特攻隊をめぐる考察

はじめに
 
 日露戦争時の旅順港閉塞隊、 開戦劈頭の特殊潜航艇によるハワイ攻撃など死を覚悟した特別攻撃はあったし、 「斃れて後やむ」の精神から被弾後に敵艦に自爆した例は枚挙にいとまはない。 しかし、 太平洋戦争に示された日本人の戦いの中で、際立った特色の一つが「特攻」と「玉砕」で、特に切迫した戦局の最後の切札として生まれたものが、完全な自己犠牲の「特攻」であった。 諸外国に於いても体当り攻撃を行った事例はあったが、 日本のように体当り攻撃を組織的に部隊単位で決行することはなかった。
しかし、 なぜ、 特攻隊が生まれたのであろうか。 また、 なにが日本人に特攻攻撃を可能としたのであろうか。 また、 なぜ、 陸海軍の間に特攻作戦の実施や評価をめぐって相違が生じたのであろうか。 また、 その効果や諸外国における評価はどのようなものであろうか。以下、これらの問題を考えてみたい。

1 特攻隊の誕生

 最初に死を前提に特攻攻撃を命じられたのは関行男大尉であった。 また、 最初に特攻を命じたのは海軍航空育ての親と言われた第1航空艦隊司令長官の大西滝次郎中将であった。 大西中将が第1航空艦隊司令長官に任命されたのは、 敗勢色が濃くなった昭和19(1944)年10月17日で、 大西中将がマニラに着任した2日後の10月19日にはアメリカのレイテ上陸が始まり、 20日に「現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有総兵力)をもって体当り攻撃隊(体当り機13機)を編成する」。 「本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称する」との組織的特攻が命じられた。 そして25日にはマバラカット飛行場から大西中将の命令により編成された17機の「神風特別攻撃隊」と呼ばれる「十死0死」の特攻隊が飛び立った。この特攻攻撃について「特攻をやろうがやるまいが、 いま攻撃に行けばみな生きては帰えれない。特攻でなければ成果も知られないまま死ぬ。 特攻をやれば確実に自分が成果を上げたと知って死ぬ。 これすなわち大慈悲なんだ」と、 大西中将は特攻が非道、 無謀な攻撃法であり、 人命の尊厳を無視した暴挙であることを、 誰よりもよく知っていた。

  しかし、 大西中将は「特攻隊の創設者」といわれ、 「愚将」、 「暴将」という汚名さえ与えられている。 しかし、 特攻隊の創設者を大西個人に帰するのは早計であるように思われる。 なぜならば、 特攻攻撃を最初に提案したのは侍従武官から空母千代田艦長に着任した城英一郎大佐であった。 特攻攻撃が始まる1年4カ月前のマリアナ沖海戦に参加し、 日米の航空兵力の差を痛いほど知った城大佐は、 昭和18(1943)年6月29日に航空本部総務部長であった大西中将に「もはや通常の戦法で優勢な敵の空母を沈めることは望めない。 すみやかに体当り攻撃を目的とする特別攻撃隊を編成し、 小官をその指揮官にされたし」と具申した。 しかし、 この具申は「未ダソノ時期ニ非ズトテ全幅ノ賛成ヲ与ヘラレ」なかった。 その後、昭和18年12月(あるいは19年初冬ともいわれる)には、 軍令部総長永野修身大将から「それはいかんな」と却下されたが、 特殊潜航艇甲標的の乗員である黒木博司中尉、 仁科関夫少尉から甲標的による特攻攻撃の嘆願書が提出されていたが、 これらの上申はいずれも時期にあらずと否定されていた。 昭和19年にはいると6月には館山の第341海軍航空隊司令の岡村基春大佐からも、 第2航空艦隊司令長官の福留繁中将に「尋常一様の戦法では現有航空兵力を生かす道はない」と体当り攻撃が具申された。 続いて7月26日、 第7潜水戦隊司令官大和田昇少将の指示を受けた同戦隊の主席幕僚泉雅爾中佐と呂号103号艦長渡辺久大尉から海軍大臣嶋田繁太郎大将に、 今後は潜水艦に特攻兵器を搭載し特攻作戦に徹すべきであり、 そのために特攻専門の潜水艦隊を創設すべきであると上申され、 さらに8月には第405航空隊の太田光雄特務少尉から、 一式陸攻の胴体の下に小型体当り機を搭載する戦法が具申されていた。

 一方、 海軍中央でも昭和18年8月11日に開かれた第3段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で、 軍令部第2部長の黒島亀人大佐が、 今後は「必死必殺戦法」により長期不敗態勢を確立すべきであると主張し、 19年2月には呉海軍工廠魚雷実験部に回天の製造が下令され、 9月初旬には桜花の1号機が完成し、 9月末には桜花を搭載する第721航空隊が編成され、 岡村基春大佐が指揮官に発令されていた。さらに大西中将がフィリピンに到着する2日前の10月17日には、 クラーク基地から第26航空戦隊司令官有馬正文少将(のち中将)が、 少将の階級章を外し双眼鏡の司令官の文字を消し、 「自分自ら必殺の特攻となって、 その範を示す。希わくば志ある後輩、 我に続きこの危急存亡に当たり護国の大任を果されんことを望む」との言葉を残して、突如1番機に搭乗して発進し、 死をもって体当り攻撃の必要性を示していた。 このように特攻攻撃は海軍部内に自然発生的に芽生えた思想で、 この意味から特攻攻撃に踏み切るために海軍航空育ての親としての大西中将が選ばれたに過ぎないともいえよう。

2 特攻隊と陸海軍

 最初に特攻を口にした城大佐は、 まさに関大尉を長とする最初の特別攻撃隊が発進した昭和19(1944)年10月25日、 ハルゼー艦隊を北方に引き付ける「おとり」艦隊の空母千代田艦長としてレイテ海戦で艦と運命を共にした。 また、 第5航空艦隊司令長官の宇垣纏中将は終戦後に沖縄に向かい自ら最後の特攻攻撃に散った。 さらに桜花特別攻撃隊の司令であった岡村大佐は鹿屋から桜花隊を沖縄に発進させていたが、 終戦の報を聞くと部下のあとを追いその地で自決した。 一方、 特攻攻撃を命じた大西中将は終戦が決せられ天皇の玉音放送があると、 翌16日午前2時45分に「特攻隊の英霊に日す。 善く戦いたり。 深謝す。 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。 しかれどもその新年は遂に達成し得ざるに至れり、 われ死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝さんとす」との遺書と、 「之でよし百万年の仮寝かな」との辞世を残し、 割腹し部下の後を追って自決した。このように海軍の特攻は一応は伝統的統率である「指揮官先頭単縦陣」を実証し、 その指揮官や体当り攻撃を具申した者が、 一部の中間指揮官を除きいずれも部下の後を追うなど統率上の問題は少なかった。

 また、 海軍の特攻は「あの戦局ではや無を得なかった」との戦局への認識があり、 さらに、 海軍には沈めばもろともとの同族意識が強かった。 これに比べ陸軍特攻隊には戦局への認識も、 一部を除き指揮官先頭もなかった。 また、 陸軍は仮想敵国をソ連としていたため陸軍航空部隊は敵飛行場、 地上軍の攻撃等を主任務とし艦艇攻撃の経験もなく、 また性能的にも軽量小型で行動半径が短かいという問題があった。さらに、 昭和18年9月に絶対国防圏を設定した太平洋戦争の天王山を迎えた時期に至っても、 ヒットラーを過信しドイツのソ連打倒が明確になったならばソ連を攻撃しようと、 陸軍の航空部隊は次に示すとおり、 保有航空機の47・6パーセントを満州や中国に配備し、 優勢なアメリカ軍と対峙しているのは34中隊、 全航空部隊の18・6パーセントに過ぎず、 性能や技量の劣る中国やイギリス空軍を相手とし、 アメリカ軍と戦うことも少ないため、 陸軍には戦局に対する切迫感がなかった。

配備地域 配備飛行隊 配備比率
  満州    36      19,7%
  中国    51   27,9%
南西太平洋
南東太平洋
   38
   34
  20,7%
  18,6%

 このため、 陸軍には特攻実施に賛同しない指揮官、 幕僚もかなり多く、 陸軍の特攻攻撃は海軍に刺激され、 トップ・ダーンで実施されることになった。 そこで、 陸軍は昭和19年3月に特攻攻撃に反対している航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を外し、 軍事参議官兼多摩陸軍技術研究所所長に補職し、 後任に参謀次長の後宮淳大将を、 次長には航空出身の菅原道太平中将を発令した。 そして10月4日には特攻実施を大本営から下達した。 そのうえ、 陸軍にはミス人事が重なってしまった。

 マリアナ沖海戦に敗北しサイパンに上陸されて東条内閣が倒れると、 杉山元陸軍大臣から航空部隊の経験のない富永恭次中将が、 「フィリピンの航空部隊の士気が大変緩んでいる。 君が行って大いに鞭撻する必要がある」と、 8月30日にフィリピンにあった陸軍第4航空軍司令官に任命されたが、 本人はこの人事を左遷と受け止めていた。 しかも、 着任3カ月後には特攻隊の編成が命じられ、 富永中将が特攻隊指揮官になってしまった。 そのうえ、 富永中将はフィリピンにアメリカ軍が上陸すると、 部下を置き去りにしてサイゴンに逃避してしまった。 このため陸軍は昭和20年2月に待命とし5月には予備役とするなど統率上にも問題があった。
 
 また、 陸軍が最初に内地の部隊に特攻攻撃を命じたのは昭和19年10月4日であったが、 それは全力を挙げて艦艇攻撃訓練を推進中の鉾田教導飛行師団であった。 しかも指揮官の今西6郎少将自身は「体当り部隊の編成は士気の保持が困難で統御に困り、かえって戦力が低下するだろう。 この種の決死隊は第一線で情勢が真に緊迫して、 皇国の興廃が此一戦にあることを将兵一同が認識した時に、 下部から盛り上がる気勢を巧みにとらえて自然に結成された殉国の決勝によって結成されるのが適当であり、 内地部隊として常時編成しておく性質のものではない」と反対であった。 また、 艦船攻撃訓練最中の隊員には武運に恵まれれば何回でも攻撃して戦果を上げ得るのに、 なぜ特攻をしなければならないかとの疑問があった。
 
 このような状況ため、 陸軍では特攻隊の隊員に指定された者の内3分の1が最初から希望していなかった。 そのため昭和20年5月6日に至っても知覧基地では32機の特攻機が準備されたが、 実際に飛び立ったのは4割弱の13機であり、 11日の場合は知覧・都城東基地に準備された80機中、 戦場に向かったのは半数以下の36機、 しかも、 その大部分が基地に引き返したという。

3 特攻隊の成果

 太平洋戦争中に日本が投入した特攻機の機数については、諸説があるが約2400機で隊員は3863名、 これに回天や震洋(陸軍ではレと呼称)などを加えれば5731名(特別攻撃隊慰霊顕彰会編『特別攻撃隊』の戦没者名簿による)であった。 そして、 日本海軍はこれら特攻攻撃により過大戦果とは考えていたが、 一応、 空母17隻撃沈、 58隻撃破、 戦艦19隻撃沈、 19隻撃破、 巡洋艦34隻撃沈、 34隻撃破、 駆逐艦16隻撃沈、 22隻撃破、 艦種不詳43隻撃沈、 83隻撃破など289隻を撃沈し、 314隻を撃破したと大戦中は推定し軍艦マーチとともに発表していた。 しかし、 戦後の調査によれば次の通りと戦果には大差があった。
                 特攻隊による戦果
    正規空母 護衛空母 戦艦 巡洋艦 駆逐艦 護衛駆逐艦 水上機母艦 掃海艦艇
 撃沈   0      3     0   0    13     2        0       3
 撃破  16     20     11  11    84    24        5      26

     敷設艦 輸送船 上陸用舟艇 補給艦 その他 合計
 撃沈   0    4     12      5 7      49
 撃破  10   27    19 2     16      270
 このように記録が異なるのは、 当事者がことごとく戦死していること。 特攻隊が生まれた当時の戦況が極めて不利な状況で戦果の確認が困難であったこと、 攻撃を受けたアメリカ側も混乱し通常の攻撃機による被害か特攻機によるかなどの記録が不完全なことなども考えられるが、 戦争中の過大な戦果には特攻隊隊員の死を少しでも無為にしたくないとの恩情が働いたのであろう。 一方、 水上特攻の海軍の震洋、 陸軍のレの成果はさらに少なく、 ウォーナー氏の『ドキュメント 神風』によれば140隻から145隻の水上特攻艇が攻撃に参加したが、 撃沈できたのは大型上陸用舟艇8隻だけで、 その他には駆逐艦4隻、 戦車揚陸艦3隻、 貨物船1隻を大破し、 駆逐艦2隻、 戦車揚陸艦2隻、 貨物船など2隻、 歩兵錠上陸艇1隻に軽微な損害を与えただけ、 水中特攻の回天による戦果はさらに少なく、 沈没は油槽艦ミシシネワと駆逐艦アンダーソンの2隻であり、 輸送船2隻がかすり傷を負わされたていどであったとしている。

 特攻攻撃全体の戦果はこのように少なかったが、 アメリカ海軍が有効な対処法を確立できなかった初期には大きな損害を与え、 関大尉など13機の特攻攻撃を受けた時には護衛空母セント・ローが沈没し、 護衛空母3隻が大被害、 1隻が小被害を受け搭載していた航空機128機が破壊され、 戦死行方不明1500名、 戦傷者1200名を出し艦艇乗員に深刻な恐怖を与え、 あまりにも大きな損害と恐怖に陥ったアメリカ海軍は特攻攻撃の新聞報道を禁止したという。 特攻隊攻撃の凄まじさを昭和20年1月6日のリンガエンに上陸部隊に求めれば、 この部隊に対して第20、 第22、 第23金剛部隊が攻撃を加えたが、 特攻機の命中状況は次のとおり暇なく激烈なものであった。
  1100 掃海駆逐艦ロング 1機命中
  1122 駆逐艦リアリ 1機命中
  1159 戦艦ニューメキヒコ 1機命中
  1200 駆逐艦ウォーク 1機命中
  1206 駆逐艦サムナー 1機命中
  1208 豪巡洋艦オーストラリア 1機命中
  1209 戦艦ミシシッピー 1機命中
  1215 掃海駆逐艦ロング 1機命中
       輸送駆逐艦ブルックス 1機命中
  1406 戦艦ニューミキヒコ 1機命中

4 特攻隊をめぐる評価と非難

 アメリカ軍は特攻機の桜花をバカ・ボン(馬鹿な爆弾)と命名するなど、 特攻攻撃に関する理解は薄く、 その評価も一般に低く、 森本忠夫も『特攻-外道の統率と人間の条件』において、 特攻隊は「日本の末期的な戦備体系と戦力構造が特殊の日本軍国主義イデオロギーと合成されて生み出された近代思想体系上、 日本人以外には誰もが自らには決して許容出来ない異端のパアラダイムであった」と述べている。また日本で出版された特攻隊に関する本はおびただしいものがあるが、 多くは否定的であり、 特攻を敢えて命じた指揮官たちを痛烈に非難し、 無謀で狂気の沙汰と断定している。 確かに特攻攻撃は非合理的であり、 無謀であり、 その非難は論理的に妥当であり反論の余地はない。 しかし、 フランス人のベルナール・ミローは『特攻隊(原題名 L'Epop e kamikaze 英雄 神風)』において、 特攻隊を「われわれ西洋人は笑ったり、 哀れんだりしていいものであろうか。

 むしろそれは偉大な純真性の発露ではなかっろうか。 われわれ西欧人は戦術的自殺行動という観念を認容することはできないが、 日本の特攻隊志願者に無感動のままいることも到底できない。 彼らを活気付けていた理論がどうであれ、 彼らの勇気 決意、 自己犠牲には感動を禁じえないし、 また禁ずべきではない」。 「彼等の採った手段があまりにも過剰で、 かつ恐ろしいものだったにしても、 これら日本の英雄たちは、 この世界を純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。 彼等は1000年の遠い昔から今日に、 人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、 取り出して見せてくれたのである」と述べている。 また、 関大尉が最初に悲劇的な特攻攻撃を開始したマラカナット飛行場の特攻碑を建立したのは日本人ではなかった。それは反日感情の強いフィリピンのマバラカット町民などのフィリピン人であった。 画家で歴史協会員であるダニエル・H・ディソンは、 猪口力平・中島正の書いた『神風特別攻撃隊』(英訳)を読み、「この書を熟読し祖国愛に燃えて散華した若い特攻隊員に思いをはせるとき、感激の涙を禁じ得なかった。かれらは永遠に記憶されるべきであると確信する」と、 特攻隊の祖国愛に対する国境を越えた普遍的な尊敬の念を表し、 記念碑を自費で建立した。

5 特攻隊と国民性

 前述のベルナール・ミローは特攻隊の「本質的特質は、 この行動を成就するために決行に先んじて、 数日前に時としては数週間、 数ケ月も前から、 あらかじめその決心がなされているという点にある」。 「そして、 この特殊な点こそが、 われわれ西洋人に最も受け入れ難い点である。 われわれの精神にとっては、 そのようなことは思いもつかぬことであり、 絶対にあり得ないことである」と述べている。 しかし、 これは自殺を禁じたキリスト教徒の道徳規範によるものではないであろうか。 現にパレスチナ・ゲリラは航空機のハイジャック、 テルアビブ空港小銃乱射事件、 レバノンのアメリカ海兵隊司令部への自動車に爆弾を搭載した突入など、 特攻的「十死零生」の自殺攻撃を繰り返しており、 この点から特攻攻撃が日本民族だけに特有なものではないともいえよう。 しかし、 アラブ人になぜ、 特攻攻撃ができるのであろうか。 それはアラブ人の風土から生まれた日本人と共通する強固な部族意識と、 その死生観・宗教観にあるように思われる。アラブ人は最も乾いた不毛の砂漠を生活空間とし、昼間は50度を越す灼熱の酷烈な自然風土の中で、 オアシスをめぐる闘いに勝たなければ水が得られず、 戦いに敗れればその瞬間に死と対決しなければならなかった。 このようなオアシスをめぐる争いから運命共同体としての強力な仲間意識、 部族としての強固な団結が生まれた。そして、 それが宗教にまで昇華した。 すなわち、 回教ーイスラムという言葉は「献身」を意味し、 聖典コーランでは「ジハード(聖戦)」という形で戦争を義務の一つと取り上げ、 転進と合流以外の目的で敵に背中を向けるものはアラーの怒りをかい、 地獄に落ちると脅かし、 一方、アラーのために戦うものは、 たとえ死でも素晴らしい褒美が授けられ、 死後はアラーのそばに養われて生きるので死者とは考えられないと教えている。この仏教と通じる「死後の楽園」思想はアラブ人の死への恐怖を取り除き、 イスラム兵士の勇気を鼓舞し、 ここにパレスチナゲリラが「十死零生」のテロ攻撃を繰り返す原動力となっているのではないであろうか。
 しかし、 特攻攻撃がアラブゲリラと大きく異なる点は、 日本では特攻攻撃が計画的組織的に部隊として実施されたことであり、 特攻攻撃に対する兵器さえ製造されたことであろう。 すなわち、 ガダルカナルからの撤退など戦局が不利に展開し始め、 対米戦力が格段の開きが現実のものとなった昭和18(1943)年初期に、 軍令部から海軍省に次のような兵器(機密保持上「金物」と呼称した)の緊急実験要望が提出された。
                                 
    金物  潜水艦攻撃用潜航艇
    金物  対空攻撃用兵器
    金物  S金物(のちの海龍)及び可潜魚雷艇
    金物  船外機付衝撃艇(のちの震洋)
    金物  自走爆雷
    金物  人間魚雷(のちの回天)
    金物  電探等
    金物  電探防止
    金物  特攻部隊用兵器(のちの震海)

 そして、 翌昭和19(1944)年2月には極秘に 兵器(回天)の試作が呉海軍工廠魚雷実験部に命じられ、 7月10日には「特殊兵器緊急整備計画」が立案され、 8月には特攻機桜花(A部品と呼称)の設計試作が開始され、 9月には海軍特攻部が設置された。 そして年末ころには「一億特攻ノ戦ニ徹シ必勝施策ノ急速具現ヲ目指」す「一億特攻」の精神のもとに、 特攻隊兵器が日本海軍の正面装備へと変化していった。 そして艇首に爆装を装着し舷外機を装備した高速水上特攻艇「震洋(略称マル4艇)」を約6000隻、 水中特攻兵器の「回天(略称マル六兵器)」約420隻、 魚雷2本又は艇首に爆薬を装備した有翼小型潜航艇「海竜(略称SS金物)」約200隻、 「甲標的」約130隻とこれを大型にした「蚊竜」約120隻、 敵の艦艇の艦底に爆薬を固着する小型潜航艇「震竜(略称マル九金物)」、 潜水服を着用した隊員が停泊中の敵の艦艇を棒地雷によって爆破させる「伏竜」、 さらにロケット機「桜花」などの航空特攻兵器が生産されたのであった。
 
 しかし、 日本人に「特攻」攻撃を可能とさせたものは何んであったのであろうか。 特攻攻撃開始の契機となった第1は、 前述のとおり手持ち兵力39機で空母約20隻、 航空機約1000機にのぼるアメリカの機動部隊に、 対処しなければならなかった絶対的な兵力の不足にあった。 しかし、 国民性という視点から見るならば、 特攻攻撃を可能とした精神的背景は、 稲作民族の体質から生まれた大家族主義にともなう強い愛国心、武士道の影響、 戦陣訓に表徴される教育、 また、 特攻隊への志願には他人の評価を過度に意識する世間体という拒否・選択を許さぬ「ムラ」社会の「恥じ」意識などが加わったのではないであろうか。そして、 それが隊員の3分の1が希望していなかったにも拘らず、 志願による特攻攻撃という「十死零生」の特攻隊に若人達を、 自分の意志に反して志願させたのではなかったであろうか。

おわりに

 ところで、 日本人は再び特攻攻撃などを行うであろうか。 この疑問に私の回答は肯定的とならざるを得ない。戦後、アメリカによって行われた日本改革は、日本人の価値観を大幅に変え、 平和に対する価値観は国民総てに共有され、 軍人すなわち軍国主義の悪者との固定観念が国民を支配するに至った。しかし、 戦後の日本人の思想を揺るがした大改革にもかかわらず、 その深層心理や思想は不変のように思われる。 現在でも至るところに見られる同窓会への求心、 会社への忠誠心など、 日本民族の原点である「ムラ」社会が存在し、 ただムードやスローガンに左右され、 「単独講和反対」「安保反対」「PKO反対」と感情的にムードのみ反応する集団ヒステリー現象に左右されてきた戦後政治の流れを見る時、 わたくしは状況が変われば、 また日本人はムードに流され「やるしかない」をモットーに、 再び特攻隊に参加する若者が激増するように思われてならない。かって日本は世界に通用しない日本を家長とした大アジア主義の「八紘一宇」、 「アジア人のアジア」の「大東亜共栄圏」を唱え、 この「八紘一宇」という「悠久の大義」に殉じたが、 日本人は急激な状況の変化に対応できず、 頑なに自己の価値観にこだわり、 もっぱら情緒やムードに流されながら自分は全く理論的だと信じて、絶対にその非を認めない。 このように理性に欠けムードに弱いヒステリックな国民性が改まらぬ限り、 自己の価値観へのこだわり時のムードに流され、 再び「神風特攻隊」となり「一億玉砕」となるように思われて仕方ない。

参考文献
:森本忠夫『特攻』(文芸春秋社)
:日本海軍航空史編纂委員会『日本海軍航空史(1)』時事通信社)
:生田 純『陸軍航空特別攻撃隊史』(ビジネス社)
:ベルナール・ミロー『神風』(早川書房)
:デニス、ベギー・ウォーナー『ドキュメント 神風』(徳間文庫)。