マレー沖海戦
1 プリンス・オブ・ウエルスの極東派遣

 マレー沖海戦はマレー攻略の陸軍舞台の第1次上陸舞台を要撃するために出撃したイギリス戦艦プリンス・オブ・ウエルス、 巡洋戦艦レパルスと日本海軍陸上航空部隊との戦闘であり、 ハワイで航空機により停泊中の戦艦が撃沈されたが、 マレー沖では51機の雷撃機、 21機の爆撃機、 9機の偵察機の総計81機の陸上攻撃機が基地から500海里も離れた海面で、 世界最新鋭の対空砲火も充実した戦艦を攻撃し、 3機の損害で撃沈し航空機の対戦艦優位を確立した海戦であった。 プリンス・オブ・ウエルスは1941年3月に竣工した多くの新機軸を採用した戦艦で、 排水量は3万6727トン、 35・6センチ砲10門、13・3センチ対水・対空両用砲16門を装備し、 さらに縦横5列に銃身を並べた25ミリ8連装対空機関砲(ポムポム砲)4基、 40ミリ・ぼふぉーす砲10門、 20ミリ・エリコン機銃10門、 12・7ミリ機銃16丁を備えていた。

 海戦前、 イギリスは常に「シンガポールは英連邦の存続を左右するキーストーンである」とし、 有事の際には有力な艦隊を派遣すると繰り返し言明し、 太平洋所在の英連邦諸国に保証を与えてきた。 しかし、 イギリス海軍はアメリカ艦隊がハワイに存在する限り、 中規模の艦隊を編成しセイロンに展開すればインド洋の海上交通を保護できるので、 日本軍の攻撃を受けやすいシンガポールへ艦隊を配備すべきではないと慎重であった。 1方、 チャーチル首相や外務省当局は最新鋭の強力な艦艇をシンガポールへ展開することによって、 日本の参戦を抑止するとともに自治領や友邦諸国の士気を高揚し、 植民地における反英運動や日本を威圧できるとして、 プリンス・オブ・ウエルズの極東派遣を強く主張したため、 真珠湾攻撃の6日前の12月2日にレパルスとともにシンガポールへ回航された。

2 戦闘の経過

 トム・フィリップ長官は日本軍がシンゴラ、コタバルに上陸したとの情報を得ると12月8日午後遅く、 護衛の駆逐艦4隻を率いレパルスとともにシンガポールを後にした。 9日の夕刻に日本の索敵機に発見されたため急遽帰港しようと反転したが、 同日夜に日本軍がクワンタンに上陸したとの誤った情報が伝えられたため、 奇襲の可能性ありと判断しクワンタンに向かった。 一方、 プリンス・オブ・ウエルスを迎え撃つ日本海軍はマレー半島やフィリピン攻略部隊を支援するために、 第2艦隊司令長官近藤信竹中将を指揮官に南方部隊を編制し、 次のような部隊区分としていた。

  南方部隊主隊(第2艦隊基幹 指揮官 第2艦隊司令長官 近藤信竹中将)
    戦艦2隻 重巡洋艦2隻、 駆逐艦10隻 搭載機12機
   比島部隊(第3艦隊基幹 指揮官 第3艦隊司令長官 高橋伊望中将)
     空母1隻(鳳翔) 重巡洋艦5隻 軽巡洋艦5隻 水上機母艦3隻 駆逐艦29隻
     搭載機104機
   馬来部隊(南遣艦隊基幹 指揮官 南遣艦隊司令長官 小沢治三郎)
     巡洋艦5隻 軽巡洋艦4隻 水上機母艦3隻 潜水艦16隻 陸上航空隊 2隊半、所属航空機191機
   基地航空部隊 陸上航空隊5隊半 駆逐艦2隻 所属機308機

 12月9日の午後15時15分に、 警戒配備にマレー半島西部海面、 アナバス諸島の北100海里に配備されていた伊65号潜水艦から、 「敵レパルス型戦艦2隻見ユ」との発見電報が発せられた。 しかし、 その報告が水上部隊に達したのは17時過ぎであった。 この報告で上陸地点にいた輸送船は北方に避難を開始し、 この報告を受けると馬来部隊指揮官の小沢中将は航空部隊に索敵を命じるとともに夜戦を企図し反転し、 1900には「第1夜戦通信配備ニ就ケ。 中超短波電話主要ス」と夜戦の準備を令した。 しかし、 19時42分には「水上部隊ハ明天明後航空部隊、 潜水部隊ノ攻撃ニ策応機宜攻撃ヲ加ツツ味方主力ニ誘致シタル後決戦セントス」と馬来部隊だけでの夜戦と誘致作戦を中止し、 2200に南方部隊に合同する針路に変えた。

 一方、 開戦以来プロコンドル島東方海面で全作戦を支援していた南方部隊指揮官の近藤信竹中将は、 9日の偵察でイギリス艦隊がなおシンガポールに在泊中との誤情報を受けたため、 補給のためにカムラン湾に向かっていた。 近藤長官は電報を受信すると、 とりあえず付近の水上部隊、 すなわち馬来部隊主隊、 護衛部隊(重巡洋艦4隻、 駆逐艦3隻)、 巡洋艦鬼怒、 由良など重巡洋艦5隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦4隻を集め、 翌朝の決戦を企図して馬来部隊に「敵ヲ『プロコンドル』南東ニ誘導スル如ク行動セヨ」との指示を発した。 以後、南方部隊は南下を続け0400には馬来部隊主隊、 同護衛部隊本隊の合同を終えたが、 10日4時41分に伊58号潜水艦からの発見電報(1時22分発信)が再び入り、 この電報を受け5時には占位を完了したため24ノットに、 7時44分には27ノットに増速しプリンス・オブ・ウエルスを追った。 しかし、 8時15分に距離が200海里と離れ過ぎていることから追跡をあきらめ、 攻撃を航空部隊と潜水艦部隊に任せ反転しカムラン湾に向かった。

 南部仏印に進出した海軍航空兵力は松永貞一少将指揮下の馬来部隊第1航空部隊(第22航空戦隊および第23航空戦隊の一部)、 陸攻99機(予備33機)、 戦闘機39機、 陸上偵察機6機、 第2航空部隊の水上機41機(予備5機)の部隊で、 これら部隊は次の用に展開していた。

   サイゴン(元山航空隊)96式陸攻36機(予備12機)
   ツドモー(美幌航空隊)96式陸攻36機(予備12機)
        (鹿屋航空隊)一式陸攻27機(予備9機)
   ソクトラン(山田隊)零戦27機 96式陸偵6機(予備2機)

 12月9日17時10分に伊56号潜水艦の発見電報を受信すると、 当時は天候不良で夜間攻撃は困難な状況にあったが、 直ちに夜間攻撃を決意し1815には丁空襲部隊の陸攻18機、 1904には甲空襲部隊の陸攻17機、 最後に乙空襲部隊の陸攻一8機が発進させた。 しかし、 馬来部隊をイギリス艦隊を誤認するなど味方部隊が入り乱れ、 さらに天候も悪化したため翌日を期して捜索攻撃を打ち切った。 翌10日0630の伊58号潜水艦の発信電報をもとに、 0625に甲空襲部隊から索敵機9機(96式陸攻)を、 0700には乙空襲部隊の2機(96陸攻)を索敵に出したが、 0730にはプリンス・オブ・ウエルスの所在は不明であったが爆撃機34機、 雷撃機51機、 偵察機9機の合計84機を次々と発進させた。 なお、 その編成は次の通りであった。

  甲空襲部隊(元山航空隊 96式陸攻 雷撃機9機、 爆撃機8機)
  乙空襲部隊(美幌航空隊 96式陸攻 雷撃機25機 爆撃機8機)
  丁空襲部隊(鹿屋航空隊 一式陸攻 雷撃機26機)

 早朝から発進された偵察機は敵を発見することができずに帰投したが、 甲空襲部隊の索敵機(機長・帆足正音予備少尉)から11時45分に至り、 「敵主力見ユ 北緯四度東経103度55分、 針路60度」との発見電報が入り、 12時30分に乙空襲部隊が到着し45分には爆撃を開始、 以後、 甲空襲部隊、 乙空襲部隊、 丁空襲部隊、 乙空襲部隊が逐次攻撃を加え、 午後2時3分にレパルスが、 二時五〇分にプリンス・オブ・ウエルスが沈没した。 救助されたのはレパルスの士官69名、 下士官兵1240名中、 士官42名と士官兵754名、 プリンス・オブ・ウエルスの士官110名、 下士官兵1502名中、 士官90名と下士官兵1195名であったが、 その中にフリップ提督と艦長リーチ大佐の姿はなかった。なお、 日本側の損害は未帰還3機、 不時着時の大破1機、 工廠修理2機、 部隊修理25機、戦死21名であった。

3 プリンス・オブ・ウエルス沈没の衝撃

 戦艦プリンス・オブ・ウエルスの威容に接した住民は、 これで大英帝国の東洋の要害シンガポールは安泰になったとだれもが思った。 しかし、 この楽観はマレー沖海戦でまったく裏切られてしまった。 イギリス海軍公刊戦史は「この勝利のニュースは日本で、 歓声をもって迎えられたことは当然である。 その海軍機は基地から650キロも離れた海上で2隻の主力艦を撃沈したのである。 このことは戦史上、 いまだかってない偉業であり、 しかも日本側の損害はわずかに3機であった。 2隻の巨艦の喪失はイギリス国民の士気を消沈させた。 マレーの人々も以前から一度艦隊が到着すれば万事順調に行くと信じていたので、 そのショックは大きかった」と書いているが、 プリンス・オブ・ウエルス沈没の衝撃は極めて大きなものであった。 プリンス・オブ・ウエルス沈没の翌日のシンガポールの新聞は「時として最初は信じ難いようなニュースに接するものである。 だがこのところ過去3日間で2回にわたってそのことが生じている。 すなわち、 その一は月曜日未明の空襲であり、 .そしてまた昨夜はプリンス・オブ・ウエルスとレパルスが沈没したというニュースが入った」と悲観的に報じた。 一方、 イギリス内務省の週間ニュース調査報告が「2艦の沈没はダンケルク敗北以来の最悪のニュース」であったと位置付けたが、 オブザーバー紙のガルビン記者は「私の生涯で最悪の最も悲しいニュースであった」と書いたが、 プリンス・オブ・ウエルスが撃沈されたことは、 イギリスばかりでなく世界政治に大きな衝撃を与えた。 プリンス・オブ・ウエルスがマレー沖に沈んだ翌日、 タイ国は完全に日本への協力に踏み切ったことに象徴されるように、 イギリスの東洋に於ける威信は完全に失墜してしまった。

(2)戦訓の採用と兵力整備
 
 12月10日の読売新聞は「英極東艦隊の主力全滅」、 「海軍の大殊勲」との見出しで「本10日午前11時半マレー半島東岸グアンタン沖において、 再びわが潜水艦これを確認し帝国海軍航空部隊は機を逸せず、 これに対し勇敢果敢な攻撃を加え、 午後2時29分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し、 同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウエルスは忽ち左に大傾斜、 暫時遁走せるも間もなく午後2時50分大爆発を起こし遂に沈没せり、 ここに海戦第3日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり」と報じ、 プリンス・オブ・ウエルスは「英海軍の至宝」であったが、 「10日朝マレー半島東岸グアンタ沖で、 わが勇猛果敢なる海空軍の雷撃、 爆撃、 潜水艦等攻撃の粋を集めた立体的猛攻により、 さすが不沈戦艦を誇る最新鋭艦も南海の藻屑と消え、 レパルスの如きは一瞬にして轟沈し、 ここに極東艦隊は全滅的打撃を受けイギリス海軍の世界に誇るネルソン提督以来の伝統も、 わが帝国海軍の前に消え去った」。 「かくて東洋のジブラルターと誇称したシンガポールは威力なき艦艇を擁するのみで孤立悄然たるものがある」との得意げな解説記事を載せた。

 戦艦プリンス・オブ・ウエルスと巡洋戦艦レパルスの消滅は、 戦略的にはイギリスの戦力がこれで極東から消えたことであった。 わずか1隻の戦艦と1隻の巡洋戦艦の沈没であり、 イギリス海軍にはなお多数の戦艦も空母もあったが、 ヨーロッパ方面の戦局が緊迫しており東洋に増派する余力はなかった。 2隻の戦艦の喪失とハワイにおけるアメリカ艦隊の壊滅により連合国の極東の制海権は粉砕されてしまった。 そして、 制海権と制空権を失ったシンガポールは1942年2月に降伏し、 10万というイギリス史上最大の捕虜を出してしまった。 さらに、 シンガポールの喪失はオーストライア、 ニュージランド、 インド、 ビルマが日本軍の脅威に晒し、 日本陸軍のビルマへ、 日本海軍のインド洋への進出を許した。 しかし、 航空部隊がプリンス・オブ・ウエルスを撃沈しなかったならば、 その後の戦争の進展はどのようになっていたであろうか。

 南方部隊指揮官の近藤信竹中将(のち大将)はマレー沖海戦について「本海戦ハ余ガ南方部隊指揮官トシテ第1段作戦ニ従軍中最モ重大ナルモノナリ」と述べているが、 日本海軍はハワイ作戦に空母6隻を投入したためマレー方面には重巡洋艦5隻、 軽巡洋艦4隻、 駆逐艦15隻、 潜水艦16隻しか配備できず、 プリンス・オブ・ウエルスに砲力で対抗できる艦艇はなかった。 南遣艦隊司令長官はプリンス・オブ・ウエルスの発見報告を受けると、 夜間の魚雷戦を計画した。 しかし、 第3水雷戦隊は燃料に問題があり、 さらに「南遣艦隊麾下艦艇ハ夜戦部隊トシテ臨戦時ノ猛訓練」を行ったことなく「烏合ノ衆」で、 「到底整然タル統制下ニ夜戦ヲ行フコト能ハズ」との状態であり、 さらにプリンス・オブ・ウエルスはレーダーを装備していることから夜戦を断念した。 また、 連合艦隊でも「『シンガポール』方面ヨリ北上スル敵艦艇ニ対シテハ機雷及潜水艦ヲ以テ其ノ進退ヲ扼スルト共ニ、 主トシテ海軍航空兵力及海上兵力ヲ以テ之ヲ捕捉撃滅ス」と、 「主トシテ」航空部隊に期待していた。 このため、 もしこれら2隻の戦艦が航空部隊により撃沈できなかったならば、 マレー半島の陸軍部隊は後方支援を断たれて苦戦し、 さらに第2段作戦であるスマトラやジャヴァ、 そしてビルマへの進撃もハワイから機動部隊が来援に到着するまで実施できず、 マレー上陸部隊も補給を断たれ各所で苦戦を強いられ、 初期進攻作戦にかなりの遅れが生じたであろうと思われる。

 開戦後、 海軍は全研究機関を動員して戦訓調査委員会を設けたが、 航空に関する委員会は直ちに委員をサイゴン方面に派遣して調査委員会からは「航行中ニ戦艦2隻ヲ海底ニ葬リ去リタル事実ハ、 幾多天佑神助ノ賜アリト雖モ、 亦実ニ航空機ノ艦隊ニ対スル攻撃威力ノ大ナルヲ実証セルモノニシテ、 ......『海上戦闘ノ主力ハ戦艦ナリ』トスル従来ノ用兵思想並ニ之ニ基ク軍備計画ハ、 本開戦及布哇海戦ノ結果ニ鑑ミ根本的検討ヲ要スルモノト認ム」との報告が提出された。

 第二次世界大戦が始まりヨーロッパ戦線では航空機の参加した海戦もたびたびあったが、 ドイツ戦艦ビスマルクをイギリス雷撃機が攻撃を加えたが沈めることができず、 結局は艦艇の魚雷によって止めを刺したものであり、 砲戦で戦艦フォードが撃沈されたが、 航空攻撃が戦艦を撃沈し得るという決定的結論を出す戦例は一つもなかった。 この戦艦プリンス・オブ・ウエルスの沈没は「大艦巨砲時代の晩鐘であった」。 しかし、日本海軍、 特に上層部は戦艦主兵思想から脱却できず、 軍令部第1部長(作戦担当)の福留繁中将は戦後に『史観真珠湾攻撃』に、 「空母機動部隊が開戦後縦横に活躍して大戦果をあげたが、 この空母機動部隊は有力な補助部隊であって、 主兵はなお戦艦であると考えていた」と書いた。

 また、 連合艦隊参謀長宇垣纏中将は戦時中の日記『戦藻録』の1941年12月10日の項に、 「昨夜来の経過は確かに航空機の威力を確認せざるを得ず。 戦艦無用論、 航空万能之によりて一層熾烈を加ふべし」と書き、 3月1日に航空主兵論者大西滝次郎少将が「軍備の中心は航空なり、 大艦巨砲主義は其位置を転じて奇兵たるに至れり」と上申すると、 この意見に「本件尚研究の余地ありと認める。 広漠たる大洋上基地航空兵力の使用困難なり。 航空機を前進せしむるため航空母艦のみにて足れりや」との所見を書いた通り、 航空機に対する認識は不徹底なものであった。 このような認識から日本海軍が航空兵力に重点を移したのはミッドウェー海戦に敗れた後となった。 しかし、 この改編も必ずしも徹底したものでなく、 アメリカ海軍と同様に戦艦を空母の護衛部隊とするなどの抜本的改革を行ったのはガダルカナルに敗北した昭和19年3月1日であった。
             日本海軍の兵力整備計画
       計画 年度(昭和) 艦艇 トン数   航空隊
  マル@ 6−11年 39隻 7,3万トン 14個航空隊増
マルA 9−12年 48隻  8個航空隊増
マルB 12−17年 66隻 27万トン 14個航空隊増
マルC 14−19年 83隻 32万トン 75個航空隊増
マルD 16年以降 94隻 56万トン 160個航空隊増

 とはいえ、 航空兵力の整備に関しては日本海軍の方がアメリカ海軍より重視していた。 すなわち、 開戦時の空母の隻数は10隻対8隻(太平洋表面では3隻)であり、 また、 日本海軍はC計画(昭和14年度軍備充実計画)、 D計画(昭和15年度軍事充実計画)で大和級戦艦2隻を含む艦艇80隻(32万トン)および航空隊75隊を昭和14年から5カ年計画で整備しようとしたが、アメリカ海軍の海軍大拡張計画に対抗して第5次、 第6次(DE軍備充実計画)を立案し、D計画ではさらに戦艦3隻、E計画では4隻の戦艦の建造を計画した。 しかし、 日本海軍はプリンス・オブ・ウエルスの沈没22ケ月前の昭和16年11月には、 駆逐艦や巡洋艦などの補助艦艇や航空機を増強するためC計画に従い起工された大和級戦艦の工事を中止し、 航空機はC計画の75隊からD計画では160隊と増強した。 これに比べアメリカ海軍はハワイ、マレー沖で日本海軍が航空機の威力を発揮した以後も戦艦の建造を進め、戦争中に3隻の戦艦を進水させたのであった。