罠に嵌められた日本―日米交渉の謀略

はじめに
 真珠湾攻撃後に野村吉三郎駐米大使が最後通報を提出すると、ハル国務長官は「長い外交官生活で、このような不誠実な外交文書を見たことはない」とだけ語り、無言で出口の方を示したという。また、東京裁判ではキーナン首席検事の真珠湾攻撃を行っていたその時に、日本代表が真珠湾奇襲攻撃をカムフラージするため、「偽りの外交」を行っていたとの冒頭陳述で裁判が開始された。そして、開戦前の日米平和交渉は「偽りの外交」として、歴史から消されてしまった。なぜであろうか。それは日本が8ヶ月間も真剣に和平交渉を続けていたとしたのでは東京裁判が成り立たず、さらに日米和平交渉の詳細が明らかになれば、ルーズベルトが日本を戦争に追い詰めていった開戦責任が問われるからであった。
この日米交渉を重光薫外相は「日米交渉なるものは分裂したる外交によって行はれ、その結果は初めより呪われたもの」であったと批判し、松岡洋右外相の秘書官で北米課長の加瀬俊一は「交渉の発端は、いまなお秘密のヴェールに包まれている。……日米交渉は発端において呪われていた」と書いているが、何にが「呪われていた」のであろうか。冷戦後に明らかになったロシアのニューヨーク総領事館から、情報機関KGB(国家公安委員会)とモスクワのKGB本部の通信を解読した「ヴェノナ文書」と、開戦前に8ヶ月間も続けられ最近明らかになった「身元不明人(John Doe Associates)」の日米交渉を謀略という視点から考えてみたい。

「日米諒解案」と英国とユダヤコネクション
 日米和平交渉を最初に企画したのは英元MI6(軍事情報部第6課)の前米支部長ワイズマンであったが、ワイズマンはアメリカと密接に協力し英本土を守ろうとするチャーチル首相とは異なり、中国におけるソ連共産主義の脅威と過激なナショナリズムに対抗するため、対日宥和によりアジアの平和を維持し、英国のアジアの権益を守ろうとするチェンバレン元首相に代表される英帝国防衛派であった。また日米交渉に切り口を開いたのは海外布教を目的とするカトリック教団のメリノール宣教会会長ウォルシュ神父と、事務局長ドラウト神父で、両神父は産業協同組合中央金庫理事の井川忠雄に、金融界の大物で戦後に米原子力委員会委員長となったストロースの紹介状を持って来日し、有馬頼寧元農相、畑俊六元陸軍大臣などと意見を交換し、41年1月23日にルーズヴェルト大統領、ハル国務長官、ウォーカー郵政長官に骨子を示し同意を得た。2月13日には武藤軍務局長の意を受けた井川が渡米し、3月8日にはハル野村会談が、3月14日にはルーズベルト野村会談が行われ、4月9日には陸軍省軍事課長岩畔豪雄大佐を加えて、日米諒解案の草案がまとまり、4月16日の野村ハル会談で「日米諒解案」として合意された。ドラウトは戦争介入に反対する共和党の支持者であり、カソリック教徒としてナチズムとコミュニズムへの強い危機感、さらに平和を維持したいとの宗教的不戦の信念があり、対日戦争を回避したいという点では、株価の安定を望むストロースなどの金融界の思惑と一致していた。

 ウォーカー郵政長官はストロースの朋友であり、カソリック教徒として多額の寄付をメリノール教会に行っており、ルーズベルトを海軍次官時代から支え、ニューヨーク知事から大統領選で当選させた事務局長的人物であった。また、ストロースは元大統領でFBI長官となったフーバーが大統領時代の私設秘書であり、予備役の海軍少佐で日本の経済情報を海軍情報部に提供していた。また、メリノール教会派とクーン・レーブ商会との関係は、事務局長のドラウトがウォーカーの紹介で教会の資金の運用を委託していた。このようにワイズマンの人脈は日露戦争時に日本の国債を大量に買い付けてくれたシェイコフ・シフが創設した国際投資会社クーン・レーブ商会に連なるユダヤ系の人物で、ストロースはクーン・レーブ商会の共同経営者であり、またユダヤ系の移民であった。

 野村吉三郎大使(元外相・海軍大将)は両師は「眞正の宗教家で日米戦ふべからずとの強き信念の人である。両国の関係を改善せんとして最も努力し且活躍した」と述べている。また、井川はウォルシュ師は「米国政府が重慶側や在支米国商人の打算的宣伝や、宣教師達の感傷的報告等に基づいて採っている援蒋政策なるものは、東洋永遠の平和確立という見地から再検討を要する」との意見を持っていたと書いている。また、ドラウト神父は中国での宣教活動から「支那人の性格を見抜き」、日本に好意を持ち「心からの親日というよりは敬日家」で、「日本を措いて太平洋の平和なしとの意見の持ち主」で、両神父の日米避戦への努力は真剣なものであった書いている。事実、1936年4月に広田弘毅首相に新しい日米関係を期待するとの「平和メッセージ」が27名の著名な米国人から発せられたが、この中には2人の名前が記されており、さらにドラフトは日米交渉が進展しないと再度7月に来日し、日米首脳会談の実現に動くなど、その動きには陰謀や謀略は感じられない。それどころか、日米交渉が本格化すると両師は外され、ウォルシュ師が1942年に南米に出国しようとしたがビザを取りあげられ、真実を語ることなく戦争2年目の1943年に失意のうちに世を去っている。また、ドラウト師は戦後に中国に渡り布教中にスパイ容疑で逮捕され、20余年後に釈放されたというが消息は不明である。

 ローズベルトは開戦前年の40年12月29日の炉辺談話で、「われわれは参戦しないが民主主義国の大兵器廠とならねばならない」と語り、翌30日には蒋介石政権への借款と航空機の供与を発表、翌41年1月10日には「武器貸与法」(事実上の中立離脱、対独戦参加)を議会に提出し、孤立主義者などの反対で難航したが3月11日には成立させ、日米諒解案を手交した4日後の4月18日には船舶護衛海域を西経26度までを拡大していた。この一連の流れをみると米国が真剣に日米妥協を望んでいたのかとの疑念が生じるが、なぜ、この日米妥協案にルーズベルトは応じたのであろうか。それは英国が苦戦中で太平洋地域での平和が必要ったからであり、また多くの国民が戦争介入に反対していたからであった。しかし、ルーズベルトが交渉を進展できなかったのは、ヒトラーが各種のチャンネルで英独和平交渉を行っており、ドイツ軍も西部戦線では一向に進撃しない「まやかしの戦争」が続いており、ドイツの真意を掴みきかねていたからであった。

日米諒解案を反故にしたヒトラーの独ソ戦の開始
 米国内にはソ連がバルト3国やフィンランドを侵略したことなどから、カトリツク教徒や反共主義者などには強い反ソ感情があった。特にローマ法王ピオ十一世からは廬溝橋事件3ヶ月後の37年10月14日に、日本は共産主義と戦っているので「日本の迅速な行動はこれを妨げてはならない。なぜならば今回の日本の直接の関心が共産主義勢力のアジア浸潤に他ならないからである」との声明を発していた(この声明は枢軸陣営の敗色が濃くなると誤報とされた)。

 しかし、ヒトラーのソ連進攻が米国の世論を一変し世界情勢を一転させてしまった。戦争に巻き込まれると対英支援に反対していた米国共産党をドイツ打倒、戦争介入へと動かしてしまったのである。コミンテルンの指示による共産党の変化の早さを、ルーズベルトのスピーチ・ライターのシャーウッドは、ヒトラーが対ソ戦を始めた6月22日、ニューヨークで開かれた英国を支援する「自由のための戦い」の会に招待されたが、会場前には「英帝国主義の道具となり果てた戦争屋ども」などのプラカードを持った群衆が溢れ、入るのも難しく怒号を浴びながら会場に入った。しかし、集会を終えて一時間半後に出てくると群衆は跡形もなく消えていた。米国共産党は独ソ開戦一時間半後には、モスクワの指示を受け戦争反対から武力介入へ、武器供与賛成へと方針を変えたと書いている。ヒトラーのソ連攻撃が米国を独裁国家ソ連と結ばせたのである。ルーズベルトは7月26日には軍事援助について調整するため、ホプキンス補佐官をモスクワに派遣し、「関東軍特殊演習」を実施し、ドイツが勝利したら打って出ようとしていた日本の北進を抑制しようと、7月25日には対日資産凍結令を発し、28日には対日石油輸出禁止を発令した。7月26日にはマッカーサー大将を総司令官とする極東米陸軍を新編し、ハート太平洋艦隊司令長官は対日作戦計画第46号(WPPac-46)を麾下部隊に配布した。

 一方、蒋介石も宗一族から孔祥熙、宋子文などをワシントンに送りロビー活動を強化し、中国軍需物資供給会社にルーズベルトの親族や側近を迎えてルーズベルトに近づき、さらに親中国派のホーンベック国務省顧問やヒス極東課長、カリー経済担当大統領補佐官、モーゲンソー財務長官の腹心ホワイト財務次官補などのピンコと呼ばれる親ソ派、共産主義者、そのシンパの官僚やジャーナリストを連日招き、中国への支援を強化するだけでなく、対日戦に参加させようと動いていた。交渉がドラウトや井川などの民間の交渉から正規の外交として国務省に移管されると、国務省内のチャイナハンド(中国の手先)や親ソのピンコが動き、対日強硬派のホーンベックやモーゲンソー財務長官が干渉した。そして、交渉が大詰めに入った11月25日には、モーゲンソーは補佐官のホワイトが作成したモーゲンソー試案をハル国務長官に示した。この試案の第一部の「暫定案」は交渉の継続を狙った一時的なものであり、第2部の「基礎案」には強硬な対日要求が列記されていた。ルーズベルトが交渉を継続しようと妥協的な「暫定案」に傾くと、ホワイトは太平洋問題調査会事務局長カーターにワシントンに来て、ロビー活動を行うよう至急電を打ったことからも、ホワイトが日米交渉に深くかかわっていたことが理解できるであろう。このホワイトはコミンテルンとの関係がしばしば指摘されたが、1946年から47年には国際通貨基金(IMF)の米国代表に指名され理事長にまで栄進した。しかし、1948年8月16日に下院の非米活動委員会に喚問されると、その3日後に持病の心臓疾患から死亡した。しかし、その死因には多くの疑念が残されている。
一方、元KGBのパブロフ退役中将は1996年に『スノー作戦』を書き、その中で日本に厳しい最後通牒を突きつけるアイデアは内務人民委員部で生まれ、ベリア長官の了承を得て実施され、工作を実施したホワイトにちなんで「雪作戦(スニェーク)」と命名され、「作戦は見事に成功した」と書いている。このようにワイズマンやドラウトなどにより太平洋の平和を維持しようと始められた日米交渉が、国務省に移るとチャイナハンドやピンコを通じて中国やソ連(コミンテルン)の干渉を受け、米英ソ中などの思惑(陰謀)が加わり「呪われた外交」になってしまったのであった。

開戦外交―「身元不明者グループ」外交の再考
 戦争が終わると神父や井川らの関連文書は、「身元不明人」の私的な外交として国立公文書館やルーズベルト記念館図書館に保管せず、メリノール会文書室やイエール大学などの図書館に放置され埋没してしまった。一方、日本でも吉田茂が外務大臣に任命されると、外務省職員に「まな板の上の鯉」の譬えを引用し、「ジタバタすることは百害あって一利なく、諸君はよろしく隠忍自重し、よく占領軍当局に協力し、他日の国家再建の基礎づくりに邁進しなければならない」と訓示し、占領軍に協力し「復興第一」「経済第一」と驚異的な経済成長を成し、今日の繁栄を成し遂げた。しかし、なぜ、吉田外相や外務省は開戦通告遅延に最も責任があった井口貞夫参事官、奥村勝蔵1等書記官を外務省の最高ポストの外務事務次官に栄進させたのであろうか。吉田は元ニューヨーク総領事(その後ポルトガル大使)森島守人の開戦通告遅延の責任は「ワシントン大使館にあり」との進言を受け調査委員会を設置し、井口・奥村に責任があると寺崎太郎外務は吉田に処分を上申した。しかし、吉田は「何らの措置もとられず、責任の点も何ら明確にされないまま、有耶無耶のうちに」終わらせたと森島は非難している。しかし、外務省は東京裁判が終わると両者を復職させともに外務次官に栄達させ、勲1等瑞宝章を授けた。そして外務省がワシントン大使館の怠惰を認め、国民に謝罪したは53年後の1994年であった。また、外務省は多数のビサを与えてユダヤ人を救い、イスラエル政府から「正義の人賞(ヤド・バシエム賞)」が贈られた杉原千畝リトアニア領事代理を、無断で多数のビザを発給したと東京裁判中に訓令違反として解雇した。そして、杉原の名誉を回復したのも半世紀後の1991年であった。外務省や吉田のこれら一連の人事の闇は「身元不明人」の日米交渉よりも深い。

おわりに
アメリカにはCIA(中央情報局)、イギリスにはMI5(内務省保安部)、MI6(情報局秘密情報部)、ソ連にはKGB(現在は連邦保安局FSBと改名)という国家的な情報機関があり、情報活動の一つとして敵国のみならず、友好国や同盟国へのプロパギャンダや内部工作、敵国政府の転覆や要人の暗殺などあらゆる謀略工作を行なっている。戦争には謀略や陰謀は当然であり、引っかけられ騙された史実を解明し反論しても、それを覆すのは極めて困難で、偽造文書の「田中上奏文」が真偽不明と中国が認めたのは、91年後の2010年1月の「日中歴史共同研究書」であったが、それも本文ではなく脚注としてであった。昭和日本はコミンテルンや「孫子の兵法」を生んだ謀略大国の中国に操られ、先の大戦に巻き込まれ破滅を招いた。平成日本は「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり(孫子・謀攻編)」の中国や韓国の心理戦下にあるが日本人には全く危機感がない。また、昭和の悲劇を繰り返すことになるのであろうか。