日本潜水艦の道程と戦後に与えた影響

対米作戦を根底とする運用構想が造り出したともいえる日本潜水艦の変遷と、戦後列国海軍潜水艦に与えた影響とは

はじめに
 日本海軍の潜水艦部隊を第二次大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥は、「勇敢でよく訓練されていたが、一つの偏向した方針と近視眼的な最統帥部によって徹底的に無益に消耗され、また実力の発揮を妨げられた」と酷評している。ドイツ海軍やアメリカ海軍は同一艦種を多量に建造し、海上交通破壊作戦を重視して成果を上げた。一方、日本海軍は艦隊決戦にとらわれて、警戒厳重な空母部隊や揚陸部隊攻撃のために、シュノーケルも装備していない潜水艦を狭い限定された海域に反撃阻止兵力として投入し、多くの潜水艦を失った。さらに大戦末期には、孤島への輸送任務などの各種の雑用に投入し、東奔西走の末にこれらを自滅させてしまった。
作戦名 参加潜水艦数 喪失隻数
ハワイ作戦    30   1
ミッドウェー作戦    15   0
第3次ソロモン海戦    17   2
キスカ撤退作戦    15   2
ギルバート作戦     9   6
あ号作戦    38  20
捷号作戦    13   6
硫黄島作戦     4   3
沖縄作戦    11   7

 このように雑多な任務や思いつきに振り回されただけに、日本海軍は攻撃機3機を搭載する潜水空母、偵察機を搭載しハワイ沖まで無補給で展開できる巡洋潜水艦(巡潜型)、飛行艇や水上機に燃料を補給する燃料補給潜水艦、離島などに大砲や陸戦隊、さらに人間魚雷や水陸両用装甲車両(特四内火艇)まで搭載する潜水艦、水中飛行機と呼ばれる潜水艇の海龍まで、艦種は8種、艦型は17種類にも及ぶ多種多様の潜水艦を建造し、建造隻数を低下させてしまった。しかし、この多種多様な潜水艦を建造した発想と技術が、戦後に列国海軍の潜水艦の開発や運用に大きな影響を与えたのも事実である。そこで本稿では日本海軍が開発した特記すべき潜水艦と奇想天外な潜水艦による作戦が第二次世界大戦後の列国海軍の潜水艦に与えた影響を中心に述べてみたい。

対米作戦と潜水艦
 第二次大戦開戦前、艦隊決戦を金科玉条とする日本海軍には、海上交通破壊作戦に潜水艦を投入するなどという考えは全くなかった。日本海軍の対米戦争計画は1923年に改定された「帝国軍ノ用兵綱領」に規定された邀撃漸減作戦で、東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、フィリピン・グアム攻略後は太平洋を横断して来攻するアメリカ艦隊を随所で反復攻撃し、その勢力の漸減に努め、好機を捕らえて戦艦を主体とする艦隊決戦によって撃破するというものであった。そして、この激撃漸減戦法を次の3種の兵力で行なうこととして兵カを整備してきた。

1、潜水艦
潜水艦部隊をハワイ沖に派遣してアメリカ艦隊の動静を監視し、出撃した場合はこれを追跡触接し、その動静を明らかにするとともに、南洋群島などを基地とする潜水艦も加え反復襲撃し敵兵力の減殺に努める。     
   展開海面 展開潜水艦種 隻数
北米西岸 機雷敷設潜水艦  4
ハワイ 巡洋潜水艦  9
米艦隊追跡 大型潜水艦 27
マリアナ沖 中型潜水艦  9
南洋群島 中型潜水艦  9
南東海域 中型潜水艦  9
フィリピン海 大型潜水艦  9
 合計  合計 72

2、航空部隊
 基地航空部隊を内南洋諸島に展開し、敵艦隊が飛行圏内に入ったならぱ、陸上航空部隊は母艦航空部隊と協カして航空攻撃を加え、さらに敵勢力を減殺する。
3、水上部隊
 敵艦隊が予定した決戦海面に入ったならば、高速の巡洋戦艦が敵の前衛部隊を撃破し、次いで水雷戦隊の魚雪戦をもって夜戦に引き続き黎明以後に戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を行いこれを撃滅する。この作戦で特に重視されたのは「劣勢ナル我海軍ハ優勢ナ敵ニ対シ尋常ノ手段ニテハ対抗困難ナルヲ以テ、潜水艦ノ利用ニ依リ勝目ヲ求ムルノ外ナシ」とした、潜水艦であり、また、世界に誇る酸素魚雷を利用した水雷戦隊(巡洋艦・駆逐艦)の夜襲であった。日本海軍は航続距離の長い巡洋型潜水艦を開戦前からハワイ方面に派遣し、アメリカ艦隊が出撃したならば反復攻撃を加えつつ監視追跡させ、さらに南洋群島方面、あるいは敵の来航予想海面に展開する中型潜水艦3個潜水戦隊(35から36隻)を以て攻撃することとし、潜水艦を表に示すとおり配備する計画で整備してきた。

 しかし、アメリカ海軍がソルトレイク・シティーなどの優れた巡洋艦を建造し、水雷戦隊の前衛部隊突破が困難となった1932年(昭和7)には、小型潜水艇(甲標的)を艦隊決戦時に活用する研究を開始した。
そして、平時には水上機母艦として使用し、戦時には甲標的母艦に改装して、艦隊決戦直前に敵艦隊の前程に進出させ、20ノットの高速航行中に艦尾から21隻の甲標的を1000メートル間隔で発進させる構想のもとに、1934年には水上機母艦千歳(1942年に空母に改装)、1937年には瑞穂(改装前に沈没)、1938年には日進(1942年に甲標的母艦に改装)の建造を開始した。このように趣撃漸減作戦を重視してきた日本海軍は艦隊決戦にこだわり、敵の防御の厳重な機動部隊あるいは上陸地点の限定された海域に、貴重なる潜水艦を多量に投入し消耗してしまった。主要な海戦や上陸阻止作戦に投入された潜水艦の隻数と喪夫隻教は表のとおりであった。

潜水艦の発達とその特質
 このように列国と異なる潜水艦の運用構想を持っていたため、日本海軍は太平洋を無補給で往復できる航続力を持ち、アメリカ艦隊を追尾できる大型高速潜水艦の開発に努めた。1926年(大正15)から1929年(昭和4)には、ドイツの大型潜水艦U142型と機雷敷設潜水艦U122型の技術導入を行ない、1924年には艦隊と行動を共にするため、高速で凌波性と耐波性の優れ、強大な攻撃力を備えた艦隊随伴用の大型潜水艦「海T大型」の伊51号(2290トン、水上速力2○ノット、水中速力10ノット、魚雷発射管8門)を竣工させた。1926年に巡洋潜水艦(巡潜)T型の伊1号(常備排水量2225トン、水上速力18ノット、航続距離2万4000海里)を建造した。次いで1927年には日本独白の技術で、改良型の海大型U型の伊53号(2300トン、水上速力20ノット、航続距離1万海里)を進水させ、さらに1932年に完成した海大6型では念願の水上23ノットを実現させた。そして、1935年には日本独自の設計による巡潜U型の伊6号、1936年から37年には巡洋潜水艦と大型潜水艦の海大6型の性能を兼備し、多数の潜水艦を指揮する旗艦型で、司令部要員16名の施設を有し、偵察機1機を搭載した巡潜V型の伊7号(常備排水量231トン、水上速力23ノット、航続距離1万4000海里)を竣工させた。

 このように、日本海軍の潜水艦は海大型と巡潜型の2つの系列で発展してきたが、1940年には両者の長所を合わせた混合型の丙型(武装重視)と乙型(水上機搭載)、1941年には甲型(旗艦施設と水上機搭載)の伊9号(2434トン、水上速力23・5ノット、航続距離1万6000海里)を完成させた。また、3個潜水戦隊を指揮し、効果的な邀撃作戦を実施するため、偵察機6機を搭載し、対潜水艦用通信能力を強化した潜水艦指揮用の巡洋艦大淀を1940年に完成させるなど、日本海軍は潜水艦の運用に関して世界をリードしていた。また、日本海軍は潜水艦の偵察能力を強化するため、米英仏海軍が断念した潜水艦への航空機搭載を推進した。第1次大戦後の1922年にはドイツから輸入したハインケルU1型にフロートを付け、1923年に潜水艦に搭載し各種実験を行なった。1927年には横廠式T型水上偵察機を完成して伊21号(後の伊121号)に搭載、1929年には演習に参加させた。
 代表的な潜水艦搭載機 
形式 九一式 九六式 零戦 晴嵐
制作年 1927年 1936年 1940年 1945年
全幅 15,68m 10,00m 11,00m 12,26m
全長 10,70m  8,00m  8,45m 10,64m
全重 1,047kg  880kg 1,119kg 3,362kg
速度  84kt  232kt  300kt  474kt
武装 機銃
    爆弾
    魚雷
 ナシ 7,7mmx1
30kgX4
7,7mmX1
30kgX2
13mmX1
250kgX2
魚雷X1
乗組員  2名  2名  2名  2名
その後、イギリスの潜水艦M2型に搭載されていたパナール・ペト水上偵察機を参考に、1931年に試作機を完成して伊5号の後甲板に搭載、実用化の1歩を印し、1932年に91式小型偵察機(単座・複葉・双浮舟)として制式化した。翌33年はじめには圧搾空気カタパルトを装備し、初のカタパルトからの飛行に成功させるなど、日本海軍は世界ではじめて潜水艦搭載航空機の実用化に成功した。そして、さらに1938年から本格的な潜水艦搭載水上偵察機の開発に努め、1940年12月には零式水上偵察機を開発し、甲型・乙型潜水艦に搭載したが、1943年には単翼で800キロの爆弾あるいは魚雷を搭載する攻撃機「晴嵐」を開発した。

日本海軍特有の潜水艦とその用法
(1)潜水空母の建造
 第二次大戦中の日本海軍の潜水艦は前述の通り、艦隊決戦の補助兵力として発展してきたため、その運用構想や建艦思想は列国海軍に比べかなり大きな特異点があった。その第一は潜水艦への航空機の搭載であったが、世界を驚嘆させたのは搭載機数は僅か3機ではあったが排水量(常備)5223トンという世界最大の潜水空母伊400型を出現させたことであろう。潜水空母の発想は、真珠湾攻撃直後、米国国民に戦意を喪失させ厭戦気分を醸成させるため、「アメリカ本土に手をかけることはできないか」との山本五十6元帥の発言で具体化したというが、確証はない。そして、1942年1月には軍令部から艦政本部と航空本部に、航続距離4万海里で航空機2機を搭載可能な潜水艦と、航空魚雷1本又は8○○キロ爆弾1個を搭載する潜水艦用の水上攻撃機の開発要求が出された。早くも3月には基本設計が完成し、1943年1月18日には第1艦の伊400号が呉海軍工廠で、4月25日には2番艦の伊401号が佐世保工廠d、10月2日は3番艦が佐世保工廠で、9月29日には4番艦が川崎重工で、翌年2月には5番艦が呉海軍工廠で、それぞれ大和と同じく潜水艦そのものが「軍機密」として起工された。

 当初の計画では18隻を建造し合討54機を搭載した潜水空母艦隊を編成し、アメリカ本土を空襲するという構想であった。しかし、「潜水艦は通商破壊作戦を重視すべきである。潜水艦搭載の小型機による爆撃がどれだけの効果があるのか」との反対、それに資材の不足もあり、建造隻数は10隻、次いで5隻に削減された。そのため搭載機を2機から3機に増やし、1944年2月には建造中であった大型の巡航潜水艦2隻(伊13・伊14)の搭載機を1機から2機に増やした。1944年12月30日には伊400号、翌年1月8日には伊401号が完成し、2月30日には2機を搭載する伊13号と伊400号で第1潜水隊が編成された。なお、伊400型の要目はく表の通りで、1959年にアメリカ海軍の原子力潜水艦トライトンが就役するまでは世界最大の潜水艦であった。
全長 122m
常備排水量 5,223t
基準排水量 3,530t
速力(水中) 18,7(6,5)kt
航続距離 14ktで37500m
搭載機  晴嵐
 一方、搭載機の開発は愛知航空機に委託され、1942年8月4日には、同社から17試攻撃機(のちの晴嵐)の計画書が提出された。1943年11月には試作機を完成したが、1944年の能美自信や東海地震で工場が倒壊したり、故障が多発したため正式な運用が開始されたのは1945年1月に入ってからとなった。
この潜水艦に対する初期の運用構想はインド洋経由で大西洋へ進出し、東海岸の大都市ワシントンやニューヨークを爆撃するという雄大な構想であった。しかし、戦局の不利とともに運用構想は大幅に後退し、1943年8月にはパナマ運河のガツンロック関門を破壊し、パナマ運河を当分使用不能とし、後方補給路を遮断する作戦に変更された。

 そして、1945年6月には瀬戸内海に機雷が敷設されたため日本海に移動し、七尾湾を基地として訓練を開始した。しかし、さらに戦局が緊迫化したためパナマ運河攻撃はウルシー環礁内在泊中のアメリカ機動部隊を奇襲する「嵐作戦」に変更された。伊13号と伊14号は、ウルシー環礁に艦隊が在泊しているか否かを確認するための偵察機・彩雲をトラツク島に輸送するため7月初旬に大湊を出港、伊400号と伊401号は7月23日に同じく大湊を出撃し、停戦命令が発せられた8月15日には、2日後環礁内の機動部隊を攻撃する予定でトラツク島南西海面を航行中であった。

(2)超小型潜水艦―甲標的、蚊龍、海龍の開発
 決戦時における魚雷の命中率を確実にしようと甲標的が試作された。しかし、試作艇には司令塔がなく視界が悪かったため、司令塔のある改良U型が開発され、1940年には甲標的として制式化され、母艦からの発艦実験にも成功した。そして、開戦劈頭にハワイヘ5隻、翌4月にシドニーへ3隻、マダガスカルに2隻が投入された。その後、戦局が有利に展開している間は、電池充電装置もなく、航走距離が短く母艦への生還が難しいことから使用されることはなかった。しかし、ミツドウェー海戦の敗北直後から沿岸防御用に使用する構想が台頭し、自己充電装置の設置などの追加工事が行なわれ、1943年には試験的に乙型が、その後に操縦室内を改造した丙型、さらに耐波性や操縦性が向上した丁型が建造され、1945年には蚊龍と呼称され制式化された。
この改装で甲標的は乗員5名に増加、行動日数も5日に延長され、水中速力も16ノットで40分問、引き続き2・5ノットで50時間も潜航可能な世界に類のない60トンの小型潜水艦に変身した。1945年3月から各海軍工廠や民間造船所で量産が開始され、終戦までに115隻が完成した。

 この系統とは別に、日本海軍は水中飛行機とも呼ばれる海龍を開発した。軍令部第2部部員の浅野卯一中佐(のち大佐)がこの構想を提案したが、艦政本部は「水中翼は操艦上に不安があり推進抵抗上も不利である。また、運動性能の向上は翼を用いずとも普通の潜舵方式でも可能である」と反対した。浅野大佐は独断で横須賀海軍工作学校で建造を開始し、1944年8月には第1号艇、9月には第2号艇を完成させた。試験潜航では期待した成果は得られなかったが、改良を加え、1945年5月28日には制式兵器に採用され、各地で生産が開始された。
要目・艇名 甲標的(甲) 蚊龍 海龍
重量 46,0t 59,6t 19,3t
全長 23,90m 26,25m 17,28m
直径 1.85m 2,04m 1.30m
速力 水上
    水中
 ーーー
19,5kt(50m)
8,0kt
16kt
7.5kt
10,0kt
航続距離 6kt-80m 8kt-1000m 5kt-450m
乗員   2名  5名  2名
生産量 約60隻 115隻 約244隻
艦生年月日 1939年 1944年 1945年

 この水中翼を持つ有翼潜航艇の海龍は全長17,28メートルで、100馬力の自動車用エンジンを搭載し、水上7,5ノット、水中10ノットで、急速生産のため爆撃機銀河の操縦装置を転用したため、操縦は航空機と同様であった。最初は45センチ魚雷2本を艇底の左右に装着したが、速力が低下したため艇首に600キロの火薬を装備した特攻艇に変えられた。制式兵器に採用後はあらゆる民問の造船所で建造が開始され、終戦までに244隻が完成した。しかし実戦に使用されることはなかった。

奇想天外な潜水艦の運用
 日本海軍の潜水艦は開戦初期には艦隊の耳目として搭載航空機による偵察や、潜望鏡による潜航偵察を任務とし、さらに気象観測からアメリカ本土の爆撃や砲撃、大戦中期以後は物資輸送やパイロット救出作戦、最新鋭の武器や設計図を受領する日独連絡便と多種多様な任務を命じられた。北はアリューシャンから南はタスマニア海、東はアメリカ本土、西はアフリカ沿岸からヨーロッパまで束奔西走させられた。以下、これら多様な作戦の中から奇想天外な作戦を述べてみたい。

 最初に行なわれた作戦はアメリカやカナダ沿岸の砲撃だった。次いで元シアトル総領事からオレゴン州は冬季は乾燥するため山火事が多いとの情報を得、またハワイ攻撃後に北米西岸で交通破壊作戦に従事した艦長から搭載航空機を利用してアメリカ本土を爆撃すべきであるとの上申書が提出されると、1942年9月には伊25号によるオレゴン州の森林地帯への焼夷弾爆撃が行なわれた。爆撃は2回行なわれ、炸裂すると520個の小型焼夷弾となる焼夷弾2発が投下された。しかし、季節外の大雨の後であったため山火事を発生させることはできなかったという。なお、潜水艦が行なった偵察、砲撃などの実施状況はく表の通りであった。
方面・任務 飛行偵察 潜航偵察 砲撃
東太平洋方面   7回   17回 19回
南太平洋方面  33回   41回 10回
北太平洋方面   6回   17回 なし
インド洋・南西方面  10回   15回  1回
  合計  56回  90回 30回
 戦局が不利となり制空権や制海権を失うと、潜水艦は隠密性を利用して、ガダルカナルをはじめとする孤立した孤島への輸送任務やパイロット救出作戦、ドイツからの兵器や技術者の輸送に投入された。
1944年8月には輸送潜水艦伊351号など6隻で輸送を専門とする第7潜水戦隊(司令部 横須賀)が編成された。そして、食料や弾薬などを潜水艦が曳航するための運貨筒(大中小型)、大砲を運ぶ運砲筒などが製造された。この潜水艦輸送には陸軍までもが、「マルゆ(輸送の頭文字から命名)」と呼ばれる排水量274トンの小型輸送潜水艦を戦列に加えた。しかし、「マルゆ」潜水艦はレイテ島に1隻が使用された他は、釜山と下関間、下田と八丈島間などへの物資輸送に利用されるに留まった。なお、潜水艦輸送の実績はく表の通りであった。

 このように日本海軍は多種多様な任務を潜水艦に命じ、そのために多種多様な潜水艦を建造した。以下、これらのなかから特異な潜水艦とその作戦を述べてみたい。潜水艦搭載の航空機では飛行距離が限られることから、世界に誇る二式飛行艇に中間地点(ハワイはフレンチ・フリゲート環礁、インド洋はマルディブ環礁)で燃料を補給し、飛行艇の偵察範囲を増加させる作戦。母艦または陸上基地を発進した水上偵察機への燃料補給(南太平洋ではインデスペンサブル環礁やサンタクルス島)。さらに1943年2月には、S特陸と呼ばれる陸戦隊10名、機関銃2丁を含む陸戦兵器5トンを搭載する伊361型潜水艦を竣工させ、水陸両用の戦車まで開発した。

輸送任務 成功 不成功 合計 喪失
南東方面 200回  14回 214回  8隻
北東方面  42回   4回  46回  3隻
中部太平洋
日本近海
 38回   7回  45回  8隻
南西方面   8回   ー   8回  1隻
 合計 288回  25回 313回  20隻
 この特四内火艇は正確には両用装甲車兼魚雷艇で、これを搭載した潜水艦は暗夜にサンゴ礁外側に接近して、急速浮上。降ろされた特四内火艇は水上航走によってサンゴ礁に取り付くと、キャタピラを利用してサンゴ礁を乗り越え、再び水上航走によって敵艦隊に接近し、魚雷(2発)を投射機によって投下、攻撃終了後は小型内火艇によって脱出し、母艦に帰ることになっていた。このため、浮カタンクを付けたキャタピラを備え、防弾装甲を施し、潜水艦と一緒に潜航するため機関部分は耐圧構造となっていた。 日本海軍はマリアナ沖海戦の直前に、潜水艦4隻にこの特四型内火艇2隻をそれぞれ搭載し、サンゴ礁内のアメリカ艦隊を奇襲する竜巻作戦を計画、1944年早々には呉近くの情島で特四内火艇18隻、搭乗員70名からなる部隊を編成して訓練を開始した。そして、5月3日には5月20日未明を期してマーシャル軍乙のメジェロ環礁を攻撃する予定で計画を進めていた。しかし、エンジン音が高いこと、速力が遅く、キャタピラが弱く破損し易いことなどに加え、潜水艦と同一の深度に潜航した場合の漏水問題が解決されなかったため中止された。以後、この特四内火艇は奇襲上陸兵力として改良が加えられ、輸送艦などによってフィリピンや沖縄に送られたが、あまり成果を上げることはなかった。このほかの奇想天外な作戦としては、潜水艦4隻に小型風船爆弾2499個を搭載し、アメリカ西岸300海里の地点から飛ばして、偏西風に乗せてオレゴン州に山火事を起こす「ふ号作戦」なども計画されたが、米軍がサイパンに上陸したため中止された。

おわりに
 日本海軍が開発した独特の技術としては、水中に停止したまま深度を一定に保つ自動懸吊装置、潜航中にタンクからの重油の漏洩を防ぐ重油漏洩防止装置程度であり、シュノーケルもレーダーも敗戦直前にしか開発されなかったことから、潜水艦の技術的発展に関してはあまり触れられることはなかった。.しかし、日本海軍は潜水艦に航空機を搭載した世界唯一のかいぐんであった。この潜水艦に飛行機を搭載するという発想は第一次世界大戦中のドイツ海軍に生まれたが、最初に実行に移したのはイギリス海軍てあり、その後、米仏伊海軍などでも実験を行なった。しかし、イギリス海軍の航空機搭載潜水艦が格納庫に浸水して沈没するという事故が起きると、潜水艦への航空機の潜水艦という“Under Water Sea Power”に、飛行機という”Air Power”を組み合わせ潜水母艦というシステム的戦力を誕生させた日本海軍の発想と、それを戦力化した技術力は高く評価されうべきであろう。潜水空母とは名ばかりで、搭載機は1隻に3機、計画とうりに建造されたとしても54機、そのうえ低速な水上機という問題はあったが、この着想が第二次大戦後にアメリカ海軍の戦略ミサイル原子カ潜水艦の原型となったのではないであろうか。

 明確な証拠はないが、これはアメリカ海軍が伊400号や伊14号に持別の関心を示し、乗員に執拗な尋問を行い、さらにこれら潜水艦をアメリカに回航して調査し、多くの実験を行なったことでも理解できるであろう。また、それまで潜水艦に航空機を搭載したことのなかったアメリカ海軍が、1940年代後半にはドイツのVTロケットを改装したロケットを搭載し、1958年にはダーター級潜水艦にレギラス巡航ミサイルを搭載したグロウラとグレーバックの2隻を、さらに1960年には巡航ミサイルを搭載した原子力潜水艦ハリバット、1959年には、戦略ミサイル・ポラリスを搭載した原子力潜水艦ジョージ・ワシントンを竣工させたことからも頷けるであろう。

 一方、潜水空母と対照的なのが超小型の海龍である。この船体中央に航空機と同様の原理の水中翼を装備した着想は、現在あらゆる潜水艦に採用され、近代潜水艦の原型ともなっている。また、偵察機銀河から流用した航空機と同じ原理の操縦装置は、現在ジョイ・スティック装置と呼ばれ、世界の潜水艦の標準的操縦装置となっている。また、アメリカ海軍は日本の多様な潜水艦の用法に刺激されたのであろうか、1950年代にはレーダーピケツト潜水艦(SSR)10隻、海兵隊160名を運ぶ兵員輸送潜水か(ASSP)1隻、賃物輸送潜水艦(ASSA)2隻を戦後に改装または建造によって戦列に加えた。給油潜水艦は当時開発中であったジェット飛行艇への洋上給油を行なうものであったが、これは伊351型のアイデアを採用したものであった。また、水中高速潜水艦の分野で遅れていたアメリカ海軍は、水中速度19ノットの伊2012号を戦利品としてアメリカに回航し、その技術とドイツ潜水艦の技術を参考として、既成潜水艦の高速化Guppy/Greater Underwater Propulsive Power)計画を実施した。

 かに終戦直前に完成した日本海軍の多様な潜水艦は、開発時期の遅れから何ら成果を上げることなく消えてしまった。多種多様な潜水艦を建造し、多くの資源や尽力を不必要な部分に使い過ぎたと日本海軍は戦後に多くの批判を受けている。しかし、この日本海軍の多様な発想とそれを具体化した技術力が、日本の潜水艦を兵器としての総合的完成度としては世界的水準に達しさせ、大戦後の世界の潜水艦の運用や技術的進歩に多くの示唆を与えたのでもあった。

参考文献
佐藤次男『「幻の潜水空母』(図書出版社、1989年)、木俣滋郎『日本潜水艦戦史』(図書出版社、1993年、)堀元美『日本潜水艦物語』(光人社、1994年)、『世界の艦船』1988年5月号、海軍編纂委員会編『海軍潜水艦潜水母艦敷設艦砲艦』(誠文図書、1981年)、南部伸清『米機動艦隊を奇襲せよ』(二見書房、199年)