落日の戦艦
 航空主兵思想の隆盛と大艦主砲主義の敗北


はじめに
 ロンドン条約の調印により主力艦に次いで補助艦艇の制限を受けると、 日本海軍は兵力不足の補完を航空兵力に求めた。とはいえ、 昭和初期までは航空機の性能も低く、 航空兵力への期待は征空権を獲得し、 味方観測機の弾着観測下に有利な態勢で主力部隊の砲戦を行う程度であった。 しかし、 日本海軍の航空運用思想の発展に大きく寄与したのが1932年から始まった上海事変であり、 37年から拡大した日中戦争であった。 日本海軍は中国との戦いで、 戦闘術力や航空機の運用に関して多くの戦訓を学び、 その実戦経験から運用法・航空戦術・装備・後方支援能力などを急速に向上させていった。

1933年には92式艦上攻撃機が制式化し、 35年には96式艦上攻撃機が、さらに翌36年には単翼の97式艦上攻撃機が、陸上機では36年に96式陸上攻撃機などが次々と開発され、爆撃精度や雷撃精度が向上すると航空機で戦艦を撃沈できると、戦艦は不要との航空主兵論が海軍大学校の山県正郷大佐、加来止男中佐、横須賀航空隊の三輪義男少佐、連合艦隊の小園安名少佐などから唱えられた。1935年には別所明朋少将が長距離爆撃機を主力とする数個の航空戦隊を整備するならば、島国日本の国防は完全であるとの独立航空戦隊論が海軍部内誌に掲載された。特に、1936年に航続距離2400海里、 速力200ノットの96式陸上攻撃機が完成すると、海軍航空本部教育部長の大西滝次郎大佐を中心に「空中威力研究会」が開かれ、1937年7月には航空本部から空中威力研究会の結論として、マーシャルやカロリン諸島などの南洋群島に飛行場を造り、航空機で米艦隊を迎撃するならば、「近キ将来ニ於テ艦艇ヲ主体トスル艦隊ハ、基地大型飛行機ヨリナル優秀ナル航空兵力ニ威力圏内(半径千浬)ニ於テ、制海権保障ノ権力タルヲ得ス」。「帝国領土約一千浬ノ海域ニ於テハ、如何ナル敵国モ艦船(空母等随伴航空兵力ヲ含ム)ヲ以テスル進攻作戦ハ殆ンド不可能」であるとの「空威研究会報告」が提出された。

 1939年には新鋭空母の蒼龍・飛龍の就役や翔鶴型空母の着工、 母艦搭載機の飛行距離の伸延なども加わり、さらに、 南洋委任統治領の軍事利用を制限していたワシントン条約が1937年1月に解消したため、南洋諸島が陸上攻撃機の前進基地として対米戦略上から脚光を浴び、航空兵力が対米邀撃漸減兵力として大きく期待されるに至った。 1941年1月には次期海軍軍備計画(D計画)案の説明を受けた海軍航空本部長井上成美中将から、軍令部案は明治の頭で昭和の軍備を行なわんとするものであり、何等新味も特徴もない。航空機と潜水艦の発達により「米ノ主力艦ノ如キハ西太平洋ニ出現スルヲ得ズ」。艦隊決戦などは「米艦隊長官ガ非常ニ無知無謀ナラザル限リ生起ノ公算ナシ」。旧時代の海戦思想では「何事モ律スルヲ得ザルコトニ注意ノ要アリ」と、航空軍備を重視すべきであるとの「新軍備計画論」が提出された。

 航空兵力の戦力化にともない編成や運用法も逐次改善され、 1938年には陸上航空兵力を機動運用する「海軍連合航空隊令」が制定されたが、さらに1941年4月10日には陸上航空部隊を統一指揮するため第11航空艦隊が、同年4月には空母8隻に駆逐隊を付属させた4ケ航空戦隊からなる第1航空艦隊が編成された。しかし、 この編成は護衛部隊に戦艦や巡洋艦を加えず、警戒用の駆逐艦を加えただけの中途半端なもので、潜水艦や航空機は依然として艦隊決戦の補助的兵力と認識されていた。とはいえ、 日本海軍は太平洋戦争開戦時には米国の空母8隻(太平洋正面は3隻)に対し、10隻を保有する世界最大の空母大国であり、世界第一の海上航空兵力を保有していた。

 そして、 太平洋戦争開戦劈頭には空母6隻から350機がハワイを奇襲し、 戦艦4隻、 標的艦(元戦艦)1隻、敷設艦1隻を撃沈、 戦艦1隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦3隻を大破、戦艦3隻、 軽巡洋艦1隻、水上機母艦1隻を中破し、航空機231機を半日で撃破した。さらに開戦2日後の12月10日には、 対空砲火も強化されていた英最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエルスと、巡洋戦艦レパルスを3機を失っただけで行動中に撃沈したが、これは航空機対戦艦の世界最初の正面から取り組んだ海戦であり、戦艦至上主義を根底から覆した海戦であった。

 翌年1月23日には空母4隻の109機と陸上航空部隊の連合航空部隊がラバウルを、 2月19日には空母4隻から飛び立った188機がオーストラリアのダーウィン港を、 4月5日には空母5隻の128機がセイロン島のコロンボ港の港湾施設や在泊船舶を爆撃し、 さらに航行中の英重巡洋艦ドーセットシャーとコーンウォールを撃沈した。 続いて4月9日には121機がドリンコマリー港(セイロン島北部)を強襲し、 軍事施設や停泊船舶に多大の被害を与えたが、 同日午後には空母ハーミス、 駆逐艦1隻を洋上で撃沈した。ハワイに次ぐ大規模な戦略的航空機動作戦であった。世界はこの空母6隻を集団的に使用した大規模なハワイ攻撃と、 それに続くセイロン島攻撃と太平洋からインド洋へと地球の三分の一を駆け抜ける空母機動部隊の絶大な破壊力と機動力に驚嘆した。

米国の戦艦至上主義の根拠
 合理性や経済性を重視する米海軍は、戦艦は16インチ砲(2100ポンド爆弾相当)を9門搭載しているので、 1分間に1斉射が可能とすれば、1時間40分に900発が発射可能である。 しかし、爆撃機を使用して同量の火力を相手に与えるには900機が必要である。これを経費的に比較すれば爆撃機の就役年数を6年、 戦艦を26年とすれば、この間に航空機は5万8500機が必要となる。爆撃機の命中精度を艦砲の4倍としても3375機が必要で費用は35億ドル、 空母1隻で75機を搭載可能するとすれば45隻の空母が必要であり、建造費を1隻3000万ドルとすれば45隻で13億5000万ドルとなる。 すなわち戦艦ならば15隻で7億5000万ドルで済むが、航空機で戦艦と同量の火力を運ぶとすれば、空母45隻と航空機3375機が必要で、その費用は48億5000万ドルとなり、 戦艦の方がはるかに経済的であると考えていた。

 しかし、ハワイで戦艦や巡洋艦などを失った米海軍は、ハワイ奇襲時に難を免れた空母サラトガ、レキシントン、ヨークタウン、 大西洋から回航したエンタープライズなど4隻の空母で直ちに空母任務部隊を編成した。そして、 ハワイを奇襲された2カ月後の1942年2月にはギルバート諸島やマーシャル諸島を、 3月には南鳥島とラエ、サラモアを、 さらに4月18日には空母ホーネット搭載の陸上爆撃機B-2516機で日本本土を空襲するなど、空母部隊によるヒット・エンド・ランのゲリラ的攻撃を開始した。 一方、米海軍は太平洋艦隊の戦艦勢力を増強するため、42年1月には大西洋艦隊からニューメキシコなど3隻の戦艦を回航した。また、修理を急ぎ42年2月にはペンシルバニアなど2隻が、3月にはテネシーが修理を完了し戦列に加わった。しかし、これらの旧式戦艦は速力の不足から空母部隊と同一行動ができず、ニミッツ太平洋艦隊司令官からは貴重な燃料を消費するだけなので、西海岸に回航したいとの意見が再三ワシントンに送られたが認められなかった。
42年6月には新型戦艦ノース・カロライナが、8月にはサウス・ダコタとワシントンが太平洋に回航され、これら新型戦艦は11月13日夜には戦艦霧島、巡洋艦愛宕・高雄を迎え撃ち、「闇夜に鉄砲」のレーダー射撃で霧島を撃沈するなど戦果を挙げていたが、旧式戦艦は日本海軍と同じくハワイで無為な日々を送っていた。しかし、対日反攻作戦が始まると旧式戦艦に上陸作戦支援という新しい任務が与えられ、43年のアッツ島上陸作戦には旧式戦艦アイダホなど3隻の他に、ハワイ空襲で損傷した戦艦ネヴァダなど2隻が艦砲射撃を行ったのを皮切りに、43年11月のギルバート上陸作戦には新型戦艦3隻と旧式戦艦7隻、44年1月のマーシャル群島の上陸作戦には空母機動部隊に新型戦艦7隻、上陸部隊に旧式戦艦7隻が加えられるなど、旧式戦艦はサイパン、硫黄島、沖縄と上陸作戦支援艦砲射撃という新しい任務を与えられ、絶大な破壊力を発揮し日本軍を苦しめた。 

戦艦主兵のレイテ沖海戦と戦艦の終焉
 制空権を失った日本海軍が考えついた作戦は、空母部隊を囮として米機動部隊をレイテ湾北方に吊り上げ、その間に戦艦部隊の砲力でレイテ湾内の輸送船を攻撃する計画であった。小澤治三郎中将指揮の空母部隊は10月25日にはルソン島北東端のエンガノ岬に達し、早朝から夕刻まで航空機の連続攻撃を受け、ハルゼー艦隊を北方に「吊り上げる」囮としての任務を完全に果した。 しかし、 瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の全空母、 軽巡洋艦多摩、 駆逐艦2隻を失い、 27日に奄美大島に帰投したのは戦艦日向と伊勢、巡洋艦大淀、 五十鈴と駆逐艦6隻だけであった。

 一方、 栗田部隊の戦艦大和・武蔵・長門・榛名・金剛などの戦艦は10月22日にブルネイ泊地を出撃し、シャブ海を通りサンベルナルジノ海峡を経てレイテ湾への突入を目指した。しかし、24日早朝から日没まで激しい空襲受け、大和は表に示す通り主砲の三式対空弾31発を含め2万1500発を発射したが命中弾2発の被害を受けた。空襲が終わり海峡を抜けると幸運にも小型空母部隊と遭遇し、大和も主砲を発射する機会を得て100発を発射した。しかし、命中弾はなく栗田部隊が撃沈できたのは護衛空母1隻と駆逐艦4隻だけであった。栗田部隊は軽空母部隊を隻空母部隊と誤認して追跡したが発見できないと、反転してレイテ突入を中止しコロンに引き揚げた。この3日間の対空戦闘で大和は主砲弾69発、副砲487発、高角砲851発、機銃9万744発など総計9万5205発を発射したが4発の命中弾を受け、128名の死傷者(戦死33名)を出したが撃墜できたのは数機であった。このレイテ海戦で日本海軍は戦艦1隻、空母4隻を含めて30隻を失い、残された戦法は特攻戦法しかなかった。また、多数のパイロットを失った航空戦艦日向や伊勢を空母として運用することもできず、伊勢・日向はゴム、錫などの戦略物資を搭載し呉に帰投を命じられ、呉湾内に係留されて防空砲台とされたが、7月24の空襲で両艦とも大破着底し廃艦となった。

 唯一隻実動艦として残された大和は、 2月10日付で天城、 葛城の新空母、 隼鷹・竜鳳の残存空母で編成された第1航空戦隊の旗艦となった。 この編成こそ航空部隊が最も望んでいた編成であったが、 日本海軍にはもはや空母から発着艦できる搭乗員はいなかった。 一方、 戦局はますます緊迫し4月1日に沖縄への上陸が始まると、大和にも航空部隊同様に特攻命令が下り、4月7日に航空攻撃を受け九州坊ノ岬沖に沈んだ。 太平洋戦争中に唯一隻沈没を免れた長門は、9月15日に星条旗がマストに掲げられ、原爆実験のモルモット艦としてビキニ環礁に回航され翌年7月の原爆実験に使用された。7月1日の空中爆発実験で異常がないと、25日の水中爆発実験では爆心から200bの位置に移された。周囲には戦艦ネヴァダ、 アーカンソー、 空母サラトガなどのライバルが並んでいた。 爆発で戦艦ネヴァダとアーカンソーは瞬時に沈没し、 空母ニューヨークは7時間半後に沈没した。一方、長門は数時間後に傾斜が50度になったが、 それから5日間も傾斜角度を変えることもなく浮かび続け、防水区画の完璧さ水中防御力の強さを示したが、7月30日の朝にはその姿はなかった。艦艇研究家の佐藤和正氏は長門の最後を「捕虜になることを潔しとしない武人のように、 自ら人知れず自決したかのように沈んでいった。 それはまた、 日本海軍の名誉と誇りを示すかのような美しい雄々しい最後であった」と書いている。

列国海軍の戦艦主兵論
 太平洋戦争に12隻の戦艦が投入されたが、日本海軍は海の王者として仰がれた戦艦を空母被害時の曳航任務、陸上支援砲撃、商船改装の低速空母の護衛、空母への改装、物資輸送、最後には防空砲台として使用した。12隻の戦艦が一万数千の優秀な乗組員を第一線部隊から引き抜き、さらに貴重な燃料を無為な出動ごとに消費して戦力を食い潰し、米機動部隊の空襲を予知すると商船を放置してトラック島やパラオ島などから逃げ出すなど、戦艦部隊の働きは全く国民の期待を裏切るものであった。 1930年代後半に戦艦無用論が高まった時に、航空本部長であった山本五十六少将は横須賀航空隊を訪れ、「金持ちの家の床の間には立派な置物がある。実用的価値はないが金持ちとして無形的な種々の利益を受けることが多い。戦艦は実用的な価値は低下してきたが、まだ世界的に戦艦主兵思想が強く、国際的には海軍力の表徴として大きな影響力があるので、諸君は戦艦を床の間の置物だと考え、 あまり廃止廃止と主張するな」と訓示をしたいうが、貧乏国の日本にとり「床の間の飾り」としては高い買い物であった。
 戦いが終わると大和は万里の長城、ピラミットとともに無用の三大長物と非難された。しかし、航空主兵論者の源田実中佐は「航空主兵論に対する対応は、何も日本海軍のみが誤ったわけでなく、列国いずれも間違った判断処置をした。日本海軍などは、まだ処置の速かった方である」と述べているとおり列国海軍も同様であった。米海軍は日本海軍がハワイ・マレー沖で戦艦を撃沈するなど航空機の威力を示し、日本海軍が戦艦信濃を空母に改装を初めてもサウス・ダコダ型4隻、アイオア型5隻(2隻は終戦で中止)、アラスカ型2隻(終戦で中止)など12隻の戦艦を造り続けた。また、英海軍も戦争が終わった1年後にヴァンガートを、フランス海軍は4年後の1949年にジャン・バールを完成させるなど戦艦を作り続けていた。