に批判を受けている陰の部分に光を当てて、山本のリーダーシップを検証してみたい。

ハワイ第2撃問題
 昭和16年12月8日の朝、瀬戸内海の柱島泊地の連合艦隊司令部では、味方部隊の被害も少ないことから、幕僚から「再攻撃の命令を出すべきである」との進言があった。しかし、山本は「これをやれば満点だが、被害状態もまだ解らないし、ここは現場にまかせようと」と答え、さらに「やる者はいわれなくともやるさ、しかし、南雲はやらないだろう」と答えたという。ハワイ攻撃は山本が「桶狭間とひよどり越えと川中島」の戦いを合わせ行わなければ勝てないと、反対する軍令部の意図に反して強行した作戦であった。真珠湾はそれほど強い決心で始めた作戦であった。それなのに、なぜ、山本は「泥棒だって帰りは怖いよ、南雲はそういう男だ」と再攻撃を命じなかったのであろうか。

 また、それほど機動部隊指揮官の南雲忠一中将の性格を熟知していたのならば、なぜ、南雲に自分の意図を明確に伝えなかったのであろうか。あるいは、なぜ、水雷出身者で航空作戦に暗く決断力に欠けるといわれていた南雲から、航空作戦に明るい山本の意志を十二分に解する戦争度胸も十分な、第2航空戦隊司令官の山口多聞少将に代えなかったのであろうか。アメリカでは山本に奇襲されたキンメル大将が太平洋艦隊司令長官の職を追われ、査問委員会にかけられた。また、南太平洋部隊司令官のゴームリー中将、第11機動部隊指揮官のブラウン中将、空母部隊指揮官のパウノール少将やフレッチャー少将など、多くの指揮官が戦意に欠けたとか、作戦指揮が不良であるとか、指揮官の若返りとかの理由で交代させられた。日本でも日露戦争では先任序列に従えば常備艦隊(連合艦隊)長官は日高壮之丞であった。しかし、海軍大臣の山本権兵衛は「日高は才知に溢れているが、他人の意見を聞かず自己の思い通りに作戦し、国家戦略を支離滅裂にする恐れがある。しかし、東郷は人のいうことを良く聞き、定められたことを忠実に行い、戦いとなれば死を恐れずに戦い何度も死線を乗り越えてきた。東郷は運の強い男でもある」と、先任序列を無視して指揮官を代えている。昭和日本は明治日本とは異なり、山本権兵衛のような人物はいなかった。戦争を体験しない昭和海軍は与えられた人事で最善をつくすことが要求され、人事局が定める人選に異議を申し立てることや、先任序列を変えることが出来ない官僚的な組織に変質していたのであった。

ミッドウェー海戦
 山本と部下指揮官との意志の疎通の不円滑はハワイだけでなく、ミッドウェー海戦でも表面化した。軍令部では第2段作戦計画では、「主トシテ敵ノ奇襲ヲ困難ナラシムル目的ヲ以テ『ミッドウェー』ヲ攻略ス」と定め、昭和17年(1942年)5月5日の大海指第94号でも、「ミッドウェー島ヲ攻略シ同方面ヨリスル敵国艦隊ノ機動ヲ封止シ兼ネテ我カ作戦基地ヲ推進ス」と、ミッドウェー島の占領が主目的とされ、山本の狙いである敵艦隊の撃滅が2次的目標とされていた。このように軍令部と連合艦隊の認識は大きく異なっていたが、山本は軍令部との調整も部下指揮官への説明も十分にすることなく幕僚に任せた。また、軍令部総長の永野修身大将も山本を呼んで直接話を聞くこともなかった。そして、この目的の不明確さが南雲部隊をミッドウェー島占領にこだわらせ、勝つべき海戦を完敗させ、虎の子の空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻と300機の航空機と貴重なパイロットを失い、戦争の流れを変えてしまった。

 これに対してアメリカの作戦部長キングと太平洋艦隊司令長官ニミッツは、電報や公文書、さらには私信を交換し、時には幕僚を派遣して意志の疎通に努めたが、4年半の戦争中に19回、2から3月に1回の割りで会談し意志の疎通を図っていた。しかし、開戦から山本が死んだ1943年4月までの2年半の間に、永野が山本を訪れたのは真珠湾攻撃から南雲部隊が帰投した日の1日だけ、それも朝に旗艦長門を訪問し南雲の報告を聞き、山本とともに赤城を訪問して各級指揮官に訓辞を与え、大和を視察して午後には帰京しており、両者とも故意にゆっくり話すことを避けるような日程であった。これはミッドウェーの敗北後も、ガダルカナルをめぐる悪戦苦闘中も同様で、永野が山本を呼ぶことも、山本が永野のところへ行くこともなかった。なぜ、このように日米指揮官の関係が異なるのであろうか。

 それは山本のハワイ奇襲やミッドウェー攻略に出撃すれば、アメリカ艦隊も出撃せざるを得ないであろう。そこを叩くという仮定を前提とした作戦構想は極めて異例であり、永野や当時の海軍中央の伝統的用兵思想や作戦計画との間には大きな隔たりがあった。このため、山本は永野に説明しても到底理解されないと考え、自分の考えを表面に出して摩擦を起こすことを避け、相手に受け入れやすい形に変えて実行する方法を撰んだのではなかったであろうか。一方、山本は実施に当たっては現場重視主義で、自らは可能な限り部下指揮官の要望の実現を背後から支援したが、部下指揮官の具体的行動については極力介入を慎み、部下指揮官の状況判断と処置にゆだねた。そして、これがハワイの再攻撃問題、ミッドウェー作戦における不徹底な作戦指導となったのでもあった。

ガダルカナル消耗戦
 緒戦の連勝が続くと日本軍は連合軍の戦力を過小評価し、 ガダルカナルに飛行場を建設し米豪間を遮断する作戦を計画した。 そして、このアメリカの実力を過小評価した過度の自信が補給線を無視した戦線の拡大をもたらし、さらに山本の国力や財力に欠ける劣勢海軍が守勢をとり、 受けて立っては優勢なアメリカ海軍に対して勝算はない。 主導権を握って敵の主力を叩き続けなければ、 「敵ノ軍事力ハ我ノ五、 十倍ナリ........常ニ敵ノ痛イ所ニ向ッテ猛烈ナル攻撃ヲ加ヘネバナラヌ」という短期決戦主義が、 ガダルカナルの大消耗戦を招いてしまった。 しかも山本はガダルカナルの陸軍の苦戦は海軍の油断と不手際が招いたとして、陸軍の兵力逐次投入による重なる挫折にも愚痴一つ言わず、陸軍の支援に最善を尽くした。そして、山本のこの誠実さがガダルカナル半年の攻防で、空母1隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦14隻、潜水艦8隻、航空機2076機を消耗させ、さらに、錬成に長期間を必要とする母艦機パイロットの陸上基地作戦への投入というミスを犯させた。


 昭和18(1943)年の秋にアメリカ海軍が本格的進攻作戦を開始した時には、 反撃の中核となるべき航空戦力をほとんど使い果たし、日本海軍は対処不能となり、その後は敗北を重ねなければならなかったのである。 とはいえ、彼我の保有兵力、 国力、 生産能力などの格段の大差から、開戦時の対米比率76パーセントが、2年後には60パーセント、3年後には30パーセントと、日時の経過とともに、兵力の劣性が加速度的に増加するアメリカとは、長期戦を戦うことはできず、 山本にはアメリカの動員体制完了前に、 戦争目的を達成する「速戦即決」の連続決戦戦法しかかなかったのではないか。 十分な戦力も与えられず、 日時の経過とともに戦力が格段に相違する日米の国力差を熟知する山本に、 どのような戦い方ができたのであろうかを考えるとき、 戦後育ちの一介の学者が単に紙上の史実から、裁判官的に山本の作成指導を論ずるのは気が重い。しかし、山本はこのソロモンの戦いで勝つ自信を失ったのではないであろうか。
 
 そして、その重圧や責任感から死を強く意識し始めたように思えてならない。山本がミッドウェー海戦に敗北した3ヶ月後の9月に、「征戦以来幾万の忠勇無双の将兵は 命をまとに奮戦し 護国の神となりましぬ。あゝわれ何の面目かありて見えむ大君に 将又逝くきし戦友の父兄に告げむ言葉なし。身は鉄石にあらずとも 堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて 日本男子の血を見せむ。いざまてしばし若人ら 死出の名残の一戦を華々しくも戦いて やがてあと追う我れなるぞ」という遺書とも読める歌を長官室の机に収めた。また、同じ頃郷里の友人に「あと百日の間の余命は全部すりへらす覚悟に御座候」との手紙を出し、さらに死ぬ1ヶ月前には「天皇の御盾と誓う真心は とどめおかまし命死すとも」との歌を読んだ。ブイン視察に対しては第3艦隊司令長官の小沢治三郎中将、陸軍第8方面司令官の今村均中将が危険であると反対した。また、第11航空戦隊司令官の城島高次少将はラバウルまで飛来して、極めて危険であると視察の取りやめを進言した。しかし、山本は「みんなが用意して待っているから」と計画を変えなかった。「い」号作戦立案の経緯と結果や、当時の歌や手紙などの死後を考えたとしか思えない「格好の良さ」などから、山本のブイン視察は自殺であったと主張する意見は絶えない。

山本のリーダーシップと日本の風土
 指揮官は好き嫌いの感情を見せてはならないが、山本は好き嫌いがはっきりしていた。特に山本は外見だけを飾るだけの人物や、無責任な日和見的な人物、自己顕示欲、権力欲などの強い人物を極端に嫌い、あからさまに憎悪感情を示し、時には敵意さえ見せている。しかし、このように強烈な憎悪感情の反面、部下に対する愛情や思いやりは実にナイーブで、赤城艦長時代には飛行機の尾翼に飛び付き海中への転落を防いだとか、帰還しない搭乗員に対する心痛と救助されたことを知った時の喜び、殉職や戦死した部下の名前を手帳に書き肌身離さず持っていたとか、従兵が気を遣うからと目が覚めても定時まで床を離れなかったとか、山本の思いやりや優しさを示す逸話にはこと欠かない。山本のへつらう者に厳しく、部下に優しい心遣いはどこから生まれたのであろうか。

 人は育った環境に大きく左右されるが、山本の厳しさや優しさには、敗者として苦難の道を歩んだ山本を囲む郷里長岡の歴史風土があるように思われる。明治維新では小藩であるにもかかわらず、長岡藩は幕府への忠誠心から官軍に立ち向かった。しかし、東北の多くの雄藩が時流に流されて動かなかったため多勢に無勢で敗北し、藩士であった山本の祖父高野秀右右衛門は長岡城が落城するときに戦死し、父の高野貞吉と兄の楯之進は傷を負い遠く会津まで落ちていった。この敗者の厳しい体験や日露戦争で負傷し、指2本失った身障者のハンデキヤップ、さらには腸チフスや悪性盲腸炎での入院などの体験が、弱者に対する思いやりや優しさを育てたのであろう。また、江田島兵学校の「至誠に悖るなかりしか」、という「五省」に代表される海軍の教育が、山本に誠の重要性を授け、「無私奉公」を信条とさせ、それがへつらう者や時流に迎合する者への反感となったのではないであろうか。信賞必罰は軍事指揮官の必須不可欠な要素であるが、優しさから常に山本の処置は甘かった。
 
 ミッドウェー海戦から帰国した機動部隊の参謀長草鹿龍之助が旗艦大和に呼ばれ、戦況報告をしたが、宇垣纏の日記である『戦藻録』の6月10日によれば、「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身にあらざるも、どうか復讐できるよう取計らっていただきたい」。山本は「簡単に『承知した』と力強く答えた」という。そして、「突っけば穴だらけであるし、皆が十分反省していることでもあり、その非を十分認めているので、今さら突っついて屍にむち打つ必要はない」と、ミッドウェー海戦の敗因を探求する研究会は開かず、南雲と草鹿の責任も追及せず、再編された第3艦隊(空母機動部隊)の指揮を再び引き継がせた。

 この情の深さや優しさが山本のリーダーシップに影を与えているが、山本一人を責めることはできない。日本では協調性や「和」、 「思いやり」などを重んじなければ、リーダーシップは成り立たないし、情に訴えなければ部下は付いてこない。欧米では集団を導くのに必要なものは「理(理念や理想)」であるが、日本人は「理」にかなっていても、 それが「和」にかない、「情(感情や温情)」がなければ受け入れない。 「正義」や「人権」などの「理」を全面にかざしても日本人は応じない。 日本人が応じるのは効率性や合理性など、「理」とは対照的な位置にある「情」なのである。 このウエットな日本社会では異端は排除され、信賞必罰は不徹底となり、それがハワイ作戦の第2撃を不可能とし、それがミッドウエーの敗戦をもたらしたのであった。