外国から見た日本の戦争犯罪
(知らないのは日本人だけ)
はじめに:回覧資料の紹介
1.外国で問題となっている日本の戦争犯罪
戦争犯罪の種類 | 主要事象 | 対象国 | 避難度 | |
捕虜虐待 | 高い死亡率 | 英米豪加蘭 | A | |
タイービルマ鉄道 | 英豪 | A | ||
死の行軍(バターン半島) | 米国 | B | ||
空襲パイロットの処刑 | 米国 | C | ||
住民虐殺など | 華僑虐殺・処刑 | シンガポール | C | |
住民餓死(100ー200万) | ベトナム | D | ||
マニラ攻防戦(10万) | フィリピン | C | ||
南京事件(30万) | 中国 | 超A | ||
労務・食料の徴収 | インドネシア | C | ||
船員虐殺 | インド洋10隻・太平洋1隻 (約750-1000名) |
英米蘭ノルウエー | C | |
細菌戦・人体実験 | 731部隊 | 中国 | B | |
女性の性の問題 | 慰安婦 | オランダ | C | |
韓国 | A | |||
労働者の徴収 | 強制連行・過労死 | 韓国 | A |
2.具体例の説明
(1)シンガポールの華僑虐殺:協力者名簿の残置
(2)住民餓死(ベトナム)
(3)フィリピン
A.住民の米軍への協力・ゲリラ
B.マニラ10万人虐殺:岩淵三次海軍少将(マニア防衛海軍指揮官)住民虐殺10万
(4)商船船員虐殺事件(潜水艦事件)左近允尚正(死刑)黛治夫(重労働7年)
Reluctant Allies:German-Japanese Naval Relations in world War II
3.戦争犯罪の実情と非難度
(1)中国の場合(今後とも止まらない)
A.実情と問題点(歴史の改ざんと過大な「白髪三千丈」の被害)
(a)戦争被害の過剰宣伝
・死者:932.5万 負傷者:947万人 行方不明:289万 総計3500万
・経済的直接損失1000億ドル 間接的損失5000億ドルに訂正
The Encyclopedia of Military History(Harper & Row,1977)軍人50万、市民100万
(b)南京事件の例
B.日本に戦争犯罪を追求する理由
(a)外交上の対日カード→→→経済援助の引き出し→→朝貢国家化
→→→尖閣列鳥領有の取引材料
(b)日本の国際政治力の向上阻止→→→日本の小国化→→→中国の地位の向上
(c)国家統合の核・シンボル→→→→国民の啓蒙と国民の不満の回避
(d)人民解放軍の特権維持の材料→→→→人民解放軍の汚職腐敗への批判回避
(e)日米離反策→→→→→→米国内の反日世論の醸成と親中国世諭の醸成
(f)人権問題(天安門事件など)に対する批判の回避
C.参考回覧資料:中国の『初等中学教科書』
『日軍慰安婦内幕』『中国人民抗日戦争記念館』
Rape of Nanking Unit 731 新聞・雑誌・インターネット資料
(2)韓国の場合(日本を必要とすれば止まるが、過ぎれば元の木阿弥)
日本の「小国」化→「徳欠国家日本」化→韓国の大国化
日本に対する優越感保持の材料(過去の歴史の否定)←大国化の自負
韓国のスローガン→「歴史の建て直し」「歴史の再構築」
A.実情と問題点(韓国の国定中学の教科書の記述)
・「(3.1)事件」:「ソウルから45マイル離れた華城郡堤岩里では、日本軍が到着して住民たちに教会に集まるよう命令した。彼らが教会に集まると、日本軍は彼らに機関銃を乱射し35名を虐殺した。……堤岩里近くにあるほかの村も焼かれたが、炎につつままれた家から逃げ出した住民は日本軍の射撃と刃に倒れた。…..焼かれた村が9カ所、その他にも多くの教会が破壊されたという。平壌に住んでいたアメリカ人宣教師ロバーツ牧師によれば、定州では100名を超える韓国人が銃殺されたり殴り殺されたりしたという。…..幼い少女たちも残酷になぐられ、7歳以下の幼い少女ら300余名が殺害されたと知らされた。トウェーン牧師の証言によれば、1歳ほどの子供が背中を銃で撃たれ死んだという。日本軍は死んでいく人々にも背中から銃を浴びせたし、逃げる人は追いかけて帯剣で突き刺して倒した。示威がはじまった後の3ヵ月間に、3万名をこす韓国人が殺されたり負傷させられた」。
事実:植民地時代最大の虐殺:教会で殺害は15歳以上の男子24名
焼かれた家33軒、村内で殺害は男子5名と女子2名
B.日本に戦争犯罪を追求する理由
元日本人であったことの否定(朝鮮王 高宗第4王子 李王垠陸軍中将・梨本宮と結婚)
(a)日本より国際社会で上位にいたいという願望→「徳欠国家日本」の定着化
(b)「猪足」に優等民族が支配された屈辱感←「恨」という執念深い国氏性
文化的に歴史上は先進国であった国としての誇りの近世に於ける逆転
(c)国家続一へのシンボル(元気薬)
(3)イギリス・オランダの場合(根底に黄禍論)
(a)大英帝国から小英帝国にされた恨み
白色人種の誇り、植民地喪失への恨み(オランダも同様)
(b)英国で捕虜間題が生起する背景→→→→→敗北者のひがみ・対日戦勝利の記録なし
人種差別・黄禍論(オーストラリアも同じ)
(c)捕虜の名誉維持(録に戦いもせずに降伏してしまったことへのこだわり)
→→→→→軍人恩給などの獲得への弁明
(4)アメリカの場合(華僑の政治力と経済力)
(a)人道主義・理想主義
(b)米国内の華僑の政治力(納金・選挙対策)
4.欧米の戦争犯罪:「勝てば官軍、負ければ賊軍」
A.米国海軍潜水艦のOperation Reportと指揮官の賞賛
B.『タイムス(1943年2月号)』紙の記事
C.『アトランティック・マンスリー』誌の記事
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の 民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に 投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、他の骨でペーパー ナイフを作るとかした」。
D.太平洋戦争は日本人抹殺戦争
・原爆投下の数日前:ニフドフォード海軍中将の発言
・原爆投下後の米国の世論のデーター
参考文献:ジョン・W・ダワー『人種差別』(TBSブルタニカ1987年)
5.世界から見た日本の戦争責任
(1)日本は道義的に欠陥国家のイメージが定着(戦争責任と平和に血を流さず)
日本の反論に反論を聞く耳を持たない(米国人・英国人・ドイツ人との体験)
(2)日本に及ぼす影響→21西紀に戦争犯罪国家として定着
→自信を喪失「小国日本」として中国への返らざるODAの継続
北朝鮮への経済援助(賠償)の継続
6.戦争責任の国内の問題点
(1)最大の問題点(責任者・政治家と外交官)
A.自由党:賠償金→リベートのパターン
中国派:橋本派(橋本:日中友好行事に2回も訪中)野中広務など
ロシア派→鈴木善幸 北朝鮮派→金丸信、竹下登、野中広務
参考推薦図書:重村智計『北朝鮮の外交戦略』(講談社、2000年)
キャプション:「東アジア最大の闇」の正体:コメ支援の実情と拉致問題
利権に群がる自社の族議員」
B.官僚:外務省→国連神話を創造し世界第2の資金提供国
常任理事国にもなれず国連の敵対国のまま半世紀の納金
・謝罪外交を推進(文部省も共犯)→文化・学術交流 反日運動家を招待外交
(2)学者・ジャーナリズムの問題
御用学者の支配←GHQの新聞検閲係 参考文献:江藤淳『閉ざされた言語空間』
参考回覧資料:朝日新聞」社長の訪中と「人民日報」の報道
(1)歴史教育の問題(戦争史研究の忌避)
(2)左翼学者の日本学術会議の支配(文部省)
(3)国際交流資金の支配(外務省)参考回覧資料「国際交流基金の反日学会支援」
(3)国民の問題(含む水交会):国民の「事なかれ主義」と謝罪
・無知・無理解→歴史観の不在(水交会・自衛隊の戦史研究者の不在)
A.韓国の対日歴史観:韓国の歴史認識は歴史的溝を「埋める」のではなく、「直させる」
・「楽観許さぬ日韓関係・韓国ゼロ回答では収集困難」妥協→変更(改悪)
B.中国:江沢民の日中友好議員連盟訪中団との会談
「帰国の首相は、歴史の知識がないようだ。教えてやらねば」
7.今後の対策:何にをなすべきか
(1)個人賠償に応じる(応じなければ犯罪国家が国際的に定着)
財源:国連分担金とODAの減額(この浮いた分で支払う)
(2)正しい歴史を発信する:英語で書かなければ世界史にならない
・正しい歴史を世界に発信するNPOの設立
嘘を論破するには時間と人力が必要
『世界戦争事典』(文芸春秋、2002年)の功績
(3)世論喚起→行動を起こす(1人1人の力)
(4)優秀な自衛官を戦史研究に
参考資料:日本の22回の謝罪と、その内容(2005年4月まで)
馬立誠著『日本はもう中国に謝罪しなくて言い』を参考に『諸君』8月号が掲載
1.1972年9月25日、田中角栄、日中国交正常化交渉、周恩来主催パーティのスピーチ
「過去数十年に亙って、日中関係は遺憾ながら、不幸な経過をたどってきた。この間我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである」
2.1972年9月29日、田中角栄、日中共同声明
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
3.1978年10月23日、昭和天皇、ケ小平と会見
「日中両国には長い友好の歴史がある。一時は不幸な出来事もあったが、あなたのおっしゃるとおり過去のことになっている。今後は両国の親善を深め、平和を長く維持することを希望する」
4.1982年9月26日、鈴木善幸、趙紫陽と会談
「わが国の国民は戦前の過ちを深く反省し、日本側も過去に戦争によって中国人にもたらした重大な損害の責任を痛感し、深い反省を表明する」
5. 1988年8月25日、竹下登、李鵬と会談
「日中友好は日本外交の柱の一つであり、日本政府は、過去の歴史に対する厳しい反省を出発点とし、日中共同声明、日中平和友好条約及び日中関係四原則を堅持し、日中関係の重視と発展を継続するとの政策に変わりはない。
6.1989年4月12日、竹下登、李鵬と会談
「両国の友好関係を発展させるためには、過去の歴史を正しく認識し、教訓をくみとることが非常に大切だ。我が国の過去の歴史に対する認識は、日中共同声明の堅持により、立場も不変だ」
7.1989年4月12日、竹下登る、李鵬の訪日歓迎宴でのスピーチ
「日中共同声明と日中平和友好条約の精神にのっとり、歴史の教訓を踏まえ、政治、経済、文化などのあらゆる分野において交流を拡大し、またあらゆるレベルで友情を深めていくことが必要だ」
8.1989年4月13日、今上天皇、李鵬と会談
「日中間には悠久の関係がある。しかし遺憾ながら不幸な一時期があった。日中間の長い歴史を十分に認識し、今後の新たな友好関係を前に進めて行きたいと願っている」
9.1991年8月11日、海部俊樹、北京・中日青年交流センターでの講演
「日中両国間には、長い友好の歴史の中で日本が深く反省すべき不幸な一時期があったが、この歴史を克服し、両国関係を真の友好協力関係に変容させるには、双方の忍耐強い努力と限りなき情熱が必要であった。
10.1992年10月23日、今上天皇、訪中・歓迎宴の答辞で
「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大な苦難を与えた不幸な一時期があった。これは私の深く悲しみとするところである」
11.1994年3月20日、細川護熙、江沢民と会談
「私は就任後の国会での演説などの場を通じて歴史問題に対しての表明を行なってきた。歴史に対する反省をふまえて未来に目をむけた両国関係を構築することは重要である」
12.1995年5月3日、村山富市、江沢民と会見
「いま盧溝橋を見学して、歴史をおさらいしたところです。日本は、かって中国国民に重大な災難をもたらしたあの時期の歴史を深く反省し、これをふまえて日中友好を推進し、世界平和を守るために努力していきたい」
13.1995年8月15日、村山富市、戦後50年の終戦記念日の「村山談話」
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦難を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します」
14.1996年11月24日、橋本龍太郎、APEC非公式首脳会議で江沢民と会談
「日本政府は過去の歴史上の植民地支配と侵略が中国及びアジア諸国にもたらした深刻な災難を認め、これに対し深い反省と心からのお詫びを表明する」
15.1997年9月4日、橋本龍太郎、李鵬と会談
「日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣
談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、堪え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上にたち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽そうとの決意を発表しました。私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います」
16.1998年11月26日、小渕恵三、江沢民と会談
「95年に発表した内閣総理大臣談話では、我が国は過去の一時期の植民地支配と侵略に対して深い反省を表明し、心からおわびする、と述べた。日本政府は中国政府に対し、再度反省とおわびを表明する」
17.1998年11月26日、小渕恵三、「日中共同宣言」
「日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した」
18.1999年7月8日、小渕恵三、朱鎔基と会談
「わが国は過去の一時期の植民地支配と侵略に対して、深い反省と心からのおわびを表明する」
19.2000年10月13日、森喜郎、朱鎔基と会談
「歴史認識といえば、我が国の立場は1972年の日中共同声明、1995年の内閣総理大臣談話及び1998年の日中共同宣言で重ねて表明しているとおりだ」
20.2001年10月8日、小泉純一郎、江沢民と会談
「自分は歴史に興味があり、盧溝橋に行きたいと思っていた。戦争の悲惨さ、中国の人の悲痛さが見てとれた。お詫びと哀悼の気持ちをもって展示を見た。過去の反省に立って、教訓を生かさなければいけない。二度と戦争をしてはならないと思った」
21.2002年10月28日、小泉純一郎、APEC首脳会議で江沢民と会談
「自分が靖国神社を参拝した目的は、特定の人物を参拝することではなく、心ならずも戦地に赴き、戦場に斃れた人々に対し、哀悼の意を表明し、2度と戦争を起こしてはならないとの決意からである。過去、現在、将来にわたり様々な問題はあるが、過去の過ちを反省し、未来に向けた良好な関係を発展させていくため、努力していきたい」
22.2005年4月22日、小泉純一郎、アジア・アフリカ首脳会議でのスピーチ
「わが国は、かって植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています」