ラバウル航空戦の分析

はじめに

昭和18年の秋にアメリカ海軍が本格的進攻作戦を開始した時に、 日本海軍は反撃の中核となるべき航空戦力を、 ラバウルをめぐる航空消耗戦でほとんど使い果たし対処不能であった。 燃料も訓練施設も不足する日本には、 ラバウル航空戦にけるパイロットの消耗は大きな打撃で、米国戦略調査団に小沢治次郎中将がラバウル航空戦後、 ついに航空兵力を再建することができなかったと告白したとおり、 このラバウルをめぐる航空消耗戦以後、 日本海軍の航空兵力は再起不能となり、敗亡を重ねたのであった。 もし、 ソロモンやニューギニアで消耗してしまった戦力を、 南洋群島に投入し陸上航空兵力と艦隊航空兵力を適切に運用していたならば、 少なくともある期間は有利な戦争を戦い得たのではなかったであろうか。 日本海軍(陸軍の一部)はラバウル航空戦に敗北後は総崩れを起こし、 アメリカ軍の攻勢速度は倍加した。 以下、 ラバウル航空戦の問題点、 航空消耗戦に引き込まれた背景、 および山本・古賀司令長官の作戦指導の適否などについて考えてみたい。

1 ラバウル航空戦の問題点
(1)消耗戦-航空機・搭乗員の消耗


 ラバウル航空戦を時期的に見れば、 それは日本軍がラバウルを占領した昭和17年1月23日から、 昭和19年2月17日に残存全航空機(艦攻6機、 艦爆14機、 陸攻4機、 彗星3機、 零戦37機、 艦偵1機)がラバウルを去り、 トラックに移動した昭和19年2月210日までの2ケ年にわたる戦闘であった。 この2年間にわたる航空戦を日米の航空戦力の観点から区分すると、 日本軍が航空優勢を確保しラバウルを中心にソロモン諸島やニュギニアに進出した戦争初期、 日米の航空戦力が均等し連合国が反攻を開始したガダルカナルをめぐる時期、 連合国が航空優位を確立し北上を開始した時期の3期に区分することができるであろう。 しかし、 通常ラバウル航空戦と呼ばれるのはガダルカナルに米軍が上陸した昭和17年8月からなので、 本論でもこの時期以降のソロモン諸島とニューギニアを含む航空戦をラバウル航空戦として論ずることとしたい。

 ラバウル航空戦をめぐる主要な批判は長期消耗戦に引き込まれたこと、 錬成困難な艦載航空機のパイロットを陸上基地へ展開し消耗してしまったこと、 ソロモンという補給限度線を越えた戦場での戦いや、 パイロットの救難態勢の不備などが主たる非難であろう。 確かに、 ラバウル航空戦1年半の主要海空戦における海軍機及び搭乗員の消耗数は次の通りで、 日本の国力を越える膨大なものであった。 損耗機数はガダルカナルをめぐる半年間の戦闘で海軍機だけで2076機、 その後のソロモン戦1年間で9697機、 ラバウル航空戦1年半の戦闘で1万1773機に達し、 さらに、 搭乗員の損耗とこれにともなう技量の低下が航空戦力の低下を加速させてしまった。

             ガダルカナルをめぐる航空兵力の消耗
 年月 主要戦闘 搭乗員消耗 航空機消耗
42年8月 ガ島上陸、第1次、第2次ソロモン海戦   460    352
42年10月   南太平洋海戦   451   423
     42年11月   第3次ソロモン海戦   237   345
43年1月   レンネル沖海戦   196    230
43年2月   ガ島撤退、イザベル沖海戦   210   265
43年3月   「い」号作戦   237   300
43年6月   レンドヴァ上陸、ルンガ沖海戦   318   425
43年7月  クラ湾、コロンバンガラ島沖海戦   206   475
43年11月  ギルバート航空戦(「ろ」号作戦)   738   689
43年12月  マーシャル・ブーゲンヴィル沖海戦   412   556
          (「海軍」編集委員会編『海軍 太平洋戦争 T』167頁)

(2)母艦機の陸上への投入

 母艦機の陸上への投入については小規模・一時的なものを含めれば6回となるが、 大規模な投入は昭和18年4月の連合艦隊司令長官山本五十六大将の「い」号作戦と、 同年10月の古賀峰一司令長官の「ろ」号作戦の2回であった。 「い」号作戦では4月5日から10日まで0戦103機、 艦爆54機、 艦攻27機の総計184機を投入したが、 この作戦で艦爆16機、0戦14機の合計30機を失い、艦爆17機、0戦6機が被弾した。「ろ」号作戦に比べれば消耗は少なかったが、 問題は艦上爆撃機の被害で喪失機数は進出機数の3割、被弾機を含めると6割を越え、 このため第1航空戦隊(瑞鶴・瑞鳳)は機材および搭乗員の一部を第2航空戦隊(飛鷹・隼鷹)に移し、航空兵力再建のために5月3日にトラックを発ち内地に帰投させなければならなかった。さらに、この作戦は山本連合艦隊司令長官が暗号を解読され、 P−38戦闘機の待伏攻撃を受け戦死するという異常な終末をもって終わりを告げたのであった。  山長官に代わった古賀峰一司令長官の「ろ」号作戦では、 第1航空戦隊の母艦航空機の全兵力(翔鶴 瑞鶴 瑞鳳の174機)をラバウル、 ブナ、 カビエンなどの陸上基地に昭和18年11月2日から11日まで投入したが、 次に示す通り192機中89機を失ってしまった。
「ろ」号作戦における航空兵力の消耗状態
   航空機数       搭乗員数
種類 進出 損耗 損耗率 進出 損耗 損耗率
艦戦 82機 43機  52% 80名 24名  30%
艦攻 40機 34機  84% 59組 27組  46%
艦爆 45機 38機  84% 47組 35組  74%
艦偵  6機  6機 100%  6組  3組  50%
合計 173機 121機  70% 192組 89組  47%
  ○機種別搭乗員数は、艦戦1名、艦攻3名1組、艦爆2名1組、艦偵2名1組
  ○損耗搭乗員の人数比では、進出363名中、損耗181名、損耗率50%

  特に大きな消耗は11月11日に行われた第3次ブーゲンビル島沖航空戦で、艦攻隊の14機は全機が未帰還となり、 艦爆隊は20機中17機が撃墜され、 さらに彗星4機中2機、 艦戦2機が未帰還となり、同日夜の保有機数は艦攻6機、艦爆7機、艦戦39機の合計52機に激減しため作戦は中止された。 日本海軍にとり大きな打撃は投入した50%の母艦発着艦可能な搭乗員を失ったことであったが、 特に中堅幹部の損耗が深刻で、飛行隊長7名中4名、分隊長11名中6名が戦死し、1名が重症を負うなど飛行隊の編成さえ困難な情勢となった。

 日本海軍は開戦時に約3500人のパイロットを保有し、 そのうちの600人は飛行時間平均800時間を持ち母艦に配属されていたが、 開戦後の搭乗員の消耗は戦前の予想を大幅に上回り、昭和17年2月までの進攻作戦で509名、 6月のミッドウェーまでで655名、 そして、 ソロモン、 ニューギニアをめぐる航空消耗戦で3045名と9割の搭乗員を失い、 教官の確保さえ困難な状況に追い込まれたのであった。

(3)不利な戦いの強制
 
 ガダルカナルの戦場はラバウル基地から1000キロの距離があり、 航続距離が長い0戦でも上空での戦闘時間は15分が限界であった。 従って連合国軍がガダルカナル島を占領し飛行場の使用を開始すると、 日本軍にとっては著しく不利な戦場となった。 もしもガダルカナルとラバウルの中間に飛行場を建設していたならば、 このような不利な戦闘に追い込まれることはなかったであろう。 しかも連合国はオーストラリアやニューカレドニヤなどにかなりの後方支援能力のある基地群を有していたが、 ラバウルは日本本土から4000キロも離れ、 中間のトラックやフィリピン基地は造修能力に欠けていた。

 さらに、 ソロモン諸島の要地にはオーストラリア軍のコースト・ウオッチャーと呼ばれる沿岸監視員が、 日本軍のラバウルやガダルカナル島を占領した後にも残置され、 日本軍の行動を直ちに報告していた。 そして、 連合軍は日本軍の攻撃1時間から2時間前には来襲する航空機の種類や機数、 到着予定時刻を通報され、 あるときは防空態勢を整え、 あるときは日本軍の滞空時間だけ退避するなど、 日本軍のガダルカナルやニューギニアに対する航空作戦は非効率なものであった。

 また、 日本海軍は搭乗員の救助体制を軽視したため、 多くの優秀なパイロットを無為に失い、 さらに衛生施設や厚生施設に対する配慮の欠如から、 パイロットは夜はB−17爆撃機の空襲で眠れず、 休養も十分にとれない環境で、 マラリヤに悩まされ体調を崩しながら連日長途の出撃を行わなければならなかった。 また、 アメリカ軍はグラマンやローツキード戦闘機など、 次々と優秀な新しい戦闘機を投入したが、 日本海軍は開戦以来、 空戦能力は抜群であったが防弾設備のない極めて防御力に欠ける0戦と、 1発の命中弾でも火だるまとなる「ワン・ショット・ライター」と揶揄される一式陸攻で戦わされたのであった。 次にラバウル航空戦の問題点について考えてみたい。

2 長期消耗戦に引き込まれた背景
(1)短期決戦主義

 日本海軍は「対米7割の兵力を以てすれば、 少なくとも50パーセント以上の勝算を以て邀撃作戦を戦い得る。そして、 海軍兵力は陸軍と異なり整備に年月を要するから、 一度大きな損害を蒙ると形の上に於いても、 術力の上に於いてもバランスの取れた戦闘兵力が再建されるにはどうしても最低2年の歳月を要する」。 「米国ノ屈服ヲ求ムルハ先ツ不可能ト判断セラルルモ、 我南方作戦ノ成果大ナルカ英国ノ屈伏等ニ起因スル米国与論ノ大転換ニ依リ、 戦争終末ノ到来必ズシモ絶無ニアラザルベシ」と対米戦争の勝算を考えていた

 一方、山本長官は国力や財力に欠ける劣勢海軍が守勢をとり、 受けて立っては優勢なアメリカ海軍に対して勝算はない。 開戦初動に大打撃を与えた後は、 主導権を握って敵の主力を叩いて行かなければ、 「敵ノ軍事力ハ我ノ五、 十倍ナリ。 之ニ対シテ次々ニタタイテ行カナケレバ、 如何ニシテ長期戦ガ出来ヨウカ。 常ニ敵ノ痛イ所ニ向ッテ猛烈ナル攻撃ヲ加ヘネバナラヌ」と、 4月末に行なわれた連合艦隊第1段作戦の事後研究会で訓示したが、 それは初動に敵艦隊に一撃を加え、 以後は出動する艦隊を個々に捕捉し、 その立ち上がりを抑制しなければ、 国力に劣る日本は日を経るに従い不利となるという考え方に基づくものであった。

 この連続攻撃作戦は、 対米比率が開戦時の76パーセントから2年後には60パーセント、 3年度には30パーセントと、 「日を経るにしたがって我が方の劣勢は加速度的に累進」する、 このため「早期海上決戦を行い、 彼我戦力比の大懸隔を来たさないよう特に留意して指導する」要があるとしていた海軍中央の意向にも合致したものであった。 山本の後を継いだ古賀司令長官も海上兵力比が対米2分の1、 航空兵力もラバウルの戦いで潰滅し勝算は三分と言われながら、 「一分でも2分でも勝算の残存する限り早期決戦主義が、 たとえ玉砕に終わるとも唯一の戦法と確信し」、 アメリカ艦隊のマーシャル方面出現の報に2回も出動するなど攻勢作戦を展開した。 この連続攻勢作戦、 アメリカの動員態勢が完了する前に大打撃を与えなければならないとする短期決戦主義が、 日本海軍をガダルカナルに兵を進めさせ、 ラバウル航空消耗戦を生起させたのであった。 それは1942年中ならば勝算5分、 1943年初期を限界として勝算は三分に低落する日米の戦時動員能力比、 国力比にあったのであった。

                 兵力比と勝算の低下
     兵力比(水上艦艇) ランチェスターの法則による兵力比 勝算
開戦時:76%         57,8% 我にあり
1年後          ー  50%
2年後の初頭:60%         36%  30%
3年後:30%          9%   ー
        (ランチェスターの法則:損亡は兵力の2乗に比例する)

(2)艦載機の陸上への投入

 山本長官の投入と古賀長官の艦載機の陸上投入の過失については、同列には論じられないように思われる。 すなわちは山本長官が母艦機を陸上に投入した心理的背景には、 ガダルカナル撤退以後の陸軍の戦争指導が消極的で、 このため南東方面艦隊の作戦指導が「渋滞ノ状況ナリ」。 このまま漫然と放置するならば「現戦線ノ保持サヘ覚束ナキ事態ニ立至ル虞レ大ナリト判断」もしていた。 また、 さらに軍令部総長がガダルカナル撤退後に積極的に作戦を実施しますと上奏していたが、 一向に戦果が上がらなかったため天皇から「その後いっこうにやらんではないか」と御下問があり、 それが直接の動機か否かは不明であるが、 心理的には相当影響したのではないかと、 当時の軍令部員佐薙毅中佐は「い」号作戦決定の背景を回想している。

 あるいは山本長官にニューギニアのラエへの増援陸軍部隊を乗せた高速輸送船8隻の全部が撃沈されたダンピール海峡の悲劇に対する、 連合艦隊としての後ろめたさがあったかもしれない。 しかし、 この時期には連合国の航空兵力は作戦可能機がガダルカナル島に約70機、 エスプリットサンドに約170機、 ニューギニアに約250機と判断され、 母艦機を投入すれば伯仲に近い航空戦を展開することが可能性であるとの判断が働いたのかも知れない。 しかし、 古賀長官の投入は昭和19年10月中旬にマーシャル方面に、 アメリカ機動部隊を求めて出撃したが会敵できずにトラックに帰投した直後の10月26日に発令されており、 『戦史叢書 南東方面作戦』にも「連合艦隊司令部における飛行機隊投入の決定は、 やや衝撃的に行われた感が深く、 決戦舞台のマーシャル方面出撃が無為に終わった結果、 その寂しさによる心のかげりがあったのであろう」と書かれているとおり、 この決定はやや衝動的になされた可能性が強い。

 特に、 9月30日の御前会議で裁可を得たいわゆる絶対国防圏を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に伴い更新された陸海軍の協定に、 南東方面艦隊司令長官の指揮する航空兵力について、 「状況ニ依リ好機母艦航空機ヲ転用増強スルコトアリ」と記載され、 南東方面陸海軍部隊や大本営陸軍部からこの一句を根拠として、 艦隊航空の陸上への投入が要請されていた。 しかし、 この要求に対して海軍中央では母艦搭乗員育成の困難性や、 太平洋正面のアメリカ艦隊の攻勢に備え、錬成に時間のかかる母艦搭乗員を消耗することを極度に恐れ、 これらの要望を拒否続けてきただけに問題は大きい。そして、 「ろ」号作戦で多数の母艦機を失った2ケ月後の12月に、 アメリカ軍がギルバート諸島に上陸し本格的対日攻勢作戦を開始したのである。 もし、 「ろ」号作戦を発動せず南洋群島を基地とする航空部隊と連携した作戦を展開したならば、以後の戦闘にこれ程無残、 無意味な敗北を続けることはなかったのではないであろうか。

(3)戦争指導の問題点

 しかし、 ラバウル航空戦の最大の過失はガダルカナルへ飛行場を建設させた海軍中央の戦争指導、 すなわち豪州遮断作戦に遠因があった。 また、 陸海軍の戦争指導の分裂にもあった。 昭和17年1月23日に日本軍はラバウルとカビエンに上陸したが、 この上陸は中部太平洋の最大の前進基地トラックの前方防衛基地を確保することにあった。 しかし、 緒戦の連勝が続くと日本軍は連合軍の戦力を過小評価し、 ラバウルの安全を確保するためにポートモレスビー攻略作戦を計画し、 さらに豪州遮断作戦を計画した。 このアメリカの実力を過小評価した過度の過信と山本司令長官の連続攻撃作戦が、 補給線を無視した戦線の拡大、 ラバウル航空戦という大消耗戦を招いたのであった。 第1段作戦が順調に経過しっつある昭和17年2月ころから、 次期作戦について陸海軍間で検討が開始されたが、 既占領地の防備を強化し長期自給態勢の確立を主張する陸軍と、 アメリカ艦隊の撃滅が先決であり、 フィジーやサモア、 可能ならばオーストラリアと連続的攻勢作戦の続行を主張する海軍との間でなかなか決着がつかなかった。

 一方、 連合艦隊は「基地航空兵力の撃破に於て妙策無し。 此際西に向って作戦するを可とす」と考えたからに過ぎなかったが、 開戦3ケ月後の1942年2月20日から22日の間、 柱島沖泊地の旗艦大和艦上で5月から6月ころに攻勢をインド洋に指向し、 セイロン島を占領し出撃して来るイギリス艦隊を撃滅、 さらに進んでアフリカ東岸に至るインド洋を制圧し、 中近東に進出するドイツ軍と手を握るとの構想のもとにセイロン攻略作戦の図上演習が行われていた。 当時、 インドではガンジーを中心とした国民会議派が反英運動を激化し、 イギリスは1942年8月9日にはガンジーやネルーなどを逮捕するなど沈静化に努めたが、 10月8日には死傷者300名を出す大規模な反英運動が発生するなど、 イギリスは日本軍の勝利にともない激化したインドの独立運動に手を焼いていた。 また、 エジプトではロンメル戦車軍団の快進撃が続いていたが、 このロンメル軍に対抗するモントゴメリー軍への武器・弾薬などの軍需物資は地中海の海上交通が遮断されたため、 インド洋から行われていた。

 さらに、 インド洋はイギリスの戦時経済に不可欠な資源、 食糧の供給ルートでもあった。 オーストラリアやニュージーランドからの食糧、 ベンガル湾からの石炭はイギリス本国に不可欠であり、 ペルシャ湾からエジプトへの石油は第8軍に、 エジプトからインドへの米はビルマが日本軍に占領されたインドには不可欠であった。 もし、 山本長官の主張が通りセイロン攻略作戦が展開されていたならば、 第二次世界大戦はまた異なった展開を示していたかもしれなかった。 しかし、 連合艦隊のこの提案はドイツを過信し、 独ソ戦がドイツに有利に展開し、 ソ連の敗北が確定的となったならば対ソ戦争を開始しようと考え、 南方作戦が1段落すると南方に展開した兵力を満州に集中しつつある陸軍から、 セイロン攻略作戦に必要な2個師団の兵力を派出できないし、 またセイロン作戦は消耗戦生起の虞れがあるので「機に乗ずるのでなければやらぬが良い」との反対を受けて消えた。

 そして、 陸海軍妥協の産物であるアメリカとオーストラリア間の海上交通を遮断し、 オーストラリアがアメリカの反攻拠点となることを防止する米豪遮断作戦、 ポートモレスビー攻略のMO作戦、 サモア・フィジー攻略作戦のMS・MO作戦を決めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」が3月1日に定めれられたのであった。 そして、 それが国力の限界を越えたガダルカナルとなり、 さらに連合国の実力の過小評価から通常は300海里前後のところに設定すべき航空基地を、 560海里、 当時の高速輸送船で2日以上、 航空機で3時間の飛行時間を必要とするガダルカナルに飛行場を建設させ、 それがラバウル航空消耗戦を生起させたのであった。

 軍令部第1部長の福留繁中将は、戦後に「ラバウのみを強く固めて、 これを攻める敵に大きな出血をやらせるのが上策。 8月7日の敵反攻を見るや機を移さず全力決戦をここに展開するのが中策であったろうし、 陸軍は辻参謀がいっていたように精々川口支隊の奪回戦で打ち切るのが中策であった。 だが当時の陸海軍の情勢判断は、 連合国をしてここに橋頭堡を確保せしめ、 自信を得さしめたのでは日本の作戦がここから破綻を来たすは必定とした。 しかも始めは敵占領軍を容易に撃攘し得ると信じ、 中頃に至ってこの正面の守勢作戦に耐えると判断し、 終期に抜きさしならぬ泥沼」となってしまったと反省しているが、 日本海軍はドイツの海軍作戦部長フリッケ中将や、駐日ドイツ武官ヴェネカー少将からも再三にわたり「艦船の量産や航空機増産競争で日本は到底アメリカに勝てないのだから、 艦隊決戦に執着せず、 海上補給路の攻撃に乗り出すべきである」。 「ソロモン地域は主要交通線および防御線から遠く、 三国共同の作戦地域であるインド洋の重要性に比べれば問題とならぬ。 今後依然として同方面に引き付けられているのは日本海軍の戦略的過失である」との忠告さえ受けていた。

 しかし、 この忠告はアメリカ軍の実力の軽視、 連戦連勝へのおごり、 また攻勢のみをが作戦と教えられ、 撤退作戦などを口にすることができない帝国陸海軍の体質や頭の固さ、 戦争指導者の決断の不足などから「ずるずる」と日本が最も恐れていた消耗戦に引き込まれ、 日本の敗北を決定的なものにしてしまったのであった。 しかし、 これはガダルカナル撤退を「転進」と発表しなければならない付和雷同する日本人の国民性にもあった。 また、 福留中将はアメリカの戦略調査団の質問に、この戦闘期間に失った兵力全部を、ソロモン作戦に一度に投入していたならばと答えているが、 ガダルカナルやソロモンをめぐる日本軍の対応は兵力の小出しの連続であった。 このような兵力の小出しも列強に比べ、 財力・戦力に欠ける貧乏国日本の軍隊の持つ宿命的な体質で、 この体質が日本海軍に長期間ラバウル航空戦を展開させ、 長期航空消耗戦を生起させ日本の敗北を決定的なものとしたのでもあった。

おわりに

 山本長官は海軍次官の時には政戦略に欠ける無責任な国家指導者、 ドイツの快勝に付和雷同し煽りたてる新聞、 それに乗った国民の圧力に「勇戦奮闘戦場ノ華ト散ラムハ易シ誰カ至誠一貫俗論ヲ排シ倒レテ後止ムノ難キヲ知ラム」と生命を賭けて三国同盟の締結に反対した。 また、 ハワイ作戦図演終了後の開戦2カ月前の9月に至っても、 日米戦争は長期戦となり資材を消耗し「艦船兵器ハ傷キ補充ニハ大困難ヲ来シ...戦争ノ結果トシテ国民生活ハ非常ノ窮屈ヲ来」すので、 「カカル成算少ナル戦ハナスベキニ非ス」と反対していた。 彼我の保有兵力、 国力、 生産能力などの格段の大差から、アメリカと長期戦を戦うことはできず、 この対策は膨大な工業力を持つアメリカの動員完了前に、 戦争目的を達成する「速戦即決」の決戦しかなかったのではないか。 そして、 この「速戦即決」の短期決戦思想がガダルカナルとなりラバウル航空消耗戦となったのであった。 国力に欠け十分な戦力も与えられずに、 日時の経過とともに戦力が格段と相違する日米の国力差を熟知する軍事指導者として、 どのような戦い方ができたのであろうかを考えるとき、 戦後育ちの一介の学者が単に紙上の史実から、 裁判官的に軽々にラバウル航空作戦の可否を批判することは謹みたい。

参考文献:
海軍編集委員会編『海軍 太平洋戦争 T』(誠文図書、 昭和62年)
冨永謙吾『定本・太平洋戦争』(図書刊行会、 昭和61年)
防衛研修所戦史部編『南東方面海軍作戦(1)(2)』(朝雲新聞社、 昭和50年)